エドウィン・オースティン・アビー – Wikipedia

エドウィン・オースティン・アビー(Edwin Austin Abbey、 1852年4月1日 – 1911年8月1日)はアメリカ合衆国の画家、イラストレータである。 フィラデルフィアで生まれた。ペンシルベニア美術アカデミーでクリスチャン・シュセーレに学んだ。20歳になる前から『ハーパーズ・マガジン』などの雑誌に挿絵を描くようになった[1]。書籍の表紙絵や挿絵も描くようになり、その中には1896年に出版されたハーパー社版のシェイクスピアの喜劇集、4巻の挿絵もあった。 1878年にイギリスの17世紀の詩人、ロバート・ヘリック(Robert Herrick:1591–1674)の詩集を出版する出版社の依頼で、挿絵の材料を集めるためにイギリスに渡った[2]。この書籍は1882年に出版されたが、1883年にイギリスに滞在し続けれることに決めた[3]。1883年にイギリス王立水彩画家協会の会員に選ばれた[2]。イギリスでも挿絵画家としてのさまざまな仕事もしたが、1890年に油絵作品をはじめて、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に出展し[4]、1896年にも出展し、その年アカデミーの準会員となり、1898年に正会員に選ばれた。1902年にはエドワード7世の戴冠式を描く画家に選ばれ、その作品はバッキンガム宮殿に収蔵されている。夏は、イングランドのウスターシャー・コッツウォルズの景勝地ブロードウェイで、アメリカ出身の画家、フランシス・デーヴィス・ミレーの邸などでジョン・シンガー・サージェントらと過ごすこともあった。 1890年代には長い時間をかけてボストン公共図書館の壁画の仕事をした。1904年にロンドン証券取引所の壁画の仕事もし、1908年から新築されたペンシルベニア州ハリスバーグのペンシルベニア州庁舎の仕事をはじめたが1911年ころから健康を害して亡くなり、完成できなかった壁画は、サージェントが後をついで完成させた。 1902年にアメリカのナショナル・アカデミー・オブ・デザインの会員とアメリカ芸術・文学アカデミーの会員に選ばれた。バイエルン王立協会の名誉会員に選ばれ、フランスの国民美術協会の名誉会員に選ばれ、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受勲した[4] 。 絵画[編集] 『ハムレット』の王妃 「アーサー王」から”Sir Galahad discovering the fabled Holy

Continue reading

玉水物語 – Wikipedia

玉水物語(たまみずものがたり)とは日本の御伽草子の1つ。 玉水とも[1]。 室町時代から近世初期の作と言われているが、作者不詳。人間と狐との交渉の物語であるが、異類婚姻譚のように姫を見初めた狐が男に化けて姫と恋愛関係になるのではなく、敢えて女(同性)に化けて姫のもとに仕えるという構想に特徴があるとされている[2]。なお狐がオスかメスかについては作中で言及されていないが、一度狐が男として化けることを思案するも断念していること、その理由として獣と人間が契りを交わすと、人間の命が尽きてしまうという「人獣交会のタブー」が考えられることから、オスであろうと判断されている[3]。 人と狐が交わる物語としては、他に『狐の草子』や『木幡狐』などの作品が知られる[4]が、前者は人間の男を誑かして精を抜く妖狐系の話なのに対し、後者は人間に対して善意をもって関係を結ぼうとする話で、『玉水物語』は後者の系譜に属している[5]。ただし、『木幡狐』は愛する男と結ばれた女狐が犬を恐れて遁走して契りが破れるのに対して、『玉水物語』は姫が玉水(狐)が犬を恐れているのに気づいて犬を近づけないようにするなどの違いがある[4]。本作は姫を慕いながらも「人獣交会のタブー」によって姫に不幸が降りかかるのを避けようとする狐の自己抑制が一貫して働き、自らの恋心を封印して献身的に姫に奉仕した末に手紙を残して去っていく狐の純真さ・ひたむきさ・慎ましさなどの心情が良く描かれている[5]。また、姫君については神仏からの授かりものとされながら、具体的な神仏の名前は示されず、狐との出会いも神仏とは縁のない花園での出来事に設定されるなど、他の御伽草子よりも文学本位の要素が強い[4]。また、地方の庶民の間に受け継がれてきた古代以来の自然や動植物への親しみの感情が中世になって物語文学に取り入れられていった状況が本作品に反映されているのではないか、とする見方もある[4]。 なお本作品とは別に「紅葉合」という内容がかなり酷似した物語も存在しており、「室町時代物語大成」にはどちらも収録されている。ただしその結末は大きく異なっており、「玉水物語」では後述するように狐のあわれさを強調するのに対し、「紅葉合」は稲荷信仰と絡めて姫の長寿栄華を語るラストとなっている[6]。また聊斎志異に収録されている「封三娘」とも筋書きが似ているが(ただし、一般的には「封三娘」に登場する狐はメスであると考えられている)、「玉水物語」の成立に未解明の点が多いことから、「玉水物語」と「封三娘」の関連性は不明である[3]。 あらすじ[編集] そう遠くない昔、鳥羽に高柳の宰相という人がいた。30歳を過ぎても子供に恵まれなかったが、神仏に祈ったところたいそう美しい姫君を授かった。姫君が14、5歳になった頃、乳母子の月冴という女房とともに花園へ遊びに出かけた。そこは狐の多く住むところであり、ちょうどそこにいた1匹の狐が美しい姫君を見て恋に落ちてしまった。どうしても姫君ともう一度会いたい、立派な男性に化けて姫君と結ばれようか、いやそれでは姫君の身が危ない、などと思い悩んだ末、狐は14、5歳の娘に化けてある在家信者のもとを訪れ、養子にしてほしいと申し出る。男子ばかりが生まれる家であったため娘はかわいがられたが、思い悩んだ様子の娘は打ち解ける様子もない。のちに「美しい姫君のもとで仕えたい」と養母に申し出たため、娘は高柳の姫君を紹介してもらえることになった。 娘は姫君に気に入られ「玉水の前」という名を授かり、月冴と同じく朝夕離れずそばにお仕えした。姫君は玉水を他人がうらやむほど寵愛しており、玉水が犬を極度に怖がったため、屋敷内に犬を入れることを禁止したほどであった。しかし5月中旬の満月の夜、玉水は物憂げな和歌を姫や月さえの前で詠んだため、姫君は心配に思っていた。一方で玉水は養母からも深く愛され、手紙や衣装などをまめに送られていた。 玉水が姫君にお仕えするようになって3年の月日が流れた。その年の10月、紅葉合が行われることになった。玉水は夜中に屋敷を抜け出し元の姿(狐)となり、兄弟・姉妹・姉弟・兄妹たちと再会。彼らの協力を得て、玉水は姫君のために、五色の枝、葉に法華経が刻まれているという素晴らしい紅葉の枝を用意した。姫君と玉水はそれぞれに歌をつける。紅葉合当日、姫君の紅葉に並ぶものはなく、5度合わせて5勝だった。このことを帝が聞きつけその紅葉を献上させると、今度は姫君を参内させるよう関白に命じ、高柳の宰相にも3か所を下賜した。玉水にも津の国のかく田という所が与えられ、養父母はたいそう喜んだ。 しかし、ある時養母が病気になる。物の怪によるもののようで次第に容体は重くなり、玉水は暇をもらって養母を見舞う。少し病状が回復したころ、養母は形見にせよといって、自分が母から譲られた鏡を玉水に渡す。一方姫君や月冴からは玉水の帰りを催促する手紙が届き、玉水が大事にされていることを知った養母は喜んだ。 ある夜、禿げた古狐が養母の傍らに現れる。それは玉水の伯父であった。玉水は「私はこの病人と縁があり親のようにしてもらっているのです。ここから去って苦しみを止めてください」と呼びかけるが、伯父は「それはできぬ。この病人の父親は、何の咎もないのに我が子を殺したのだ。私は彼の娘の命を奪って、同じ思いをさせてやる」と語る。玉水は「お怒りはごもっともでしょう。我々は畜類であり、未だ業が深いのです。しかしかといって善根を積まなければ、いったいどうして来世で人として生まれることができましょうか。一時の感情任せに人を殺すなど、罪深いことではありませんか」と、仏教の思想を持ち出し伯父を必死で説得する。それを聞いて伯父もようやく心を改め、「仮にこの娘を殺したとても我が子が帰ってくるわけでもない。どうが我が子を供養してやってほしい。私は出家して山に籠り念仏を唱えることとしよう」と言い残し立ち去る。これにより養母も快方に向かった。その後、玉水は伯父との約束通り殺された狐の供養をし、姫君のもとへ帰る。 11月となり、高柳の家は入内の準備で大忙しであった。玉水は一の女房として一緒に御所に上がることとなるが、玉水の心は晴れない。いよいよ入内の日も近づいてきた頃、「自分は畜類の身でありながら、お姫様に近づきたくこれまでお仕えして心を慰めてきたが、思えば何と儚きことか。姫君に正体を明かしたいが、それにより恐れられるのもつらい。いっそ入内の混乱に紛れて姿を消してしまおう」と決心した玉水は、部屋に一人閉じこもり今までのことを文にしたためて箱に入れ、「私になにかありましたらこの箱をご覧ください」と言って姫君に渡した。姫君は「この先私の行く末絵を見届けてくれないの」と問うが、玉水の決心は固く、「この箱は月さえ殿などにもお見せにならないよう。また中にある小さな箱は何年も経って姫君が世を捨てようと思われたころにお開けください」と語った。姫君は箱を受け取り、2人で咽び泣いたが、そのうち月さえらもやってきて周囲があわただしくなったので、玉水はその場をごまかして立ち去り、姫君はその箱をそっと隠した。 そして入内当日、玉水は車に乗るふりをして姿を消してしまう。姫君のほか女房たち、また中納言となった高柳の宰相らも、玉水がいなくなったことを悲しんだ。姫君は箱の中身を知りたいと思ったが、帝が常にいらっしゃるので開けることはできない。そんな中、帝が行幸をされる機会があり、この機会にと姫君はこっそり中を開けてみることにした。そこには玉水がこれまでのことを記した文が入っており、姫君は涙を流しながら読んだ。さらに手紙の最後には長歌がつづられており、姫君への思い故に住みかを離れお仕えしてきたこと、入内を機にわが身の拙さが思い知られ身を引くことにしたこと、来世まで姫をお守りすることなどが詠まれていた。最後は以下の二首で締めくくられていた。 色に出て言はぬ思ひの哀をも此言の葉に思ひ知らなん濁りなき世に君を守らん また、開けてはならないといっていたもう一つの箱についても、これは年を経ても夫から愛される箱であり、帝とご夫婦でおられる間は決して開けてはならないことなどがこまごまと述べられていた。玉水が畜類ながらこのような優しき心を持っていたことに、姫君は心を打たれた。 2019年1月19日に行われた大学入試センター試験・国語の第3問において当作品が出題され、「異色の物語」として話題になった[7]。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

Continue reading

ペンシルベニア美術アカデミー – Wikipedia

1895年頃のペンシルベニア美術アカデミー 創立メンバーチャールズ・ウィルソン・ピールの展示室での自画像 1880年代の彫塑の授業 ペンシルベニア美術アカデミー(Pennsylvania Academy of Fine Arts:略称:PAFA)はアメリカ合衆国のフィラデルフィアにある美術団体である。1805年に設立され、アメリカ合衆国で最も歴史のある美術学校、美術館とされる。 愛国者で肖像画家のチャールズ・ウィルソン・ピールの発案で71人のフィラデルフィアの市民によって設立された[1]。目的は、アメリカの美術を発展させるために、優れた絵画や彫刻をアメリカ市民に提供することとされ、設立会員のうち芸術家はピールや彫刻家のウィリアム・ラッシュら3人しかいなかった。1807年に美術館を開き、1811年に最初の展覧会を開き500点の絵画、彫刻が展示された。1810年にアカデミーの建物の中で「芸術家クラブ」(Society of Artists)によって美術教室が開かれるようになった。 最初の会長はペンシルベニア州から大陸会議の代表となった政治家のジョージ・クライマーが務め、その後を継いだのも下院議員のジョセフ・ホプキンソンで初期の運営は、芸術に対する素人によって行われた。1850年になって版画家のジョン・サーテイン(John Sartain)が館長を務めたのが例外であった。 美術学校としても初期には、公式の教師を置かず、美術家同士で学びあうという形であったが、1876年にフランス出身の画家、クリスチャン・シュセーレが初めて教授として雇用された。 1845年の火災の後、より立派な施設にするために寄金が集められ、1871年から建物の建設が始められ、1876年のフィラデルフィア博覧会の展示会場のひとつとした開館された。 1876年から、アカデミーの卒業生で卒業後パリで学んだトマス・エイキンズが、アカデミーで教え始めシュセーレの没後、教授職を継いで、1882年から、エイキンズが校長となった。エイキンズはアカデミーの教育を革新した[2]。女性美術家の入学を認めたのも美術学校としては早く、1876年から入学が認められた[3]。トマス・エイキンズは、1885年に女性学生のいるクラスで男性ヌードモデルを描かせたという問題で、アカデミーを解雇された。 1811年から1969年まで定期的に展覧会が開かれ、また出展された作品の多くをアカデミーは購入した。1892年から1905年まで校長を務めたモリスが同時代の画家の作品を集め、美術館として豊富なコレクションが作られた。 著名な出身者[編集] アカデミーで学んだ画家や絵画部門の教授については ^

Continue reading

サナンダジュ – Wikipedia

サナンダジュ 発音[ヘルプ/ファイル](クルド語: سنە Sine、ペルシア語: سنندج‎)とは、イランのコルデスターン州の州都である。2011年当時の人口は432,330人[1]。イラン国内で23番目に人口が多い都市である。 サナンダジュ市は元々”Saneh”と呼ばれていたが、重要な城砦の近くに位置していたため、後に山の麓の城を意味するSanehdajと呼ばれるようになった。Sanehdajという地名が時間の経過によってサナンダジュに転訛したと考えられている。[2] サナンダジュ市が存在する地点には古くから集落が存在していたが、サナンダジュ市の元となる都市が建設されたのは17世紀初頭のサファヴィー朝の時代である[3] アッバース朝の時代には城砦が築かれ、イブン・フルダーズベやイブン・クダーマ(英語版)らの著書では「30の頭」を意味するSisarという地名で言及されている[4]。14世紀頃にクルド人の一部族であるアルダラーン族がサナンダジュ周辺に居住するようになり、サナンダジュはアルダラーン族の本拠地となった[5]。 サファヴィー朝の君主であるサフィー1世は、現在のコルデスターン州を中心とするアルダラーン地方(英語版)を統治していたアルダラーン家に彼らが使用していた山間部の城砦の破壊と新たな居城への移住と開発を命じた[6]。アルダラーン家の当主ソレイマーン・ハーンは、1636年/37年にスィネと呼ばれる村落に拠点を移し、サナンダジュの原型となる都市の建設が進められた。17世紀半ばから後半にかけてアルダラーン地方を訪れたトルコの旅行家エヴリヤ・チェレビやフランスの商人ジャン・バプティスト・タヴェルニエらは、アルダラーン地方の中心都市としてサナンダジュを紹介している。18世紀初頭にサナンダジュの人口は4,000人を数え、皮なめし場、染色場、ろうそく工場などの施設やキャラヴァンサライ(隊商宿)が置かれていた[3]。19世紀後半に町を治めていたアルダラーン家が知事職を失った後も、サナンダジュはコルデスターン州の州都に定められている。 ケッペンの気候区分では、サナンダジュの気候は湿潤大陸性気候に分類される。平均最高気温と平均最低気温は-8.2℃から35.1℃の範囲に収まり、月毎の降水量の平均は0mmから270mmの間で変動する。季節ごとの平均気温は春は15.20℃、夏は25.20℃、秋は10.40℃、冬は1.60℃である。相対湿度の平均は6時30分で69%、12時30分で38%である。年間降水量の平均値は497.3mmで、1日の最大降水量は61mmである。 サナンダジュの気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月

Continue reading

聖通寺 – Wikipedia

聖通寺(しょうつうじ)は、香川県綾歌郡宇多津町にある寺院。真言宗御室派に属する。山号は壺平山。本尊は沖薬師如来と称する薬師如来[1]。さぬき三十三観音霊場三十一番。 伝承によれば、天平年間(8世紀半ば)行基によって釈迦院として創立され、貞観10年(868年)、聖宝(理源大師)が再興して寺号を聖通寺と改めたという。本尊の石造薬師如来像(沖薬師如来)は、寺伝によれば聖宝が当寺を再興した際、漁師の網にかかって海中から引き揚げられたものとされ、像にはフジツボが付着している[2]。 寺は坂出市と宇多津町にまたがる聖通寺山(標高117.8メートル)の西麓に位置する。聖通寺山は、もとは瀬戸内海に突きだした岬であったとされ、旧石器時代から人が生活していた。頂上には積石塚古墳があり、室町時代には聖通寺城が築かれた[3]。 重要文化財(国指定)[編集] 宇多津町にある唯一の国の重要文化財。針葉樹材の一木造り、漆箔仕上げ、高さ185㎝の像。頭上に11面の頭上面と阿弥陀の化仏(けぶつ)を表し、合掌手を含めて42臂とする通例の千手観音像である。寺伝では平安初期に空海(弘法大師)の自作とするが、両脚部などに翻波式の衣文がみられることから、平安中期(10世紀頃)の制作と推測されている。頭上面と脇手は江戸時代の後補。もともとは、宇夫階神社(町内西横丁)の別当東端山蓮花院神宮寺の本尊が、明治維新の廃仏毀釈で神宮寺が廃寺になった際に、移安になったとされる[4][5][6]。 交通アクセス[編集] JR予讃線宇多津駅から東に1㎞進んだ聖通寺山の西腹に位置する。宇多津駅より徒歩15分[5]。 前後の札所[編集] さぬき三十三観音霊場 30 圓通寺 — (1.5km)— 31 聖通寺 — (4.0km)— 32 龍光院 ^

Continue reading

俺たちのフォーク! – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “俺たちのフォーク!” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年1月) 『俺たちのフォーク!』(おれたちのフォーク!)は、2005年11月18日に発売された、1970年代を中心とするフォークソングやニューミュージック系の楽曲を集めたCD2枚組のコンピレーション・アルバム。また、このアルバムでは、全曲コード付きとなっている。 目次 1 収録曲 1.1 CD-1 (VICL-61804) 1.2 CD-2 (VICL-61805) 2

Continue reading

クリスティアン・ルーベン – Wikipedia

[ クリスティアン・ルーベン(Christoph Christian Ruben、1805年11月30日 – 1875年7月9日)は、ドイツ生まれの画家である。プラハの美術アカデミー、ウィーン美術アカデミーで校長を務めた。 フランス統治下のトリーアで生まれた。1823年からデュッセルドルフ美術アカデミーのペーター・フォン・コルネリウスに装飾画を学び、1826年からミュンヘンに移り、ミュンヘンではレーゲンスブルク大聖堂やアウアー教会 (Auer Kirche) の装飾の仕事をした。 1836年にプラハのホーエンシュヴァンガウ城の装飾画の仕事を依頼された。その後油絵に転じ、風俗画を描いた。1841年にプラハの美術アカデミーの校長に任じられ、プラハでもプラハ城のベルヴェデーレ(夏の離宮)などの装飾画やトゥルノフの教会の祭壇画も描いた。 1852年から1872年の間、ウィーン美術アカデミーの校長を務めた。 ルーベンの指導した画家にはヤヴーレク(Karel Javůrek:1815年 – 1909)、ヨーゼフ・マティアス・トレンクヴァルト(1824年 – 1897年)、ヤロスラフ・チェルマーク(1830年 – 1878年)、レオポルト・カール・ミュラー(1834年

Continue reading

八戸市立白銀中学校 – Wikipedia

八戸市立白銀中学校(はちのへしりつ しろがねちゅうがっこう)は、青森県八戸市大字白銀町にある公立中学校。 1947年(昭和22年) 1950年(昭和25年) 1951年(昭和26年) 1954年(昭和29年)9月1日[1] – 白銀中学校美保野分校を美保野小学校に併置。 1955年(昭和30年) 1956年(昭和31年)10月21日 – 校歌落成[1]。 1962年(昭和37年)5月26日[1] – 校舎の一部と体育館の延べ459.5坪が焼失。 1963年(昭和38年)3月28日[1] – 校舎415.915坪と体育館198坪が落成。 1966年(昭和41年)6月 –

Continue reading

タンマ君 – Wikipedia

『タンマ君』(タンマくん)は、東海林さだおによる漫画作品である。掲載誌は週刊文春。 連載開始は1968年1月。『タンマ君』は、日本で現在(2020年7月時点)連載中の全漫画のうち、『碧南一家』(連載開始は1967年2月)、『超人ロック』(連載開始は1967年10月)に次ぎ、3番目に連載期間が長い漫画作品である[1]。 また、連載期間は、52年2月となるが、この数字は、1人の作家による連載漫画としては、小島功の『仙人部落』(57年11月)、聖悠紀の『超人ロック』(52年5月)、に次ぎ、日本で3番目の長さである[1]。 東海林さだお 『タンマ君』 文藝春秋〈文春文庫〉、既刊7巻(2000年3月10日現在) 1巻 純情編、1985年7月25日発行[2]、 ISBN 978-4-16-717715-7 2巻 歓喜編、1985年7月25日発行[3]、ISBN 978-4-16-717716-4 3巻 激辛篇、1996年2月10日発行[4]、ISBN 978-4-16-717729-4 4巻 純愛篇、1996年2月10日発行[5]、ISBN 978-4-16-717730-0 5巻 妄烈篇、1996年3月10日発行[6]、ISBN 978-4-16-717731-7 6巻 清貧篇、1996年3月10日発行[7]、ISBN 978-4-16-717732-4 7巻

Continue reading

中分 (上尾市) – Wikipedia

中分(なかぶん)は、埼玉県上尾市の町名。現行行政地名は中分一丁目〜六丁目。住居表示未実施[6]。人口統計などでは大石地区で分類されている。郵便番号は362-0067[3][7]。面積は1.865 km2で上尾市の町丁としては最も広い[注釈 1]。 埼玉県の県央地域で、上尾市の北西部に位置する逆三角形の形をした南北に細長い地区である[8]。地区の東側は大宮台地上にあるが、地区の西端を江川やその支流の逆川などが流れ、その流域の沖積平野や多くの開析谷(谷津)や小河川が複雑に入り組み、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつである[9]。地区の南部、一丁目のさいたま鴻巣線と上尾環状線に挟まれた区域が市街化区域(主に第一種低層住居専用地域、県道などの主要な通り沿線は第一種住居地域や第二種低層住居専用地域)に指定されている[10]。その区域を中心に市街化され住宅が建ち並び街区公園が整備されているが、その他の大半の区域は市街化調整区域[10]となり、その区域の大部分が低地の水田(谷津田)や入り組んだ舌状台地上の耕作地といった農地で占め、「藤波・中分ふるさとの緑の景観地」をはじめとした自然が数多く残り、また屋敷森を持つ農家も点在する[9][8]里山的景観が見られる。地区の北東側は上尾市唯一となった赤松林を擁する大宮ゴルフコースが広がる[11]。 地内には台地上に下遺跡(県遺跡番号:14-168[10])や小谷津遺跡(県遺跡番号:14-166)などの縄文遺跡(包蔵地)が多数見られ、住居跡 土壙やピットなどの遺構や、縄文式土器や石器などの遺物が発掘されている。 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する中分村であった[12]。かつての藤波村の中藤波と称された場所に当たり、現在の藤波は上藤波、小泉は下藤波と称されていた。正保〜元禄年間に藤波村より分村する[9][12]。地名も藤波村から分村した中藤波から生じたものと云われている[12]。村高は『元禄郷帳』および『天保郷帳』によると143石余であった。化政期の戸数は50軒で、村の規模は東西12町、南北21町であった。飛地が畔吉、領家、藤波村のうちにあった。 1875年(明治8年)の農業産物高は武蔵国郡村誌によると米69.98石、大麦132.48石、小麦120石、小豆73.2石、甘藷210120斤、製茶312斤であった[13][注釈 2]。 はじめは知行は旗本牧野氏、1867年(慶安3年)に知行は牧野氏一族に分知された相給地となり幕末に至る[12]。なお、検地は1620年(元和6年)および1667年(寛文7年)および1687年(貞享4年)に実施[12]。 幕末の時点では旗本牧野鉞左近の知行[14]。 1868年(慶応4年)6月19日 – 武蔵知県事・山田政則(忍藩士)の管轄となる。 1869年(明治2年) 1871年(明治4年)11月13日 – 第1次府県統合により埼玉県の管轄となる。 1872年(明治5年)3月 – 大区小区制施行により第18区に属す[15][16]。

Continue reading