Month: May 2021

マリア・ブランコヴィチ (ボスニア王妃) – Wikipedia

マリア・ブランコヴィチ (セルビア・クロアチア語: Mara Branković/Мара Бранковић; 1447年ごろ – 1500年ごろ)、前名イェレナ (Jelena/Јелена)は、最後のボスニア王妃。セルビア専制公ラザル・ブランコヴィチの長女で、父の死後の1459年、12歳の時にボスニア王子スティエパン・トマシェヴィチと結婚し、マリアと改名した。スティエパンは彼女との結婚を通してセルビア専制公の継承権を獲得し即位したが、数か月後にオスマン帝国の侵攻を受け、セルビア専制公国は滅亡した。マリアとスティエパンの夫婦はボスニアへ逃れ、1461年にスティエパンはボスニア王国を継承したが、ここも2年後にオスマン帝国に滅ぼされ、スティエパンは処刑された。マリアはオスマン軍の捕縛の手を逃れ、アドリア海沿岸に亡命した。ヴェネツィア領ダルマチアで数年を過ごし、ハンガリーにいたこともあった可能性がある。その後オスマン領ギリシアにいる叔母マラ・ブランコヴィチとカタリナ・ブランコヴィチ(カンタクゼネ)のもとに身を寄せた。その後コンスタンティノープルへ移り、メフメト2世やバヤズィト2世の庇護を受けた。カタリナやラグサ共和国、アトス山の修道院に対する訴訟や詐欺を繰り返し、修道僧たちから「悪女」と評された。 1450年代後半のセルビア専制公国の衰亡図 マリア・ブランコヴィチは、セルビア専制公ジュラジ・ブランコヴィチの息子ラザル・ブランコヴィチとモレアス専制公女エレニ・パレオロギナの間に、おそらく1447年に生まれ、イェレナと名付けられた。後にミリツァとイェリナという2人の妹が生まれた。 1456年12月24日、父ラザルがセルビア専制公を継いだが、1458年1月28日に死去した。政権を握った母エレニとラザルの弟スティエパン・ブランコヴィチは、長女イェレナをボスニア王トマシュの長男スティエパン・トマシェヴィチに嫁がせるべく、ボスニア王国と交渉を始めた。当時セルビア専制公国はオスマン帝国の侵略を受け、スメデレヴォ要塞周辺のわずかな土地しか残されていなかったため、ボスニアとの対オスマン同盟を強化しようという意図があった。1459年の受難週にスティエパン・トマシェヴィチがスメデレヴォに到着し、3月21日に要塞と専制公権を受け取った。彼とイェレナの婚礼は4月1日(復活祭後最初の日曜日 )に執り行われた。イェレナは新郎に合わせてカトリックに改宗し、名をマリアに改めた。 結婚生活[編集] セルビア専制公妃として[編集] スティエパン・トマシェヴィチのセルビア統治は極めて短期間に終わった。オスマン帝国のスルターンのメフメト2世は、スティエパンの彼の即位にからむセルビアとボスニアの協定をオスマン帝国の宗主権の侵害とみなした。1459年6月20日、オスマン帝国は抵抗を受けることなくスメデレヴォを制圧し、残存していたセルビア領全土を併合した。スティエパンとマリアはボスニアへ逃れ、ヤイツェにあった父の宮廷に身を寄せた。この時、マリアはブランコヴィチ家の家宝であったルカの聖遺物を持参している。1461年夏にスティエパン・トマシュ王が死去すると、マリアの夫スティエパン・トマシェヴィチがボスニア王を継承することになった。マリアはボスニア王妃となり、前王の妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチは王太后として宮廷から身を引いたと考えられている。 ボスニア王妃として[編集] しかしマリアのボスニア王妃としての生活も、長続きしなかった。1462年、スティエパン・トマシェヴィチがオスマン帝国への貢納を停止するという命取りになる決断を下し、オスマン帝国の侵攻を招いた。ボスニア王族は敵の追撃を逃れるため、めいめいに隣国のクロアチアやダルマチアなどに分散して逃げようとしたとみられる。王であるスティエパン・トマシェヴィチはマリアをルカの聖遺物と共にダルマチアへ送り出した後、オスマン軍に捕らえられ処刑された。結局生き残った王族は王妃マリアと王太后カテリナの2人だけで、彼女らは最終的にラグサ共和国に逃げ込んだ。16世紀の年代記者マヴロ・オルビニは、マリアがアドリア海沿岸へ逃れる途中にクロアチアのバンであるパヴァオ・シピランチッチに捕らえられたと書き記しているが、実際には当時パヴァオ自身がオスマン帝国の虜囚となっていたため、この話は不正確だと考えられている。 マリアはオスマン軍から逃れようと急ぐあまり、ルカの聖遺物を途中で置き忘れてしまっていた。フランシスコ会の修道士がこれを回収してラグサに向かったが、途中のポリィツェで、地元の貴族でマリアの友人でもあったイヴァニシ・ヴラトコヴィチが捕捉し、マリアの許可なしには通さないといって妨害した。ラグサ共和国当局は怒って、イヴァニシに聖遺物を修道士たちに返すよう要求した。7月9日、ラグサ当局は布告を出してマリアにラグサ領の島の一つに逃げ込むことを認めると同時に、彼女と交渉を始めた。おそらくは、彼女に聖遺物の売却を打診するものであった。ヴェネツィア共和国も、マリアの家宝である聖遺物に興味を示していた。しかし8月にマリアがきっぱりと拒絶したので、ヴェネツィアは聖遺物の真正性に疑義を呈するという行動に出た。最終的に、ヴェネツィアはイヴァニシを代理人としてマリアから聖遺物を購入することに成功した。後になってハンガリー王マーチャーシュ1世が聖遺物と引き換えに3、4都市を譲るという提案をしてきたことを知ったマリアは、聖遺物を手放したことを後悔し、8月下旬にイヴァニシに取り戻してくるよう求めたが、後の祭りだった。ただイヴァニシとマリアはヴェネツィアから返礼を受け、マリアはスプリト近くのベネディクト会のスティエパン・ポド・ボロヴィマ修道院に居を置くことを許された。 この修道院に滞在中、マリアのもとをボスニア人やハンガリー人の来客が訪れたが、これがヴェネツィア当局の疑念を呼んだ。間もなくヴェネツィア当局は、マリアに環境の悪い修道院からシベニクあるいはどこかしらの街に移るよう提案するようにスプリト市に指示した。これはマリアを永久にヴェネツィア領から遠ざけるためであった。義母やハンガリー王と異なり、16歳の元王妃マリアはダルマチアやラグサを転々とする間もボスニア王家の世襲権利を主張することを控えていた。

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文化 – Wikipedia

文化(ぶんか、ラテン語: cultura)には、いくつかの定義が存在するが、総じていうと人間が社会の構成員として獲得する多数の振る舞いの全体のことである。社会組織(年齢別グループ、地域社会、血縁組織などを含む)ごとに固有の文化があるとされ、組織の成員になるということは、その文化を身につける(身体化)ということでもある。人は同時に複数の組織に所属することが可能であり、異なる組織に共通する文化が存在することもある。もっとも文化は、次の意味で使われることも多い。 ハイカルチャーのように洗練された生活様式 ポップカルチャーのような大衆的な生活様式 伝統的な行為 なお、日本語の「文化」という語は坪内逍遥によるものとされている[1]。 文化の定義[編集] 概説[編集] 古典的・日常的な文化[編集] ラテン語 colere(耕す)から派生したドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕す」、「培養する」、「洗練したものにする」、「教化する」といった意味合いを持つ[2]。18世紀後半に、産業化をひたさま技術革新、生産性の向上、社会の官僚化といった人間の外部に相当するものとしての文明と対比される、人間の精神面での向上を示す言葉として位置づけるものとしての文化という意味で議論を展開したのがマシュー・アーノルドである[3]。この定義では文化は教養と言い換えることもできる。英語やフランス語は、日本語・中国語・ドイツ語とは異なり、「文化」と区別される「教養」という語を持っていないので、その間の区分が明示的でない。 人類学的文化[編集] 人類学においては、人間と自然や動物の差異を説明するための概念が文化である[4]。 こうした定義の最初のものはイギリスの人類学者エドワード・バーネット・タイラー (1871) の、

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ドーラク弁護士 – Wikipedia

『ドーラク弁護士』(ドーラクべんごし)は、鈴木あつむによる日本の漫画、またそれを題材としたテレビドラマ。『ミスターマガジン』(講談社)で連載された。単行本は全12巻。絶版を経て現在はマンガ図書館Zで無料公開されている。 基本的には主人公である弁護士が、様々な依頼者から持ち込まれる案件に対し弁護士として対応する様子を描いた。 主人公はかなりの資産家であるため、問題解決のために自らの資産を以下のように惜しげもなくつぎ込むことがある。 クレジットカード不正利用問題では、顧客情報を入手してカード会社の親会社の銀行経由で暗黙の圧力をかけて和解を引き出す。 麻酔医の医療ミス訴訟では、主人公が出資するファンドの支援を受けている麻酔医の世界的権威を患者側証人として証言させる。 銀行出身の社長の解任において、多額の預金を盾に他銀行役員から社長に関する情報を聞き出す。 建設会社の手抜き工事において、倉庫の中に橋梁のセットを組んだ上で地震をシミュレートして、手抜きに関与した人間からリアルな証言を聞きだす。 ゴルフ会員権を巡る詐欺において、被害者数・被害総額を特定するため、全国紙の全面広告で会員権を買い取る旨告知を出す。 欠陥マンションにおいて、ヘリで上空からマンションを望遠レンズで撮影して欠陥建築の証拠をつかむ。 物証がないものの状況証拠から今後の犯罪が予想される事件で、1000万円の寄付で犯行現場となりうる病室の監視カメラ設置を病院に認めさせる。 浪費を繰り返す社長を解任するにおいて、会社更生法[1]適用を認めさせ易くするために10億円の債務保証をする。 この点で筒井康隆の『富豪刑事』の弁護士版として重なる部分がある。ただし、問題解決に自らの資産を使う事例はほんの一部であり、冷静に弁護士として事件の内容を分析し妥当な結論に導く場合が圧倒的に多く、優秀な弁護士であることが見て取れる。 登場人物[編集] 正義 乃味方(まさよし のみかた) 主人公。父親が大金持ちの富豪弁護士。父親からは「ノミカタ」と呼ばれる。 一人称は「僕(平時)」「俺(父親と話す時)」「私(弁護士として振る舞う時)」とその時に応じて使い分けている。現在は金持ちだが、貧乏だった少年時代を忘れず、弱者を法で守ることを決意している正義漢。名前は父である内蔵介の駄洒落好きから。 185cmを超える長身だがケンカが強いわけではない。しかし、ヤクザ相手も怯ませる迫力と凄みを見せることも。 依頼がなかなか来ないので金持ちでありながら倹約生活を心がけており、ボロボロのカローラ(ボローラ)に乗っている。過去、貧乏生活の中で過労で病気になった母親を病院に送るため父親が買ったのがこのカローラだった。そのため母親の想いが残るカローラには愛着を持っており、今でも手放さないでいる。ただし弁護士になってからは依頼人を乗せる関係上、中身はベンツに改造してある。

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リュドミラ・パリエロ – Wikipedia

リュドミラ・パリエロ(Ludmila Pagliero、1983年10月15日 – )は、アルゼンチンのバレエダンサーである。 2003年にパリ・オペラ座バレエに入団し、2012年からは最高位のダンスーズ・エトワールを務めている。 ブエノスアイレスのパレルモ地区で、電気技師の父とマッサージ師の母の間に生まれた[1]。8歳でクラシック・ダンスのレッスンを受け始めたが、意に添わずジャズ・ダンスに転向した。しかし教師の勧めもあって再びクラシック・ダンスを学ぶようになった[2]。 新しいダンス教師からはテアトロ・コロンの高等芸術学院(Instituto Superior de Arte)の入学オーディションを受けてみることを勧められた。大きなチャレンジではあったが、10歳のとき合格して入学した[1][2]。 高等芸術学院ではかつてテアトロ・コロンのプリマ・バレリーナを務めたオルガ・フェリらから教えを受けた[3]。パリエロは後にインタビューに対して「ダンサーになるという夢は、まったくテアトロ・コロンで生まれた」と語っている[4]。 パリ・オペラ座バレエ入団まで[編集] 卒業後、サンティアゴ・バレエ団から1年契約をオファーされた[2]が、これは16歳で家族から離れて他国に出るということであった[2]。サンティアゴ・バレエ団ではソリストに昇進し、『眠れる森の美女』や『テーマとヴァリエーション』などより高度な役柄を踊るようになった[1]。 2003年にはニューヨーク国際バレエコンクールに参加し、銀メダルとイーゴリ・ユースケヴィチ賞を受賞した[5]。イーゴリ・ユースケヴィチ賞には、アメリカン・バレエ・シアターとの1年契約がついていた[1]。 その後まもなく、パリ・オペラ座バレエのオーディションに参加するためにフランスに向かった。フルタイム契約の席が2つあったが、パリエロは応募者の中で5番手に留まった。しかし、アメリカン・バレエ・シアターと契約しようとしていたときに、パリ・オペラ座バレエから3か月のパートタイム契約を提示され、それを受け入れることにした[1]。 パリ・オペラ座バレエ入団後[編集] パートタイム契約でパリ・オペラ座バレエの『イワン雷帝』公演に出演したが、その公演が終わると同時にシーズン末まで契約が延長された。2004年に再びオーディションに参加し、またしてもフルタイム契約は得られなかった[2]が、コール・ド・バレエに欠員が出た時の補充要員(surnuméraire)の契約をオファーされた[1]。しかし、パリ・オペラ座バレエのほぼすべての団員はパリ・オペラ座バレエ学校の卒業生であり、卒業生でないパリエロは溶け込むのに苦労を感じることになった[1]。 2005年には三度オーディションに参加し、ついにフルタイム契約を勝ち取った[2]。その後、オーレリー・デュポンの助け(パリ・オペラ座バレエでは上位のダンサーと組んでトレーニングするのが一般的)を借りて[1]昇進を重ね[1]、26歳で2番目に高位のプルミエ・ダンスーズに昇った[2]。また、2009年には「クラシック音楽」部門でコネックス賞を受賞した[6]。 2012年3月、ルドルフ・ヌレエフ版『ラ・バヤデール』の公演と映画館での中継上映が計画されていたが、ガムザッティ役のドロテ・ジルベールとその代役がともに負傷してしまった。2年間、影ながらこの役を演じていたパリエロに急遽代役の白羽が立てられたが、ソロル役のジョジュア・オファルトとニキヤ役のデュポンとの簡単なリハーサルだけで舞台に立つことになった[2]。その公演の最後に、芸術監督から「パリエロが示した才能と芸術的勇気」のために、最高位であるエトワールに昇進させると発表された[2][1]。これにより、パリエロは史上初の南米出身のエトワールとなった[4]。また、パリ・オペラ座バレエ学校を卒業せずにエトワールとなったのも史上初のことである。 現在はボリショイ劇場[7]やマリインスキー劇場[8]など国際的に著名な劇場への客演もこなしている。

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道央ブロックリーグ – Wikipedia

道央ブロックリーグ(どうおうぶろっくりーぐ)は、北海道の道央地域で行われていたサッカーリーグである。 北海道サッカーリーグの下部にあたるブロックリーグ(他の都府県における都道府県リーグに相当)5つのうちの1つである。 以下の地区協会のクラブチームが参加し、それら地区協会との間でチームの入れ替えが行われる。 2011年までは、千歳地区・小樽地区・札幌地区のチームで道央ブロックリーグが構成されており[1]、空知地区のチームは道北ブロックリーグに参加していた[2]。2012年より道央ブロックリーグは上記の構成となり、札幌地区のチームは札幌ブロックリーグへ参加することとなった。 2019年より、道央ブロックリーグに代わって道央・道北ブロックリーグ[3]が発足し、前年度に道央ブロックリーグならびに道北ブロックリーグに出場していたチームの一部が参加することとされた[4]。 方式[編集] 6チームによる2回戦総当りで行われる。 便宜上ホーム/アウェーの割り当てはあるものの、会場がホーム&アウェーで設定されているわけではなく、小樽・千歳・空知地区の会場を持ち回りで利用している[5]。これは2011年まで(千歳・小樽・札幌地区で実施)も同様であった[6]。2011年~2012年に利用実績のある会場は以下の通り[6][5]。 札幌地区 小樽地区 小樽市望洋サッカー・ラグビー場 千歳地区 千歳市臨空公園サッカー場 空知地区 岩見沢市東山公園陸上競技場 岩見沢市岡山スポーツフィールド 昇格[編集] リーグ1位のチームはブロックリーグ決勝大会の参加権利を得る。同大会で定められた成績を収めると北海道サッカーリーグ昇格となる。 降格[編集] 2010年(平成22年)度のレギュレーション[7]では、以下の方式で行われた。

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北海道 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “北海道” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年5月) 北海道地方のデータ 1道の合計 国 日本 面積 83,423.84 km2[3] 推計人口 5,173,406人 人口密度 62人/km2

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国鉄クモユ141形電車 – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2016年1月) 国鉄クモユ141形電車(こくてつクモユ141がたでんしゃ)とは、鉄道郵便輸送用として1967年(昭和42年)から製造され、日本国有鉄道(国鉄)に車籍を有した電車(郵便車)である。 101系以来の直流形新性能電車では、電装機器を2両に分散搭載するMM’ユニット電動車方式が基本であった[1]。しかしこの方式は1両単位が基本の荷物車・郵便車として使用する電車には向かず、旧性能電車のモハ72形から改造されたクモユニ74形・クモニ83形などが各線区で使用されていた[1]。 1967年に高崎線・上越線系統普通列車の電車化を実施するにあたり、郵便・荷物車の電車化が必要になった[2]。荷物車は72系改造車のクモニ83形が投入されたが、郵便車は新製投入されることになり、115系や70系、一部のクモニ83形と併結可能な新性能1M電車として1967年8月に登場したのがクモユ141形である[2]。国鉄電車で全室を郵便室とした初の形式で、直流新性能電車として初の1M方式が採用された[1]。 国鉄の新性能1M電車としては、交流・交直流電車を含めた場合は1959年のクモヤ791形、1967年の711系試作車が先行する[3]。1977年にはクモユ141形をベースに発電・抑速ブレーキ対応としたクモヤ143形など143系列が、1980年には101系の走行機器を流用したクモル145形など145系列が、同じ1980年にはローカル線向けに103系と同様の機器類を用いた105系が登場している[4]。 クモユ141形は1967年に1 – 5の5両、1968年(昭和43年)に6 – 10の5両[5]、郵便電車としては最多の計10両が日本車輌製造・汽車製造[6]で製造された。郵政省が所有し、国鉄に車籍を置く私有車両である[1]。上越線・信越本線系統のほか一時は東海道本線の京阪神近辺でも使用されたが、1986年11月の鉄道郵便輸送終了で用途を喪失し、分割民営化前に全車が除籍・廃車された。 車体[編集] 前後に運転台をもつ両運転台式で、1両での運転も可能である。正面は、運転台取り付け改造車の2代目クハ85形や、旧形国電改造の荷物車や郵便荷物合造車[注 1]で採用された高運転台+傾斜配置の3連窓[注 2]で、灯火類は正面窓下左右にシールドビームの前照灯と標識灯を設ける。この意匠は、先に製造された荷物・郵便荷物合造車とも同様のもので、いわゆる当時の国鉄「荷電」の標準形態である。外部塗色は緑2号+黄かん色の「湘南色」で、クモニ83形などと同一の塗り分けである。 側面中央には区分室採光窓が幕板部に配される。側窓は郵袋室の側扉窓・乗務員室扉窓を除きHゴム支持の固定窓で開閉はできない。車内労働作業環境改善のため冷房装置が当初より装備され、屋根上にAU12形分散式冷房装置を4基搭載する[2]。 車内設備は同時期に製造されたオユ10形客車とほぼ同一の構成である[7]。鉄道郵便局員が郵便物を区分けする区分室・押印台などを中央に配し、小包などを保管する締切室・郵袋室を両端に配する。郵便室の荷重は7 tである[2]。側扉は小包締切郵袋室が幅1,200 mm、通常締切郵袋室は幅900 mmとされた[2]。 主要機器[編集]

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テウデリク3世 (フランク王) – Wikipedia

テウデリク3世(Theuderic III, 654年 – 691年)は、メロヴィング朝の8代目の国王(在位:679年 – 691年)。 クローヴィス2世とバルティルドの末息子[1]。673年宮宰のエブロインはクロタール3世が没したため、彼を擁立しようとしたが、失敗しキルデリク2世が擁立された[1][2]。 キルデリク2世が675年に亡くなりネウストリア王国の国王に就任した[2]。さらに679年にアウストラシア王国の国王であるダゴベルト2世が暗殺されたが、ネウストリア宮宰エブロイン率いる軍は、アウストラシア宮廷の実力者ピピン家のピピン2世とマルティヌスを破り、テウデリク3世がアウストラシアも手中におさめ、全フランクの国王となった[3]。 彼の妻はアンゼギゼルとベッガ(宮宰ピピン1世の娘)の娘・クロティルダである。この二人の結婚でメロヴィング家とカロリング家が姻戚関係となった。以下の子女がいた。 また、以下の人物がテウデリク3世の子女とも考えられている。 クローヴィス3世 – クロタール3世の子ともされる[5][6]。また一説にクローヴィス2世の子とも。メロヴィング家の血筋ではなかった可能性も指摘されている。 ベルトラード(ベルトラダ)(en)[7] – 彼女の孫娘であるベルトラード(ベルトラダ)はピピン3世の妻となり、カール大帝を筆頭に、カールマン(751年 – 771年)、ピピン(756年 –

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ベルトラン・デュ・ゲクラン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ベルトラン・デュ・ゲクラン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年6月) 郷里ディナン市にあるベルトラン・デュ・ゲクランの銅像 ベルトラン・デュ・ゲクラン(Bertrand du Guesclin, 1320年 – 1380年7月13日)は、中世フランスの軍人。百年戦争初期に大活躍してフランスの劣勢を挽回した。フランス王軍司令官(en)でもあった。 奇襲や夜襲など少ない兵力を有効に活用するゲリラ的戦術を得意とした。大会戦を避け、焦土作戦を取ったことでも有名である[1]。 ベルトラン・デュ・ゲクランは、ブルターニュのディナン近郊でラ・モット・ブローン城主ロベール2世・デュ・ゲクランと、サンスの女領主ジャンヌ・ド・マルマンと間の子として生まれた。若い頃は馬上槍試合が大好きな乱暴者として知られていた。また彼の顔立ちは「レンヌからディナンまでで一番悍ましい」と評された。 はじめブルターニュ公シャルル・ド・ブロワに仕え、ブルターニュ継承戦争に身を投じる。1353年ごろからフランス王のために働き、「ノルマンディーとブルターニュにおける王の代理人」アルヌール・ドードレームの旗下で闘う。1354年4月10日、モンミュラン城において、コー地方の騎士にしてカーン城主ウスタシュ・デ・マレの手によって騎士に叙任される。 1356年から翌1357年まで、ポントルソンの守備隊長ピエール=ド=ヴィリエの旗下で戦い、ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世)に味方するランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモント率いるイングランド軍の侵攻に対してレンヌを守りぬいた。この功により、1357年12月にトゥール貨で200Lの報酬と共に、ポントルソン守備隊長とモン・サン=ミシェル守備隊長に任じられる。1359年にはムランの包囲戦に参加するが、この年の終わりに初めて捕虜になる。

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ソフトリソグラフィ – Wikipedia

ソフトリソグラフィ(soft lithography)とは微細な鋳型にシリコーン樹脂などの「やわらかいもの」を流し込み、そのまま硬化させることで微細な立体構造を転写する技術[1]。 従来のマイクロマシニング技術と比較して、一度、モールド(鋳型)作成すれば、以後の転写工程ではフォトリソグラフィなどの工程を必要とせず、簡便に構造体を複製できる[1]。 一例として微小流体素子の製造に使用するための型の作成はSU-8のような光硬化樹脂やそれよりも工程数が増加して製作に要する期間が長くなるものの、耐久性、強度、および微細放電加工やエッチングを始めとする多様な工程により、さらに複雑な再加工を施すことが可能なニッケルの電鋳が用いられる[1]。 型が完成したらポリジメチルシロキサン(PDMS:二液硬化性のシリコーン樹脂)に形状の転写を行う[1]。 ナノインプリント・リソグラフィ[編集] ナノインプリント・リソグラフィはシリコン基板上にレジストを塗布した状態で200℃まで加熱後、モールドを密着させてその後冷却する事でパターンを形成する熱ナノインプリント・リソグラフィ技術と紫外線硬化樹脂を用いる光ナノインプリント・リソグラフィ技術がある。 マイクロコンタクトプリンティング[編集] マイクロコンタクトプリンティング法は1993年にハーバード大学の A.Kumar、ジョージ・ホワイトサイズよって報告されたナノ構造構築法[2]。フォトリソグラフィや電子線リソグラフィで製作した転写型の表面に分子を塗布して基板に密着することで、パターン化した分子の膜を基板上に作製する。従来のリソグラフィで使用されていた大掛かりな縮小投影型露光装置 (ステッパー)を用いずに転写型の使用で微細なパターンを安価で簡便に複製する事が可能で分子と基板表面との化学反応を利用することにより、安定した自己組織化単分子膜(SAM)を基板上に転写できる。利用される分子はチオール分子と金表面(S原子-Au)、シラン分子と酸化物、ヒドロキシル基OH-を持つ絶縁体表面(Si原子-O-)の組み合わせが利用されている[3]。 ナノトランスファープリンティング[編集] ナノトランスファープリンティングは金属を含有するインクの転写によって微細構造を形成する。 関連項目[編集] 松井崇行, 小松京嗣, 戒能俊邦「ソフトリソグラフィ法を用いた高分子接合型光導波路作製」『高分子学会予稿集』第52回高分子討論会セッションID: IR13、高分子学会、2003年、 628-628頁、 NAID 80016207148。

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