Month: January 2021

日本アスパラガス – Wikipedia

日本アスパラガス株式会社(にほんアスパラガス)は、北海道岩内郡岩内町に本拠を構える清涼飲料水・酒類の製造委託メーカー。 前身となる会社は、日本で初めてアスパラガスの栽培・生産に成功した下田喜久三が設立した企業であり、ホワイトアスパラガスの缶詰を製造。アメリカにも輸出をしていた。 社名の通りアスパラガスをはじめとした農産物の缶詰製造を主体としていたが、副業として缶飲料の生産に進出。1996年で農産物加工からは撤退しているが、会社名は変えず、そのままにしている。ここで扱うアスパラガスの缶詰とは、土寄せを行う軟白栽培であるホワイトアスパラガスを利用したものである。 旧平取工場は、1996年(平成8年)9月に工場の操業を終了。工場は、平取町役場(沙流郡)へ寄贈。現在は、名産品のトマト(びらとりトマト・ブランド名「ニシパの恋人」)を使ったトマトジュースの生産拠点となっている。製造元は、平取町農業協同組合(JA平取町)。 千歳工場は、2006年3月末日までサントリーの工場であった[1]。製造機能をそのまま転用した後もサントリー製品の委託製造を行っているほか、他メーカー(キリンビバレッジ・日本コカ・コーラなど)の製造も受け持っている。 千歳工場ではペットボトル飲料を製造していたが、飲料の製造拠点を物流に有利な千歳に集約することになり、岩内工場で製造していた缶飲料の製造も2022年8月に千歳工場に移されることになった[2]。本社と野菜加工工場については2022年8月以降も岩内町に置かれる[2]。 1922年(大正11年)、下田喜久三が岩内郊外でアスパラガスの栽培に成功。 1924年(大正13年)、下田喜久三が前身となる会社を設立。 1951年(昭和26年)11月、日本アスパラガス株式会社が設立。 1952年(昭和27年)5月、ホワイトアスパラガスの缶詰の製造を開始。 1969年(昭和44年)4月、平取工場を新設。製造を開始。 1980年(昭和55年)1月、岩内工場での飲料水の製造を開始。 1996年(平成8年)9月、平取工場を平取町役場へ寄贈。岩内工場でのアスパラガス・スウィートコーン(トウモロコシ)の缶詰など農水産部門の製造を終了。 2006年(平成18年)4月、サントリー千歳工場を取得し、千歳工場として稼働。サントリー製品の製造を受け持つ。 2022年(令和4年)8月 – 缶飲料の製造を岩内工場から千歳工場に移転(予定)[2]。 本社・岩内工場 北海道岩内郡岩内町字野束22-3 千歳工場

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古賀亜美 – Wikipedia

古賀 亜美Ami KOGA 選手情報 生年月日 (1999-02-06) 1999年2月6日(23歳) 代表国 日本 出生地 福岡県福岡市 身長 156 cm 元パートナー スペンサー・アキラ・ハウフランシス・ブードロー=オデ郭文雄 コーチ リチャード・ゴーチエブルーノ・マルコットC. ルメールシルヴィ・フラム 振付師

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アンバランス (お笑いコンビ) – Wikipedia

アンバランスは、太田プロダクションに所属する大阪府寝屋川市出身の2人からなるお笑いコンビ。1992年デビュー。 メンバー[編集] 黒川 忠文(くろかわ ただふみ、 (1972-10-15) 1972年10月15日(49歳) -)ボケ担当、立ち位置は向かって右。 血液型A型、愛称は「くろきん」。既婚で二女の父。2020年に次女から娘が生まれ、40代にして祖父となった。 山本 栄治(やまもと えいじ、 (1972-10-01) 1972年10月1日(49歳) -)ツッコミ・ネタ作り担当、立ち位置は向かって左。 旧姓・黒田(くろだ、小学5年まで)、血液型O型、愛称は「えいさん(えーさん)」、『こたえてちょーだい!』の再現ドラマに出演経験有り。2012年、100キロマラソン完走者。2009年8月に元モデルの女性と結婚したが、2014年12月24日に離婚していたことを発表[1]。2018年8月再婚。 1992年にコンビ結成。『ゴールド・ラッシュ!』(フジテレビ)7代目チャンピオン、同番組の第3回グランドチャンピオンになった後1年ほどはレッスンに充てられ、露出が無かった。その後ボキャブラブーム、『殿様のフェロモン』(フジテレビ)のレギュラー出演や雨上がり決死隊・あさりどとの合同ライブ『AAA』もあって多少知名度は上げたが、未だに前説を担当するなど目立った活躍は見せられなかった。山本は矢部浩之(ナインティナイン)主宰の「矢部会」で番頭を務めており、それが縁で出演する程度だった。 2001年に櫛引彩香と電リクBEATBOXで山本が共演、黒川は電話で出演。 2006年6月29日の『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』(テレビ朝日)の企画「芸能界潜水No.1決定戦」に、競泳でインターハイ出場経験があり泳ぎに自信のある山本がエントリー。「チャンスはつかむもの!!

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ウルフ・アリス – Wikipedia

ウルフ・アリス(英:Wolf Alice)はイギリス、ロンドンのオルタナティブ・ロック・バンド。2015年6月リリースのファースト・アルバム『マイ・ラヴ・イズ・クール』が全英チャート最高2位を獲得、NMEアワーズ2016で「最優秀ライブ・バンド」「最優秀トラック」(「Giant Peach」)の2部門を受賞した[2] 。2017年9月リリースのセカンド・アルバム『ヴィジョンズ・オブ・ア・ライフ』では全英最高2位、マーキュリー賞を受賞した。2021年にリリースしたサード・アルバム『ブルー・ウィークエンド』は全英最高1位に輝いた[3]。 2010年〜2016年: 結成〜『マイ・ラブ・イズ・クール』[編集] ウルフ・アリスはシンガーのエリー・ロウゼル(Ellie Rowsell)とギタリストのジョフ・オディ(Joff Oddie)のアコースティック・デュオとして2010年に結成された。グループ名はイギリスの作家アンジェラ・カーターの短編集『血染めの部屋』収録の短編小説のタイトルから付けられた[4][5]。やがて2人はバンドサウンドを求め、エリーの友人のSadie Clearyがベーシストとして、ジョフの友人のJames DCがドラマーとしてそれぞれ加入した。同年自主制作の1stEP『Wolf Alice』をリリース[6]。 Jamesが2012年に手首を負傷すると、ジョエル・アメイ(Joel Amey)が代わりにドラマーを務め、後に正式メンバーとなった。同年、学業に専念するためClearyが脱退、代わりにセオ・エリス(Theo Ellis)がベーシストとして加入することになった[7]。同年、「Leaving You」をSoundCloud 上にフリー・ダウンロードでリリース。 2013年2月、初のフィジカル・シングル『Fluffy』をChess Club labelからリリース。5月にはセカンド・シングル『Bros』をリリース。10月には初のオフィシャルEP『Blush』をリリース。

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出世螺 – Wikipedia

出世螺(しゅっせぼら)は、江戸時代の奇談集『絵本百物語』にある日本の妖怪。ホラガイが数千年を経て龍となったものとされる。 『絵本百物語』によれば、深い山に住むホラガイが山に三千年、里に三千年、海に三千年住んだ末に龍に化身したものであり、山からこの出世螺が抜けた跡を「出世のほら」と呼び、静岡県湖西市の遠州今切れの渡しも法螺の抜けた跡とされている[1]。 江戸時代の外科医・武井周作の著書『魚鑑』によれば、深山の土中には巨大なホラガイが棲んでおり、これが山中に三千年住んだ末、大規模な山崩れと共に土の中から抜け出し、さらに里に三千年、海に三千年住んだ法螺が龍に化身したものが出世螺だという[2]。 また『絵本百物語』によれば、螺の肉を食べると長生きをするといわれるが、実際にはそのようにして長生きした人の話は確認されていないため、これが由来となって嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう[1]。 ホラガイが龍に化身して山から抜け出すという話は、ほかの古典の文献や民間伝承にもある。『東京近郊名所図会』によると、明治5年8月25日午後に激しい雷雨があり、道灌山(現・荒川区西日暮里)の北川の崖が崩壊して穴跡ができ、山に千年住んだ法螺が抜けて昇天した跡だと評判になったという[2]。この抜けた穴は明治末期まで残っており、付近にはほかにも抜け穴が多く、地面が急に陥没することもあったという[3]。また日暮里の花見寺でも明治初期の夏、轟音とともに真っ黒いホラガイが土を蹴散らして空へ飛び去ったという伝承がある[3]。しかしこの日暮里近辺の怪異の正体は、彰義隊が残した火薬、弾丸、地雷などの自然発火や、彼らが隠れ家として掘ってあった大穴の陥没といった現象がホラガイによるものと見なされたとの説もある[3]。 松浦静山の『甲子夜話』によれば、ホラガイは蛟の一種であり、山腹の土中に住んでいるものとの記述がある、山が震えて激しい雷雨が起きたときには山から飛び出すことがあり、これを法螺抜けといい、正体を見た者はいないが、地中から蛟が現れるものとされている[4]。 牟婁郡(現・和歌山県)の民俗誌『牟婁口碑集』によれば、かつて和歌山県西牟婁郡西富田村(現・白浜町)では村の大池から法螺が現れたとある。大水が発生した年、濁流の中に大きな黒い物体が流れて行くのを目撃した者がおり、その跡には池に洞窟ができていた。土地の口承ではホラガイは海、川、山でそれぞれ千年、計3千年の歳月を経た末、神通力を持つ大蛇と化すといい、そうしたホラガイが抜け出たものだといわれた[5]。 江戸時代には山岳を観察しながら暮していた山伏たちが、こうした山中の法螺抜けの伝説を広め、崖などに自然にできている穴を「洞(ほら)」と呼ぶのも法螺(ほら)が抜けた穴という意味であり、そこから抜けた法螺が龍となって昇天するなどと話して回ったが、その途方もない話を当時の人々は嘲笑し、このことから嘘をつくことを「ほらをふく」というようになったともいう[2]。 このような俗信はもとは中国から伝わったものらしく、17世紀初頭の中国の文献『五雑組』には、福建省で暴風のために洪水が起きた際、人々は蛟が出現したのだろうと語ったという記述がある[6]。 参考文献[編集] 関連項目[編集]

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サウスショアー線の日本車輌製造製電車 – Wikipedia

このページ名「サウスショアー線の日本車輌製造製電車」は暫定的なものです。(2020年7月) この項目では、アメリカ合衆国イリノイ州及びインディアナ州を走る電化鉄道路線(インターアーバン)であるサウスショアー線で用いられる、日本の鉄道車両メーカーの日本車輌製造が製造した電車について解説する。同社初の北アメリカ向け鉄道車両として1982年から営業運転を開始し、計4度に渡って導入が行われた[1]。 導入までの経緯[編集] アメリカ国産の旧型直流電車は長期に渡って使用された(1966年撮影) サウスショアー線の歴史は、1903年にシカゴ・アンド・インディアナ・エアライン鉄道(Chicago & Indiana Air Line Railway)によって開通した交流電化の電鉄路線から始まった。その後、1925年に会社はシカゴ・サウスショアー・サウスベンド鉄道(Chicago South Shore and South Bend Railroad、CSS&SB)によって買収され、架線電圧が直流1,500 Vに改められた。その際、サウスショアー線にはアメリカ各地の鉄道車両メーカーによって製造された直流電車が多数導入され半世紀以上に渡って使用されたが、1980年代には老朽化が深刻な課題となっていた。そこで、1977年に設立されて以降サウスショアー線の運営の補助を行っていたインディアナ州北部通勤輸送公団(NICTD)は、住友商事を介して日本の鉄道車両メーカーである日本車輌製造製の車両を導入する契約を結び、1982年から新型電車の導入が開始された[注釈 1][2][4]。 これらの車両の導入に際しては連邦政府からの補助金が用いられた関係からバイ・アメリカン法(英語版)の適用対象となっており、車体各所の多くの部品がアメリカ合衆国国内で製造が行われた他、最終組み立てもアメリカ国内で実施された。 1階建て電車[編集]

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朱慶瀾 – Wikipedia

朱 慶瀾(しゅ けいらん)は、清末民初の軍人・政治家。清末の新軍軍人で、民国が成立した後は、黒竜江将軍、広東省長などを歴任した。奉天派にも属したが、政治的立場としては孫文(孫中山)にも同情的であった。字は子橋。祖籍は浙江省紹興府紹興県。 清末の活動[編集] 父は府の役所で幕僚をつとめていた。しかし朱慶瀾の幼年時代に家庭が没落し、一家で奉天省錦州に移住している。朱慶瀾は、当初は学問を志していた。しかし1893年(光緒19年)に錦州の巡防営に入隊し、軍功をあげて次第に昇進して5つの営の統領となった。 1904年(光緒30年)に、趙爾巽が盛京将軍に就任すると、朱慶瀾はその配下として活躍する。営務処督弁に任命されて奉天省の軍事改革に尽力した。1906年(光緒32年)には、趙の直属部隊の統領として瀋陽に駐留している。 1909年(宣統元年)6月、趙爾巽が四川総督に転任する。朱慶瀾もこれに随従して四川省入りし、陸軍第33混成協協統に任命された。1911年(宣統3年)2月、同協は第17鎮に昇格し、朱がその統制(指揮官)となった。朱は、程潜、方声濤などの日本留学経験の軍人たちを招聘し、軍の強化に努めた。 同年、新たに四川総督に就任した趙爾豊が四川鉄道保護運動(保路運動)を武力鎮圧しようとしたため、省内は騒乱状態となる。まもなく、武昌蜂起に呼応する形で、革命派の大漢四川軍政府が成都に成立し、四川省咨議局議長蒲殿俊が都督に、朱が副都督に推戴された。朱が副都督として推薦を受けることができたのは、四川保路運動の武力鎮圧に消極的だったことも理由である。しかし、給料遅配に不満を抱いた四川軍兵士たちの暴動が就任後すぐに発生し、鎮圧できなかった蒲と朱は下野に追い込まれた[1]。 黒龍江統治[編集] 1912年(民国元年)3月、袁世凱の命により、軍事に暗い黒竜江都督宋小濂を補佐するため、朱慶瀾が黒竜江督署参謀長に任命された。1913年(民国2年)8月に宋が辞任すると、後任の畢桂芳の護理を経て、同年10月、朱は護軍使兼民政長に任命された。1914年(民国3年)5月、民政長から巡按使に改めて任命され、6月、護軍使から鎮安右将軍に改めて任命された(いわゆる黒竜江将軍)。 1915年(民国4年)9月、朱慶瀾は他の14省の将軍と共に袁の皇帝即位を支持する電文を打つ。12月に一等子爵に封じられた。しかし、袁が皇帝即位を取り消す前後の、1916年(民国5年)5月、黒竜江第1師師長許蘭洲、同師参謀長李景林の軍事圧力を受けて、朱は下野に追い込まれた。 なお、朱慶瀾による4年間の黒竜江統治は堅実なものであった。保安隊組織による社会秩序の安定、開墾事業の展開、公道建設、福祉・救済事業の重視など、軍政・民政のいずれでも実績を残している。また、日頃の質朴な生活態度は、黒竜江の人々に感銘を与えたとされる。 張作霖の下での活躍[編集] 同年6月、袁世凱が死去すると、10月に朱慶瀾は広東省長に任命された。しかし、赴任後の朱は、南北対立だけでなく、南方政府内における孫文派と桂系派との内紛にも巻き込まれる複雑な立場に追いやられている。その中で朱は、次第に孫文への支持を強めていく。朱自身は1917年(民国6年)に下野したものの、その際に軍権を孫文派の陳炯明に委ねた。 その後、孫文の推薦を受けた朱慶瀾は、1922年(民国11年)10月に張作霖から中東鉄路護路軍総司令に任命される。同年12月には、東省特別行政区(中東鉄路沿線地域)行政長官も兼任した。朱は、ソ連との外交交渉も支援し、1924年(民国13年)9月には「中華民国東三省自治政府とソビエト連邦の協定」(いわゆる「奉ソ協定」。中国では「奉俄協定」)の締結に貢献した。また、内政でも産業振興や現地商人の交易権保護に成果をあげている。しかし、1924年(民国13年)10月、第2次奉直戦争を勃発させた張に反対して辞任した。 晩年[編集] 以後の朱慶瀾は、在野にあって社会福祉・救済事業に専念した。満州事変勃発後は、抗日を唱えつつ、戦争被災者救済や文化財産保護等に奔走している。1939年(民国28年)からは、戦争被災者救済のために、陝西省で開墾事業を展開した。これらの活動は、中国国民党・中国共産党双方からも高い評価を受けている。 1941年(民国30年)1月13日、朱慶瀾は西安で病没した。享年68。 ^ 丘琴・姜克夫「朱慶瀾」は、この事件は尹昌衡(この後、四川都督となる)の秘密裏の煽動により発生したものとしている。

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宇都宮師管区部隊 – Wikipedia

宇都宮師管区部隊(うつのみやしかんくぶたい)は、第二次世界大戦末期の1945年4月に編成され、戦後の11月に解散した大日本帝国陸軍の師管区部隊の一つである。関東地方北部にあたる宇都宮師管区の非作戦部隊・官衙・地域防衛組織をまとめ、東部軍管区部隊に属した。兵団文字符は丸(まる)[1]。 師管区は1945年4月に師管を改称して設けられ、師管区部隊は従来師管を管轄した留守師団を転換して編成された。師管区部隊は、留守師団を構成した司令部・補充隊のほか、管区内の様々な非戦闘部隊・官衙もまとめられ、全体としてはかなり雑多な集まりである。宇都宮師管区では、留守第51師団司令部が宇都宮師管区司令部に改称した[2]。4月1日に移行する予定であったが[2]、実際の編成は4月9日になった[3]。 定員約8千人の補充隊は兵士を教育・訓練し、その兵士を在来の部隊や新編成の部隊の送りこむ組織である。師管区司令部は第14師団など10個師団の司令部への補充担任となり、各種補充隊は歩兵団の司令部と各種戦闘部隊、野戦病院など多数の部隊の補充担任となった[4]。師管区司令部は宇都宮にあり、補充隊も宇都宮が多かったが、歩兵第2補充隊と工兵補充隊は水戸に、歩兵第3補充隊は高崎にあった[3]。 師管区内には複数の陸軍病院があり、師管区部隊に属するものと、東部軍管区司令部に直属するものがあった。たとえば宇都宮陸軍病院は師管区司令官に隷属すると定められたが[5]、後に宇都宮第一陸軍病院と宇都宮第二陸軍病院となり、第一は師管区部隊、第二は軍管区直属と分かれた[3]。これが終戦時には両方とも師管区部隊の一部になっていた[6]。 8月15日にポツダム宣言を受諾し、戦争が終わると、陸軍は解体されることになり、各部隊は次々に復員(解散)した。しかし、師管区部隊は復員業務と治安維持のためにしばらく存置された。砲兵補充隊は9月12日に復員したが、他の補充隊はその後になった[7]。 内地の師管区司令部は陸軍省廃止直前に一斉に復員し[8]、宇都宮師管区部隊も廃止になった。実質的には司令部が第一復員省東部復員監部宇都宮支部に転換したが、人員は38人とごく小さくなった[9]。 部隊の編制と定員[編集] 『東部軍管区編成人員表』による定員[10]。軍人と軍属は分けて数えた。かっこ内の「東部36部隊」等は通称号[3]。司令部と補充隊があわせて約8千人、地区特設警備隊が定員1万5000人、特設警備工兵隊が約5千人で、その他をあわせ計約2万9千人になる[11]。実数は異なる可能性が高い。 宇都宮師管区司令部 – 261人、軍属15人。 宇都宮師管区歩兵第1補充隊(東部36部隊) – 1933人、軍属1人。 宇都宮師管区歩兵第2補充隊(東部37部隊) – 1933人、軍属1人。 宇都宮師管区歩兵第3補充隊(東部38部隊) – 1933人、軍属1人。

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ティーン・ビーチ 2 – Wikipedia

『ティーン・ビーチ 2』(原題: Teen Beach 2)は、ディズニー・チャンネル・オリジナル・ムービーのミュージカル映画。全米公開は2015年6月26日。また、日本では同年7月25日に放送された。日本においては現在DVD・BDは未発売。 ストーリー 夏休み最後の日。ブレイディとマックは、二人が出会うきっかけとなった映画「ウェット・サイド・ストーリー」を観た後、サーフィンをして楽しんでいた。しかしそこでマックは、レイアから貰ったネックレスを失くしてしまったことに気付く。そして次の日学校が始まるが、性格があまりにも違う二人は早々けんかをしてしまう。一方「ウェット・サイド・ストーリー」の世界にいるレイアは、同じことの繰り返しである映画の世界に飽き飽きしていた。その時海岸にマックが持っているはずのネックレスが打ち上げられる。それを見てレイアはマックの事が心配になり、タナーと一緒にネックレスを持って海の中へ入っていく。そしてレイアとタナーが行きついた先は、ブレイディとマックが暮らしている世界、現代だった。 キャスト ※括弧内は日本語吹替 サウンドトラック サウンドトラックは米国で2015年6月23日にリリースされ[1]、日本では同年7月22日にリリースされた。 全米アルバムチャートビルボード200第10位、Top Kid Audio チャートと Top Soundtracks チャート第1位を獲得した[1]。 収録曲 #

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梅の花本舗 – Wikipedia

この項目では、東京都にかつて存在した梅ジャムの製造業について説明しています。福岡県久留米市に本社を置く和風レストランチェーンを展開する企業については「梅の花」をご覧ください。 梅の花本舗の梅ジャム 梅の花本舗(うめのはなほんぽ)は、東京都荒川区で昭和中期からジャムを製造・販売した企業。2017年12月20日に廃業[1]。 従前から駄菓子を紙芝居屋に納品していた。傷物の梅干しの果肉が梅肉として乾物屋で販売されていることを知り、塩辛い梅肉を潰し、水で溶いて煮詰め、小麦粉・甘味料・着色料などを添加して練りあげて作る[2][3]「梅ジャム」を1947年(昭和22年)に発売し、おもに関東地方で多く販売した[4]。梅ジャムに並行して「オレンジジャム」も製造した[5]。 紙芝居屋時代[編集] 紙芝居で多く売れるソースせんべい[6]に塗るジャムとして梅ジャムを発売し、紙芝居師の親方に木樽で納めると、紙芝居師らから好評を得て注文が殺到した[7]。 駄菓子屋時代とそれ以降[編集] 昭和20年代後半に紙芝居が衰退して駄菓子屋が流行すると、梅ジャムを駄菓子屋へ納品した[6]。当初はソースせんべいの生地で作られた器に梅ジャムを盛りつけて売ったが、のちに手間を省くために小袋入りを発売した[3]。以降は再びソースせんべいに塗ることが定番となり、調味料のような位置づけであったが、単品で袋から直に食べる子供も多かった[6]。同時期に甘味料と香料で梅風味を真似たオレンジジャムも販売されたが、保存性が高い梅に比べて日持ちが短いために消費期限の観点から敬遠され[6]、駄菓子屋では梅ジャムが多く売れた[3]。昭和期は野外の遊びが多いことから汗をかく子供にとって良い刺激となり、駄菓子の定番[6]として時代や世代を問わずに[2]好まれた[7]。のちに駄菓子屋が衰退すると縁日の屋台などで販売された[7]。 平成期[編集] 大型スーパーマーケットやディスカウントストア、コンビニエンスストアの駄菓子コーナーで多く見られたほか、業務用として300グラム詰めなども販売されていた。 廃業[編集] 社長がひとりで製造していたが、87歳を迎えて高齢化に伴う身体の不調、製造機械の老朽化、問屋や駄菓子店の閉店、子供の味覚の変化などを理由に創立70周年の2017年12月20日に廃業した。 ギャラリー[編集] 参考文献[編集]

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