Month: August 2021

タクシン大学 – Wikipedia

タクシン大学(タイ語:มหาวิทยาลัยทักษิณ、英語:Thaksin Univeristy、略称:TSU)は、1968年に設立されたタイ王国南部の国立大学である。2つのキャンパスに12の学部と15の研究機関で構成されている。メインキャンパスは、ソンクラー県の県庁所在地ソンクラー市街にある。タクシンの名前はタイ語で「南部」を意味しており、タイ南部を代表する大学として、地域に根差した学術活動と教育サービスを行っている。 サンスクリット語で「南の」を意味する「タクシン」にちなんで名付けられたタクシン大学は、タイ王国における国立大学である。タクシン大学は、自治運営されるグローバル機関としての位置づけで、1996年9月1日タイ王国議会において「タクシン大学法」が可決。政府予算の執行を受けて設置が決定した。 1954年に設置されたプラナコーン県高等師範養成学校を母体に、1968年10月1日ソンクラー教育大学が現在のソンクラーキャンパスの場所に設立された。この1968年10月1日はタクシン大学の設立記念日となっている。1974年シーナカリンウィロート大学ソンクラーキャンパスに改称。1989年にパッタルンキャンパスの造成開始。1990年5月29日タイ政府はパッタルンキャンパスの開校を承認。1996年11月1日タクシン大学法により、タクシン大学に改称し今日に至る。 タイ南部は貴重な鉱物を多く産出し、ビーズの産地として広く知られる。中国では玉の素材として珍重され古代より交易が盛んであった。 ソンクラー県はタイ南部において経済的に最大の県である。県南西はマレーシアと国境を接し、東はタイランド湾、北東にはタイ最大の天然の湖であるソンクラー湖(1,040 km2)を有する。商都ハートヤイは日本企業なども多く進出しており、ハートヤイ国際空港や大型ショッピングセンターが集まる南部経済の拠点である。ソンクラーキャンパスの位置する県庁所在地ソンクラー(正式名称:ムアンソンクラー郡、ムアンは県庁所在地を示す)は、海とソンクラー湖に挟まれ風光明媚な環境の中、古くから貿易の拠点として栄え、中国文化と融合した独特な街並みは「ソンクラーオールドタウン」と呼ばれ、多くの外国人観光客が訪れる観光地となっている。現在世界文化遺産の立候補地として準備を進めている。ソンクラーキャンパス周辺は、サミラビーチ、ソンクラー湖、ヨー島、などの自然に恵まれ、また前述のソンクラー旧市街(世界文化遺産候補地)やソンクラー水族館、ソンクラー動物園、ソンクラー市立公園などの観光地やソンクラー天文台などに囲まれ、充実したキャンパスライフを送ることができる。 パッタルン県は、影絵芝居の生まれた地として知られ、ソンクラー湖の西側に面したのどかな県である。汽水湖であるソンクラー湖の西側にあるため、内陸県であり海には面していない。 日本語教育[編集] 東南アジアの中心的な国であるタイの発展はめざましく、日本の製造業やサービス業の進出が多く進み、日タイの文化的な交流がますます盛んになるなど、有為な人材が強く求められているが、タイ南部には日本語専攻が二つしかなくその重要性は高まるばかりである。本専攻では地域の中・高校の語学キャンプやコンクールを開催。また学生の日本留学や在タイ日本企業や日本でのインターンシップなどを積極的に行い、高度な日本語能力の人材育成に力を入れている。タクシン大学は国際交流基金のさくらネットワークメンバーとして地域の日本語教育の中核的な貢献を期待されている。 キャンパスと学部[編集] ソンクラーキャンパス[編集] ソンクラーキャンパス正門からの風景 ソンクラーキャンパスは、大きく2つに分かれている。メインキャンパスは、ソンクラーに0.22平方キロの土地を有する。もう一つは、ソンクラー湖に浮かぶ島「コヨー(ヨー島)」で、「ISTS(タイ南部研究所)」および「タクシン民俗博物館」がある。 人文社会科学部 :13専攻で構成されている。 タイ語 英語 マレー語 日本語 中国語

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ヨーク (メイン州) – Wikipedia

ヨーク(英: York)は、アメリカ合衆国メイン州ヨーク郡に属する町である。2010年の国勢調査では人口12,529 人だった。メイン湾を介して大西洋に接し、夏のリゾート地として知られている。18ホールのゴルフコースが3か所、砂浜が4か所、さらにアガメンティカス山がある。町内にヨーク・ビレッジ、ヨーク・ハーバー、ヨーク・ビーチ、ケープ・ネディックの各ビレッジがある。 ヨークはポートランド・サウスポートランド・ビデフォード大都市圏に属している。 オールドジェイル(監獄)、1901年 ヨークとなった地域には1624年に最初の入植があり、当初はアベナキ族インディアンの言葉からヨーク川を意味するアガメンティカスと呼ばれていた。1638年、開拓者がその出身地であるイングランドのブリストルから、ブリストルと改名した。プリマス特許の下でメインの領主になったフェルディナンド・ゴージズ卿が、荒野から大きな都市に成長させることを思い描き、その領土の首都としてゴージアナと名付けた。1642年、国王チャールズ1世の勅許により、ゴージアナはアメリカで最初の法人化都市になった[4]。 しかしゴージズが死んだ後、マサチューセッツ湾会社がその領地の所有権を主張した。1652年、ゴージアナの部分からマサチューセッツのヨークが法人化され、メイン地区では2日前に法人化されていたキタリーに続いて2番目に古い町となった。その名称はイングランドのヨークから採られた。しかし、この地域の支配についてはニューイングランドとヌーベルフランスが争い、フレンチ・インディアン戦争のときはフランスがインディアンにイギリス人開拓地を攻撃するよう唆した[4]。 ヨークで最初の会衆派教会は、シュベール・ダマー牧師によって1672年に組織された[5]。ダマーはリチャード・ダマーの息子であり、かつマサチューセッツ湾直轄植民地の総督代行を務めたウィリアム・ダマーの叔父だった。 ウィリアム王戦争のとき、ヨークの町は1692年のキャンドルマス虐殺で破壊された。アベナキ族インディアンの襲撃があったときに、ダマーが自分の家の玄関で銃で撃たれた。他にも約50人が殺され、100人近くが捕虜にされて連れていかれた。その中にはダマーの妻のリンダと息子がおり、「荒地の竜の中で雪や苦難を通して、彼女も直ぐに死んだ。」息子のことについては何も伝えられなかった[6]。 ダマーの戦争の1723年に、インディアンの最後の攻撃がケープ・ネディック地域で起きた。1745年のルイブールの戦いでフランスが敗北したことにより敵対行為が止まり、1763年のパリ条約で全て終わった。マーク・トウェインなどアメリカの有名な作家数人が、夏の間をヨークで過ごすことが知られていた[7]。 貿易の中心[編集] ヨークは植民地の首都であり、ロイヤル・ジェイル(監獄)がある場所として繁栄した。多くの桟橋や倉庫が、西インド諸島との貿易の用に供した。農産物や材木が積み出され、砂糖、糖蜜などの食品が輸入された。著名な商人の1人がジョン・ハンコックであり、その資産が今は博物館になっている。しかしアメリカ独立戦争の後、トーマス・ジェファーソン大統領の1807年通商禁止法が貿易を損なった。ヨークは首都の地位を奪われ、その後繁栄することはなかった。南北戦争の後に、ジョン・セジリー・ホームステッドのような古い家屋が植民地時代の魅力を伝え、海のそよ風もあって観光客を惹きつけるようになった[8]。 メイン州のバーハーバーやロードアイランド州のニューポートと同様に、ヨークは流行の夏のリゾート地となり、特にこけら葺きスタイルなど、金ぴか時代の建築物の顕著な例を多く保持している。ヨーク・ビレッジの中心にある歴史的建築群は、オールド・ヨーク歴史協会によって博物館として維持されている。 テイラー・コテージ、1913年 ヨーク・ビーチ、1906年 チェイスの池、1910年 ザ・ヨークス[編集] ケープ・ネディック灯台、1920年 ヨーク・ビレッジ —

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テンプル騎士団 – Wikipedia

この項目では、十字軍時代にヨーロッパ・中近東で活動した騎士修道会について説明しています。現代メキシコの麻薬カルテルについては「テンプル騎士団カルテル」をご覧ください。 テンプル騎士団の紋章一頭の馬に跨る二人の騎士は、清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。 テンプル騎士団(テンプルきしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語:Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。 十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年の第1回十字軍の終了後の1119年であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。 テンプル騎士団は構成員が修道士であると同時に戦士であり、設立の趣旨でもある第1次十字軍が得た聖地エルサレムの防衛に主要な役割を果たした。特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の策略によって壊滅状態となり、1312年の教皇庁による異端裁判で正式に解体された。 組織構造[編集] テンプル騎士団の旗 テンプル騎士団はれっきとした修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。 テンプル騎士団は以下の4つのグループから構成されていた。 騎士 – 重装備、貴族出身 従士 – 軽装備、平民出身 修道士

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みくすびと – Wikipedia

みくすびと(Mixbeat, 生年不明 – )は、日本のトラックメイカー。埼玉県出身。 トラックメイカー、DJとして別名義での活動も行っているが、 ここではすべてを統合し、みくすびととして説明する。 なお、プロフィールに関しては本人のブログに準ずるものとする。 日本での出生後、両親の都合上、幼少期をアメリカ、ニューヨークにて過ごす。しかし、ニューヨークでは日本語学校に通っていたため、簡単な日常会話程度しか英語を話すことはできない。オールドスクールとニュースクールが交じり合う時代に少年期、青年期を過ごしたことが、現在のトラックメイカーとなる原点であったと話している。 主にはトラックメイカーとして、埼玉県のインディーズラッパーやネットラッパーに自由に使えるトラックを提供するほか、ミキシングやマスタリングなども行う。トラック提供依頼だけではなく、ミキシングのみの依頼も多い。 どうがびと、ぴーぶいびと、いられびと、じまくびとなどと共にサポートメンバーとして、らっぷびと公式HPに紹介されている。[1] エピソード[編集] 幼少期、家庭が貧しかった為、母親とよく川原でノビルを採っていた。[2] 自他共に認めるアニメファンであるが、本人曰く、原作や内容よりも監督や制作等の裏方のファンである。尊敬する人物として偽まる、UPLIFTを挙げている。その影響から、自身もコミュニティラジオ、ネットラジオにて放送を行っていた。 声優ファンでもあり、声優のラジオ番組に投稿したりイベントにも参加するなどもしている。なお、ラジオの声のサンプリングなどを楽曲に多々使用する。 1997年には音楽活動するためワーキングホリデーとして再度渡米している。働いていたライブバーにてDJをしていた際、友人と共に酔った客とトラブルになったことがある。たまたま居合わせた日系のDJ Genitalsの目に留まり、ニューヨークの「Love」でDJとして数回プレイしている。ヒップホップ、R&Bに日本の歌謡曲をミックスするという当時のシーンでは斬新だったプレイが認められ、ミックステープにも収録されることになった。『DJ Genitalsを命の恩人として尊敬すると共に、あのときが一番死に近づいた』というのは本人の弁。 私生活ではメンヘルから好かれる傾向があり、「メンヘルマグネティクス」の異名を持つ。 帰国してからは、常に多くのアーティストの依頼に無償で応じていたが、近年では体調不良をりゆうに一時停止している。 猫派である。

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パーヴェル・ダツュク – Wikipedia

パーヴェル・ワレーリエヴィチ・ダツュク (ロシア語: Па́вел Вале́рьевич Дацю́к, ラテン文字転写: Pavel Valerievich Datsyuk、1978年7月20日 – ) は ソビエト連邦生まれのロシアのプロアイスホッケー選手。 ポジションはフォワード。 トリッキーな技巧派選手として知られ、”氷上の魔術師“の異名を持つ[1]。 ロシア時代[編集] ロシアのエカテリンブルクでアイスホッケーを始める。1996-1997年のシーズンはスパルタク(後にディナモ・エネルギヤに改称)でプレー。 1998年のNHLドラフト(英語版)全体171位でデトロイト・レッドウィングスから指名されたが、すぐには契約を結ばなかった。 1999年12月、膝に重傷を負った。その後アク・バルス・カザンに移籍した。 2000-2001年のシーズンは怪我から回復し、42試合に出場して26ポイント(9ゴール17アシスト)を記録。

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那覇市民会館 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “那覇市民会館” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年1月) 那覇市民会館(なはしみんかいかん、英語:Naha Civic hall)は、沖縄県那覇市寄宮にあった多目的ホールである。アメリカ統治下の1970年に完成した。収容人数は1,668人(大ホール)で、中ホールもある。 1972年5月15日の沖縄返還の際に、当時の佐藤栄作首相が参加して返還式典(日本武道館との同時開催)の会場となった。以前は那覇市の成人式も行われていた。 2006年には、DOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれている。 2014年4月に市内の那覇市立久茂地小学校と前島小学校が統合され、旧前島小学校敷地に那覇小学校が開校した。 那覇市民会館は、市民人口規模においても大きな公演を招致するのも難しく、例えば沖縄県吹奏楽コンクールなどは、宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで開催されるようになった。翁長雄志市長(当時)は都心の空白地の活性化を図る手段の一環として、旧久茂地小学校校地に市民会館を移転する計画を述べた。那覇市新文化芸術発信拠点施設は2018年秋に着工し、2021年春に完成予定。 だが、現市民会館よりも面積的には狭くなり、また旧久茂地小学校校地周辺の道路幅は4.5m –

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井口和明 – Wikipedia

井口 和明(いぐち かずあき)は、日本の薬学者(免疫化学・ペプチド化学・内分泌生理学)。学位は薬学博士(静岡薬科大学・1985年)。静岡県立大学薬学部講師・大学院薬学研究院講師。 静岡薬科大学薬学部助手、静岡県立大学薬学部助手などを歴任した。 生い立ち[編集] 静岡県が設置・運営する静岡薬科大学に進学し[1][† 1]、薬学部の製薬学科にて学んだ[1]。1980年(昭和55年)3月、静岡薬科大学を卒業した[1]。そのまま静岡薬科大学の大学院に進学し[1]、薬学研究科にて学んだ[1]。1985年(昭和60年)3月、静岡薬科大学の大学院における博士課程を修了した[1]。それに伴い、薬学博士の学位を取得した[2]。 薬学者として[編集] 1985年(昭和60年)4月、母校である静岡薬科大学に採用され、薬学部の助手に就任した[3]。しかし、静岡薬科大学は、同じく静岡県が設置・運営している静岡女子大学や静岡女子短期大学と統合・再編されることになり、新たに静岡県立大学が発足した[† 2]。井口は引き続き静岡県立大学に勤めることになり、1991年(平成3年)4月には薬学部の講師に昇任した[3]。その後、静岡県立大学は静岡県から県と同名の公立大学法人に移管されたが、引き続き講師として勤務した。薬学部においては、主として薬科学科の講義を担当し[4]、統合生理学分野を受け持った[4][5]。この分野は、静岡薬科大学の薬学部に置かれた生物薬品化学教室の流れを汲んでおり[6]、矢内原昇[6]、星野稔[6]、武田厚司[6]、といった教授らが主宰してきたゼミである[6]。また、静岡県立大学の大学院においては、薬学研究科の講師を兼務することとなった[† 3]。その後、大学院に研究院・学府制が導入されることになり、薬学研究科は生活健康科学研究科と統合され、2研究院1学府に再編された。それに伴い、新設された薬学研究院の講師を兼務することとなった[4]。大学院においては、主として薬食生命科学総合学府の講義を担当し、統合生理学教室を担当した[4][5]。 専門は薬学であり、特に免疫化学、ペプチド化学、内分泌生理学といった分野の研究に従事した[7]。具体的には、内分泌生理学の観点から[8]、疲労やストレス、および、神経疾患についての研究に取り組んだ[8]。また、ホルモンや神経ペプチドの高感度イムノアッセイ系の開発や[8]、その臨床への応用について取り組んだ[8]。学術団体としては、日本薬学会[9]、日本生化学会[9]、日本ペプチド学会[9]、日本臨床化学会[9]、日本内分泌学会[9]、日本神経内分泌学会[9]、日本疲労学会[9]、日本抗加齢医学会[9]、日本フードファクター学会[9]、間脳・下垂体・副腎系研究会[9]、などに所属した。 註釈[編集] 出典[編集] 関連人物[編集] 関連項目[編集] 外部リンク[編集] 井口 和明 –

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大正天皇実録 – Wikipedia

『大正天皇実録』(たいしょうてんのうじつろく)は、宮内省図書寮編集課[1][2][3]により編纂された大正天皇の伝記(実録)である[4]。 編纂作業は1927年(昭和2年)7月から5年計画で始まり、恒常的な人員不足と資料収集が難航したため1931年に完成予定を3年延長し1935年に[4]、1934年には更に完成予定を3年延長し1937年に変更された[4]。最終的に2度計約5年半の延長を経て、「大正天皇十年御式年祭」(同年12月25日)に併わせて実録本文85冊を完成させ1936年(昭和11年)12月23日に天皇(昭和天皇)、皇后(香淳皇后)、皇太后(貞明皇后)に捧呈されている[4]。その後、1937年12月に年表2冊、索引7冊、実録資料稿本218冊66,897ページの編修を終え[4]、同年に正誤表1冊も作成され[10]実録が完成[11][12][3]、同年12月27日に年表2冊、索引7冊が皇室に奉呈されている。1938年に編修事業は完了した[4]。大正天皇実録は、本文85冊・計5,098ページ[13][11]、年表2冊(上下各1冊、515ページ)[14][15][注釈 1]、索引7冊825ページ、正誤表1冊の計95冊[18][19][注釈 2]・計6820ページ[13][25]からなっており、編年叙述体で編纂されている[4]。大正天皇実録の冊数、完成年などの詳細は2001年12月に初めて公表されている[12]。全巻(最終稿本[注釈 3])が皇居内の宮内公文書館に所蔵されている[28]。 『大正天皇実録』は「大正天皇の事跡を、皇室のために後世に残す」ということが目的であったため[3]、1937年(昭和12年)の完成後半世紀以上にわたって非公開であったが、2001年(平成13年)の情報公開法施行後に一部黒塗りの上で2002年(平成14年)から2011年(平成23年)にわたって4回に分けて初めて公開され(後述の実録公開の経緯を参照)、2015年(平成27年)にも黒塗り部分の範囲を減らして再び公開されている[4][29]。 なお、『大正天皇実録』は実録が制作された昭和天皇までの124代の全ての歴代天皇実録の中で唯一未刊であったが[30]、公刊本は2016年(平成28年)12月から2021年(令和3年)2月にかけ、宮内公文書館所蔵の実録本文85冊の部分を修訂(原文カタカナからひらがな表記に変えるなど)を行い、ゆまに書房で出版(全6巻、別巻(総索引ほか)は未刊)された[4]。 編纂の経緯[編集] 編集の開始[編集] 1926年(大正15年)12月25日に大正天皇が崩御したのち、実録編纂への動きが始まった。大正天皇実録を編纂するにあたり、宮内省図書寮編集課は「大正天皇実録編集案」(1927年(昭和2年)3月24日付け)を含む「大正天皇実録編集ニ付編集官補定員及雇員定額増加上申案」(1927年3月24日付け)を起案し、杉栄三郎図書頭の決裁を受けている。 「大正天皇実録編集案」の要旨は次の通りである。 実録編修の着手が遅れると史料収集が困難になり消滅する可能性がある。既存の5部ある実録編集機関に従事している者を編成替えすると遅れが生じ混乱を来たす恐れがある。よって新たに実録編修機関を1部設けるのが適当である。 大正天皇実録部は編修課長を主任とし、図書寮御用掛を2名、史料収集や採録及び筆写に従事する編集官補2名と雇員1名で構成する。大正天皇実録の史料となるものは他の歴代天皇実録に比べ広範で、史料収集に時間がかかるため、短期間に実録を完成させるには少なくとも以上の人員が必要である。 実録の編修期間は5年とする。1、2年目は史料収集を主とし、実録の起稿を従とする。3、4年目は実録の起稿を主とし、史料収集を従とする。5年目に整理補正をして完成させる。 実録の編修体裁は原則として編年体とし、事件の性質により紀事本末体とする。文体は漢文直訳体を用い荘重典雅を失わないようにし、各条に典拠となる書名を記すこと。明治天皇実録(紀)と体裁を統一するため、歴代天皇実録と異なり本文と史料を併載しない。 実録は完成後、印刷して朝野官民に対し天皇の高徳を敬仰し、天皇の偉業を瞻仰させる資に供することは、本実録の編修において最も意義あることである。ただ、公にはできない機密に依った内容もあるため、公にするにあたっては考慮のうえ内容の取捨を行う必要があるが、本件に関しては実録完成ののち改めて案をまとめ高裁を仰ぐこととする。[注釈 4] その後、細部を詰めたのち1927年(昭和2年)5月に一木喜徳郎宮内大臣に上申書が提出され同年6月6日付けで決裁されている。上申書では、編集要員は編集課長を主任とし、旧側近奉仕者(大正天皇侍従)であった落合為誠、北小路三郎両図書寮御用掛のほか、嘱託2名の計5名体制で、事業期間は5年を見込んでおり、当初の編集案と比べ人員が1名減っている。 1927年(昭和2年)6月14日に宮内省図書寮に大正天皇実録部が設けられ、実録の編修は1927年7月から開始された[35]。1927年7月27日付けで、基本的な編集方針を示した全10個条からなる「大正天皇実録編集事務規定」が定められた。 「大正天皇実録編集事務規定」の要旨は次の通りである。

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エバーグリーン航空 – Wikipedia

製造者 機種       番号  機体写真     備考 ライアン・エアロノウティカル PT-22 41-20952N534382161 ダグラス・エアクラフト DC-3A-197 NC160701910 フォッケ=ヴルフ・フルークツォイクバウ Fw 190A-7レプリカ 431007 Me 262プロジェクト Me 262A-1c 501242

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マシュー・ハウソン – Wikipedia

マシュー(マット)・ハウソン(Matthew “Matt” Howson 、1983年8月25日 – )は、イングランドのノーフォーク、ノリッジ出身のイギリス人のレーシングドライバー[1]。リチャード・ブラッドリーとニコラ・ラピエールと組んで出走した2015年のル・マン24時間レースのLMP2クラスで、クラス優勝を果たしている。 レース・キャリア[編集] 2001年の英フォーミュラ・ルノー(冬季選手権)にマノー・モータースポーツチームで参戦してフォーミュラレースでのモータースポーツキャリアをスタートさせ、10位に入った。2002年、英フォーミュラ・フォードのジュニア選手権を始め、ランキング8位に入っている。その後、英フォーミュラ・フォードの冬季選手権に参戦し、第5戦で表彰台を獲得した。2003年、メディナ・スポーツ̚に入り、英フォーミュラ・フォードのレギュラー選手権に参戦して2回の3位と1回の2位を獲得してランキング9位でシーズンを終えた。次の冬季選手権にチームJLRで参戦して総合順位2位に入った。 2004年、英フォーミュラ・フォードの第4戦にレイ・スポーツで一部参戦した。その後、チーム・SWR・パイオニアに移籍して英フォーミュラ・BMWに参戦し、1勝を挙げて総合順位12位に入っている。2005年、英フォーミュラ・BMWへの参戦を継続し、フィルセル・モータースポーツで戦うことになり、4勝を挙げ、ランキング3位となった。英フォーミュラ・BMWのシーズン終了後に行われた「フォーミュラBMW・ワールドファイナル」(世界一決定戦)では9位に入っている。2006年、フォーミュラレースに留まり続け、フィルセル・モータースポーツに残留して、英フォーミュラ・ルノー2戦と英フォーミュラ・BMW4戦に参戦することになった。彼は英フォーミュラ・BMWで1勝を挙げた。 2007年、資金不足の為ヨーロッパでのレース参戦が出来なかった[2]。英ポルシェ・カレラカップを2戦ゲスト枠で出走している。その後、アジアン・フォーミュラ3選手権の2007/08の冬季シーズンにPTRS・レーシングで参戦し、2勝を挙げ、229-332ポイントを獲得してフレデリック・フェルフィッシュに続く総合2位の成績を挙げた。2008年はアジアGT選手権のBクラスで2戦出走して2勝した。 2年間のレース活動休止期間を経て2011年にモータースポーツに復帰した。その間、マンチェスター・メトロポリタン大学での勉学を終了した[3][2]。2011年シーズンの後半、全日本F3選手権にSGC by KCMGチームで参戦し、ランキング7位に入った。2012年チームに残留し、全日本F3選手権のNクラスで一度7位に入り、ランキング5位となった。総合のドライバー部門では、ベストリザルトが7位で、結果ノーポイントに終わった。 2013年、FIA 世界耐久選手権(WEC)のLMP2クラスにKCMGチームで参戦し、耐久レースに挑戦することとなった[2]。ル・マン24時間レースでは、ゲスト・ドライバーとして出走している。2014年、KCMGのフルシーズン(レギュラー)・ドライバーとしてWECに参戦した。リチャード・ブラッドリーとは全戦でパートナーを組むことになった。サードドライバーは、アレキサンドレ・インペラトーリと松田次生が務めることになった。ハウソンとブラッドリーは、3回のLMP2クラス優勝を挙げた。その内の2勝はインペラトーリと、残る1勝は松田と勝ち取ったものである。世界選手権では、ハウソンとブラッドリーは13位に入った。2015年、ハウソンとブラッドリーはまたKCMGでWECに参戦した[4]。サードドライバーは、ニック・タンディとニコラ・ラピエールが務めることになった。ハウソンとブラッドリーとラピエールは、ル・マン24時間レースで、LMP2クラス優勝を挙げた。WECではニュルブルクリンクのレースでもう1勝を挙げているが、そちらのレースのサードドライバーはタンディである。ハウソンとブラッドリーは総合11位の成績でシーズンを終了した。 ハウソンは、レースドライバーとしてだけでなく、2004年以降はドライバーのトレーナーとしても活動している[5]。2008年から2010年にかけては、ダブルR・レーシングで働いていた。2011年以降は、ハウソンはフォルテック・モータースポーツのトレーナーに就任している[3]。他にこのポジションに就いているのは、ジェイク・デニス、アレックス・リン、マシュー・パリー、オリバー・ローランド、ウィル・スティーブンスらである[3] レースの記録[編集] 参戦してきた主なレース[編集] 2001年: 英フォーミュラ・ルノー冬季シーズン

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