ウエスタン・サルーン(Western Saloon)ないしサルーンは、開拓時代のアメリカ西部に特有のバーである。 サルーンは、猟師や、カウボーイ、兵士、砂金掘り(英語版)、鉱夫、ギャンブラーといった客向けのサービスを行っていた。 最初のサルーンは、1822年、ワイオミング[1]のブラウンズホール(Brown’s Hole)で、猟師にサービスするために開業した[2]。 1850年代後半になると、サルーンという言葉は、酒や食事を出し副次的に宿泊もできる施設として、住所録に登場し、一般に使われるようになった[3]。 1880年頃に、サルーンは最盛期を迎えた。 例えば、カンザス州レブンワースには、「約150軒ものサルーンと4軒の卸酒屋があった」[4]。 1880年代前半に、サルーンと醸造所の関係が緊密化した。サルーンの数が過剰になる中、醸造所は自らサルーンを経営する、イギリスの「特約酒場」のシステムを導入し始めた。醸造所は、多くの店舗、特に理想的な角地にある店舗を購入した。そして、調度品とビリヤード台やボウリングのレーンといった娯楽設備を付けて、サルーンの経営を希望する者に店舗を賃貸した。シュリッツ醸造所など、いくつかの醸造所では、顧客を呼び寄せ、自社のビールを宣伝するため、凝ったサルーンを造った[3]。 法律も、醸造所が経営するサルーンが増加する一因となった。シカゴの市議会は、酒場対策で強化が必要になった警察に支出するため、1883年から1885年の間に、サルーンの免許料を50ドルから500ドルに引き上げた。しかし個人のオーナーで、そのような金額を支払う余裕がある者は少なかった[3]。 政治家も、仕事柄、地元のサルーンに頻繁に通った。読み書き能力が劣る人々にとってサルーンは、仕事や住まいに関する情報の交換に重要な場所であり、経験豊かな政治家は、それらの人々を自分の票田にすることができた。工場地区では、サルーンは給与支払小切手を換金する場所であるとともに、職業紹介所や組合の集会所になった[3]。 酔っ払いが女房を殴る姿を描いた禁酒運動の絵 1893年になると、反サルーン連盟(英語版)(Anti-Saloon League)が、サルーン反対運動を始めた。連盟は、1895年には全国組織となり、以前から活動していたキリスト教婦人禁酒同盟(英語版)や禁酒党を追い抜き、アメリカにおける最もで強力な禁酒勢力に成長した。連盟は、蒸留酒やビール、ワインの製造や輸入を禁止する法律の制定に向けて、政府の全階層に対してロビー活動を行った。牧師たちは、1906年に連盟の支部が、ユマ、ツーソン、フェニックスに誕生した後、アリゾナ州のサルーンを閉鎖する努力を開始した。連盟のメンバーは、サルーンが閉店時間を違反したり、女性や未成年者にサービスしたという理由で、サルーンの営業免許を取り上げるよう地元の警察に圧力をかけ、かつ、これらの違反を証言する証人を準備した。禁酒運動は、1920年に、合衆国憲法修正第18条が可決され、憲法上、全国的に禁酒となったことで大勝利したが、禁酒法は1933年に廃止され完全に敗北した。 伝統的なサルーンは、禁酒法ができるはるか昔に衰退していた。自動車が客を奪い、ニッケルオデオンも、娯楽の座を争った。平日の禁酒を求める雇い主も増え、保健所も、フリーランチに関する規制を定めた。しまいには、第一次世界大戦時に、ドイツに関係ありそうなものが全て攻撃対象となっただけでなく、醸造が一時禁止になった[3]。 フリーランチ[編集] フリーランチは、客を引き寄せるために無料の食事を提供して、収益を他のサービスから稼ぐ販売手法である。1870年代から1920年代の文献に登場し始めるが、アメリカ各地のサルーンで一般的な慣習になった。これらの店は、最低1杯の飲物の購入で「無料の」食事を出したが、粗末なものもあればとても手の込んだものもあった。これらのフリーランチは、通常、飲物1杯の値段より高い価値があった[5]。 サルーンの経営者は、ほとんどの客が2杯以上飲み物を頼み、また後日再び客になることを期待していたのである。 サルーンの形態は、できた時期と場所により様々である。街が発展するにつれ、サルーンはより豪華になった。バーテンダーは、外見と、飲物を注ぐ能力を自慢した。初期のサルーンや僻地のサルーンは、最低限の家具だけで、ほとんど装飾もない粗野な雰囲気であった。 そうした建物では、冬の間、薪ストーブで暖を取った。
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