Month: January 2020

アーマード・セイント – Wikipedia

アーマード・セイント (Armored Saint) は、アメリカ合衆国出身のヘヴィメタル・バンド。 デビュー当初は活動拠点がグラム・メタル(LAメタル)の本場でありながら、正統派のHR/HMサウンドを主体としていた。一度解散するものの、2000年代に活動を再開。 背景・略歴[編集] メジャーデビュー〜解散[編集] ロサンゼルスを拠点に、デイヴ・プリチャード(G)とサンドバル兄弟(G・Ds)でバンド活動を開始。1982年に、ジョン・ブッシュ(Vo)とジョーイ・ヴェラ(B)が合流した5人のラインナップで結成[1]。 インディレーベル「メタル・ブレイド」からリリースしたEPが評価されて、メジャーレーベル「クリサリス」と契約し、1984年にアルバム『マーチ・オブ・ザ・セイント』でメジャーデビューした。 LAメタルを含む1980年代のHR/HMムーブメントに乗り、コンスタントにリリースを重ねていたが(1985年にフィルが一時脱退)、1987年発表のサード・アルバム『レイジング・フィアー』を最後にクリサリスとの契約を失い[2]、古巣のメタル・ブレイドに戻る[3]。1989年にジェフ・ダンカンが加入し、ツイン・ギター編成に戻った。 そして1990年、バンドの中軸であるプリチャードを白血病で亡くしてしまう[3]。(後任はフィル・サンドバルが復帰。)追悼の意味も込めたニューアルバムのセールスも芳しくなく、1992年には追い打ちをかけるようにブッシュがスラッシュメタルバンド「アンスラックス」に加入するため脱退。音楽シーン自体も既存のムーブメントは終息しており、バンドは継続を断念して解散した[4]。 再結成後[編集] 1999年、アンスラックスが一時活動休止中の合間にブッシュは、当時「フェイツ・ウォーニング」に在籍していたヴェラと共同で、アーマード・セイントの再結成を企画。かつてのメンバーが集結し、2000年に9年ぶりのアルバム『レヴェレイション』をリリース。これは短期間の活動のみに止どまり、またそれぞれ本業の道に戻っていった。なおヴェラは2004年から翌2005年まで、ヘルメットの再結成メンバーとして加入するため一時離脱していたフランク・ベロの代役でアンスラックスのサポートメンバーを務めていた。 2005年にアンスラックスは、1980年代全盛期のラインナップ復活を計画。その煽りで離脱せざるを得なかったブッシュは、再びアーマード・セイント復帰を企図し、翌年にライブ活動で再始動をする。その後アルバムの制作も再開し、2010年に10年ぶりのアルバム『ラ・ラザ』をリリース、これまで一時的な再結成に過ぎなかったバンドは、完全なる復活を遂げる[5]。以降ライブなどを中心に、コンスタントな活動を続けている[6]。 来日[編集] 2016年秋にHR/HMフェス『LOUD PARK 16』出演のため初来日[7]。 スタイル[編集] バンド名「アーマード・セイント(鎧の聖戦士)」は、アーサー王を描いた1981年の映画『エクスカリバー』からインスパイアされたものだと明かしており、実際に活動初期の頃は、鎧をイメージしたコスチュームを纏いパフォーマンスをしていた。デザインは、映画『マッドマックス2』から影響されたとも述べている[5]。

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受容体逆作動薬 – Wikipedia

完全作動薬(Fa)、部分作動薬(Pa)、遮断薬(Na)、逆作動薬(Ia)の用量反応曲線 受容体逆作動薬(じゅようたいぎゃくさどうやく、inverse agonist)とは、受容体に作動薬と同様に結合するが、作動薬とは反対の作用を及ぼす医薬品である。遮断薬は受容体に結合するが何の作用も及ぼさないことから、逆作動薬とは区別される[1]。 逆作動薬が作用する前提として、標的受容体はリガンドが結合していない状態でも常時活性(内活性(英語版)または基礎活性として知られる)を有している必要がある。作動薬は受容体の基礎活性を増加させ、逆作動薬は基礎活性を低下させる。 完全作動薬の活性(英語版)が100%、(純粋な)遮断薬の活性が0%であるとすると、逆作動薬の活性は0%未満(マイナス)である。 基礎活性を有し、逆作動薬の存在が知られている受容体の例として、GABAA受容体が挙げられる。GABAA受容体の作動薬(ベンゾジアゼピン等)は鎮静効果を持ち、逆作動薬は不安惹起作用(英語版)(Ro15-4513(英語版)等)や痙攣誘発作用(英語版)(β-カルボリン誘導体)を持つ[2][3]。 内因性逆作動薬の例として、アグーチ関連蛋白質(英語版)(AgRP)とそれに関連のあるアグーチ蛋白質(英語版)(ASIP).が知られている。両方共ヒトに存在し、それぞれメラノコルチン4受容体(Mc4R(英語版))とメラノコルチン1受容体(Mc1R(英語版))に結合する。双方共、親和性はナノモル濃度レベルである[4]。 オピオイド遮断薬(英語版)であるナロキソンおよびナルトレキソン(英語版)は、オピオイドμ受容体の部分逆作動薬である。 関連資料[編集] “Inverse agonism and its therapeutic significance”. Indian Journal of Pharmacology 43

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福住仁嶺 – Wikipedia

福住 仁嶺(ふくずみ にれい、1997年1月24日 – )は徳島県出身のレーシングドライバー。 プロフィール[編集] 身長: 167cm 体重: 56kg 血液型:B型 愛車 : ホンダ・アコードハイブリッド 妻:佐藤あやみ(YouTuber) 徳島県名西郡石井町にある真言宗「三宝院」の住職の次男[1]。仁嶺という名前の「仁」は人を慈しむという根源的な愛、「嶺」は山の頂上を意味し、「きれいな心を持ち、思いやりがあり、どんな困難にも負けず天辺を目指す人物になってほしい」という父親の想いが込められている[1]。 初期の活動[編集] 若い頃レーシングドライバーに憧れていた父親が買ってくれた中古のレーシングカートに5歳の頃から乗り始めた[1]。小学校4年生からカートレースに出場し[1]、2009年には全日本ジュニアカート選手権で2位を獲得[2]。2013年にはダンロップのサポートで日本最高峰のKF1クラスに出場しチャンピオンを獲得、ダンロップに11年ぶりの栄冠をもたらした[2]。カート時代は毎年のようにチャンピオンを獲得しその懸賞金等で次年度のレースに参加、親父が箱バンで遠征しメカニックも担当、親子2人で数々の栄冠を獲得している。 2013年、前年度ARTAチャレンジシリーズチャンピオンで獲得した賞金で、鈴鹿サーキットの養成機関「鈴鹿サーキットレーシングスクール(SRS)」の19期生として入校し[3]、同年のフォーミュラ・スカラシップを獲得[4]。卒業後の2014年、Hondaフォーミュラ・ドリーム・プロジェクト(HFDP)の育成ドライバーとしてフォーミュラ4選手権のFCクラスに参戦し、シリーズチャンピオンとなる[2]。2015年は全日本F3選手権にステップアップし、シリーズランキング4位。 GP3・F2・スーパーフォーミュラ[編集] ホンダは2015年よりF1のマクラーレンチームへパワーユニットを供給するとともに、HFDPからF1ドライバーを輩出する育成プログラムを始動。2015年より松下信治がGP2に参戦したのに続いて、2016年より福住がフランスのARTグランプリと契約してGP3に参戦した[5]。5月に開幕したGP3第1戦スペインで行われたデビュー戦で3位表彰台を獲得[6]。第8戦マレーシア2位、最終戦アブダビ3位などの成績を収め、シリーズランキング7位となる。2017年は開幕戦スペインでGP3初優勝[7]。第7戦スペインでも優勝し、全15レース中6度の表彰台を獲得してシリーズランキング3位で終えた[8]。

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ジョルジオ・ペトロシアン – Wikipedia

ゲヴォルグ・”ジョルジオ”・ペトロシアン(アルメニア語: Գևորգ Պետրոսյան, ラテン文字転写: Gevorg “Giorgio” Petrosyan、1985年12月10日 – )は、アルメニア移民イタリア国籍の男性キックボクサー。アルメニア・ソビエト社会主義共和国エレバン出身。Fight1所属。K-1 WORLD MAX 2009・2010世界王者。GLORY世界ライト級スラムトーナメント2012優勝。ONE Super Seriesキックボクシングフェザー級WORLD GP 2019優勝。 K-1史上唯一のK-1 MAX連覇、そしてGLORY、ONE Championshipでトーナメントを制覇するなど約10年間70kg級の世界トップに君臨し、キックボクシングのパウンド・フォー・パウンド最強と評された。「神の目」と称されるほど相手の攻撃を完璧に見切る防御技術の高さと頭脳的な戦いで相手を完封する闘いぶりから「ザ・ドクター」の異名を持つ[1][2]。 アルメニア・ソビエト社会主義共和国(現:アルメニア共和国)のエレバンに生まれ、13歳のときにイタリアに移住し、ブルース・リーとジャン=クロード・ヴァン・ダムの映画を見て14歳からムエタイを習い始め、16歳の時に初めて試合に出場した[3]。

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千代田区役所 – Wikipedia

千代田区役所 情報 設計者 清水建設、佐藤総合計画、鳳コンサルタント 施工 清水建設 管理運営 九段PFIサービス(清水建設グループ) 構造形式 鉄骨造(一部鉄骨鉄筋コンクリート造) 延床面積 59,831.7 m² 階数 地上23階・地下3 高さ 104.26m(通信鉄塔部分含む149.96m) 着工 2004年12月 竣工

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新木伸 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “新木伸” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年3月) 新木 伸(あらき しん、1968年 -)は、ライトノベル作家・キャラクター作家である[1]。東京都生まれ。 東京都の池袋近郊出身で、幼少期は自転車で池袋で遊んでいた[2]。ゲーム雑誌でのライターとしての執筆活動を行っていた時期があり、小説執筆歴があったことを機に、1992年の雑誌連載から作家デビューを果たした[2]。 1994年、電撃文庫から単行本作家デビューを果たした[2]。 作品一覧[編集] 小説[編集] オリジナル作品[編集] ヴァルツァーの紋章(1994年2月 –

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ヘンリー・ハドソン橋 – Wikipedia

ヘンリー・ハドソン橋 (Henry Hudson Bridge) は、ニューヨーク市のスパイテン・ダイヴィル川に架かる鋼製アーチ有料橋である。マンハッタン区インウッドとブロンクス区スパイテン・ダイヴィル (en) を結んでおり、ヘンリー・ハドソン・パークウェイ (en, NY 9A) が橋上を走っている。マンハッタン側(南側)では、このパークウェイ (en) はインウッド・ヒル・パーク (en) 内を通過する。商用車(商品輸送車、客員運搬車、トラック、バス)はこの橋の通行を認められていない(一般的に商用車のパークウェイの走行は認められていない)。 建設中の橋(1936年6月) 北向きに見た橋の下部 この橋はデビッド・スタインマンによってコロンビア大学における1911年の土木工学の博士論文中で設計された[1][2]。その名前は、ヘンリー・ハドソンが1609年にハーヴ・ミーン号によって周辺の水域を航海しこの橋付近に停泊したことを記念して名付けられた[3][4]。1936年の開業時、この橋は世界最長の鈑桁アーチ橋 (plate girder

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みずほの自然の森公園 – Wikipedia

みずほの自然の森公園(みずほのしぜんのもりこうえん)は、栃木県宇都宮市西刑部町と平塚町にまたがる公園[4]。全国都市緑化フェアの会場跡地に整備された公園で[4][5]、家族連れをはじめとする市民の憩いの場や、各種イベント会場として利用されている[5]。 当初は宇都宮競輪場の移転候補地として浮上し、競輪場を核とした運動公園として整備予定であった[8]が、財政問題から競輪場の移転は凍結[9]・中止となり[10][11]、既存の平地林を生かした公園となった。 宇都宮競輪場の移転計画(1991-2000)[編集] 1991年(平成3年)4月22日、宇都宮市長の増山道保は宇都宮競輪場の郊外移転を表明した[12]。市中心部に位置する競輪場は周辺道路の渋滞の原因になっており、移転後の跡地は副都心としての活用が可能と目されていた[12]。翌1992年(平成4年)6月17日には、新しい競輪場をグリーンドーム前橋のような競輪以外にも多目的に利用できる施設にしたいと増山は表明した[13]。1993年(平成5年)8月17日、市は宇都宮市営競輪場移転計画審議会に移転先や施設内容を諮問し[14]、1994年(平成6年)3月28日に審議会は、競輪場を大規模公園の1施設とすることや、公園の規模を30 ha とすることを盛り込んだ中間答申を取りまとめた[15]。1996年(平成8年)1月26日、市は瑞穂野地区に、競輪以外に陸上競技やサッカーも開催できるメーンスタジアム、コンベンションやイベントなどが開催できるドーム型多目的施設、サブグラウンドなどを備えた、仮称「南部総合運動公園」を約260億円かけて整備する計画を発表した[8]。同時に、2000年(平成12年)の全国都市緑化フェアの栃木県開催が内定したことから、その会場として利用することも公表した[8]。移転候補地となった瑞穂野地区では、地域活性化になるとして賛同する地権者が多かった一方[16]、1997年(平成9年)5月8日に競輪場建設に反対する会を立ち上げ、反対運動をする人もいた[17]。 こうした中、市は1997年(平成9年)1月17日に宇都宮市都市計画公園として「宇都宮市総合運動公園」の計画を決定し、横浜オリンピック構想ではバレーボール競技の会場の1つとして名前が挙がった[18]が、同年8月12日に、総合運動公園の建設計画凍結を含む財政構造改革推進計画を発表した[9]。1998年(平成10年)12月10日、市は反対する会との間で、競輪場移転に関して住民の意向を尊重する代わりに、住民は全国都市緑化とちぎフェアに協力することで合意した[19]。 1999年(平成11年)、宇都宮市長に就任した福田富一は、競輪場の現施設での事業継続を6月の宇都宮市議会で表明し、当面は移転計画の凍結を続けることとした[20]。同年、総合運動公園としての行方が定まらないまま、全国都市緑化とちぎフェア(マロニエとちぎ緑花祭2000)の会場として着工し、9月議会で、競輪場の移転問題を含めて緑花祭終了以後に計画を見直すことが発表された[20]。翌2000年(平成12年)9月初頭、福田は競輪場移転の中止を正式に決定した[10][11]。同年9月9日にマロニエとちぎ緑花祭2000が開幕し、11月5日まで開かれた。 暫定利用(2001-2007)[編集] 2001年(平成13年)2月28日、宇都宮市総合運動公園の整備のあり方を検討する懇談会の初会合が開かれた[22]。その後、平地林を生かした自然とのふれあいや散策などを公園のコンセプトに設定した[23]。 2001年(平成13年)4月、整備工事が始まるまでの暫定措置として、(仮称)宇都宮市総合運動公園が一般開放された[22][24]。園内での大型イベントの開催が可能となり[24]、毎年、連合栃木が県メーデー中央大会を開催するようになった[25][26][27][28]。2005年(平成17年)11月6日には、朝日新聞の販売所で結成する栃木県朝日会が朝日新聞読者フェスティバルを開催し、2.5万人を集めた[29]。 開園後(2007-)[編集] 2007年(平成19年)4月1日、みずほの自然の森公園として正式に開園した[4]。2011年(平成23年)度より指定管理者制度を導入し[30]、非公募で特定非営利活動法人みずほのに管理運営を任せている[31]。市は年間27,386千円の経費削減効果があるとしている[30]。 2017年(平成29年)2月5日、「2016宇都宮シクロクロスシリーズinみずほの自然の森公園」の会場となり、地元選手の小坂光(宇都宮ブリッツェン)がカテゴリー1(男子トップカテゴリー)で優勝した[32]。 2021年(令和3年)6月、新型コロナウイルス感染症の流行で思うように営業できない屋台業者が駐車場を借りて「お祭り屋台大集合」と称するイベントを開催した[33]。 マロニエとちぎ緑花祭2000[編集] マロニエとちぎ緑花祭2000は、2000年(平成12年)9月9日から11月5日まで開かれたイベントである。正式名称は「第17回全国都市緑化とちぎフェア」であり、宇都宮市総合運動公園(後のみずほの自然の森公園)に設けられた「うつのみや会場」と、壬生総合公園(壬生町総合公園)に設けられた「みぶ会場」の2箇所で開催された。総合テーマは「つなぐ緑 つくる緑 こころの緑」で、うつのみや会場は「森と健やかな暮らし」、みぶ会場は「子どもと花とまちづくり」を個別テーマに掲げた。目標入場者数は「おおむね100万人」とされ、9月中は1日1万人を切ることもあったが、メインイベントである平成12年度全国都市緑化祭(10月5日)以降は入場者数が増え、最終的には1,423,950人が入場した。マスコットキャラクターはくさかんむりをモチーフにした「ぱなぱな」、イメージソングは財津和夫の楽曲「ひまわりの家」(映画『クレヨンしんちゃん 暗黒タマタマ大追跡』のエンディングテーマ)の歌詞を書き換えた「ぱなぱなの歌」であった。

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