神錦國康 – Wikipedia

神錦 國康(かみにしき くにやす、本名:山口 健二郎(やまぐち けんじろう)、1925年8月28日-2005年10月22日)は、青森県東津軽郡奥内村(現役当時、現在の同県青森市清水)出身で、高嶋部屋に所属した大相撲力士である。得意手は右四つ、外掛け、吊り。最高位は西前頭5枚目(1953年5月場所)。現役時代の体格は180cm、96kg。 来歴・人物[編集] 15歳の時上京し、同郷の元前頭4枚目・八甲山が率いる高嶋部屋へ入門。1941年5月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、「眺望山」。 その後、1948年5月場所で新十両に昇進し、翌年1月場所にて新入幕を果たした。この時の四股名は、本名と同一の「山口」であったが、1950年5月場所より「神錦」に改名。これが功を奏したのか、同年9月場所で再入幕してからは、約7年に亘って幕内の地位を維持した。 長谷川一夫似の美男力士として知られ、同部屋の横綱・吉葉山の横綱土俵入りでは、露払いを務めた事もある。なお、吉葉山や輝昇とともに、「高嶋美男三羽烏」と呼ばれた事もあった。その美男ゆえ、現役中は独身を貫いたという。 右四つから吊りや外掛けで攻める相撲を得意としたが、右膝や右肘などの怪我により、幕内上位には定着できなかった。自己最高位で迎えた1953年5月場所では2勝13敗と惨敗している。 1957年11月場所を最後に幕内から遠ざかり、東十両22枚目で6勝9敗と負け越した1958年9月場所を以って、33歳で廃業。 その後は大阪府堺市にて、相撲料理の店「ちゃんこ 神錦」を営んだ。 2005年10月22日、逝去。80歳没。 主な戦績[編集] 通算成績:303勝311敗41休 勝率.493 幕内成績:217勝242敗19休 勝率.473 現役在位:50場所

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小田ゆりえ – Wikipedia

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第8施設群 – Wikipedia

第8施設群(だいはちしせつぐん、JGSDF 8th Engineer Group(Construction))とは、香川県善通寺市の善通寺駐屯地に主力が駐屯していた陸上自衛隊第4施設団隷下の施設科部隊。1999年(平成11年)3月29日廃止。 中部方面隊における施設科部隊として編成、その後第4施設団の隷下部隊になる。第4施設団の改編により、1999年(平成11年)3月29日に廃止された。廃止後は、同時に新設された第304施設隊、第305施設隊へ配置換えを行っている。隷属していた各中隊をそれぞれ1個中隊を2つに分割、小隊規模に縮小した上でそれぞれの施設隊隷下小隊へ。これにより各施設隊はそれぞれ縮小したとはいえ群と同様の機能を持つ施設部隊となった。なお民生協力として切り開いた峠として109峠(香川県道・徳島県道3号志度山川線)がある。この名称は日本で唯一のアラビア数字のみの峠である。”109″とは、前身の第109施設大隊のことである。 さまざまな災害派遣や国際貢献活動で活躍していた。 1960年(昭和35年)3月28日:第320地区施設隊が松山駐屯地で編成される[1]。 1961年(昭和36年)8月17日:第4施設団(大久保駐屯地)新編に伴い、同団隷下に編入。 1962年(昭和37年) 1月18日:第324地区施設隊(三軒屋駐屯地)、第325地区施設隊(善通寺駐屯地)が新編。 3月31日:第325地区施設隊が高知分屯地に移駐。 第8施設群 1973年(昭和48年)3月27日:第109施設大隊を基幹として第8施設群が善通寺駐屯地で新編。※ 編成(群本部・本部中隊、第317施設中隊~第319施設中隊、第311ダンプ車両中隊、第309施設器材中隊、第320地区施設隊(松山駐屯地)、第325地区施設隊(高知駐屯地)) 1981年(昭和56年)3月25日:第2混成団編成に伴い、第325地区施設隊を第2混成団施設隊に改編。 1985年(昭和60年)3月25日:第311ダンプ車両中隊を廃止。 1990年(平成02年)3月26日:第324地区施設隊を第350施設中隊に改編、第320地区施設隊を廃止。 1999年(平成11年)3月29日:第8施設群廃止。第350施設中隊(三軒屋駐屯地)は第7施設群第349施設中隊として再編。 廃止時の部隊編成・駐屯地[編集] 編成

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スイス・リー – Wikipedia

スイス・リー(スイス再保険、英: Swiss Re Ltd.)は、スイス・チューリッヒに本拠を置き、再保険や元受保険による保険サービスの提供を行う多国籍企業[1]。スイス証券取引所上場企業(SIX: SREN)。 設立から冷戦終了まで[編集] 1861年5月に発生したグラールスの大火災により、多数の市民が住居を失った際、大規模な災害に備える保険商品の必要性が認識され、クレディ・スイス、UBS、Helvetia Insuranceの出資により、1863年12月、チューリッヒでスイス再保険会社が設立された[2]。翌1864年、ヨーロッパ諸国の保険会社に海上・火災再保険の提供を開始、1865年に生命再保険の、1881年に事故再保険の提供を開始した[2]。1910年にアメリカ合衆国支店を開設、翌1911年にラテンアメリカに進出した[2]。 設立初期はスイス国内の火災再保険が中心であったが、第一次世界大戦の勃発時、投資の中心はすでにイギリスとアメリカ合衆国に移っており、1916年、ロンドンを本拠とするマーカンタイル・アンド・ゼネラル保険会社(Mercantile&General Insurance Company)の株式の過半数を買収しイギリス事業を強化、のちにプルーデンシャルに売却することもあったものの1996年に同社を再度買収している[2]。1923年、航空再保険の提供を開始、またニューヨークにアメリカの生命再保険事業を専門に取り扱う子会社のNorth American Reassurance Companyを設立した[2]。他方、戦間期はドイツのバイエルン再保険会社を買収するなどヨーロッパ大陸側でも積極的な契約拡大を図ったものの、ナチス・ドイツの台頭に伴い、ドイツ企業との密接な関係は一旦終わりを迎えた[2]。第二次世界大戦中、スイス連邦議会はスイス・リーに「連邦戦争保険」のテクニカル面での管理権限を与え、他方、戦争中に発生した負債は210億スイスフランを超え、10000件以上の請求が支払われた[2]。 終戦後、東ヨーロッパ地域が共産党の支配下に入ると、スイス・リーはこれらの地域での事業の大半を失ったものの、アジア地域およびオーストラリアへ投資が振り向けられ、1955年にメルボルンに、翌1956年には香港にグループ会社を設立、また再保険以外の保険事業にも投資を拡げた[2]。1964年の設立100周年では組織再編が行われ、世界75カ国の約1000社と再保険契約を締結していたが、1970年代以降も日本やラテンアメリカ地域など国際的な事業の拡大が目指され、1988年にイタリアのLloyd Adriaticoを買収、また同年スイス3位の再保険会社Union Reを買収した[2]。 近年の動向[編集] 冷戦終了後の1992年、タリンに拠点を開設しバルト地域に初進出、この時期に、狭義の再保険企業の枠を越えたリスクファイナンス企業への構造転換が模索され、1998年にキャピタル・パートナーズ部門を設立し、同部門はニューヨークとロンドンを拠点とする、スイス・リー・キャピタルマーケッツ証券(Swiss Re Capital

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テウォンメディア – Wikipedia

大元メディア(Daewon Media 韓国名: 대원미디어)は、アニメーションの企画、制作を主な事業内容とする韓国の企業である。また、日本のアニメや漫画やビデオゲームなどのローカライズも行っている。 目次 1 沿革・概要 2 作品履歴 2.1 テレビシリーズ 2.2 劇場アニメ 3 主な出版物 3.1 漫画 3.2 フィルムコミックス 4

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地球に落ちて来た男 – Wikipedia

『地球に落ちて来た男』(ちきゅうにおちてきたおとこ、原題:The Man Who Fell to Earth)は、1976年制作のイギリスのSF映画。 ウォルター・テヴィス原作のSF小説の映画化。ニコラス・ローグ監督、デヴィッド・ボウイの初主演映画。ボウイは第4回サターンSF映画賞主演男優賞を受賞した[5]。 当初、上映時間は119分だったが、1999年に139分の完全版が公開された。 あらすじ[編集] 人間に似た姿の宇宙人が乗る宇宙船が、地球からはるか離れた惑星から飛来して、ニューメキシコ州の湖に不時着する。地球人と変わらない服装・容姿をしており、見た目では宇宙人とは分からない。彼は不時着後、近くの古物商に彼のイニシャル”T.J.N.”の刻印された指輪を売る。その際、身分証明としてトーマス・ジェローム・ニュートンと記載されたイギリスのパスポートを見せる。川辺に来たトミー(トーマス・ジェローム・ニュートン)は、コップに1杯川の水を汲み、乾きを潤すように飲み干す。身なりを整えたトミーは、特許に明るい弁護士オリバー・ファーンズワースを訪ね、9つの根本的な特許を元に複合企業体World Enterprises(W.E.社)を立ち上げ、彼を社長に据える。ほどなくしてトミーは巨万の富を得る。 再びニューメキシコ州に戻ったトミーは、しがないホテルに泊まるが、エレベーター内で気絶し、同行メイドのメリー・ルーに助けられたことから彼女と親しくなる。酒好きなルーはしきりにトミーに酒を勧めるが、彼は水しか飲もうとしない。大学教授であるネイサン・ブライスは、教え子の女子学生らと肉体関係を持ちつつ、なかなか出世できない教鞭生活に飽きていた。ファーンズワースはブライスに接触した結果、彼は大学を去ってW.E.社の燃料分野の研究職に就く。 トミーはルーと同棲するようになる。ルーは半裸姿をトミーに見せるが、彼は興味を示さない。彼を教会に連れて行くことには成功するが、彼の心は故郷の星にあり、残してきた妻子を回想する[6]。2人を乗せた高級車は不時着した辺りで止まると、車から降りたトミーは記憶に留めるため写真を撮る。湖畔までたどり着き、新しい家を建てるのに絶好の場所だとトミーは言ったきり、ルーが問いかけても反応しなくなる。運転手のアーサーの助けも借りてルーはトミーを車に戻す。車中でトミーはファーンズワースに新業務である宇宙事業の開始を命じる。 ブライスはいよいよニューメキシコに移転し、トミーと同じ湖畔に住処を与えられる。対岸にはトミーがかねての計画通り新居を構えルーと同棲し、彼らは肉体関係を結ぶ仲となっている。着任したはいいが手持ち無沙汰なブライスに、ファーンズワースを通じてトミーから呼び出しがかかる。ブライスが信頼に足る部下かどうかを確かめたかったトミーだが、ブライスの反応は芳しくない。そのブライスはトミーの挙動に不信感を抱き、正体を暴くべくX線機器を密かに設置する。ブライスは住処にトミーを招き、トミーが人間ではないことを知る。ルーの待つ家に戻ったトミーは、ルーから激しく責められ、怒りに任せて本来の姿をさらす。ルーはそれでも愛そうとするが、うまく行かない。トミーはルーを残して別の場所に住み始め、そこにブライスを招き、彼に正体が割れたことや地球に来た目的(彼の惑星では水が枯渇しており、地球上に豊富に存在する水資源を宇宙船で持ち帰ること)も明かすが、人類に危害は加えないと言う。トレバーはファーンズワースが競合社のピータースから動向に注意するように警告を受けたことでW.E.社から退くように説得するが断られる。トミーが去ったルーは一人寂しく悶々とする。 W.E.社の宇宙事業は進展して、トミーらによる有人飛行計画が大々的に報道される一方で、トミーの経歴不詳が取り沙汰される。ルーはファーンズワースからトミーとの手切れ金を渡されるが、別れたくないと慟哭する。ファーンズワースとトレバーはそれぞれ2人組の侵入を受け、窓から転落死させられる。ピータースが妻と交わす会話によって、2人組は彼が仕向けたものと判明する。アーサーはピータースに寝返り、トミーを誘拐してホテルに監禁する。ホテルでトミーが見ているテレビ番組ではブライスの同僚であったカヌーチ教授が出演し、W.E.社の財政難を指摘する。トミーは医師の手で大がかりな検査を受ける。 ルーはブライスから[7]トミーとの再会をほのめかされるが、気が進まない。トミーはさらに検査を継続される。ルーはトミーの元を訪れ、久々に結ばれるが、どちらもお互いを愛していないと告げる。ルーはトミーに医師団に対して正体を明かすことを勧めるが、トミーは応じない。医師団はトミーの意に反してさらに検査を続ける[8]。トミーはすっかりアルコール中毒になり、ブライスがホテルを訪れても気付かない。ある日、トミーはホテルからの脱出に成功し街中に消える。 クリスマスを控えルーはサンタクロースに扮したブライス[9]と買い物に来ている。レコード店に出かけたブライスは1枚のレコードを試聴し、それがトミーの手によるものだと見抜く。ブライスはトミーの所在を調べ、お気に入りのカフェに出向き、レコードの意図を知る。それは、ラジオでかかれば電波に乗って妻子にメッセージが届くだろうというものだった。トミーはルーのことも気にかけ、安否を尋ねるが、ブライスは事実を隠して知らないふりをする。そして、給仕がトミーの酒量を心配して声をかけると間もなく、トミーは意識を失う。 キャスト[編集] ※括弧内は日本語吹替(初回放送1981年12月22日 テレビ東京『火曜ロードショー』[10])

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アスランベク・シェリポフ – Wikipedia

アスランベク・ジェマルディノヴィチ・シェリポフ(ロシア語: Асланбек Джемалдинович Шерипов, ラテン文字転写: Aslanbek Dzhemaldinovich Sheripov、1897年 – 1919年9月11日)は、チェチェン人の革命家。 1897年、ロシア帝国テレク州グロズヌイ(ヴェジェノ[1]、セルジェニ・ユルト(ロシア語版)[2]とも)でチェチェン人の官吏の家庭に生まれた[3]。後に反ソ反乱の指導者となるマイルベク(ロシア語版)は弟[4]。ピョートル・ポルタヴァ士官候補生隊(ドイツ語版) (ru) で学んだが、将官への進路を拒否して[1]1915年にグロズヌイの軍学校に移った[2]。この頃にシェリポフはチェチェン民族音楽の収集も行っている[2]。 1917年に軍学校を卒業し、翌1918年4月にゴイトゥイ(ロシア語版)で開かれたチェチェン最初のソビエトの指導者となった[5]。同年にはテレク州ソビエトの第2回から第5回までの大会に出席し[5]、チェチェン人を代表してロシア社会主義連邦ソビエト共和国人民委員会議(ロシア語版)の権力を承認した[6]。8月にはテレク・ソビエト共和国民族問題人民委員、12月には無任所人民委員を務めた[5]。8月から11月にかけてはチェチェン赤軍司令官としてグロズヌイ防衛を指揮し、北カフカースが白軍に制圧された際には、ニコライ・ギカロとともにゲリラを率いてアントーン・デニーキンの軍隊と戦った[3]。また、シェリポフの軍はグロズヌイを追われたロシア人労働者を山間の村々に匿った[6]。その後、シェリポフは翌1919年にボリシェヴィキ党員となるも、同年9月11日にヴォズドヴィジェンスカヤ(ロシア語版)で戦死した[5]。 その後、シャトイ地区(ロシア語版)の村には「アスランベク・シェリポヴォ(ロシア語版)」という名が付けられ、グロズヌイの通りにもシェリポフの名が冠され[7]、また市内の人民友好広場 (ru) にはギカロ、ガプル・アフリエフ (ru) とともにシェリポフの記念碑が建てられた[8]。ハリド・オシャエフ (ru)

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グランドルフ – Wikipedia

グランドルフ (ドイツ語: Glandorf) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスナブリュック郡に属す町村(以下、本項では便宜上「町」と記述する)である。町名は、「Glanathorpe」すなわち「グラーネ川(ドイツ語版、英語版)沿いの入植地」に由来するものである。この集落は1070年に初めて文献に記録されている。 位置[編集] グランドルフは、ヴェストファーレン盆地(ドイツ語版、英語版)の北端地域、トイトブルクの森の南数 km のグラナー・バッハ沿いに位置している。 隣接する市町村[編集] グレンドルフは、東はバート・イーブルクおよびバート・ラーエル(ともにオスナブリュック郡)と境を接する。その他の隣接市町村はいずれもノルトライン=ヴェストファーレン州で、北はリーネン(シュタインフルト郡)、西はオストベーヴェルン、南はヴァーレンドルフおよびザッセンベルク(以上、ヴァーレンドルフ郡)と境を接する。 自治体の構成[編集] この町を構成する地区は以下の通りである。 アヴェルフェールデン(旧ナレンドルフ) グランドルフ シーエルロー シュヴェーゲ ズーデンドルフ ヴェステンドルフ グランドルフすなわち Glanathorpe

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続豊治 – Wikipedia

続 豊治(つづき とよじ、寛政10年(1798年)3月 – 明治13年(1880年)3月)は、日本の船大工。独自の調査を基に初期の西洋式帆船「箱館丸」を建造した。福士成豊は次男。 豊治の親は南部川内村(現・青森県むつ市)の出で、松前に移住、そこで豊治が生まれた。出生前に父が死亡していたために2歳で船大工続五郎治の養子となり、6歳の時に養父母と箱館に移住する[1]。 14歳から大工町の船大工・藤山勘八に弟子入りする。その技量が評価され、18歳で高田屋造船場の船工として働く。25歳の時、養父続五郎治の三女カナと結婚。30歳で船工組頭になる。天保元年35歳の時、主人・高田屋金兵衛(嘉兵衛の弟)に従い江戸、大阪、京都、日光等の名勝旧跡を旅行、神社仏閣の彫刻、上方細工、造船などの技術を学ぶ[2][3]。 ところが、天保4年(1833年)、高田屋の没落により造船場は閉鎖される。これを期に船大工を辞め、仏壇師となる。 その20年後の安政元年(1854年)、ペリー艦隊が箱館に来航。この時、次男卯之吉と共に「黒船」を観察するため磯船で近づくが、監視の役人に発見され投獄される[4]。しかし、その情熱が箱館奉行堀利煕に認められ、異国船応接方従僕という身分でアメリカ艦隊に自由に出入りできる身分を与えられる[2]。 翌安政2年(1855年)には洋船の様式を取り入れた和洋折衷のボートを2隻建造する。この功績により船大工頭取に任ぜられ、「箱館丸」の建造に着手する。安政4年(1857年)7月に竣工した「箱館丸」は、西洋式帆船であるスクーナー(スクーネル)で、進水式には箱館奉行・堀利煕が出席した。堀は「箱館丸」に乗って無事に江戸へ帰ることができ、この功により安政5年(1858年)、箱館御用船大工棟梁に任命される。続けて、改良型の「亀田丸」と和洋折衷型の「豊治丸」も建造した。明治8年(1875年)、開拓使が西洋型船建造を奨励する方針を打ち出したことから、豊治は再び西洋型帆船建造に取り組み、明治13年(1880年)に死去するまでの4年間に大小各種のスクーナー12隻を造った[3]。 その苦心談は昭和17年(1942年)、東京歌舞伎座で「洋船事始」として上演された[1][5]。 豊治は、その功績から北海道開拓神社に祭神として祀られている[6]。大正13年(1924年)、従五位を追贈された[7]。 箱館丸[編集] 箱館丸復元船(1988年建造、函館港西埠頭) 豊治の造った「箱館丸」は昭和63年(1988年)に復元され、函館市大町の西埠頭に展示されている[8]。これは、同年の青函トンネル開通記念博覧会にあわせたものだが、博覧会の後に豊治の子孫が復元船を買い上げ、函館市に寄贈した。 ^ a b 須藤(1992) ^

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