Month: March 2022

三国駅 (大阪府) – Wikipedia

三国駅 神崎川対岸から 三国駅(みくにえき)は、大阪府大阪市淀川区新高三丁目にある、阪急電鉄宝塚本線の駅。駅番号はHK-41。 開業時は現駅舎の東側に相対式ホーム2面2線[2]を有する地上駅として存在しており、旧駅舎から駅北側の神崎川橋梁にかけて、30km/h制限となる急カーブ区間であった[3]。しかも制限解除位置がホームに入った先にあり、駅北端にある改札に最大限近づけるため、ホームうしろ寄り(北寄り)に停車する梅田方面(南)行きの普通や準急[4]は、駅を発車する際に30km/hまで加速したら一旦加速をやめ、制限区間を抜け出してから再加速と無駄な運転操作が必要だった。この運転操作は駅停車時の停止位置を梅田寄り(南寄り)に移動させたことで解消されたが、1990年代に曲線改良を兼ねた高架化工事を実施、駅舎を現在の場所へ完全移転させることにより速度制限自体を解消した。高架化後は最高速度(当初は90km/h、のちに100km/hに向上)で通過できるようになり、後にダイヤ改正が実施されている。 島式ホーム1面2線を有する高架駅。分岐器や絶対信号機を持たないため、停留所に分類される。ホームは3階にある。改札・コンコースは2階にあり、駅ビル「Viewl(ヴュール)阪急三国」と改札外で直結している。 のりば[編集] 利用状況[編集] 2019年(令和元年)のある特定日の1日乗降人員は25,449人である。阪急電鉄全体では第31位である。 近年の1日利用状況推移は下記の通り。 年度 特定日 1日平均乗車人員[7] 出典 乗降人員 乗車人員 1990年 32,283 16,182 19,251 [8] 1991年

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スターバト・マーテル (ロッシーニ) – Wikipedia

『スターバト・マーテル』(Stabat Mater)は、ジョアキーノ・ロッシーニが作曲した声楽作品。現在知られる形で完成したのは1841年で、1842年にパリで初演して大きな反響を得た。全10曲からなり、演奏時間は約60分。 1829年に『ギヨーム・テル』を初演して以来ロッシーニはオペラ作曲の筆を折り、ほとんど作曲することがなくなったが、本曲はそれ以降に書かれた数少ない作品のひとつである。 作曲の経緯[編集] 1831年、ロッシーニは友人でパリの銀行家のアレクサンドル=マリー・アグアド[注 1]とともにスペインのマドリードに旅行した。そこでアグアドの友人のフランシスコ・フェルナンデス・バレラという聖職者からスターバト・マーテルの作曲を依頼された。 当時はペルゴレージの『スターバト・マーテル』に強い人気があり、ロッシーニはあまり作曲に乗り気ではなかった。依頼を引きうけたが、6曲(現行版の第1曲と第5-9曲)のみを作曲し、残る6曲[注 2]はジョヴァンニ・タドリーニ(英語版)に代作を頼んだ。この合作版(1832年版)は1833年の聖金曜日にマドリードで初演されたが、初演をロッシーニ本人が聞くことはなかった。ロッシーニはこの版を出版も再演もしなかった。 依頼者のバレラの死後、その楽譜をパリの出版者であるオラニエ(Aulagnier)が入手して出版した。ロッシーニはその半分が自作でないことを気にして、自力で全曲を完成させることを決断した。この新しい『スターバト・マーテル』の版は全部で10曲からなり、1841年末までに完成した。 1842年1月7日にパリのイタリア劇場[注 3]で初演され、聴衆は熱狂的に迎えた。その年のうちにヨーロッパ29都市で上演された。 イタリア初演は同年3月にボローニャで行われ、ドニゼッティが指揮した。またヴェルディはいくつかの挿入アリアを書いた。 なお、元の合作版についてはボーカルスコアしか残っていなかったが、再オーケストレーションをほどこしたバージョンの録音がNAXOSから2016年にリリースされた[10]。 『スターバト・マーテル』は初演当時から非常に人気があり、現在も上演されているが、その一方で「オペラ的」、すなわち旋律に富み外向的で、宗教曲としての真摯さを欠くという批判が行われるようになった。しかしながら本曲の構成やオーケストレーションや合唱はオペラのものとは全く異なっており、オペラ的であるという批判は当たらない。 別の批判として、曲が歌詞の意味を無視しているというものがある。 曲の構成[編集] 日本語の題名は『声楽曲鑑賞辞典』によった。 Stabat mater dolorosa(悲しみに沈める聖母は涙にむせびて、第1節)序曲、Andantino

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第六感 – Wikipedia

第六感(だいろっかん、sixth sense)とは、基本的に、五感以外のもので五感を超えるものを指しており[1]、理屈では説明しがたい、鋭くものごとの本質をつかむ心の働きのこと[1]。一般にはヒトの視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感以外の感知能力をいう[2]。ヒト以外の動物にみられる視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感以外の感知能力(微弱な電場などの感知能力)を表現することもある[3]。 第六感という言葉は、基本的に、五感を超えるもので、物事の本質を掴む心の働きのことを指している[1]。純粋な日本語と思われているが、西洋的な概念であり、この言い方を始めたのは、17世紀末のイギリスの哲学者シャフツベリとされている。 類義語として、インスピレーション、勘、直感、霊感、などがある[1]。 超感覚的知覚(Extrasensory perception、ESP、超能力の一種)が類義語として扱われることもある。 自身や家族等の生命に危険が迫った際に「虫の知らせが起きた」と認識されたり、電話がかかってくる前に予知したり、その電話が誰から掛かって来るかを予知したという主張がなされる場合がある。 数百キロ離れた水場に向かって迷わず移動するある種の動物は、人間より遥かに優れた嗅覚で水の匂いを嗅ぎ当てているとされる[要出典]。 また、人間においての「嫌な予感」というものは、人間に備わっている野性的な本能から、機械の部品の変形による微かな摩擦音やコンロのガスの臭いが若干違うなど「いつもと違う」ということを無意識のうちに感じ取っているためだとされる[要出典]。 これについては、チェルノブイリ原発の爆発事故2日前から、一部の作業員で「何か落ち着かない」と自覚していたとインタビューに答えていたという[要出典]。 中村天風は霊感を、五感を超えているところから「第六感」とも呼んだ。その身近な例としては「虫の知らせ」というのがある[5]。もともと人間として生命を得たからには、誰でもこの感覚を持っているのだが、文明人になるにしたがって、この働きが弱くなってしまった[5]、「だからこの霊感(自覚正念)を磨けば、無念無想になれる」と中村は述べた[5]。中村は意識を「肉性意識」と「心性意識」と「霊性意識」に分類し、3つめの「霊性意識」の中に第六感(霊感)も含まれているとした[5]。 第六感の実体の研究[編集] 電気[編集] 微弱な電気を感じ取る能力が「第六感」と捉えられることがある。生物の一部には電位の変化を感知する能力を持つものが知られており、例えばサメにあるロレンチー二器官は1960年代に微弱な電気(電場)を感知できる感覚器であることが判明している[3][6]。 磁気[編集] 詳細は「磁覚」を参照 磁気(地磁気)を感じ取る能力(磁覚)が「第六感」と捉えられることもあり、2019年3月、東京大学やカリフォルニア工科大学などの共同研究チームがヒトには地磁気を大まかに感じ取る能力があるとする研究成果を米国の専門誌に発表した[2]。なお、地磁気を感じる磁覚については渡り鳥などの鳥類、サケ、ミツバチなどにその能力が見られる[2]。 動物に見られる五感以外の感覚[編集] 熱[編集] 蛇は、熱の方向を感じ取るピット器官を持つ。

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三宮駅 – Wikipedia

三宮駅(さんのみやえき)、は、兵庫県神戸市中央区にある神戸新交通・神戸市交通局(神戸市営地下鉄)の駅である。 当項目では、阪神電気鉄道(阪神)・阪急電鉄(阪急)の駅である神戸三宮駅(こうべさんのみやえき)についても説明する。 概要 神戸市の都心・三宮に位置するターミナル駅である。西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線(JR神戸線)の三ノ宮駅を含め各線と接続する交通の要衝となっており、各社線とも兵庫県内で最も利用客が多い。駅周辺は百貨店や商業施設、飲食店などが集積しており、県内及び市内最大の繁華街を形成している。 当初は東海道本線と山陽本線の境界である神戸駅が神戸側のターミナル駅として建設された経緯があったが、三宮駅に私鉄や地下鉄の路線が集積することで、戦前からの神戸市の中心部であった新開地(神戸駅西側の地域)から三宮へ神戸市の都心が移る要因のひとつともなった。「私鉄王国」と呼ばれていた地域に位置することもあり、神戸新交通を除く各路線が東西に並行するように走っている。各路線のホームや駅舎の規模を合わせると、県下最大規模の駅である姫路駅を上回る。阪神と阪急の駅も、もともとは三宮駅という名称であったが、神戸市の中心駅であることをより明確化するために両社は2014年に「神戸三宮駅」に名称変更を行った[1][2][3]。 当地区は神戸市の都心・三宮の再整備プロジェクトの中心とされており、これまで市、鉄道各社、有権者を交えた再開発の検討が行われている。市が発表した「神戸三宮「えき≈まち空間」基本計画」では[4]、「三宮クロススクエア」として三宮駅周辺のフラワーロード、中央幹線への一般車両乗り入れを無くし歩行者専用空間に改造するとされており[5]、各駅ビル等の再開発が進められている。2013年・2014年の阪神・阪急三宮駅の駅名改称により、JR、新交通・地下鉄、阪神・阪急がそれぞれ違う駅名を称している当駅だが、同計画では各社6つの駅があたかも一つの大きな「えき」となるような空間を目指しており、各社ばらばらとなっている駅名を「神戸三宮駅」に統一したい意向を示している[6][注 1]。 利用可能な鉄道路線 各鉄道路線の三宮駅の駅位置を正縮尺で描いた地図。 山陽電気鉄道(山陽)の列車が神戸高速線を介して阪神・阪急両方の駅に発着する関係上、神戸高速線では、阪神・阪急の神戸三宮駅を区別する意味で社名を冠して「阪神神戸三宮駅」「阪急神戸三宮駅」と案内している[注 2]。 三宮駅 神戸新交通 神戸市交通局(神戸市営地下鉄) 神戸三宮駅 阪神電気鉄道 阪急電鉄 接続路線 当駅は下記の路線との乗り換えが可能となっている。 西日本旅客鉄道(JR西日本)

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クリスチャン・バケーロ – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 クリスチャン・バケロ クリスチャン・バケーロCristhian Vaquero ワシントン・ナショナルズ (マイナー) 基本情報 国籍 ( ドミニカ共和国へ亡命) 出身地  キューバハバナ 生年月日 (2004-09-13) 2004年9月13日(17歳) 身長体重 6′ 3″ =約190.5 cm180

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ニーナ・ベルベーロヴァ – Wikipedia

ニーナ・ベルベーロヴァ(Нина Берберова 1901年7月26日 – 1993年9月26日)は、ロシア生まれの作家、編集者、伝記作家、翻訳家[1]。 生い立ち[編集] ベルベーロヴァはロシア帝国のサンクトペテルブルクで生まれた[1]。父はアルメニア系で中央省庁の官僚であり[2]、アルメニア使徒教会の信者である。母はロシア人である。祖父イヴァン・ベルベロフは医師であった。サンクトペテルブルクの学校に通ったあと1919年にベルベローヴァは南部のロストフ・ナ・ドヌに移って、現地の大学に約一年間あまり通って考古学、美術史、ギリシャ語、言語学を学んだ[2]。けれど1920年にサンクトペテルブルクに帰還した。翌年1921年に初めて詩を発表して、サンクトペテルブルクの文壇サークルに注目された。 ベルベーロヴァは20歳だった1922年6月に恋人であるヴラジスラフ・ホダセヴィチとともにソ連を離れて西ヨーロッパに移住した。以降、アメリカ合衆国に渡る1950年まで西ヨーロッパに居住した。イタリアのソレントや、チェコスロバキア、ドイツのベルリンの滞在を経て1925年にフランスのパリに移って約25年間居住した。ベルベーロヴァは移民先で散文デビューして短編や小説を発表した。ベルベーロヴァはロシア亡命者の文壇サークルに所属して、亡命者の出版物「ノヴィドーム」で共編者を勤める。さらに週刊誌「ロシア思想」や、日刊紙「最新報道」に詩や散文を寄稿した[1]。 ベルベーロヴァは1932年にホダセヴィチと別れて、1936年にニコライ・マキエフと再婚したが1947年に離婚する。ベルベーロヴァは最終的にフランスを1950年に発ってアメリカ合衆国に移民し、1959年にアメリカ国籍を取得した。1954年にピアニストのコシェヴィツキーと再婚した。米国ではベルベーロヴァはヴォイス・オブ・アメリカのラジオに勤めた。その後、1958年から1963年までイェール大学に語学教員として着任した[1]。1963年にプリンストン大学に移って、文学を講義して、1971年に退職した[1]。ニュージャージー州プリンストンからペンシルベニア州フィラデルフィアに移った。 ベルベーロヴァはアレクサンドル・ボロディン、アレクサンドル・ブローク、ピョートル・チャイコフスキーの伝記を著した[1]。また1969年に自らの自伝「The Italics are Mine」を発表した。レフ・トルストイの小説アンナ・カレーニナを英訳して質の高さから絶賛された。また ロマン・ロラン、T・S・エリオット、コンスタンディノス・カヴァフィスの作品をロシア語訳してフョードル・ドストエフスキーの作品をフランス語訳した[1]。ベルベーロヴァは1993年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで死去した。 Останні і перші 1930 Повелителька 1932

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完顔襄 – Wikipedia

完顔 襄(かんがん じょう、天眷3年(1140年) – 泰和2年閏12月10日[1](1203年1月24日))は、金の皇族。女真名は唵。昭祖石魯(太祖阿骨打の曾祖父)の五世の孫。祖父は東南路都統の習古廼。 参知政事を務めた阿魯帯の子として生まれた。18歳に父の爵位を承継した。大定元年(1161年)、左副元帥の完顔謀衍に従って移剌窩斡の反乱を鎮圧するのに功績を挙げ、亳州防禦使に上った。大定3年(1163年)、潁州・寿州都統に転じて南宋の北伐軍を迎撃、甲士2千人を率いて潁州を奪還した。南宋との和議成立後は、拱衛直都指揮使・殿前左衛将軍・殿前都点検などを拝命され、次いて東北路招討都監・恤品路節度使・曷懶路兵馬都総管などを務めた。大定13年(1173年)、南宋に使行したが、金の国書を受け付ける儀礼に関する問題で摩擦が生じると、帰国した。陝西路統軍使に任ぜられ物品が賜与されており、河南統軍使に改めた。大定23年(1183年)、平章政事・蕭国公に封じられた。 大定28年(1188年)、尚書右丞相となり、戴国公に改封された。明昌元年(1190年)、平陽府知府に任ぜられており、鳳翔府知府に改めた。明昌4年(1193年)、枢密使に補任され、明昌6年(1195年)には再び尚書右丞相となり、任国公に改封された。同年11月、行尚書省事を拝命され、臨潢府に赴いた。明昌7年(1196年)2月、章宗の命によりモンゴル高原のタタル部(阻卜)討伐に乗り出し、夏にはケルレン河に至って敵を大破し、ウルジャ河(斡里札河)まで追撃してその残党を掃討した(ウルジャ河の戦い)。この時、金軍を助けてタタル部討伐に参戦したケレイト部族長のトオリルとキヤト氏族長のテムジン(後のチンギス・カン)は、完顔襄から功績を認められ、官爵が授与されている。 凱旋後は、章宗から御酒の接待を受けるとともに、玉器と佩刀が下された。また、左丞相・監修国史を拝命され、常山郡王に封じられた。同年冬、信州で起きた契丹人の反乱を鎮圧し、承安2年(1197年)には左副元帥・枢密使・平章政事として大定府に留まりながらタタルの蠢動に対処する一方、界壕の築城も監督した。承安4年(1199年)、司空の位が加わった。 泰和2年閏12月(1203年1月)、63歳で死去し、武昭と諡された。 ^ 『金史』巻11 章宗紀 泰和二年閏十二月庚戌条による。 参考文献[編集] 『金史』巻94 列伝第32

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