Month: May 2021

グランドチャンピオン戦 (囲碁) – Wikipedia

グランドチャンピオン戦(グランドチャンピオンせん)は、日本の囲碁の棋戦で、前年の棋戦優勝者によって行われる。日本棋院創立90周年記念事業の一環として、2014年に棋戦優勝者選手権戦として創設[1]。優勝者には内閣総理大臣杯・賞、文部科学大臣楯・賞が贈られる。 第4回より棋戦名が棋戦優勝者選手権戦からグランドチャンピオン戦に改められ、内閣府と文部科学省が後援に加わった。 第1回 – 第3回[編集] 棋戦優勝者選手権戦として開催。 出場者は、下記のタイトル保持者(開催前年の12月31日時点)及びファン投票1名で、トーナメント戦で争う。所持しているタイトルの内訳や数によってシード権が与えられており、例えば2013年の全棋戦終了時点で六冠を保持していた井山裕太は翌年の第1回大会で1-2回戦はシードとなり準決勝から出場した。1回戦及び2回戦はネット対局で、決勝戦は日本棋院東京本院で公開で行われる。コミは6目半。持ち時間は無し、1手30秒の秒読みと1分の考慮時間10回。 第4回 –[編集] 内閣府と文部科学省が後援に加わり、棋戦名をグランドチャンピオン戦として開催される。ファン投票枠は廃止され、下記のタイトル保持者と、タイトル保持者が重複している場合は前年の賞金ランキング上位者が出場する。第3回までと同様に、所持しているタイトルの内訳や数によってシード権が与えられる。1回戦及び2回戦はネット対局の場合もあるとされている。コミは6目半。持ち時間は無し、1手30秒の秒読みと1分の考慮時間10回。 対象タイトルは第3回までとおおむね同じである。前期優勝者、棋聖・名人・本因坊・王座・天元・碁聖・十段、阿含桐山杯、新人王、NHK杯、竜星、関西棋院第一位、囲碁マスターズカップ、王冠、若鯉戦、おかげ杯、ゆうちょ杯(第4回まで)、SGW杯中庸(第6回)、女流本因坊・女流名人・女流棋聖・会津中央病院杯・扇興杯(第4回- )。 歴代優勝者と準優勝者[編集] 保有タイトルは前年の全棋戦終了時点。 回 (対象年) 対局年 優勝 準優勝 1

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カルダーの戦い – Wikipedia

カルダーの戦い(カルダーのたたかい、英語:Battle of Kharda)は、1795年3月11日にインドのカルダーにおいて、 マラーター同盟(マラーター王国)とニザーム王国の間で行われた戦闘。この戦いはマラーター軍が勝利し、敗れたニザーム側は大規模な領土割譲と莫大な賠償金を支払わされ、のちに同国がイギリス保護下の藩王国となる契機となった。 戦闘に至るまでの経緯[編集] マラーター王国とニザーム王国は第三次マイソール戦争で共闘し、1792年にはマイソール王国を事実上降伏させ、それぞれ領土の割譲を受けた。だが、マイソール王国の弱体化で脅威が消えたため、両国は互いに敵対姿勢をあらわにし、1794年以降それは顕著となった[1]。 さて、先の戦争でイギリスはマラーター王国とニザーム王国との3者同盟を結成した存在だったが、今回は中立の立場をとった。強大なマラーターに対し、ベンガルと南インドで覇権を握りつつある英国も脅威と感じていたが、ベンガル総督ジョン・ショアはニザームとフランスとの関係を見て、両者の争いには中立の立場をとるように方針をとった[1]。とはいえ、マラーターもまたニザームと同様にフランスとつながりを持ち、フランス式の軍隊訓練を受けていた[1]。 先に動いたのはニザームの側であった。ニザームはマラーターと対決するため、ビーダルに宮廷を移動し、大軍を集めはじめた[1]。イギリスはこの軍事行動をやめるように説得したが、すべて無駄に終わった。ニザームとマラーターの激突はもはや避けられないところに来ていた。 同年12月、ニザームの軍勢はビーダルを離れ、マラーター王国の宰相府プネーに向かって進撃した。ニザームの軍勢はゆっくりと進行し、これに対しマラーター軍も迎撃に向かった。ニザームの軍90,000人から110,000人に対し、マラーター王国の軍勢は有力諸侯シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家の援軍も加勢していたので130,000人であった[1]。 両軍ともに軍勢の進行は遅く、ニザームの方はハーレムを連れ、狩猟をしながら進軍していた。この間、双方は賄賂と諜報活動を通して相手の軍を錯乱にさせようとした。ニザームはマラーター側の諸侯シンディア家、およびマラーター側のフランス人軍事顧問を買収しようと、1万ルピーを費やした。マラーターもナーナー・ファドナヴィースのもと、ニザーム側の同調者に声をかけ、こちらは7万ルピーを費やした[1]。 戦闘と講和[編集] 1795年3月11日、マラーター軍とニザーム軍はカルダーの地で激突した。マラーター側の騎兵による攻撃は強力で、ニザーム側は内部不統一もあって有効な反撃もできず、その日のうちにマラーター側の勝利が決まった。 ニザームは砦に逃げたものの、ここにニザーム側も敗北を認め、13日からマラーター側と和平交渉を行った[2]。ニザームはイスマーイール・ハーン・パンニーに交渉を任せ、ダウラト・ラーオ・シンディアの代理と話をつけようとしたが拒否されたため、この戦いに参加していたホールカル家の若者ヤシュワント・ラーオ・ホールカルに希望を託した。この交渉にはニザームのヒンドゥーの家臣で、アヒリヤー・バーイー・ホールカルとも友好な関係にあったチンターマン・ラーオ・カーニトカルが交渉にあたった。 4月10日、カルダーの戦いにおける講和条約カルダー条約が結ばれた。この条約では、ニザーム王国はマラーター王国にダウラターバード、アウランガーバード、アフマドナガル、ショーラープルなどの地を割譲し、3000万ルピーという多額の賠償金を支払うことが取り決められた[2][3][4]。このうち、1797年にアフマドナガルはマラーター王国からシンディア家に割譲された。 また、これとは別にニザームはボーンスレー家に対して290万ルピーを支払うとともに、ニザームの領するベラール地方から得られる歳入の分割に合意した。また、フーシャンガーバードなどといった地域も割譲させられた。 その後の経過[編集] この敗戦は明らかにニザーム王国のマラーターに対する劣勢さをあらわしていた。この事態に直面したニザーム・アリー・ハーンがマラーターの脅威を除くために選んだのは、イギリスの従属国、つまり藩王国としての存続を図る道であった[3][5]。 戦いから3年後の1798年9月1日、ニザーム王国とイギリスとの間に軍事保護条約が結ばれた[5][6]。この条約では、王国に駐留するイギリス軍の大幅増員およびそれに支払う駐留費の負担増額、フランス人主体の精鋭部隊を解散し、すべてのフランス人将兵の解雇を約した[3][5]。こうして、ニザーム王国はイギリスに従属する藩王国の地位に落とされた。 参考文献[編集] 小谷汪之

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タルチュフ – Wikipedia

19世紀の衣装デザイン画(人物はタルチュフ) 『タルチュフ:あるいはペテン師』(仏語原題: Le Tartuffe ou l’Imposteur )は、モリエールの戯曲。1664年発表。同年5月12日、ヴェルサイユ宮殿にて初演。モリエールが本作で取り上げたテーマは極めて深刻なものだが、喜劇として制作されている。これはモリエールが古典劇の規則に基づいて、喜劇と悲劇の峻別を行っていたからである。当時の考えでは、悲劇とは古代ギリシャやローマの英雄か、王侯貴族の間でのみ起こり得る現象であって、同時代の人間を扱う場合は必然的にその作品は喜劇となるというのが約束事であった[1]。 登場人物[編集] ペルネル夫人…オルゴンの母 オルゴン…エルミールの夫 エルミール…オルゴンの妻 ダミス…オルゴンの息子 マリアーヌ…オルゴンの娘。ヴァレールの恋人。 ヴァレール…マリアーヌの恋人 クレアント…オルゴンの義兄 タルチュフ…偽善者。敬虔なキリスト教信者のふりをしている。 ドリーヌ…マリアーヌの小間使い ロワイヤル氏…執行官 フリボット…ペルネル夫人の女中 警吏

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縣千 – Wikipedia

本記事に加筆する際は出典を忘れないでください。 縣 千(あがた せん、2月10日[1] – )は、宝塚歌劇団雪組に所属する男役スター[2]。 京都府宇治市[1][3]、府立莵道高等学校出身[1][3]。身長172cm[1][4][5][2]。血液型O型[6]。愛称は「あがた」[1][3]。 目次 1 来歴 2 人物 3 主な舞台 3.1 初舞台 3.2 雪組時代 4 出演イベント

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フレデリック・ノース (第2代ギルフォード伯爵) – Wikipedia

第2代ギルフォード伯爵フレデリック・ノース(英語: Frederick North, 2nd Earl of Guilford, KG PC FSA、1732年4月13日 – 1792年8月5日)は、イギリスの政治家、貴族。 1754年にトーリー党の庶民院議員に初当選して政界入り。財務大臣や内務大臣など多くの閣僚を経験した後、1770年から1782年まで首相を務めたが[1]、在任期間の後半はアメリカ独立戦争への対応に追われた。同戦争の戦況が悪化すると議会での支持を失い、辞職に追い込まれた。 父がギルフォード伯爵位に叙せられた1752年から自身が爵位を継承する1790年までギルフォード伯爵家の法定推定相続人としてノース卿(Lord North)の儀礼称号で称された[2]。首相在任時はこの儀礼称号で称されていた[2]。 生い立ち[編集] 初代ギルフォード伯爵フランシス・ノースと1人目の妻ルーシー・モンタギュー(Lucy Montagu、1709年頃 – 1734年5月7日、初代ハリファックス伯爵ジョージ・モンタギューの娘)の息子として、1732年4月13日にメイフェアのアルベマール・ストリート(英語版)で生まれ、ロンドンで洗礼を受けた[2]。洗礼式では王太子フレデリック・ルイスが名親を務めた。1742年から1748年までイートン・カレッジで教育を受けた後[5]、1749年10月12日にオックスフォード大学トリニティ・カレッジに入学、1750年3月21日にM.A.の学位を授与された[6]。卒業後は親族にあたる第2代ダートマス伯爵ウィリアム・レッグ[注釈

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宇野秀次郎 – Wikipedia

宇野 秀次郎(うの ひでじろう、1893年3月28日[1] – 1969年5月29日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(1期)。 北海道出身[2]。上智大学に学ぶ[2]。北海道議、札幌市農業会長、札幌市消防団長となる[2]。 1949年の第24回衆議院議員総選挙では北海道1区から民主自由党公認で立候補して当選した[3]。衆議院議員を1期務めた。この間自由党幹事となった[2]。1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選[3]。翌1953年の第26回衆議院議員総選挙でも落選(分党派自由党)[3]。1955年の第27回衆議院議員総選挙でも落選した(日本民主党)[3]。 このほか石狩蔬菜出荷組合長、札幌蔬菜果実荷受組合長、北海道種苗生産業会長、札幌畜産加工各(株)取締役社長、北海道人事委員会委員、北海道農産肥料商業協同組合理事長[2]、北海道人事委員、北海道甜菜業振興会副会長、北海道特産農事(株)社長[1]なども務めた。1969年死去。 ^ a b 『大衆人事録 第19版 東日本篇』72頁。 ^ a b c d e

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White Hot Blizzard ももいろクリスマス2013 美しき極寒の世界

『White Hot Blizzard ももいろクリスマス2013 美しき極寒の世界』(ホワイト ホット ブリザード ももいろクリスマス2013 うつくしきごっかんのせかい)は、ももいろクローバーZが2013年12月23日に開催したライブ。Blu-ray & DVDとして発売されている。 ライブが行われた西武ドームは上部を覆う屋根のみの半屋外構造のため、会場内の最低気温4度という過酷な状況下でのライブとなった。“Blizzard”(猛吹雪)をイメージしたセットが組まれ、メンバーは「お前ら、凍えながら燃え上がれ!」などと煽りながらパフォーマンスを行った[1]。 グループが同所で行ったライブとしては最大規模の4万人を動員し、終盤では「国立競技場でのライブ開催」という重大発表がなされた。 このライブの模様は、テレビ埼玉、千葉テレビ、岐阜放送、KBS京都、サンテレビ、BS11で18時から19時まで生中継された。また、重大発表の模様はUstreamの公式チャンネルでも中継された。 国立ライブ発表の背景[編集] 2008年の結成後、「紅白歌合戦への出場」を夢見てきた同グループは、2010年のメジャーデビュー発表会見で、紅白とともに日本武道館でのライブ開催を目標として宣言。DVDで観た嵐のコンサート内容にも感銘を受け、デパートの屋上でライブを行った際には国立競技場をイメージした舞台を設営するなど、より多くの人前で歌を届けることを夢見てきた[2]。その後、2011年にさいたまスーパーアリーナでの公演を行い、客席数に関しては武道館の目標をクリア[3]。2012年には男性・女性客限定の各ライブを実際に武道館で実現し、大みそかには悲願であった紅白歌合戦出場も果たした[4]。明けて2013年元日には、「国立競技場でのライブ開催」を正式に次の目標として宣言。しかし同所は2014年に取り壊されることが決定しており、ライブの開催が危ぶまれていた。 国立ライブ発表とメンバーの反応[編集] ももいろクローバーZのライブでは松崎しげるが重大発表を行うのが恒例となっていたが、今回はディナーショーと日程が重なり西武ドームへ来ることができなかった。しかし、ライブ終盤に松崎からのビデオメッセージが突如流れ出し、国立競技場が改修される直前の時期である3月に、ライブが実現することがサプライズ発表された。これは女性グループでは初となる快挙であった。メンバーは驚きのあまりその場にへたり込み、寄り添い号泣しながら喜びを分かちあった[1]。 続けて場内を回り、グループ結成時に初めて披露した曲である「あの空へ向かって」を歌った際には、涙で声が出なくなる場面も見受けられた。最後にメンバーがひとりずつ想いを述べ、リーダーの百田夏菜子は「こうやってたくさんの夢を叶えてる自分たちにビックリしながらも、どこまで行けるのかなって考えてみたりもします。もうこうなったら、ちょっと本当にあり得ない世界まで行ってみたいなって。みんなが想像できないような、モノノフさん[ファンの総称]がついて来れなくなるくらい私たちは走っていきたいなって思うし、なんだかんだついて来てくれることは知っているので、みんなであり得ないところまで進んでみませんか? みんなと一緒ならなんでもできる気がするんです」と語った[1]。 村主章枝のゲスト出演[編集] オープニングでは、オリンピック過去2度出場の村主章枝がフィギュアスケートを披露するとともにライブの幕開けとなった。このオファーがなされる直前に、全日本選手権の予選通過を逃し、3年連続で全日本の出場権を得られずソチ五輪への道が閉ざされた状況であった[5]。現役続行の意欲を表明するも本人曰く、悶々とした状態であったという[6]。そんな折、ゲスト出演という機会に恵まれた村主は「彼女たちのひたむきで、純粋な姿を見て、私が常にモットーとしている、『純粋な白い心でスケートを滑る』の原点に帰れた」とし、「いつか大きな会場で、いい作品をつくり、みなさんに喜んでいただきたいという夢、目標もできた」と述べた[6]。その後、スポーツ番組でのコメンテーターの仕事などをしながら練習を続行。また、ももいろクローバーZのファンになったことを公言し国立競技場でのライブにも来場した[7]。

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足跡 – Wikipedia

「足跡」のその他の用法については「足跡 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年8月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2021年8月)出典検索?: “足跡” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL 砂浜についた人の足跡。靴跡も一般的に足跡と呼ばれる。 足跡(あしあと)とは、人や動物が土、雪、ドロなどの上を歩いたあとに残る足の形。足跡(そくせき)と読めば、人の経歴や業績などを指す言葉となるほか、人に限った足の跡・様々な痕跡・通った経路(足取り)などを指す意味合いにもなる。また警察において「犯人の足跡」を指す言葉として、下足痕(げそこん)がある[1]。 また、ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどにおける訪問者のログを指す言葉として、「足跡・あしあと(機能)」がある。 目次 1 概説 2

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TBM (企業) – Wikipedia

株式会社TBM(ティービーエム)は、石灰石を原料にプラスチックや紙の代替となる素材「LIMEX」を生産する素材開発のスタートアップ[1]。 東京都千代田区にあるユニコーン企業。[2][3][4][5][6][7] 2011年 2014年 2015年 2月 宮城県白石市に、LIMEXを製造する国内第一プラントが完成[16][17] 12月 宮城県多賀城市役所にてLIMEXを製造する国内第二量産プラント(宮城県多賀城市)立地協定締結式[18] 2016年 2017年 3月 TBM、ラクスルでLIMEX製品を販売[24][25] 3月 TBMと日揮、サウジアラビア国家産業クラスター開発計画庁、サウジアラビアでのLIMEXの開発及び製造活動に向けて基本合意[26][27] 4月 スティービー・アジア・パシフィック賞「新製品・製品管理」「企業/団体」の金賞をダブル受賞[28] 7月 第7回日米イノベーションアワード「イノベーション・ショーケース」を受賞[29][30] 7月

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インド大飢饉 – Wikipedia

Famine stricken people during the famine of 1876-78 in Bangalore. インド大飢饉(英語: Great Indian famine of 1876–1878)とは、1876年から1878年にかけて、イギリス領インド帝国で発生した大飢饉のこと。およそ525万人が餓死したといわれている[1]。 1876年から1879年にかけては、干魃やエルニーニョ・南方振動などにより、インド、中国、ブラジル、北アフリカその他の国々で飢饉が発生した。中国北部では130万人が死亡し、インドでは525万人が死亡した。 参考文献[編集] ArnoldDavid 「The

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