Month: May 2021

桑栄丸 – Wikipedia

桑栄丸(そうえいまる)は、海上保安庁及び海上自衛隊の掃海船、掃海艦。 試航船「桑栄丸」の誕生[編集] 「桑栄丸」は戦時標準船建造計画に基づく2TM型油槽船として日東商船株式会社を船主とし、1944年(昭和19年)10月11日に浦賀船渠で起工され、同年12月10日に進水、1945年(昭和20年)1月10日に竣工した。本船が竣工後、どのような任務に従事したか明らかでないが、終戦時は因島に在泊していた。第二次大戦直後の日本の主要港湾、航路には無数の機雷が敷設されており、米海軍から掃海作業を実施するための試航船隊(掃海海面の確認航海を実施する船舶)を編成するように指示があった。「東亜丸」、「栄昌丸」、「若草丸」および「桑栄丸」の4隻が選定された。試航船は危険な任務に従事するため、モルモット船(Guinea Pig Ship)と呼称された。これらの船舶は試航船として必要な改装が実施され、触雷時に乗員を保護するための緩衝材の取り付け、機関の遠隔操作化、浮力材としての木材の積載、舷外電路の装備等が行われ、桑栄丸の工事は1946年(昭和21年)1月末に完了した。また、バラストとして海水3000tが搭載された。桑栄丸は第二復員省呉地方復員局所属となり、広島湾で米海軍指導の下に試航訓練を実施し、昭和21年2月中旬から本格的試航を開始した。昭和21年9月5日、若草丸が機雷を処分した際、船体及び機関に相当の被害を受けた。そのため各試航船は浮力タンクの増設や小型排水ポンプの搭載など安全対策工事を実施した。その後、掃海業務の進捗により掃海部隊は逐次規模を縮小していった。試航船も東亜丸と若草丸が試航船任務を解除され船舶運営会に返却された。 海上保安庁時代[編集] 1948年(昭和23年)1月1日に復員庁が廃庁となり掃海業務は運輸省に移管され、桑栄丸は栄昌丸とともに運輸省に移管された。同年5月1日、海上保安庁が開設され、掃海業務も同庁に移管された。両船の所属も海上保安庁に移管されることとなり、昭和23年11月15日、呉掃海部所属となった。栄昌丸はMS-31、桑栄丸はMS-32の番号が与えられた。船首に船名と番号を標記し、さらに船橋前面には注意喚起のため「掃海船」と表記していた。1949年(昭和24年)11月29日、栄昌丸が試航船任務を解除され、ただ1隻残った桑栄丸は引き続き全国各地の航路啓開任務に従事した。 1950年(昭和25年)3月、昭和天皇が四国へ行幸された際、帰路の3月31日、御召船「山水丸」に乗船された天皇は呉、下関掃海部の掃海船隊を非公式ながら親閲された。この日、海上はかなりの時化であったが、桑栄丸は先頭船として31隻の掃海船を率いて反航する山水丸に乗船された天皇の親閲を受けた。 昭和25年6月1日、海上保安庁に航路啓開本部が設置され、横須賀、呉、大阪など全国9ヵ所に航路啓開部が置かれた。桑栄丸は同日付で呉航路啓開部所属となった。7月から日本海側の航路、港湾の試航任務に従事したが、8月の台風により、秋田県船川港で座礁してしまった。修理を経て1951年(昭和26年)4月、極東米海軍の要請で朝鮮水域の試航任務に派遣され、釜山、仁川など各地で試航任務に従事した。 保安庁警備隊・海上自衛隊時代[編集] 1952年(昭和27年)8月1日、保安庁警備隊が発足、海上保安庁航路啓開本部および各航路啓開部は保安庁に移管。掃海船艇も桑栄丸以下53隻が移管された。同年11月1日、呉航路啓開部に 編入された。 桑栄丸は戦後、日東商船より用船し、試航船として使用してきたが、昭和28年初頭に日東商船が本船の用船契約を解除しタイに売却する意向を示してきた。しかし、警備隊唯一の大型試航船の桑栄丸を失うと試航任務に重大な支障を来すこととなるため、保安庁警備隊では日東商船と交渉し1953年(昭和28年)3月2日、本船を8000万円で購入した。同年9月16日、警備隊の組織改編により航路啓開隊が廃止となり、呉地方基地隊に編入された。1954年(昭和29年)7月1日、防衛庁が設置され、海上自衛隊が発足し、同日付で艦種類別が改正され掃海艦の類別が設けられたため桑栄丸は掃海艦に分類された。同年10月1日、長官直轄部隊の第1掃海隊群が新編され、桑栄丸は直轄艦として編入され、試航任務のみならず、掃海母艦としての任務にも従事した。同年12月1日、艦名を「桑栄」と改めた。 1957年(昭和32年)9月1日の訓令により自衛艦に艦種記号および番号が付与されることとなり、掃海艦にはGP(Guinea Pig の意)が付与された。しかし、番号は掃海艦は桑栄しかいなかったため付与されなかった。同年10月2日に東京湾羽田沖で実施された海上自衛隊初の観艦式には観閲部隊の観閲付属艦として参加した。なお、これが桑栄にとって最初にして最後の観艦式参加であった。1960年(昭和35年)10月1日、海上自衛隊艦船の類別区分が改正され、桑栄にも艦番号441が付与された。 1961年(昭和36年)9月1日、第2掃海隊群が新編され桑栄は直轄艦として編入。掃海母艦としての支援任務のほか、輸送任務、潮流観測任務にも従事した。 しかし、戦時急造船だったため、建造後18年経過すると船体、機関の老朽化が著しいため、1963年(昭和38年)3月1日、呉地方隊に編入。同31日、自衛艦籍から除籍され、波乱に満ちた18年の生涯を閉じた。 海上自衛隊の艦船では珍しく、除籍まで漢字名のままであった。 参考文献[編集]

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ガガガを聴いたらサヨウナラ – Wikipedia

「ガガガを聴いたらサヨウナラ」(がががをきいたらさようなら)は、ガガガSPの10枚目のオリジナルアルバム。2014年12月10日発売。発売元は、avex entertainment。 アルバムのコンセプトは、「大人の本気と至高のおふざけが詰まった痛快なアルバム」。 「パンクロックは、御遊びではなく、大人の本気を見せつけること」ということで、ガガガSPを聴いたらほかの音楽は聴けなくなる(ほかの音楽とはサヨウナラ)というメッセージが込められている[1]。 アルバム名の由来は、報道写真家の一ノ瀬泰造が残した書簡などをまとめた書籍「地雷を踏んだらサヨウナラ」[1]。 発売直前企画[編集] 「10日間連続でライブ映像を配信したる!!の巻」と題して2014年12月1日からアルバムリリースまでの12月10日まで毎日21:00に2014年の主なライブ映像を配信するという企画が行われた。ライブ映像は、ガガガSP公式YouTubeチャンネルにて公開された。 ガガガを聴いたらサヨウナラ アルバムタイトル曲。 君がみた くそくらえ節 10代の負けた感を表現した曲。30歳を超えても(アルバムリリース当時34歳)消えないという。『30歳を過ぎてから考えたらそんなに悪いものではなかったと思うが、10代の頃はすごくドロドロした「クラスメイトみんな嫌い!」みたいな、その敗北感みたいなのは30歳を超えても感じてしまう』とアルバムリリースのインタビューでコメントしている。 何言っとんのかわかりまへんわ 作詞・作曲:山本聡 戻らない夏 作詞・作曲:コザック前田 誰もが 作詞・作曲:山本聡 晩年の青春 作詞・作曲:桑原康伸

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がんがら火祭り – Wikipedia

がんがら火祭り(がんがらひまつり、英: Gangara Fire Festival)は、大阪府池田市で毎年8月24日に開催されている祭りである[1][2][3]。がんがら火(がんがらび)[4][5][6]、愛宕火(あたごび)[4][7]、愛宕火祭り(あたごひまつり)[2][8]ともいう。 火難厄除けと家内安全を願って行われる火祭りで、主に城山町と建石町の町会によって運営される[9][10][11]。城山町の町会では、夜に、五月山の中腹にある愛宕神社から神火をもらい、山の西側の山腹にある神社鳥居下に「大一」の火文字をつけられた後、神火が山の麓で大松明に移され、若者らが大松明を担ぎ、八丁鉦を打ち鳴らしながら、市内のおよそ 3 キロメートルの道のりを練り歩く[9][4][7][10]。 建石町の町会では、山の東側の山腹にある大明ヶ原に、「大」の火文字を愛宕神社の神火で灯す。同町にある星の宮に集まった子どもらが青竹の松明を持って山の麓まで歩き、代表の者が山を登り、火文字の神火をもらった後、麓にいる子どもらの松明に神火を移し、星の宮まで戻ってくる。この松明は、子ども松明と呼ばれる[10][1][12]。祭りの名称は、打ち鳴らされる八丁鉦の音に由来する[7]。大松明は、高さおよそ 4 メートル、重さおよそ 100 キログラムのもので、2本1組で繰り出される[4]。最寄り駅は、能勢電鉄妙見線の絹延橋駅である[3]。 江戸時代の1644年(正保元年)に、五月山で中村屋・多田屋・板屋・丸屋の4人が火を灯したところ、その火を見た人々の間で「池田の地に火の神、愛宕が飛来した」と話題になり、多くの人が山に押し寄せたことが、愛宕火の起源であるとされる[4][7]。五月山の文字火に言及した史料のうち最も古いものは、1819年(文政2年)の史料である[4]。1928年(昭和3年)には、大松明を担いで市内を練り歩くようになる。この頃の大松明は 60 キログラム程度であった[4]。 第二次世界大戦の戦中や戦後は、愛宕神社に神火をもらいに行くだけというように、祭りの規模が縮小されていたが、1948年(昭和23年)には、戦前よりも規模が拡大され、大松明の数が1基から2基に増えた。しばらくの後に子ども松明が加わった[4]。1978年(昭和53年)10月21日には、池田市の重要無形文化財祭礼行事に指定されている[4]。2010年(平成22年)1月13日、「池田五月山の愛宕火(がんがら火)」として、大阪府の無形民俗文化財に指定された[1][13]。

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高橋徳男 – Wikipedia

高橋 徳男(たかはし とくお、1936年7月 – 2009年6月3日)は、日本のフランス料理人。 1936年、東京出身。 1959年、志度藤雄の名店「花の木」(銀座)を振り出しに、1965年レンガ屋(銀座)、渡仏して1969年ラセール(Lasserre(フランス語版)、パリ)、1971年トロワグロ(Troisgros(フランス語版)、ロアンヌ)、ドゥブリュ(パティスリー、パリ)など名店で修行。 帰国後、1973年レンガ屋(代官山)シェフ、ラ・マレ(La Maree、原宿)シェフ、1983年4月アピシウス(Apicius、有楽町)シェフ、1996年9月同店グランシェフを歴任。一時体調を崩して勇退、回復して1999年パ・マル(Pas Mal、神田、2006年閉店)、2003年パ・マル(Pas Mal、六本木)を開店。 エピソード[編集] トロワグロは、後輩にあたる井上旭の紹介。ジャン・トロワグロ(Jean-Baptiste Troisgros、1898 – 1974)の薫陶を得て、ポワソニエ、ロティシエ、ソーシエなど主要部門長を担当。同時期、ベルナール・ロワゾー(Bernard Loiseau、1951年1月13日 – 2003年2月24日)やギィ・サボォワ(Guy Savoy(フランス語版)、1953年7月24日

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