高田山惠助 – Wikipedia

高田山 惠助(たかだやま けいすけ、1917年3月25日 – 没年不明)は昭和時代の大相撲力士。白玉部屋→芝田山部屋→高田川部屋→高砂部屋所属。本名は金野 恵助。最高位は東十両8枚目。得意技は右四つ、寄り。

岩手県東磐井郡千厩町(現・一関市)出身。同郷の横綱宮城山が引退直後に部屋を興した白玉部屋(のち芝田山部屋)に入門。1931年5月場所に初土俵を踏んだ。当初の四股名は師匠が以前名乗った「岩手川」。幕下時代の1940年1月場所に「高田山」と改名した。1941年5月場所に十両に昇進。この場所8勝7敗と勝ち越した。翌1942年1月場所には東十両8枚目まで番付を上げたが、右膝を捻挫して途中休場。幕下に陥落、その後は勝ち越すことなく1944年1月場所で廃業した。十両陥落後の1943年に師匠の宮城山が死去、高田川部屋に移籍、更に高田川部屋の師匠も間もなく死去したため、高砂部屋に移籍した。

主な成績[編集]

  • 通算成績:74勝83敗18休 勝率.471
  • 十両成績:11勝10敗9休 勝率.524
  • 現役在位:21場所
  • 十両在位:2場所

場所別成績[編集]

高田山 惠助
春場所 三月場所 夏場所 秋場所
1931年
(昭和6年)
x x (前相撲) x
1932年
(昭和7年)
x x x x
1933年
(昭和8年)
x x x x
1934年
(昭和9年)
x x 西序二段20枚目
2–4 
x
1935年
(昭和10年)
東序二段22枚目
1–5 
x 東序二段30枚目
4–2 
x
1936年
(昭和11年)
西三段目32枚目
5–1 
x 東三段目7枚目
4–2 
x
1937年
(昭和12年)
東幕下25枚目
2–0–9 
x 東幕下21枚目
5–8 
x
1938年
(昭和13年)
東幕下31枚目
8–5 
x 東幕下15枚目
2–5 
x
1939年
(昭和14年)
西幕下27枚目
4–3 
x 東幕下16枚目
4–4 
x
1940年
(昭和15年)
西幕下15枚目
4–4 
x 西幕下7枚目
5–3 
x
1941年
(昭和16年)
東十両14枚目
8–7 
x 東十両8枚目
3–3–9[1] 
x
1942年
(昭和17年)
東幕下3枚目
3–5 
x 西幕下10枚目
2–6 
x
1943年
(昭和18年)
西幕下24枚目
2–6 
x 東幕下42枚目
3–5 
x
1944年
(昭和19年)
東幕下51枚目
引退
3–5–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞:=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級:幕内 – 十両 – 幕下 – 三段目 – 序二段 – 序ノ口
幕内序列:横綱 – 大関 – 関脇 – 小結 – 前頭(「#数字」は各位内の序列)
  • 岩手川(いわてがわ)1931年5月場所 – 1939年5月場所
  • 高田山 惠輔(たかだやま けいすけ)1940年1月場所 – 1941年1月場所
  • 高田山 惠助(たかだやま けいすけ)1941年5月場所 – 1944年1月場所

参考文献[編集]

小池謙二『大相撲星取大鑑』昭和編第1巻、医聖社、1986年

  1. ^ 右膝関節捻挫により6日目から途中休場

関連項目[編集]