Month: January 2021

ヨーロッパ企画の暗い旅 – Wikipedia

『ヨーロッパ企画の暗い旅』は、2011年1月5日からKBS京都で放送されているバラエティ番組である。京都市に本拠がある劇団「ヨーロッパ企画」が手がけるとともに、ヨーロッパ企画にとって地上波テレビのレギュラー番組では初めての冠番組である。 また、本番組と連動する形で2011年5月15日からデイリーポータルZ内の動画コンテンツ「プープーテレビ」にて、『ヨーロッパ企画の暗い旅ポータル』を配信している[1]。本項ではこれについても触れる。 さまざまな「旅」に出て、エンターテイメントの新しい鉱脈を探し歩くドキュメントバラエティ番組である。 番組タイトルに「旅」の一文字が入っているが、本番組における「旅」は実際の旅番組のようにどこかに出かける「旅」もあれば、日常の中のささやかな冒険の「旅」やまだ見ぬ自分探しのような心の「旅」と緩やかな定義となっている。こうしたコンセプトをもとにして、毎回「行ったことのない場所へ行ってみる」「やりたかったことをやってみる」という偶然性と発見を重んじた実験的ドキュメントバラエティとなっている[2]。 タイトルの「暗い旅」というのは、完全に上田の心境である。結成12,3年目で本多劇場で初めてやれるようになったという時に、上田がプレッシャーに負けて体を壊してしまい(「サーフィンUSB」の時に)、目の前に氷山があるのによけられないようなタイタニックの悲劇みたいなことを思ってしまって、いったん体ひとつで暗い旅に出よう、と思って始めたのがこの番組である。一気に東京に進出するつもりだったのが、一転して、京都で小さい所から自分たちでまた一歩歩き出そう、という上田の暗い心境を反映している。 各回のタイトルには必ず「○○○○の旅」というタイトルになるが、実際に撮影しているのはヨーロッパ企画の本拠となっている、いわゆる「ヨーロッパハウス」(劇団事務所)やその周辺部がメインとなっている。ただし、ごくまれに東京都世田谷区下北沢のいわゆる「下北ハウス」(劇団の東京事務所)で撮影したことがあるほか、ニッポン放送のオールナイトニッポン0とコラボした舞台『前田建設ファンタジー営業部』の関連企画で、東京都内にある前田建設の本社で撮影したことがある。 また、本番組では「イエゴラスイッチ」(『ピタゴラスイッチ』)、「SAKEKE」(『SASUKE』)、「サカイアローン」(『ホームアローン』)、「ファミリーサケピューター」(『ファミリーコンピュータ』)といった他局の番組や映画やゲーム機などをパロディ(特に、ヨーロッパ企画メンバーの酒井善史の名前を冠することが多い)にした回も何度かあり、実際にヨーロッパ企画のメンバーがそれに挑戦している。 出演者・スタッフ[編集] ヨーロッパ企画 ヨーロッパ企画メンバーのうち、毎回必ず出演しているレギュラーは石田剛太と酒井善史の2名である。 劇団代表の上田誠や上記の石田・酒井を除いたヨーロッパ企画メンバーについては、放送回のテーマに沿った形で出演する形になっている。また、ヨーロッパ企画本公演には出演しない黒木組の黒木正浩も本番組には出演することがある。 ゲスト – 回によってはヨーロッパ企画と関係の深い京都の演劇人や音楽関係者などをゲストに迎えることがある。 企画・構成:上田誠(ヨーロッパ企画) ディレクター:西垣匡基(ヨーロッパ企画、2011年1月〜)、橋本尚和(2015年1月〜)[6] イラストデザイン:角田貴志 プロデューサー:押谷昭宏(KBS京都)、吉田和睦(ヨーロッパ企画) 制作著作:KBS京都、ヨーロッパ企画/オポス 放送リスト[編集]

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自由加群 – Wikipedia

数学において、自由加群(じゆうかぐん、英: free module) とは、加群の圏における自由対象(英語版)である。集合 E が与えられたとき、E 上の自由加群とは E を基底 にもつ自由加群である。たとえば、すべてのベクトル空間は自由であり[1]、集合上の自由ベクトル空間は集合上の自由加群の特別な場合である。任意の加群はある自由加群の準同型像である。 R-加群 M について、集合 E ⊂ M が M の基底であるとは、次の2条件を満たすことである。 E

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記念貨幣 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年9月) デンマークの新旧国王の肖像を表裏に描いた記念金貨(1912年) ソ連の第二次大戦戦勝20周年1ルーブル記念貨(1965年) 記念貨幣(きねんかへい)とは、世界各国で国家的な出来事を記念して発行される貨幣であるが、特に出来事を記念しなくても、シリーズ貨幣として文化遺産や野生動物等を主題とするものもある。多くが硬貨だが、紙幣で発行される場合もある。記念通貨(きねんつうか)ともいい、特に硬貨の場合は記念硬貨、記念コイン、紙幣の場合は記念紙幣ともいう[1]。日本のものは日本の記念硬貨を参照。 記念貨幣を最初に発行した国家はローマ帝国である。ローマ帝国では戦勝記念の貨幣を度々発行しており、従属することになった被征服者を象徴的に表すことでローマの権威を誇示するプロパガンダの目的があった。また貨幣には多くの場合皇帝や国王の肖像が刻まれていたが、新しく即位した君主を記念する貨幣が発行されることがあり、それは近世になると多くなった。すなわち新しい君主の肖像を宣伝する意味もあった。 貨幣には通常の流通を目的とする通常貨幣とよばれるものがあるが、近年ではアメリカ合衆国の50州25セント硬貨のように通常貨幣とは異なるデザインの硬貨を通常貨幣と同様に流通させる場合もあり、これも記念貨幣とされる。またイギリスの5ポンド硬貨やユーロ圏諸国の2ユーロ記念硬貨のように、毎年記念貨幣として発行される額面がある。なお5ポンドは通常貨幣は紙幣であり、硬貨は記念貨幣のみである。 第二次世界大戦頃までの高額硬貨は、本位貨幣として金貨や銀貨など、貴金属で作られることが多く、そのため多くの記念貨幣も貴金属で作られていた。しかし世界恐慌後に世界各国で金本位制が停止したため、通常貨幣として金貨が発行されることは、ほとんどなくなり、第二次世界大戦後は記念貨幣も廉価な銅貨や白銅貨で製作されることが多くなった。更に1970年以降は銀の工業需要増大による価格が上昇したため、銀貨を通常貨幣として流通させる国も無くなった。このため現在では、記念貨幣のみが貴金属で発行される状況となった。貴金属の素材は金、銀が中心だが、プラチナやパラジウムなどが使用されたものも存在する。 記念貨幣も法貨であるので原則的に通用額面が表記されているが、収集型金貨のように、額面よりもはるかに高額な素材を使用し、また額面よりも高く販売される場合もある。また地金型金貨においても、額面で取引されるのではなく、実際には地金に製造費を上乗せした価格で販売されている。中には、毎年デザインを変えて発行されるもの(アメリカ合衆国のウォーキングリバティ[2]など)もあり、これらも記念貨幣の一種と見なされる。 発行理由[編集] ヨーロッパの王国では、王室の慶事で記念貨幣が発行されることが多い。国王の即位および戴冠式、国王や皇太子の婚儀、国王夫妻の銀婚式や金婚式、国王の長期間の統治などが主な事由である。 世界で最初にオリンピック開催を記念した銀貨を発行したのはフィンランドのヘルシンキ大会であった。額面は500マルッカで1951年と1952年の年号銘があり、直径32mmで重量が12gであったが、銀比率が.500の低品位銀貨であった。1964年には日本で東京オリンピックの記念銀貨が発行され、人気が高まり発行による収益を大会運営費に当てるに至った。この成功をきっかけにその後1968年のメキシコオリンピックでも記念銀貨を多量に発行し、以降オリンピック大会開催毎に記念貨幣を発行し、その収益を大会運営費に当てることが定着した。 アメリカ合衆国では、1ドルと50セントの記念銀貨、5ドルや10ドルの記念金貨などを多く発行している。1976年の建国200年記念では通常貨のデザインを変更した1ドル、50セント、25セントの記念貨幣を発行したほか、偉人の生誕周年記念などの貨幣が見られる。なおアメリカの記念金貨は収集型金貨であり、たとえば5ドル金貨(重量8.39g、品位.900)は、一般への売り出し価格は200ドルであり、法定通貨としての額面よりも多額のプレミア価格が付けられている。 一般的にオリンピックやサッカーのワールドカップ、万国博覧会では開催国から記念貨幣が発行されることが通例となっているが、開催国以外の、場合によってはそのイベントに参加しない国までがコレクター目当てで便乗してこれらのイベントの記念貨幣を発行する場合もあり、記念切手もしくは特殊切手と同じような現象も生じている。また自国にはいない野生生物や外国の世界遺産を紹介するとして記念貨幣を発行されることも珍しいことではない。 このように現在の記念貨幣の概念は、慶事を祝うというもの以外に、シリーズでテーマを決めた硬貨を発行するなど、いささか記念という概念を逸脱するものが増えてきている。 近年では、従来の円形もしくは穴が開いている記念貨幣に加え、デザインの鉄道トンネルに穴が開いていたり、変形(国土の地図や楽器の形など)の記念貨幣も存在し、またカラーコイン(またはグラフィックコイン)と呼ばれる着色されたデザインを持つものがある。これは貨幣の表面に下地を塗りつけてオフセット印刷で色をつけて加工したものである。近年日本で発行されている1000円記念銀貨が該当する。さらには硬貨に宝石を埋め込んだもの、金属ではなくクリスタル製の硬貨なども出現した。これらは単なる装飾品に酷似しているが、法定通貨であるところが、メダルとは異なる。 国の大小を問わず、記念金貨を外貨獲得の手段のひとつとして用いられる場合も少なくない。日本でもオリンピック東京大会の1000円銀貨では1枚あたりの製造コストが約400円[3]であり、オリンピック開催の資金源のひとつとなった(21世紀の現在も、古銭店では最低2.5倍、保存状態のいい物であれば4倍のプレミアムが上乗せされている)。また昭和天皇御在位60年記念10万円金貨では、製造コストが約4万円であり、実質発行枚数が約910万枚(発行額約9100億円)であったため、数千億円が国庫に入った。現在ではクック諸島やツバルといった国では、日本市場向けに日本のアニメーションのキャラクターをかたどった記念貨幣を発行しているほか、1989年にはリベリアから「各国元首記念シリーズ」のひとつとして昭和天皇の肖像入り記念貨幣(250ドル金貨、20ドル金貨、10ドル銀貨)を、2000年にはソマリアから「ミレニアムを象徴する人物シリーズ」のひとつとして昭和天皇の肖像入り記念貨幣(250シリング銀貨、25シリング白銅貨)を発行したことがある(参考)。 このように、近年では大量の記念貨幣が世界各国で発行されている。実際に世界的なコインカタログ”Standard Catalog Of World

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伊藤憲治 (心理カウンセラー) – Wikipedia

伊藤 憲治(いとう けんじ 1976年1月11日 – )は、日本の心理カウンセラー・実業家。 目次 1 人物 2 略歴・沿革 3 心理カウンセラーとしての活動 4 脚注 5 外部リンク  2011年より心理カウンセラーとして活動している。 主に悩み相談や心理カウンセリングをインターネット上で行っている。 2020年の相談件数は約4,000件/約2,000人の実績があり、人間関係に関する相談を得意としている。

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ジェラルド・カテナ – Wikipedia

ジェラルド・カテナ(Gerardo “Jerry″Catena, 1902年1月8日 – 2000年4月23日)は、ニューヨークのコーサ・ノストラの幹部で、ジェノヴェーゼ一家の副ボスを務めた。ニックネームはジェリー。北ニュージャージーを拠点とし、武闘派だったが流通業界のビジネスに長け、プログレッシブ・マフィアと呼ばれた。 禁酒法時代[編集] ニュージャージー州サウス・オレンジ生まれ。親はイタリアのサレルノ移民[1]。若い頃ニューアークの波止場で働いていた。1923年、違法賭博で逮捕されたのを皮切りに強盗、暴行、判事買収など沢山の逮捕歴があった[2][3]。 1920年代、ニューアークのアイロンバウンド一帯でギャング団を率い、強盗や違法賭博を常習していたが、1927年、ユダヤ系の密輸ギャングのアブナー・ツヴィルマンに、酒の武装トラックの護衛で雇われた[4]。違法アルコールは当時ドル箱で、マンハッタンなど商業地への酒の配送はギャングの襲撃に晒され、ツヴィルマンは輸送の安全確保のため、輸送ルート周辺を支配していた地元ギャングのカテナを利用した。ツヴィルマンの信頼を得て、彼の専属ドライバーも務めた。1930年代初め、イタリア系とユダヤ系の合同シンジケート組織が立ち上がると、ラッキー・ルチアーノらイタリア系ギャングへの連絡窓口となった[1]。1930年のツヴィルマンとリッチー・ボイアルド(後のジェノヴェーゼ一家幹部)間の平和協定に関わり、1934年、禁酒法役人殺しの裁判にかけられたニッキー・デルモア[注釈 1]を救うため判事を買収して逮捕されるなど、ニュージャージーのギャング間の仲裁役を演じた[1][6]。ルチアーノ一家(現ジェノヴェーゼ一家)に入ったのは1946年頃とされ[1]、一説に、ウィリー・モレッティの斡旋によるものとされる[7]。 組合と賭博[編集] 禁酒法廃止後、ツヴィルマンの様々なビジネスに相乗りし、1940年代にはモレッティ、ジョー・アドニスらと幾つものカジノを共同運営した。またニューアークの波止場の組合に進出した[6][8]。1946年、ピンボールマシン会社を立ち上げた[9]。1951年、モレッティが暗殺されるとそのニュージャージーの賭博利権を引き継いだ。1958年、遊技機メーカーの乗っ取りに成功し、スロットマシン製造大手「バリー」のニュージャージー向け供給を手中にした[10]。ニュージャージー各都市のビリヤード場・ボウリング場・雑貨屋にカテナのゲームマシンが置かれた[10]。不動産やオイルリースなど実業の利権を保持し、キューバやラスベガスのカジノに進出した[1]。ニュージャージの洗剤メーカーの組合を支配下に置いた。配下のギャングは大手食品スーパーに製品購入を強制し、反抗する店に放火・爆弾で危害を加え、殺人も行った[11][12]。1964年頃バリーの役員と結託して隠れ株主になっていたことが発覚した時、会社から排除された[10][13][注釈 2]。 ジェノヴェーゼ一家副ボス[編集] ニュージャージーにおけるジェノヴェーゼ一家の縄張りを管轄した[3]。順調に出世の道を歩み、1957年後半、ヴィト・ジェノヴェーゼが一家のボスになると副ボスに抜擢された[11]。1957年11月、全米マフィアを集めたアパラチン会議に参加し、警察に摘発された[15]。1960年ジェノベーゼが収監されるとトーマス・エボリやマイク・ミランダとの3頭代行体制の中でファミリー問題を実質仕切っていた。ジェノベーゼの死後ボスに繰り上がったエボリの下でも副ボスを務めた。1970年、ニュージャージー州犯罪調査委員会に召喚されたが、証言を拒否し、1970年3月4日、法廷侮辱罪で収監された。1960年代から組織のオペレーションを任せていた配下のフィリップ・ロンバルドに収監前に実権を譲っていた[11]。1975年8月19日、出所した[16]。引退してフロリダ州ボカラトンに隠居した。2000年4月、98歳の長寿で死去した[3]。 プログレッシブ・マフィア[編集] スロットマシンやピンボールマシンの独占供給を通じて大富豪になり、1970年時点で1000万ドルの資産を持っていた[9]。地元警察によると、必要時に暴力も辞さない武闘派であると同時に、ビジネスマネジメントに優れ、金儲けがうまかった[9]。 一般のギャングは縄張りに侵入したよそ者を武力排除するが、カテナは分け前の受取と引き換えによそ者を受け入れたので、「プログレッシブ・マフィア」とも言われた[17]。1978年のマフィア関係者の盗聴記録では「神様より金を持っている」と語られ、1986年に雑誌フォーチュンに、「アメリカで4番目にリッチな男」と紹介された[9]。 エピソード[編集] ジェノヴェーゼ死後、次期ボスの最有力候補だったが、ボス業務より趣味のゴルフを好んだ[18]。 法廷侮辱罪での収監は異例の5年の長きにわたり、同種の罪状での収監としてはアメリカの最長記録となった[16]。組織犯罪の証言を引き出そうと食い下がるニュージャージー法務当局と根競べになったが、徹底して沈黙を貫いたため、結局釈放された。 注釈[編集]

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青大悲寺 – Wikipedia

青大悲寺(せいだいひじ)は、愛知県名古屋市熱田区にある如来教の本元(本山)[1]。山号は登和山(とわさん)、本尊は釈迦牟尼仏像[1]。尼寺である。 明確な創建年代は不明[2]。元は天文年間(1532年 – 1555年)に創建された曹洞宗江南寺(現・成福寺)の大門前にあったとされる[2][3]。弘治2年(1556年)に江南寺が現在地に移り「成福寺」と寺号を改めたことで北山墓地の入口となったが、後に現在地に移転[2]。成福寺末であったが、後に法持寺末となった(後述)。 如来教は熱田に生まれたきの(法名・媹姾)が享和2年(1802年)に神懸かりとなって始まった講で[4]、尾張藩士や富裕な商人などに多くの信者が居たとされる。きのは文政9年(1826年)に没したが、その後も広く信仰を集めた[2]。 きのの父親が鉄地蔵を信仰していた縁で文政12年(1829年)この講に成福寺が所有していた地蔵堂と鋳鉄地蔵1体を譲り受けた[3]。しかし、天保2年(1831年)から翌3年にかけてこの講はキリシタンの嫌疑をかけられて藩により一時布教が差し止められるなど弾圧も受けた[3]。一方で、鋳鉄地蔵については、天保14年(1843年)に刊行された尾張藩の官撰地誌『尾張志』において「尾張六地蔵」の一つとして記されている[2][注 1]。弘化3年(1846年)、講を守っていた小寺左兵衛(月中一夢)が法持寺の27世・大達玄中の弟子となって地蔵堂を再興し、玄中を地蔵堂の開山に迎えたことで、法持寺の境外仏堂・鐵地蔵堂となった[2][3]。この際に媹姾を合わせて祀り、その説を奉じたという[2]。 近代[編集] 1873年(明治6年)に一旦は廃絶。1876年(明治9年)に一夢の息子である小寺大拙によって再興された。大拙は曹洞宗の僧侶であったことから寺は再び法持寺末となり、曹洞宗の寺として扱われた。1945年(昭和20年)12月の宗教法人令施行に伴って法人となって「如来宗」を称するようになり[3]、1952年(昭和27年)7月に宗教法人法に基づいて法持寺との本末関係を解消して、「宗教法人媹姾院」として独立[3][5]。1962年(昭和37年)に「如来教」と変更、鐵地蔵堂も「登和山 青大悲寺」と改号した[3]。 なお、山号の登和山はきのの若い頃の名「とわ」から取られており、寺号の青大悲寺については、青は若く新鮮な力強さを表し、大悲は大きな慈悲の意味であるという[6]。 鋳鉄地蔵菩薩立像 地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は、文政12年(1829年)に同寺が所有するようになったもので[6]、観潮寺にある2体と同様にかつて成福寺の地蔵堂に祀られていたものと伝わる[1]。像高160センチ、裾幅42センチで観潮寺の像とほぼ同形だが[1]、こちらのものは沓を履いていることと、裾部分の造型に若干の違いがあり[1]、そこに施された陽鋳名から室町時代初期の作と考えられている[1][4][6]。1960年(昭和35年)に愛知県の文化財に指定された[7]。 ^ 現在の尾張六地蔵には含まれていない。 参考文献[編集] 名古屋市史 社寺編、1915年 圭室文雄『日本名刹大事典』雄山閣出版、1992年、ISBN 4-639-01115-6

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ラムゼー・リチャード・ライナグル – Wikipedia

ラムゼー・リチャード・ライナグル(Ramsay Richard Reinagle RA 、1775年3月19日 – 1862年11月17日)はイギリスの画家である。肖像画、風景画、動物画を描いた。 ロンドンで生まれた。祖父がハンガリー出身の音楽家で、父親のフィリップ・ライナグルは、有名な動物画家であった。父親から絵を学び、父親のスタイルを引き継いだ。13歳になった1883年にすでにロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展した。 イタリアに留学し、1796年にローマで修行し、その後、オランダも訪れ、オランダの巨匠の作品を研究した。イギリスに戻った後、ロバート・ベーカー(Robert Barker: 1739–1806) がロンドンのレスター・スクウェアにパノラマ画を描くのを手伝い、その後、ベーカーの息子と共同で、ストランド通りの建物にイタリアの都市の風景を描いたパノラマ画を制作したが1816年にこのパノラマ画は取り去られ、ヘンリー・アストン・ベーカー(Henry Aston Barker: 1774–1856)らのパノラマ画に取り換えられた[1]。 1805年にイギリス水彩画家協会(Society of Painters in Watercolours)の準会員になり、翌年正会員になった。1807年に協会の役員(treasurer)になり、1808年から1812年の間、会長を務めた。

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ホンダ・TL – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ホンダ・TL” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年7月) TL(ティーエル)は、本田技研工業並びにRSC・HRCが製造販売するトライアル用オートバイのシリーズ商標である。 本項では、後継車種であるTLRとTLM、および、競技用モデルであるRS-TとRTLについても解説する。 モデル一覧[編集] トライアル用モデルは車重が性能に直結するためすべて軽量な単気筒エンジンを搭載する。 バイアルス[編集] 当シリーズのペットネームである「バイアルス(ラテン文字表記:Bials)」は、まだ「トライアルス」(現在の日本語では単数形で『トライアル』と呼ぶが、発売当時は複数形で呼んでいた)という競技が一般的でなかった当時に「オートバイ」の意味の「バイク」と「トライアルス」を掛け合わせて造った語である。語構成は[ 造語(固有名詞): Bials < 造語: bi-

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吉田五郎 (法学者) – Wikipedia

吉田 五郎(よしだ ごろう、1911年 ‐ 1994年3月8日)は、日本の法学者。元八幡大学(現九州国際大学)学長。満州大連生まれ。 1934年 – 京都帝国大学法学部卒業。 1934年 – 満州鉄道株式会社入社。 1942年 – 大日本帝国陸軍の要請により満鉄特別派遣調査官として南方方面(インドネシア他)に派遣。東南アジアの地域研究調査に従事する。 1945年 – 満州に帰任。満鉄化学工場経理課長から後部長に就任。 1946年 – 帰国。

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後家兼光 – Wikipedia

後家兼光(ごけかねみつ)は、南北朝時代に作られたとされる日本刀(打刀)である。東京都世田谷区にある静嘉堂文庫美術館が収蔵する[1]。 刀工・長船兼光について[編集] 南北朝時代に備前で活躍した長船派(おさふねは)の刀工・兼光により作られた打刀である。長光は長船派の祖として知られる光忠から数えて4代目にあたる惣領とされている[2]。初期の作風は父・景光に似た匂本位の肩落互の目や丁子刃(ちょうじば)であったが、南北朝時代に入ると、当時一世を風靡していた相州正宗の相州伝の作風を取り入れて地刃ともに沸(にえ、地鉄の中にある肉眼で把握できるほどの粒子)の強い覇気ある作風へと変化する[3]。後年には相州伝の作風が入った「相伝備前」(そうでんびぜん)という作風で知られるようになる[3]。 名前の由来[編集] 後家兼光という名前の由来は、安土桃山時代の武将である直江兼続の正妻であるお船の方が、兼続と死別し後家(ごけ、夫と死別した人妻)となった際に主君である米沢藩上杉家に本作を献上したことによる。直江兼続は長尾政景(上杉景勝の実父)の家臣である樋口兼豊の子として生まれ、幼い頃から聡明で利発だったことから、仙桃院(上杉謙信の姉)に才能を認められて仙桃院の息子にあたる喜平次(後の景勝)に仕えた[5]。謙信死後の後継者争いである御館の乱では、兼続は景勝軍を指揮して勝利に導いた[5]。しかし、乱勃発後の混乱により上杉家の重臣で与板城主であった直江信綱が殺害されると、当時信綱と結婚していたお船の方を遺して直江家が途絶える危機を迎えた[5]。名門である直江家が途絶えることを惜しんだ景勝は、兼続にお船の方との結婚を勧め、1581年(天正9年)には直江家を継ぐ形で3歳年上のお船の方と結婚することになった[5]。 与板城主となった兼続は、妻の内助の功に支えられ、新田開発、鍛冶産業の振興、道路の整備など城下のまちづくりに注力し、上杉家の宰相として豊臣政権下の佐渡制圧や朝鮮出兵など内政・外交のほとんどを担った[5]。景勝は兼続に対して絶大な信頼を寄せており、上杉家文書にも「兼続は上杉家の舵取りを任せられる大きな器の持ち主」と評した記述も残されている[5]。その評価は上杉家にとどまらず、豊臣秀吉は有能で忠義に篤い兼続に対して「天下の政治を任せられる一人」と絶賛し豊臣姓を授け、1598年(慶長3年)に景勝が会津120万石に移封された際には兼続にも米沢30万石を与えるなど、陪臣(ばいしん、家臣の家臣のこと)としては異例の待遇で接し兼続を高く評価していた[5]。そして同年秀吉が没した際には、遺命として「兼光の太刀」を兼続へ下賜させるように命じたことから、その「兼光の太刀」である本作が兼続の下に渡った[1][5]。 関ヶ原の戦いに於いて西軍に付いて徳川家康と対立した上杉家は、関ヶ原敗北後お家断絶の危機に直面していた。1601年(慶長6年)に、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪し、上杉家は安堵されたものの会津120万石から米沢30万石に改易されることになった[6]。大減封により上杉家は財政難に陥り、家臣の中には一部家臣の召し放ち(リストラ)を進言する者もいたが、兼続は旧来からの家臣を召し放ちせず、米沢移住を希望する家臣には全て会津城から連れてきたとされる[6]。 米沢での暮らしは厳しいものであったが、兼続自らも生活を質素なものにして、家臣たちには屋敷に柿やウコギなど食料にもなる樹木を植えさせ、開墾を奨励して米沢のまちづくりに努めた。そうして米沢でも上杉家に貢献してきた兼続は1619年(元和5年)12月19日に60歳で死去し、その没後に2度目の後家となったお船の方から主家の米沢藩主上杉家へと本作が献上されることになった[1][6]。 上杉家伝来後[編集] その後江戸時代を通じて米沢上杉家に伝来していたが、幕末になり戊辰戦争が勃発した際に米沢藩は佐幕派の奥羽越列藩同盟に加わり明治新政府と対立することになった。しかし、奥羽越列藩同盟は新政府軍に敗北し、米沢藩にも厳罰が下されようとする中、当時上杉家は土佐藩主である山内家と姻戚関係にあったことから土佐藩の助力を得ることができ厳罰を受けずに済んだ[1]。そのため上杉家ではその礼として本作が山内家へ贈られたと伝えられる[1]。その後経緯は不詳ながら、土佐藩郷士出身であり三菱財閥第二代総帥である岩崎弥之助(岩崎弥太郎の実弟)の許に渡った[7]。以降は弥之助が設立した静嘉堂文庫に収蔵されるようになり、現在も静嘉堂文庫美術館に保管されている[7]。 刀身[編集] 刃長(はちょう、刃部分の長さ)は80.0センチメートル、反り(切先から鎺元まで直線を引いて直線から棟が一番離れている長さ)は2.1センチメートルある。本作は大磨上げ(おおすりあげ、長大な太刀の茎を元々の銘が無くなるほど切り縮めて刀身全体を短く仕立て直すこと)がなされており、元々は刃長3尺(約90センチメートル)余りであったとされている[7]。また、大磨上げのため茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)は無銘である。 外装[編集] 本作には明治時代に作られたとされる芦雁蒔絵鞘打刀拵(あしかりまきえざやうちがたなごしらえ) が付属している[1]。 用語解説[編集] 作風節のカッコ内解説および用語解説については、個別の出典が無い限り、刀剣春秋編集部『日本刀を嗜む』に準拠する。 出典[編集] 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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