Month: December 2017

岩版 – Wikipedia

群馬県伊勢崎市の北米岡遺跡出土の日本最大級の岩版(群馬県立歴史博物館蔵、国の重要文化財[1]) 岩版(がんばん)とは、東海地方から東北地方にかけての縄文時代晩期の遺跡から出土する、凝灰岩や砂岩などの柔らかい石の板に幾何学文様を描いた石製品である[2][3]。タブレット(Tablet)、石盤(せきばん)とも。 人形をした岩偶などと共に出土し、護符として使われていたと考えられている[4]。 エドワード・S・モースが大森貝塚で「タブレット」と命名したものを発掘した。岩版について最初に報告したのは、東京都下沼部貝塚出土資料を「石盤」と命名した考古学者鳥居龍蔵と内山九三郎である。それらを分析し考察を行ったのは考古学者大野延太郎である。 考古学者の池上啓介は、東北・関東地方出土の土版・岩版について分類を行い、A型(形態楕円形)・B型(形態四角形)・C型(人面形)の3種に大別したが、天羽利夫は文様などから東北地方で第一類から第六類、関東地方でA類・B類に分類を行った[5][6]。 ^ 北米岡縄文文化遺跡(伊勢崎市サイト) ^ 岩版 サイト:富山市埋蔵文化財センター ^ 岩版 コトバンク ^ 岩版 がんばん サイト:文化遺産オンライン ^ 川添和暁「縄文後晩期の岩偶岩版類について : 東海地域の事例を中心に

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西根堰 – Wikipedia

西根堰の上堰、下堰の略地図。地勢図と比較すると、ほぼ等高線に沿って流れているのがわかる。 西根堰(にしねぜき)は、福島市北部から伊達郡桑折町、伊達郡国見町を経て伊達市に至る農業用水路。 江戸時代初期に掘削され、福島盆地北部の耕地面積を飛躍的に拡大し、2008年現在も維持管理されている。下堰(したぜき)と上堰(うわぜき)の2つの水路がある。灌漑面積は約1,400ha。 2008年現在は福島市飯坂地区で、阿武隈川支流の摺上川から取水する。 1618年(元和4年)に完成した下堰は桑折を経て徳江村(現国見町徳江)までの約13km。工事期間は1年であった。当時の16村を潤した。 1633年(寛永10年)に完成した上堰は、桑折町、藤田(現国見町藤田)を経て五十沢(現伊達市梁川町五十沢(いさざわ))までの約28kmの用水路となる。工事期間は8年であった。岩盤を掘削したりする難工事で、約28kmの水路で標高差がわずか50mという高い水準で設計された。河岸段丘に沿って水路が造られたが、特に桑折町から国見町にかけては周囲の地形との錯覚から、山裾を水が逆流して上っていくように見える。当時の29村を潤した。 福島盆地北部の阿武隈川西岸は西根郷と呼ばれ、阿武隈川の氾濫原や河岸段丘などの広い土地があった。耕作を期待できる豊かな土壌ではあったが、現代のような揚水ポンプもなく、十分灌漑できないことが問題だった。西根堰は、この西根郷を潤すために作られた。江戸時代前期、伊達郡と信夫郡は上杉氏米沢藩領だった。上杉氏は会津120万石から、関ヶ原の戦い後に米沢・福島30万石に減封され、多くの藩士をかかえたままで財政は逼迫していた。 1618年(元和4年)、大肝煎(郡役)の佐藤新右衛門が堰の開削を藩に言上するが、財政逼迫の折り、藩からは資金を出さないという条件で開削の許可を得る。佐藤新右衛門は私財を投じて西根堰下堰を開削した。この堰は湯野村(福島市飯坂町湯野)の八卦で摺上川から取水し、徳江村で阿武隈川に注ぐ。工事人足は流路の村々から徴用したが、強制労働的なものではなく給金を支払って雇用したため、村々の住人もこぞって協力したという。 1624年(寛永元年)、信達地方(信夫郡・伊達郡)を預かる福島奉行の古河善兵衛が、藩の許可を得て、私財を投じて西根堰上堰の開削に着工。下堰で実績のある佐藤新右衛門を添役とした。下堰の取水口である八卦よりも上流の穴原で取水し、岩盤を外からくりぬいて樋を通す、トンネルを掘ったりするなど難工事であった。また、28kmもの距離を正確な高低差で水路を引くため、各地で松明を燃やし、信夫山から松明の方位や標高を測量したという逸話も伝承されている。1633年(寛永10年)に完成した。 その後、古河善兵衛は藩へ収める年貢を横領して上堰の工費に充てた嫌疑があり、詰問を受けに米沢に向かう途中、庭坂(福島市庭坂)で割腹自殺した…と、一般的には美談的に伝承されている。しかし、この説には当時の情勢や死亡日前後の記録からして不自然な点が以前から指摘されていた。 近年、佐藤新右衛門の子孫に伝えられた文書が発見され、当時、佐藤新右衛門は古河善兵衛と不仲であり、暗殺を恐れていたなどの新事実が発見された。西根堰開削に関しては協力した二人であるが、地侍として西根郷あるいは伊達郡という地域からの視点をもつ佐藤新右衛門と、あくまで米沢藩士として米沢藩、上杉氏の視点をもつ古河善兵衛には、根本的に相容れない部分があり、そうした意見の相違が不仲の原因ではないかという説や陰謀説も浮上している。子細は今もって不明である。 2008年現在、西根堰は農林水産省の管理下にあり、伊達西根堰土地改良区(事務所は伊達郡桑折町)が管理に当たって、地域住民も参加した管理運用を行っている。また、浸食によって当時よりも摺上川の河床が下がっているため、現在の取水口は開削当時よりも上流に付け替えている。 古河善兵衛[編集] 1576年 – 1637年。上杉氏米沢藩家臣。福島奉行。信濃国更級郡塩崎城主小笠原九郎左衛門重成の次男。上杉氏が会津に転封されたことにより、信夫郡・伊達郡の郡代となる。 佐藤新右衛門[編集] 1573年 – 1637年。伊達郡桑折の地侍。郡役として農民を支配。米沢藩は信夫郡と伊達郡の2郡を、信夫郷、西根郷、東根郷、小手郷の4つに分け、それぞれに村々の役人の見張りをする大肝煎を置いた。この4人の大肝煎を四郡役と呼んだ。佐藤新右衛門は西根郷の大肝煎。大肝煎には、生粋の藩士ではなく、地元の実力者を採用した。佐藤新右衛門は信夫佐藤氏、佐藤基治の18代の子孫。

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アラバマ・ソング – Wikipedia

「アラバマ・ソング」 (Alabama Song[注釈 1]) は、ベルトルト・ブレヒトによって書かれた詩である。1925年にブレヒトと親しいエリーザベト・ハウプトマンが英語に訳したものが、1927年に出版された詩集『家庭用説教集』に掲載され、同年にクルト・ヴァイルが演劇『小マハゴニー』のために作曲を手がけた。1930年のオペラ『マハゴニー市の興亡』でも使用されたほか、ドアーズやデヴィッド・ボウイらによってカバーされた。 オリジナル・バージョン[編集] 「アラバマ・ソング」は、元々ドイツ語の詩として描かれた作品で、1925年に作家のベルトルト・ブレヒトのためにブレヒトの親しい協力者であるエリーザベト・ハウプトマンが英訳したものが、マルティン・ルターの説教集のパロディであるプレヒトの『家庭用説教集』(1927年)に掲載された。1927年にクルト・ヴァイルが『小マハゴニー』のために作曲を手がけ、この楽曲は1930年に上演された『マハゴニー市の興亡』でも使用された[4]。 ヴァイルの妻である女優のロッテ・レーニャが、1927年に上演された『小マハゴニー』でジェシー役として披露[5]。1930年2月24日に[6]ホモコード(英語版)のためにレコーディングが行われた[7]。同年にウルトラフォンのために再録音され、1930年にライプツィヒでの『マハゴニー市の興亡』の初演に合わせて発売されたが、同公演にはレーニャは出演していない[8]。レーニャは生涯にわたって本作を演奏し続け、1955年には『Lotte Lenya Sings Kur Weill (Lotte Lenya sigt Kurt Weill)』(アメリカでは『Berlin Theater Songs』)というアルバムを発売している[7]。 ドアーズによるカバー[編集]

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仲仙寺 (伊那市) – Wikipedia

仲仙寺(ちゅうせんじ)は、長野県伊那市にある天台宗の寺院。山号は羽広山。本尊は十一面観世音菩薩。 寺伝では、弘仁7年(816年)に慈覚大師円仁が夢告を得て当地を訪れ、経ヶ岳の山中に求めた霊木に十一面観音像を刻み、残りの木片に法華経を書写して経塚に奉納して開山したとされる。2世藤原法師が仏像を本尊として祀って、神護山藤宝寺として建立された。 鎌倉時代には御射山大社の別当寺院として繁栄した。かつては12の坊を数える大伽藍を構えたが、数度の火災や戦火により焼亡し、慶長18年(1613年)に飯田城主小笠原秀政により堂宇が再建され、中禅寺となった。寛永11年(1634年)に上野寛永寺の末寺となり、将軍徳川家光より朱印5石を受け、仲仙寺と改めた。「馬の観音様」として、木曽馬の本場である木曽谷、中馬の本場である伊那谷の農家や馬方から熱く崇敬された。 本堂である観音堂は天和2年(1682年)に三河国の大工により建立、安永7年((1778年)美濃国の大工により改修された。堂内の外陣には大きな虹梁があり、柱組の間には、承応2年(1653年)の飯田藩主脇坂氏奉納の絵馬、文久2年(1862年)の千匹馬をはじめ、20を超える絵馬が奉納された。内陣には本尊の十一面観世音菩薩の他、文亀元年(1501年)の修理銘を持つ脇侍の多聞天、持国天の2つの像がある。また仁王門には、同年銘のある、京の七条仏所康忠なる仏師の手になる金剛力士像が安置されている。山門は享保9年(1724年)に建立された。薬師堂は、平成元年(1989年)に本堂裏の宝蔵を改修して、薬師瑠璃光殿と改め本堂裏の回廊の壁に祀られていた薬師如来を遷座した。客殿の本尊は、運慶作と伝わる聖観世音菩薩立像である。 境内にはその他、焔魔堂、本坊が並び、石垣の上には西国三十三所の石仏が並ぶ。十王堂の下には伊那市考古資料館があり、当寺に奉納された絵馬も所蔵されている。市内の坂下の辻から当寺まで通じる「羽広の道」には一丁ごとに観音石仏が並び、寄進した村名が刻まれている。 毎年正月には「羽広の獅子舞」(伊那市無形民俗文化財)が奉納される。 室町時代の仁王像 2体(長野県宝) 鎌倉時代の四天王 2体(伊那市宝) 室町時代の鰐口(伊那市宝) 江戸時代の大絵馬 13面(伊那市宝) 参考文献[編集] 『信州の古寺百選』1995年 長野県観光連盟 『探訪 信州の古寺 天台宗・真言宗』1996年 郷土出版社

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ガン・マッギー – Wikipedia

ガン・マッギー(Gan McGee、1976年11月20日 – )は、アメリカ合衆国の男性総合格闘家。ノースダコタ州ビスマーク出身。S.K.S.ファイトチーム所属。元IFC世界スーパーヘビー級王者。 208cmの長身から繰り出される強力な打撃を得意とする。 2000年5月3日、IFC世界スーパーヘビー級王座決定トーナメントに出場し、優勝を果たし王座獲得に成功した[1]。 2000年11月17日、UFC 28でジョシュ・バーネットと対戦し、スタンドパンチ連打でTKO負け[2]。 2002年9月27日、UFC 39でペドロ・ヒーゾと対戦。ヒーゾと真っ向から殴り合い、タオル投入によるTKO勝ち。 2003年9月26日、UFC 44の世界ヘビー級タイトルマッチで王者ティム・シルビアと対戦し、パウンドでTKO負けを喫し王座獲得に失敗した。シルビアは試合後のドーピング検査をクリアできず、王座を剥奪された。しかしその後、マッギーにはタイトルマッチが組まれなかった為UFCを離脱。 2004年にはPRIDEに出場するが、ヒース・ヒーリングに判定負け、セーム・シュルトに一本負けと2連敗。 2008年9月13日、X-treme Fighting Championshipsで4年振りに復帰し、ジョナサン・アイビーに勝利を収めた。 総合格闘技 戦績 18 試合

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三菱重工パワーインダストリー – Wikipedia

三菱重工パワーインダストリー株式会社Mitsubishi Heavy Industries Power IDS Co., Ltd. 種類 株式会社 本社所在地 日本〒231-0012神奈川県横浜市中区相生町3丁目56番1号 KDX横浜関内ビル 設立 1961年10月10日 業種 建設業 法人番号 5020001029726 事業内容 産業用ボイラ・中小型火力発電プラント・バイオマス発電プラント・地熱発電プラントの基本計画、詳細設計、調達、建設、試運転。既設プラントの改造工事、アフターサービス、保全工事。コンピュータ制御装置・監視計測装置の設計製作。 代表者

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ポートサイド公園 – Wikipedia

ポートサイド公園(ポートサイドこうえん、Yokohama Portside Park)は、横浜市神奈川区のポートサイド地区にある都市公園(近隣公園)である。2001年グッドデザイン賞受賞。 ポートサイド公園(都市計画公園帷子川親水公園)は、ポートサイド地区(C街区〜D-2街区)の帷子川下流・港湾部沿いに位置し、一部は帷子川を挟んで高島水際線公園と相対する。当公園は、1991年から翌1992年にかけて実施された国際設計コンペにおいて、応募件数171件の中から最優秀賞になった長谷川浩己のデザインによるデザイナーズ・パークである[1][注 1]。ギャラリーロード側から公園に入ると「うねる芝生」があり、長谷川は、広報誌『GARRELY ROAD』第4号の中で「幾重にも折り畳まれた芝生は太陽の動きによって刻々と姿を変える」「適度な傾斜は腰を下ろしたり、寝そべるのに最適であり、水面を臨む観客席となる」と語っている[2]。水際に沿って約400m続くプロムナードはエノキの並木と石畳が特徴となっている。一方、水際には葦原が復元され、葦原の上に突き出る形の木製デッキが設置されている[2]。この他、公園の東端と西端にはアルファベットと数字が表記された円柱が設置されており、中にベンチを設けたり岸壁付近の音を拾う集音器と接続するなど様々な機能を持たせている[1]。当公園は、「アート&デザインの街」をコンセプトとして開発された、ポートサイド地区を代表する芸術作品の一つであり、公園自体の魅力に加えて、その立地や景観の良さから市民や観光客の憩いの場として親しまれているほか、対岸のJR高島線(貨物線)を走る貨物列車の編成全体が見渡せることから、子供たちにも人気がある。ただし、デザイナーズ・パークである当公園内に遊具は設置されていない。 当公園は2020年時点で、一部隣接のインターナショナル・スクール「ホライゾン学園」との間に未整備の区画があり、当公園の整備は「部分完了」の状態のままである[3](「ポートサイド地区#YCAT跡地の開発」も参照)。しかし未完成ながら、年月とともに老朽化も進んでおり、これまでに「うねる芝生」の崩落個所の復旧や、木製デッキの張り替え、ベンチの修繕などが行われてきた。また、デザイナーズ・パークであるがゆえに、オリジナルのパーツが入手不可能なことも多いとみられ、壊れたまま放置されたり、他の部品で置き換えられたりしてしまっている箇所も散見される。 なお、公園内での自転車の走行は禁止されており、公園管理者(横浜市環境創造局北部公園緑地事務所)によって作成された走行禁止の表示が公園内のあちこちに掲出されている。ただし、公園内はポートサイド中央交差点を避けて、主に中央市場通り方面~横浜駅駐輪場・みなとみらい大橋(駅側の自転車道)方面を自転車で行き来する人々に近道として利用されており、高速で走り抜ける自転車も少なくないため、子供を遊ばせる際などには注意が必要である。 公園入口付近の「うねる芝生」(2020年9月) ポートサイド地区のロゴがデザインされた公園のベンチ。老朽化とともにロゴ入りのベンチは数を減らしつつある(2020年9月) 帷子川の葦原の上に突き出る形で設置された木製デッキ群(2020年10月) 当公園に複数設置されているアルファベットと数字が表記された円柱(2021年4月) ホライゾン学園に接する未整備区画(2021年4月) 1991年 – 帷子川水際公園(ポートサイド公園)の都市計画決定。 1991-1992年 – 国際設計コンペ開催。 1992年

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ロックマンエグゼ WS – Wikipedia

『ロックマンエグゼ WS(ロックマンエグゼ ワンダースワン)』は2003年2月8日に発売されたワンダースワンカラー対応のアクションゲームである。 本作はバンダイがカプコンからのライセンス許諾を受けて発売したものである。そのため、カプコンの作品リストには本作が収録されていない。 ロックマンエグゼ トランスミッションと同様の、2Dスクロールアクションゲーム。ウィルスやナビの動き、バトルチップなどの性能は、システムに合わせ変更してある。 基本アクション 初代ロックマンシリーズ同様のジャンプ、ショット、ハシゴの昇降、さらにスライディング、チャージショットが可能。 バトルチップ ステージ構成 全6ステージだが、内4つ(ステージ2~5)はそれぞれ2つずつ存在し、開始直後のルート分岐でどちらに挑むかを選択する。またステージ6は他のステージの2倍の長さとなっており、ステージ中番でもボス戦がある。そして1度クリアしたデータで最初から始めると、7つ目の隠しステージが登場する。 なお、各ステージのバックストーリーは、アニメ版のストーリーをモチーフにしたものとなっている(ステージ6以降はオリジナル)。 クリア率 バトルチップやスタイルの取得度合いはゲーム中で「クリア率」として現わされる。クリア率を100%にすると、下記の「EXモード」で「EXハード」の難易度が選択できるようになる。 EXモード(エクストラモード) ステージ7をクリアすると、エンディング後にタイトル画面からボスキャラクターと連戦する「EXモード」が選択可能となる。 「プラクティス」「エクストラ」「ハード」で難易度が異なり、クリア率を100%にしていると選択できる「EXハード」では、最後にフォルテが出現する。 登場するボスキャラクター[編集] ファイアマン エレキマン

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ジャン・ブガッティ – Wikipedia

ブガッティ・ロワイヤル「クーペ・ナポレオン」 ブガッティ・タイプ57SC・クーペ・アトランテ ブガッティ・タイプ57SC・クーペ・アトランティーク ジャン・ブガッティ(Jean Bugatti 、1909年1月15日 – 1939年8月11日)は、フランスにかつて存在した自動車メーカー・ブガッティの創業者エットーレ・ブガッティの長男。1930年代のブガッティ車のデザインに優れた才能を発揮した他、テストドライバー・技術者としての才能もあった。正式の名前はジャノベルト・マリア・カルロ・ブガッティ(Gianoberto Maria Carlo Bugatti )である。 ドイツのケルンに生まれる。生後間もなく、当時はドイツ領であったアルザス地方のドリスハイムに移り住んだ。祖父のカルロ・ブガッティはイタリア・ミラノ出身の家具・宝石デザイナーでパリに長く在住し、父のエットーレはドリスハイム近郊のモールスハイム (en) で自動車製造を始めようとしていた。一家の交際相手の大半はフランス人で、ジャノベルトも普段はフランス風に「ジャン」と呼ばれていた。 祖父や父の芸術的天分と独創性を豊かに受け継いだジャンは、父の製造する自動車への興味を深めていった。1920年代後半、まだ10代の彼はすでに自動車デザイナーとしての才能を示し始め、23歳の1932年、排気量12763ccという史上最大級の超高級車ブガッティ・ロワイヤル(タイプ41)の車体デザインを一人で担当した。ジャンのデザインが父の技術力に加わったことで、ブガッティは自動車の歴史において決して忘れられることのない車名となった。続いて彼はタイプ57の2ドア4座の「ヴァントゥー」(Ventoux)、4ドア4座の「ギャリビエ」(Galibier)、2ドア・カブリオレの「ステルヴィオ」(Stelvio)、2ドア・クーペの「アトランテ」(Atalante)の4種の自社製作ボディのデザインを手がけた。これらのデザインは1936年のパリ・サロンで発表され、センセーションを巻き起こした。ジャンはまた、自動車技術者としての才能にも恵まれており、タイプ57のためのDOHCエンジンや、前輪独立サスペンションを備えたタイプ57の後継車・タイプ64を試作していた(ジャンの死後、第二次世界大戦の勃発もあって、この計画は頓挫する)。 現場育ちのデザイナーであったジャンは、しばしば自分の作り上げた試作車を自らテストドライブしていた。1939年8月11日、ル・マン24時間レースに優勝したばかりのタイプ57のレーシングモデル(その特異なボディ形状から「タンク」と呼ばれていた)を、工場に程近いDuppigheim村の近くで走らせていたジャンは、酒に酔った男が運転する自転車を避けようとしてコントロールを失い、道路から転落、30歳で事故死した。彼はドリスハイムの一族の墓地に葬られ、事故現場にはその死を悼む記念碑が建てられている。

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広瀬すず – Wikipedia

広瀬 すず(ひろせ すず、1998年6月19日 – )は、日本の女優、ファッションモデル。静岡県静岡市清水区出身[1]。フォスタープラス所属。 実姉は女優でファッションモデルの広瀬アリス。 来歴 姉のアリスが専属モデルをつとめていた雑誌である『Seventeen』のイベントに母と来場した際、アリスが所属していた現所属事務所の社長から声をかけられたことがきっかけで芸能界に入った[2]。 2012年8月、『Seventeen』の専属モデルオーディション「ミスセブンティーン2012」のグランプリを受賞し、同誌専属モデルとして芸能界デビュー[3][4]。姉妹で『Seventeen』の専属モデルを務めることになった。同年、日本テレビの『天才!志村どうぶつ園』でテレビ初出演、および姉のアリスと初共演。以降も、姉とはイベントやテレビで度々共演している。12月には、ベネッセコーポレーション「進研ゼミ高校講座」のCMに起用され、CM初出演を果たした。 2013年、関西テレビ4月期ドラマ『幽かな彼女』で女優デビュー[5]。同年9月、映画『謝罪の王様』でスクリーンデビュー[5]。11月には、山下達郎の「クリスマス・イブ(30th Anniversary Edition)」ショートフィルムで自身初となる主演を務めた[6]。 2014年4月、大塚食品「MATCH」のCMで姉のアリスとCM姉妹初共演[6]。同年11月1日発売の『Seventeen』12月号で初表紙を単独で飾った。また、同年から翌年にかけて開催された第93回全国高等学校サッカー選手権大会では、応援マネージャーを務めた。 2015年、日本テレビ1月期ドラマ『学校のカイダン』で連続ドラマ初主演。同年1月31日発売の『Seventeen』3月号では、姉のアリスと同誌史上初となる姉妹表紙を飾った[7]。同年5月、出演作『海街diary』が第68回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に正式出品され[8]、公式上映に出席した[9]。7月、劇場版アニメ『バケモノの子』において、初めて声優を務めた[10]。 2015年度は、映画『海街diary』での演技が高く評価され、数多くの映画賞で新人賞を総なめにした。また、ビデオリサーチの「2015年タレント別テレビCM広告主数ランキング」では、首位を獲得した[11]。 2016年3月公開の『ちはやふる』で映画単独初主演[12]。2016年度は、第40回日本アカデミー賞において『ちはやふる -上の句-』で優秀主演女優賞、『怒り』で優秀助演女優賞をダブル受賞した[13]。また、その年最も活躍し将来の活躍が期待される俳優に贈られるエランドール賞新人賞も受賞した[14]。 2017年3月、高校卒業後は進学せず、女優業に専念することを発表[15]。同年7月、2017-2018秋冬パリ・オートクチュールコレクションに参加[16]。同年8月、アニメ映画『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』で初の主演声優を務め、劇中でカバーした松田聖子の楽曲「瑠璃色の地球」でCDデビューを果たした[17]。同年9月、出演作『三度目の殺人』が第74回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に正式出品され[18]、公式上映に出席した[19]。 2018年、日本テレビ1月期ドラマ『anone』で、3年ぶりとなる連続ドラマの主演を務めた[20][21]。同年8月、パシフィコ横浜で開催される読者イベント「Seventeen夏の学園祭2018」で卒業式を実施し[22]、10月1日発売の11月号を最後に『Seventeen』専属モデルを卒業[22]。同年12月、NHK放送の『第69回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を務めた[23]。

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