Month: April 2018

ニンテンドーDSiブラウザー – Wikipedia

ニンテンドーDSiブラウザー(ニンテンドーディーエスアイブラウザー)は、任天堂開発・発売のウェブページを閲覧することができるニンテンドーDSiウェアである。オペラ・ソフトウェア社との共同開発。ニンテンドーDSブラウザーの後継。 このDSiウェアは、ニンテンドーDSiをインターネットに接続して、『ニンテンドーDSiショップ』よりダウンロードすることで利用可能となる。また、ニンテンドーDSiブラウザーの機能上、利用時にもインターネットに接続する必要がある。 2008年11月1日のニンテンドーDSi発売と同時に配信開始されたニンテンドーDSiウェア[1]。ダウンロード・使用料共に無料。2009年秋以降に出荷されているニンテンドーDSi及び、2009年11月21日発売のニンテンドーDSi LLには最初から本体に内蔵されている(消去可能)。 『ニンテンドーDSブラウザー』(以下DSブラウザー)に比べて通信速度や描画速度が速くなったほか、細かい点が変更されている[2]。また、DSi本体のメインメモリの容量が増えたことによって、『DSブラウザー』で必須だったメモリー拡張カートリッジが不要になった[2]。 DSブラウザーと同様、動画・音声・Adobe Flashの表示には対応していない[3]。 お気に入りには64件まで登録可能で、サイト閲覧履歴は24件まで保存可能[4](24件を超えたら古いものから自動削除される)。『DSブラウザー』とは異なり、サイト閲覧履歴・Cookieは電源を切っても保持される[4]。 なお、ニンテンドー3DSではダウンロードすることができず、ニンテンドーDSi/DSiLL本体からニンテンドー3DS本体への「ソフトとデータの引越し」で、『ニンテンドーDSiブラウザー』を引っ越しすることはできない。 ブラウザエンジン:Opera 9.5[3] ユーザーエージェント 2008年11月1日配信開始版:Opera/9.50(Nintendo DSi; Opera/446; U; ja) 2009年7月29日配信開始版:Opera/9.50(Nintendo DSi; Opera/507;

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石川河川公園 – Wikipedia

石川河川公園(いしかわかせんこうえん)は、大阪府柏原市から富田林市にある大阪府営の都市公園(広域公園)である[1]。2021年現在、大阪府内の3業者で構成する「都市公園石川河川公園管理共同体」が、指定管理者となって管理している。 大阪・南河内地域の石川河川敷を利用した、全長11.6kmの細長い公園。大きく5地区に分かれており、合計面積は172.6ha。 入園料は無料で、一部区域を除き24時間入園可能である。(パークゴルフ場除く) 1984年(昭和59年) -「大阪府緑のマスタープラン」策定 1986年(昭和61年) – 「石川あすかプラン」を基本構想 1992年(平成4年)1月 – 面積 172.6ha、延長 11.6kmの石川河川公園として都市計画決定(172ha) 1995年(平成7年)4月 – 開設、供用開始(8.0ha) 1996年(平成9年)~2005年(平成17年) – 24.4haを追加開設 (開設面積

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楊惟中 – Wikipedia

楊惟中(よう いちゅう、1205年 – 1259年)とは、13世紀前半にモンゴル帝国に仕えた漢人官僚の一人。字は彦誠。モンゴル帝国の漢地(ヒタイ)統治機関に属し、最初期のモンゴルによる華北統治体制確立に尽力したことで知られる。 楊惟中は弘州(現在の河南省張家口市陽原県)の出身で、金末の動乱期に孤児となったことからモンゴル帝国に属し、チンギス・カンの第3子オゴデイに仕えるようになった。20歳になった時、楊惟中は西域(中央アジア)諸国に派遣され、政令・條格の布告、人口調査による戸口の登録などにより、現地の統治体制を整えた。チンギス・カンの没後、オゴデイが後継者として即位すると、中央アジアから東方に帰還した楊惟中は大いに用いられるようになったという[1]。 1235年、オゴデイの息子クチュを総司令とする南宋侵攻が始まると、楊惟中は元女真人貴族のチュンシャン(粘合重山)[2]とともに「軍前行中書省事」に任じられた。ここで言う「行中書省事」とは、後年の行政単位としての「行中書省」とは異なり、金代の用法に基づいた「地方に派遣された重臣の下に開設される臨時的官府」を指す。文官たる楊惟中とチュンシャンはクチュ率いる軍司令部(軍前行中書省事)の補給などを担当したとみられる[3]。モンゴル軍は南宋の棗陽軍・光化軍・光州・随州・郢州・復州などを攻略したが、楊惟中らは征服地で得た名士・書物を燕都(金朝の首都中都の別称、後の大都)に送り、太極書院を設立して学問の振興を図った。その後、楊惟中は「中書令(中書省のトップ)」となり、太后ドレゲネの統治期には宰相として活躍したとされるが[4]、南宋からの使者が指摘するようにこの頃の「中書省」「中書令」はモンゴル朝廷が定めた正式な官府・役職ではなく、モンゴルに仕えた漢人の勝手な自称に過ぎない[5]。 1246年にグユクが第3代皇帝として即位した頃、平陽道に赴任していたジャルグチ(断事官)のシュチェが不法行為を行っていたため、命を受けた楊惟中がこれを誅伐した[6]。この頃、モンゴルに対して叛乱を起こして誅殺された武仙の残党が太原路・真定路一帯に散らばり、金朝の年号(開興)を用いてモンゴルの支配に反抗していた。反乱軍は数万を数え、叛乱鎮圧軍を幾度か撃退したが、楊惟中が叛乱の首魁を説得して投降させたことにより、ようやく平定された[7]。 1251年にモンケが第4代皇帝として即位すると、その弟クビライが東アジア方面の司令官に抜擢され、金蓮川(ドロン・ノール、後の上都)を自らの拠点と定めた。クビライの軍司令部に属した楊惟中は河南道経略司とされ、河南一帯の統治に携わることになった。金朝の滅亡後、モンゴルより「河南道総管」としてこの地を任されていた劉福は過酷な取り立てで20年余りにわたって民を苦しめており、事情を知った楊惟中はすぐに劉福を呼び出した。しかし劉福は仮病を理由に呼び出しになかなか応じず、楊惟中が呼び出しに応じなければ軍法に従って処断するとの脅しを聞いてやむを得ず出頭した。劉福は処断をされることを恐れて数千人の護衛を引き連れて楊惟中の下を訪れたが、楊惟中は兵を用いず自ら大梃で劉福を殴り倒し、この傷が元で劉福は間もなく亡くなった。劉福が死去したため、河南の地はよく治まったという。その後、陝右四川宣撫使に移り、男性を殺しその妻を奪うなどの悪行を繰り返していた郭千戸を処断し、軍の綱紀を正した[8]。 1259年、楊惟中江淮京湖南北路宣撫使とされ、現地のモンゴル・漢軍を総べた。その後、間もなく蔡州にて55歳で亡くなった。後に、忠粛公と諡されている[9]。 参考文献[編集] 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年 前田直典『元朝史の研究』東京大学出版会、1973年 ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「楊惟中字彦誠、弘州人。金末、以孤童子事太宗、知読書、有膽略、太宗器之。年二十、奉命使西域三十餘国、宣暢国威、敷布政條、俾皆籍戸口属吏、乃帰、帝於是有大用意」 ^ 『元史』巻146列伝33粘合重山伝,「粘合重山、金源貴族也。……太宗七年、従伐宋、詔軍前行中書省事、許以便宜」 ^ 牧野2012,145-146頁 ^ 『元史』巻146列伝33楊惟中伝,「皇子闊出伐宋、命惟中於軍前行中書省事。克宋棗陽・光化等軍、光・随・郢・復等州、及襄陽・徳安府、凡得名士数十人、収伊・洛諸書送燕都、立宋大儒周惇頤祠、建太極書院、延儒士趙復・王粋等講授其間、遂通聖賢学、慨然欲以道済天下。拝中書令。太宗崩、太后称制、惟中以一相負任天下」

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富田直人 – Wikipedia

富田 直人(とみだ なおと、1965年2月21日 – )は、日本の実業家。株式会社イノベーション創業者・代表取締役社長。一般社団法人静岡イノベーションベース代表理事。 人物・来歴[編集] 静岡県浜松市出身[1]。父は電気工事会社の経営者[2]。静岡県立浜松西高等学校を経て[3]、1987年横浜国立大学工学部電気工学科卒業[4][5]。父の会社を継ぐ前に社会勉強をしようと考え[6]、同年リクルートに入社[7]。リクルートでは営業に携わり、2000年イノベーション設立。マーケティング代行事業から始め、2007年にはITトレンドを開設。2016年に東京証券取引所マザーズ市場に株式上場を果たした[4]。起業家支援も行い[1]、2021年には静岡イノベーションベースを設立し、代表理事に就任[8][9]。 『集客に成功する会社と失敗する会社の違い 次々と商談が舞い込む会社にするために』起業家大学 2007年 『売れる営業は満足より感動 : 1300社以上の売上を増大させた営業の達人が教えます』しののめ出版 2008年 『いつも目標達成している人のテレアポ術』明日香出版社 2008年 ^ a b 顧問紹介 株式会社イノベーション

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オーサ・レグネール – Wikipedia

 スウェーデンの政治家 オーサ・レグネール Åsa Regnér 生年月日 (1964-08-26) 1964年8月26日(57歳) 出生地 ラップランド、スウェーデン 出身校 ストックホルム大学 学士号ウプサラ大学 民主主義開発 修士号 所属政党  スウェーデン社会民主労働党 配偶者 Per Cedell (sep)

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