マリア・ブランコヴィチ (ボスニア王妃) – Wikipedia
マリア・ブランコヴィチ (セルビア・クロアチア語: Mara Branković/Мара Бранковић; 1447年ごろ – 1500年ごろ)、前名イェレナ (Jelena/Јелена)は、最後のボスニア王妃。セルビア専制公ラザル・ブランコヴィチの長女で、父の死後の1459年、12歳の時にボスニア王子スティエパン・トマシェヴィチと結婚し、マリアと改名した。スティエパンは彼女との結婚を通してセルビア専制公の継承権を獲得し即位したが、数か月後にオスマン帝国の侵攻を受け、セルビア専制公国は滅亡した。マリアとスティエパンの夫婦はボスニアへ逃れ、1461年にスティエパンはボスニア王国を継承したが、ここも2年後にオスマン帝国に滅ぼされ、スティエパンは処刑された。マリアはオスマン軍の捕縛の手を逃れ、アドリア海沿岸に亡命した。ヴェネツィア領ダルマチアで数年を過ごし、ハンガリーにいたこともあった可能性がある。その後オスマン領ギリシアにいる叔母マラ・ブランコヴィチとカタリナ・ブランコヴィチ(カンタクゼネ)のもとに身を寄せた。その後コンスタンティノープルへ移り、メフメト2世やバヤズィト2世の庇護を受けた。カタリナやラグサ共和国、アトス山の修道院に対する訴訟や詐欺を繰り返し、修道僧たちから「悪女」と評された。 1450年代後半のセルビア専制公国の衰亡図 マリア・ブランコヴィチは、セルビア専制公ジュラジ・ブランコヴィチの息子ラザル・ブランコヴィチとモレアス専制公女エレニ・パレオロギナの間に、おそらく1447年に生まれ、イェレナと名付けられた。後にミリツァとイェリナという2人の妹が生まれた。 1456年12月24日、父ラザルがセルビア専制公を継いだが、1458年1月28日に死去した。政権を握った母エレニとラザルの弟スティエパン・ブランコヴィチは、長女イェレナをボスニア王トマシュの長男スティエパン・トマシェヴィチに嫁がせるべく、ボスニア王国と交渉を始めた。当時セルビア専制公国はオスマン帝国の侵略を受け、スメデレヴォ要塞周辺のわずかな土地しか残されていなかったため、ボスニアとの対オスマン同盟を強化しようという意図があった。1459年の受難週にスティエパン・トマシェヴィチがスメデレヴォに到着し、3月21日に要塞と専制公権を受け取った。彼とイェレナの婚礼は4月1日(復活祭後最初の日曜日 )に執り行われた。イェレナは新郎に合わせてカトリックに改宗し、名をマリアに改めた。 結婚生活[編集] セルビア専制公妃として[編集] スティエパン・トマシェヴィチのセルビア統治は極めて短期間に終わった。オスマン帝国のスルターンのメフメト2世は、スティエパンの彼の即位にからむセルビアとボスニアの協定をオスマン帝国の宗主権の侵害とみなした。1459年6月20日、オスマン帝国は抵抗を受けることなくスメデレヴォを制圧し、残存していたセルビア領全土を併合した。スティエパンとマリアはボスニアへ逃れ、ヤイツェにあった父の宮廷に身を寄せた。この時、マリアはブランコヴィチ家の家宝であったルカの聖遺物を持参している。1461年夏にスティエパン・トマシュ王が死去すると、マリアの夫スティエパン・トマシェヴィチがボスニア王を継承することになった。マリアはボスニア王妃となり、前王の妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチは王太后として宮廷から身を引いたと考えられている。 ボスニア王妃として[編集] しかしマリアのボスニア王妃としての生活も、長続きしなかった。1462年、スティエパン・トマシェヴィチがオスマン帝国への貢納を停止するという命取りになる決断を下し、オスマン帝国の侵攻を招いた。ボスニア王族は敵の追撃を逃れるため、めいめいに隣国のクロアチアやダルマチアなどに分散して逃げようとしたとみられる。王であるスティエパン・トマシェヴィチはマリアをルカの聖遺物と共にダルマチアへ送り出した後、オスマン軍に捕らえられ処刑された。結局生き残った王族は王妃マリアと王太后カテリナの2人だけで、彼女らは最終的にラグサ共和国に逃げ込んだ。16世紀の年代記者マヴロ・オルビニは、マリアがアドリア海沿岸へ逃れる途中にクロアチアのバンであるパヴァオ・シピランチッチに捕らえられたと書き記しているが、実際には当時パヴァオ自身がオスマン帝国の虜囚となっていたため、この話は不正確だと考えられている。 マリアはオスマン軍から逃れようと急ぐあまり、ルカの聖遺物を途中で置き忘れてしまっていた。フランシスコ会の修道士がこれを回収してラグサに向かったが、途中のポリィツェで、地元の貴族でマリアの友人でもあったイヴァニシ・ヴラトコヴィチが捕捉し、マリアの許可なしには通さないといって妨害した。ラグサ共和国当局は怒って、イヴァニシに聖遺物を修道士たちに返すよう要求した。7月9日、ラグサ当局は布告を出してマリアにラグサ領の島の一つに逃げ込むことを認めると同時に、彼女と交渉を始めた。おそらくは、彼女に聖遺物の売却を打診するものであった。ヴェネツィア共和国も、マリアの家宝である聖遺物に興味を示していた。しかし8月にマリアがきっぱりと拒絶したので、ヴェネツィアは聖遺物の真正性に疑義を呈するという行動に出た。最終的に、ヴェネツィアはイヴァニシを代理人としてマリアから聖遺物を購入することに成功した。後になってハンガリー王マーチャーシュ1世が聖遺物と引き換えに3、4都市を譲るという提案をしてきたことを知ったマリアは、聖遺物を手放したことを後悔し、8月下旬にイヴァニシに取り戻してくるよう求めたが、後の祭りだった。ただイヴァニシとマリアはヴェネツィアから返礼を受け、マリアはスプリト近くのベネディクト会のスティエパン・ポド・ボロヴィマ修道院に居を置くことを許された。 この修道院に滞在中、マリアのもとをボスニア人やハンガリー人の来客が訪れたが、これがヴェネツィア当局の疑念を呼んだ。間もなくヴェネツィア当局は、マリアに環境の悪い修道院からシベニクあるいはどこかしらの街に移るよう提案するようにスプリト市に指示した。これはマリアを永久にヴェネツィア領から遠ざけるためであった。義母やハンガリー王と異なり、16歳の元王妃マリアはダルマチアやラグサを転々とする間もボスニア王家の世襲権利を主張することを控えていた。
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