Month: March 2019

荒川区歌 – Wikipedia

「荒川区歌」(あらかわくか)は、東京都荒川区が制定した区歌である。作詞・竹耶理素秋[注 1]、補作・選定審査会、作曲・内藤清五。 戦後復興期の1949年(昭和24年)に新宿区が「大新宿区の歌」、港区が「港区歌」を制定したのを皮切りに、翌1950年(昭和25年)には千代田区や中野区が相次いで区歌を制定したことから荒川区でも「日一日と復興し、大いなる発展への努力を続ける区民すべてがあらゆる機会に声を揃えて歌える区歌」とすることを制定意義に掲げ、区章のデザインと併せて区歌の歌詞を一般公募した[1]。賞金は一等入選が5000円、二等2000円、三等1000円、佳作(4本)が500円で、締め切りまでに98篇の応募作が集まったとされる[1]。 『荒川区政ニュース』第29号で報じられた審査結果では一等入選が該当無し、二等が2席、三等が1席、佳作は当初予定よりも増やして5席が選ばれ、二等のうち荒川区役所で諸税第一係長の職に在った竹耶理素秋(恐らくペンネームではないかとされる)[注 1]の応募作を選定審査会が補作したものが採用となった[1]。審査委員を務めた仲村久慈は「区歌であるため内容に重点を置いた。表現は稚拙でも、作者が深い愛情をもって、頭や小手先でなく、肉体をもって綴ったものに着眼した」と講評を述べている[1]。 歌詞の完成後、東京消防庁音楽隊長の内藤清五が区からの依頼により作曲を担当し、10月1日付の告示で制定された。同月に開園した荒川遊園では記念行事として区歌普及大会が開催され、1万人の聴衆が集まったと記録されている[1]。区勢概要では1981年(昭和56年)まで30年にわたり区歌が掲載されていたが、1982年(昭和57年)に区制50周年を記念して新規に区民の歌「あらかわ 〜そして未来へ」が作成されて以降は公の場で演奏される機会がほぼ消滅した。荒川区と同年の制定で2015年(平成27年)に新区歌との代替わりによって廃止された「中野区歌」とは異なり「荒川区歌」は現在も例規集に掲載されているものの区のサイト内にある「荒川区の歌」では紹介されておらず[注 2]、2012年(平成24年)に東京堂出版から刊行された『全国 都道府県の歌・市の歌』でも「あらかわ 〜そして未来へ」のみの紹介となっている[2]。また、歌詞は全4番からなるが制定告示には1番しか記載されていないため、2番以降の歌詞はほとんど知られていない。 参考文献[編集] 注釈[編集] ^ a b c 読みは「たけやり・もとあき」か。制定時の『荒川区政ニュース』第29号では「竹耶里素秋」と表記されているが、例規集の表記に従う。 ^ 2021年(令和3年)9月時点では「あらかわ 〜そして未来へ」と「荒川音頭」、荒川区商店街の歌「しあわせ通り」の3曲を掲載。

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セントオールバンズ (バーモント州) – Wikipedia

セントオールバンズ(英: St. Albans)は、アメリカ合衆国バーモント州フランクリン郡の都市であり[4]、同郡の郡庁所在地である[5]。人口は2020年国勢調査で6,804 人だった。市の全周をやはりセントオールバンズという名の別に法人化された町に囲まれている(人口6,392人)。市と地域はバーリントン・サウスバーリントン大都市圏に属している。 メインストリート、1909年 セントオールバンズは、ニューハンプシャー払下げ地の1つとして、1763年8月17日、植民地総督のベニング・ウェントワースから、スティーブン・ポメロイ他全64人に認可された。イングランドのハートフォードシャー、セント・オールバンズから名付けられており、アメリカ独立戦争のときにジェシー・ウェルデンが入植したのが始まりだった。しかし、この戦争のために本格的な入植は1785年まで遅れ、多くの開拓者が到着するようになった。農夫は耕作に適した肥沃で黒いローム層の土地を見い出し、また牛、馬、羊を育てた。バターとチーズが大量に生産された[6]。バーモント・アンド・カナダ鉄道の操車センターかつ修繕工場となる主要駅があったので、「鉄道都市」と呼ばれるようになった[7]。1859年に町として法人化されたとき[8]、鋳造場、貨物車製造工場各1か所、数多い機械工場があった[6]。 セントオールバンズ襲撃と呼ばれる南北戦争では最北の戦いが1864年10月19日に起こった。1902年、セントオールバンズは市として法人化され、市域はセントオールバンズ町の中に2平方マイル (5.18 km2) となった。今日では、1日200編成以上の列車が行き来した鉄道全盛時代に建設されたヴィクトリア期建築やクラフトマン・スタイルの建築物があり、観光地になっている[9]。アメリカ合衆国への移住を目指したヨーロッパからの移民が、ノバスコシア州のハリファックスやケベック州モントリオールで上陸し、その後国境を越える列車でここを通ったという経緯があり、系譜学者にとっては研究の対象になっている。アメリカ国立公文書記録管理局ではセントオールバンズの1895年から1954年の期間に関する文書を保管している[10]。 セントオールバンズは「世界のメープルシロップ首都」と呼ばれ、毎年4月下旬にはバーモント・メープル祭を開催している。この祭りでは多くの食品に絡むコンテストがあり、また北のスワントン町から8.2マイル (13.2 km) の徒競走もある[11]。 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は2.0平方マイル (5.3 km2)であり、全て陸地である。市は全周をセントオールバンズ町に囲まれており、地形は穏やかにうねる丘陵に青々とした農地が広がっている。市内をスティーブンス・ブルックが流れている。 市内を州間高速道路89号線、アメリカ国道7号線が通り、バーモント州道では36号線、38号線、104号線、105号線も通っている。カナダのケベック州との国境は北に約15マイル (24 km) にある。

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本部マサ – Wikipedia

本部 マサ(ほんぶ マサ、1907年 – 1991年)は、宮崎県において埴輪の複製の制作に従事し、多数の作品を残した女性[1]。「はにわ製作の先駆者」と評される[2]。1955年には、宮崎市に本部はにわ製作所を開業して、以降、土産物などとして販売される埴輪を多数制作した[1]。 1963年に開園した宮崎市の平和台公園にある「はにわ園」には、本部が制作した複製の埴輪およそ400基が配置された[1]。 本部マサは、下穂北村(後の西都市の一部)に生まれた[1]。父親の大次郎は、林業経営の傍ら商家でもあったが、古墳の遺跡や出土品への関心をもっており、西都原古墳群の発掘調査にも関わりがあったため、マサは幼い頃から出土品に触れる機会があった[1]。やがて女学校の生徒となった頃には、出土品を模倣して焼くといった制作活動に手を染めるようになっていた[1]。延岡高等女学校(後の宮崎県立延岡高等学校の前身)を卒業後は、埴輪の模作に打ち込み続けた[3]。 1929年には、埴輪の製作を事業として手がけるようになった[4]。 1955年には、事業を法人化し、きょうだい3人で有限会社本部はにわ製作所を設立した[1]。折から宮崎県が観光地として注目を集めるようになったこともあって、土産物として埴輪を求める観光客も多くなり、最盛期の1960年代には従業員180人という規模にまで成長した[1][4][5]。また、様々な有名人が工房を訪れて、本部と交流するようになり、1964年には、連続テレビ小説『たまゆら』のための取材で宮崎市を訪れた川端康成もやって来た[1]。注目されるようになっても、本部は、自作の埴輪について、「芸術作品でも職人芸でもない模作品」と述べていた[3]。 1964年に、東京オリンピックの聖火リレーの国内の起点が宮崎市となった際には、平和台公園に設置された聖火台の製作を本部が手がけた[6]。この聖火台は、平和台公園内の「はにわ館」の傍に残されている[6]。 1985年には、宮崎県が本部の業績を表彰しようと動いたが、本部は、自分は模倣をしているだけで、創作をしているわけではない、などとして、表彰を固辞した[1]。 本部はにわ製作所は、その後、マサの弟である沼口健次郎が継承し、さらに後には、その息子(マサの甥)沼口一夫が代表となった[5][7]。2012年当時の記事によると、同社は年間1万個ほどの埴輪を製作しているという[4]。 ^ a b c d e f g

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アレクセイ・スメルティン – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “アレクセイ・スメルティン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年6月) アレクセイ・スメルティン 名前 本名 アレクセイ・ゲンナジエヴィチ・スメルティンAlexey Gennadyevich Smertin ラテン文字 Alexey Smertin キリル文字 Алексе́й

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ウェルダン (お笑いコンビ) – Wikipedia

ウェルダンは、穂積がリーダーを務めるお笑いコンビ。活動はフリーで行っており穂積は自分の会社「ウェルダン商事株式会社」代表として居酒屋「串屋横丁」を経営もしている。以前の所属はSMA NEET Project→ティンカーベル→秋葉原フォルティス・ディアナだった。二人とも千葉県出身。 2001年結成。 メンバー[編集] ウェルダン穂積(ウェルダンほづみ、1978年11月24日生まれ)ボケ担当。本名、穂積 義央(ほづみ よしふみ)。 ウェルダン商事株式会社代表取締役 趣味:コスプレ、小説執筆、 「アキバの赤い彗星リアルシャア・アズナブル」「船橋のシャア」の二つ名でパフォーマンスも行っていた。 コミックマーケットで同人誌を発行したり秋葉原の書籍「たかがアキバ されど秋葉原」セルバ出版2011年11月24日発行も執筆している。 路上パフォーマンスでテレビカメラと群衆を作り警察官に補導され注意されたことがある。そうした印象が強いためか、過激に思われているが本人はいたって穏便であり誤解を受けている(LOFT PULS ONE「炎上のすべてを語る」でのトークより)。 秋葉原では、警視庁の協力を得て歩行者天国復活のためのデモを10数度に渡り主催した。現在も不定期に「愛と夢」を訴えるという新しいタイプのパレード「アキバパレード」を行っている[1]。 『博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜』のオーディションに数回参加して三島由紀夫のものまねで最終選考まで残るがテレビ向けじゃないことで不合格になっている。 秋葉原のカフェ・トリオンプでアキバから元気を発信する営業統括部長を任されている。 ウェルダン福ヶ迫(ウェルダンふくがさこ、1979年2月21日生まれ)ツッコミ担当。本名、福ヶ迫

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鉄道ゼミナール – Wikipedia

『鉄道ゼミナール』(てつどうゼミナール)は、タイトーがニンテンドーDS向けに発売した[1]ている、鉄道を題材としたゲームソフトのシリーズである。 2008年3月にJR7社を題材にした『鉄道ゼミナール -JR編-』(てつどうゼミナール ジェイアールへん)が発売され、続いて2009年1月に大手私鉄16社を題材にした『鉄道ゼミナール -大手私鉄編-』(てつどうゼミナール おおてしてつへん)が発売されている。 2008年3月27日に第1作『鉄道ゼミナール -JR編-』が発売された。なお、この製品に収録のデータは、2007年時点のものである。 北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州の旅客6社及び貨物のJR7社許諾・承認済みであることが特徴。タイトルロゴの「鉄道ゼミナール」の文字は前記7社のコーポレートカラーの順に並んでいる。以下の4種類の内容が収録されている。 鉄道検定[編集] 初級・中級・上級・特級・超特級の5種類のランクで、いずれも25問出題。鉄道の知識を試すことができる。収録問題数は計1500問[2]。 各ランクとも配点は1問あたり4点で、80点(20問正解)以上で合格となる。なお、特級は上級に、超特級は特級に合格していないと受けることができない。 なお、体験モードとして、初級~上級の範囲から10問が出題される「おためし検定」が別に用意されている。 車両ガイド[編集] ムカイヤくんがランダムで新幹線・特急車両・急行近郊車両・通勤車両・機関車・イベント車両・貨車・事業用車両の8種類から、それぞれ4つの車両の説明をする。読み進めていくことで、読み物やフレームといったコンテンツが増える。 車両図鑑[編集] 車両ガイドに収録されている鉄道車両のほか、用語、鉄道関連の博物館を調べることができる。 読み物[編集] 向谷実による鉄道コラムや、鉄道に関する豆知識、はやのんによる鉄道4コマ漫画が収録されている。 車両ガイドの閲覧具合で閲覧可能な内容が増えてゆく。

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彦琮 – Wikipedia

彦琮(げんそう、557年 – 610年)は、中国隋代の訳経僧であり、元通道観学士。 道宣の著した『続高僧伝』巻二の「隋東郡上林園翻経館沙門釈彦琮伝」に、 「釈彦琮、俗縁李氏、趙郡柏人人也、世號衣冠、門稱甲族」とあるように、彦琮は趙郡柏人県の李氏の出身で、代々、王朝に仕え、一門は甲族(高貴な家柄)と称された。 彼は幼い頃より優秀で、信都の僧辺法師の元で、須大拏経を読誦すると、七千言ある経文を一日で読誦した。更に数日で『大方等経』を終えたという[1]。 天統3年(567年)、10歳に至り出家を許され、名を道江と改めた。経・律・論の三蔵に通じ、儒道等の外典にも明るかった。 天統5年(569年)、12歳にて、『法華経』を誦す。久しからずして鄴において講席を因循す。又、故郷の寺に帰り、『無量寿経』を講じた。 武平元年(570年)、14歳。晋陽に入り、講じ、且つ聴く。道は汾州・朔州に至り、名声は道儒に布く。北斉の後主が晋陽に行幸し、宣徳殿に招かれて『仁王経』を講ず。聴徒は200人で皆優れた人々ばかりだった。 建徳6年(577年)、北周の武帝が北斉を平定した際に、仏教の廃毀が行われた。 その結果、北斉にいた多くの僧が各地へ避難し、彼もまた、21歳にして還俗の身となった。だが、後にその才を認められて武帝によって長安に招かれて、通道観学士となった。この時に、名を彦琮と改めている。 北周の武帝死後、宣帝・静帝を経て、静帝より禅譲を受けた楊堅が隋を建てると、彦琮はそのまま、隋に仕えた。 開皇元年(581年)、北周では、仏教・道教が廃されたため、北周に仕えていた間は、還俗したままであった彦琮は、曇延の勧めにより落髪し、再び、沙門となった。 開皇3年(583年)に、道教を排斥する内容の「弁教論」を撰した。同年、西域より経典至る。その経の翻訳を勅される。 開皇12年(592年)より勅命により長安に入り翻訳を掌る。大興城の大興善寺で経典の漢訳に従事す。 仁寿2年(602年)、王舎の沙門至りて『舎利瑞図経』と『国家祥瑞録』を請う。勅命により、それらを梵語に翻訳し、十巻を西域に賜う。『沙門名義論別集』を著す。 大業2年(606年)、勅により、洛陽の上林園に建てられた翻経館に召されて住み、更に訳経を続けた。その漢訳経典の総数は、23部100巻余に及んだ。 そうした訳経と同時に、隋代以前の漢訳仏典、2,109部5,058巻を整理して『衆経目録』5巻を編纂した。また、勅を奉じて、慧矩と共に『天竺記』を著わした。 煬帝の時に日厳寺に入り、大業6年(610年)に入寂す(没す)。 『西域志』10巻

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プリマス伯爵 – Wikipedia

プリマス伯爵(英: Earl of Plymouth)はイギリスの伯爵、貴族。これまでに3度創設されており、第1期及び第2期がイングランド貴族として、現存する第3期が連合王国貴族としての叙爵である。 本項では、第2期及び第3期の前身となったウィンザー男爵に関しても触れる。 フィッツチャールズ家への叙爵[編集] チャールズ・フィッツチャールズ(1657-1680)は国王チャールズ2世と寵姫キャサリン・ペッグ(英語版)との庶子にあたる人物であり、彼が1675年7月28日にイングランド貴族として「プリマス伯爵(Earl of Plymouth)」に叙された事例が第1期の創設である[1][2]。フィッツチャールズはこの叙爵時に「デヴォン州トットネスのトットネス子爵(Viscount Totnes, of Totnes in the County of Devon)」及び「デヴォン州ダートマスのダートマス男爵(Baron Dartmouth, of Dartmouth

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