河鍋暁斎 – Wikipedia

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・印章 備考 毘沙門天之図 紙本着色 一幅 河鍋暁斎記念美術館 1848年(嘉永元年) 款記「嘉永元申年 十月十五日 甲斐周三郎信之画/生年十七歳」 数え19歳の作品 鍾呂伝道図 絹本墨画淡彩 一幅 166.0×82.0 河鍋暁斎記念美術館 1862年(文久2年) 款記「文久二年壬戌/狂齋圖」 伝顔輝筆「鍾離権・呂洞賓問答図」(個人蔵、重要美術品)の模写。暁斎は二人の姿は原図をほぼ忠実になぞっているが、肥痩のある鋭い線によりより狩野派らしく描き、また崖や岩、地面を追加し、衣文の模様に金泥を用い、唇に朱を差すなどの工夫を加えている[6]。 龍の天井絵 戸隠神社中社 1865年(慶応元年) 原本は暁斎35歳時における信州旅行の際の作品とされるが、落款などのサインに相当するものは残った画像からは、確認されていない。

現在見ることが出来るものは、1942年火災によって焼失したものをデジタル技術による復元した天井絵(2003年)[7][8] 著作権的には、デジタル技術応用の模写と分類されている(日立製作所見解)。

深大寺大師堂向拝殿天井鏡板 龍図 板地墨画著色 1面 深大寺 1866年(慶応2年)頃 款記「狂斎洞郁之図」 調布市指定有形文化財 深大寺大師堂内旧須弥壇板戸 唐獅子図 板地墨画 8面 58.0×142.5(各) 深大寺 1866年(慶応2年)頃 款記「狂斎洞郁」 放屁合戦絵巻 紙本墨画淡彩 ニ巻 28.2×897.0(各) 河鍋暁斎記念美術館 1867年(慶応3年) 地獄極楽図[9] 麻布着彩 一幅 199.6×342.4 東京国立博物館 明治以前 無款 豊干禅師と寒山拾得図[10] 紙本墨画淡彩 一幅 175.2×366.9 東京国立博物館 1870年(明治3年)以前 無款 地極太夫図[11] 絹本着色 一幅 個人 54.8×98.3 1871(明治4年)以降 地獄極楽めぐり図 紙本着色 一帖全40図 24.8×40.1(各) 静嘉堂文庫美術館 1869-72年(明治2-5年) 共箱は柴田是真作 野見宿禰と当麻蹴速図 板地著色 絵馬1面 90.3×158.0 湯島天満宮 1874年(明治7年) 款記「惺々暁斎」/「筆峰之日本」朱文方印 文京区指定有形文化財 釈迦如来図 絹本著色 一幅 38.5×27.0 ギメ東洋美術館 1876年(明治9年)9月 河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』パリス劇場表掛りの図 絹本著色 一面 62.9×90.8 GAS MUSEUM がす資料館 1879年(明治12年) 無款(右下に削り取られた跡あり) 河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』米国砂漠原野之図[12] 絹本著色 一面 61.6×90.2 ビティヒハイム市立美術館 1879年(明治12年) 款記「暁斎」/朱文印 龍虎図屏風 紙本金地墨画 二曲一隻 151.0×164.4 板橋区立美術館 1879年(明治12年)以降 新富座妖怪引幕 布墨画著色 一張 401.0×1704.0 早稲田大学演劇博物館 1880年(明治13年)6月30日 大森彦七鬼女と争う図 板絵金箔地彩色 絵馬一面 192.0×235.0 成田山新勝寺 1880年(明治13年) 花鳥図[13] 絹本著色 一幅 102.8×71.2 東京国立博物館 1881年(明治14年) 前述の「枯木寒鴉図」と共に第二回内国勧業博覧会に出品。 白鷲と猿図 絹本著色 一幅 118.2×53.6 河鍋暁斎記念美術館 1884年(明治17年) ジョサイヤ・コンドル旧蔵 野見宿禰図 板地著色 1面 57.7×34.7 松浦武四郎記念館 1884年(明治17年) 款記「明治十七甲申一月一日/暁斎如空画」 山姥と金太郎図 絹本着色 一幅 150.5×81.4 東京国立博物館 1884年(明治17年)頃 大和美人図 絹本着色 二曲一隻押絵貼屏風の右図 132.5×60.8 個人(京都国立博物館寄託) 1884-85年(明治17-18年) コンドルの日本画の上達ぶりを喜んだ暁斎が、コンドルに「我が丹精を篭めたる日本婦人の図を贈る」ために描いた作品。暁斎はコンドルの目の前でこの絵を制作し、コンドルは後の自著においてその製作過程を23ページにわたり詳細に記述している。なお左側の「若衆図」は、コンドルが自身のコレクションの中から張り合わせたもの。河鍋暁斎記念美術館を作った子孫の河鍋楠美は、この絵の行方を熱心に探索し、ついに発見につながった[14]。コンドルの死後は子孫が所有していたが、その後オークションに出されたのを日本人が競り落とし里帰りを果たした。 山岡鉄舟像 紙本墨画淡彩 一幅 133.1×59.0 永光寺 1886年(明治19年)8月 羽咋市指定文化財 蠡舟像 紙本墨画淡彩 一幅 132.5×59.5 永光寺 1886年(明治19年)8月 蠡舟賛 七福神入浴図 紙本著色、金、銀 二曲一隻 オランダ国立民族学博物館 1884-86年(明治17-19年) 北海道人樹下午睡図(松浦武四郎涅槃図) 絹本着彩 一幅 152.6×84.2 松浦武四郎記念館 1881-86年(明治14-19年) 重要文化財(「松浦武四郎関係資料」のうち) 鯉魚遊泳図 絹本墨画金泥 一幅 171.4×84.3 河鍋暁斎記念美術館 1885-86年(明治18-19年) ジョサイヤ・コンドル旧蔵 五聖奏楽図 紙本著色 1幅 147.2×48.8 イスラエル・ゴールドマンコレクション(ロンドン) 1871-87年(明治4-20年) 十字架に掛けられたキリストは扇と神楽鈴を手にし、それを見上げる日本の神(伊邪那美命か神武天皇か)が歌いかける。釈迦は三味線、老子は横笛、孔子は鼓を演奏する。高松藩の漢学者・医者出身で私塾・進文学社の校主・橘機郎の画賛の最後には「是れ乾坤一大戯場なり」とある[15]。 宝珠に松竹梅 紙本墨画 一幅 河鍋暁斎記念美術館 1888年(明治21年) 文読む美人図 絹本着色 一幅 125.0×48.0 河鍋暁斎記念美術館 1888年(明治21年)頃 龍頭観音[16] 紙本墨画淡彩 一幅 456.0×199.9 東京国立博物館 1888年(明治21年) 一休禅師地獄太夫図 絹本着色 一幅 ウェストンコレクション(シカゴ) 1885年-89年(明治18-22年) 落款「如空暁斎図」/「暁斎戯画」朱文方印 1911年にコンドルが暁斎を紹介した書籍に写真付きで紹介された、類作中の基準作。1911年当時はウィリアム・アンダーソン旧蔵で、1942年にジョサイア・コンドルへと渡り、近年までコンドルの子孫に伝来した。なお、河鍋暁翠がコンドルに宛てた明治23年(1890年)1月付の画証が別に残っている[17]。 龍頭観音図[18] 絹本着色 一幅 172.5×70.5 専光寺(港区虎ノ門) 1879年(明治12年)または1885年(明治1885年)以降 款記「如空暁斎図」 観世音菩薩図 絹本着色 一幅 117.0×50.6 日本浮世絵博物館 1879-89年(明治12-22年) 龍虎図 紙本墨画 衝立2基2面 145.4×162.3 湯島天満宮 款記「暁斎洞郁画」(龍図)「洞郁暁斎画」(虎図) 文京区指定有形文化財。龍図の裏面に暁雲筆「鷹図」、虎図の裏面に暁翠筆「山水図」。 眠龍図 紙本墨画淡彩 1幅 136.5×176.3 霊雲寺 款記「暁斎画」/「筆峰之日本」朱文方印 文京区指定有形文化財 虎図 紙本墨画 1面(元は衝立) 138.0×142.7 正行寺 無款記 蘭陵王図 板地著色 絵馬1面 36.4×39.3 赤坂氷川神社 款記「惺々暁斎」 港区指定有形民俗文化財 七福神酒宴額 絹本著色 額1面 40.5×206.0 教證寺(台東区) 1871年(明治4年)以降 款記「惺々暁斎」 左甚五郎図 紙本着色 二曲一双 千葉市美術館 日光地取絵巻 紙本墨画淡彩 ニ巻 河鍋暁斎記念美術館 鍾馗の戒め図 絹本着色 一幅 81.0×32.5 河鍋暁斎記念美術館 1876年(明治9年) 黒田清綱賛「めに見えぬ こころの鬼を やらはすは 家のまもりの かひやなからん」 弾琴五美女憩いの図 絹本着色 一幅 32.0×46.0 河鍋暁斎記念美術館 無款 原図は狩野常信筆「五美人図」。 浮世絵大津連中図屏風[19] 紙本銀地著色 六曲一隻 133.8×292.8 個人 1871年(明治4年)以降 地獄太夫と一休 絹本着色、金、銀 一幅 149×70.1 ボストン美術館 落款「惺々狂斎画」 地獄太夫とは一休宗純から教えを授けられた堺の遊女。地獄太夫は幕末から明治にかけて流行した画題だが暁斎は特にこれを好み、版画・肉筆問わずしばしば描いている。 地獄太夫と一休 絹本着色 一幅 137.1×69.3 イスラエル・ゴールドマンコレクション(ロンドン) 1871年(明治4年)以降 落款「惺々狂斎画」 妓楼酒宴図 絹本着色 一幅 心遠館(プライス・コレクション) 閻魔地獄太夫図 絹本淡彩 一幅 心遠館 達磨図 紙本墨画 一幅 心遠館 獣群舞図 紙本着色 一幅 73.0×53.0 リンデン美術館 1871年(明治4年)以降 款記「惺々暁斎」 美女の袖を引く骸骨図 紙本着色 一幅 162.2×86.7 ビーティッヒハイム・ビッシンゲン美術館 1871年(明治4年)以降 絵新聞日本地 和紙に墨 漫画雑誌 京都国際マンガミュージアム 1874年(明治7年) 日本で最初に出版された漫画雑誌。チャールズ・ワーグマンの作品に影響され、仮名垣魯文と共同で執筆するも、部数も少なく3号程で廃刊。