学寮 (西本願寺) – Wikipedia

学寮(がくりょう)は、江戸時代初期に西本願寺が設けた僧侶の教育機関。のちに学林と呼ばれ、龍谷大学の前身とみなされる。 なお、東本願寺も同時期に学寮を設けている(大谷大学の前身)。 淵源[編集] 1639年(寛永16年)、西本願寺第13代門主・良如が本山敷地内、阿弥陀堂の北に、僧侶の教育機関として学寮を創設した。浄土真宗本願寺派の宗門大学・龍谷大学は、これを同学の淵源と見なしている。建物としては、講堂に当たる惣集会所と所化(学生)のための所化寮が設けられていた。当時の所化寮は2階建てで30室あり、4畳の部屋に2人が住んだ。 初代能化[編集] 学寮の学長を能化といい、所化寮の1階に2部屋使って住んだという[1]。1639年に学寮が竣工し、翌1640年(寛永17年)に准玄が能化職に命じられたが、1647年(正保4年)に自坊に帰ってしまったため、同年9月に西吟が能化職に命じられる[2]。初代能化を、准玄とするか西吟とするかは史料により異なるが、龍谷大学所蔵の『能化講主勧学名帖』は准玄を「講僧」とし、西吟を「初代能化」としている[3]。1650年(慶安3年)には学寮の制条(学則)が制定される。 学寮の移転と破却[編集] 1647年、学寮は本山敷地外の西侍町に移転したが、その場所は特定できない。さらに1652年(承応元年)、興正寺の南方(現在の興正会館あたり)に再移転する[1]。 ところが、翌1653年(承応2年)、能化・西吟と学僧・月感との間に起きた論争がいわゆる承応の鬩牆に発展し、1655年(明暦元年)に江戸幕府が介入するに至る。結果は西吟の主張が認められ、月感は出雲に流されるが、学寮も取り壊しを命じられた。 学寮から学林へ[編集] しかし、地方から学びにやってきた学生たちを放置するわけにもいかず、本山は東中筋にあった医者の屋敷を借りて仮の学寮とし、講義を継続したが、破却にあった以上「学寮」の呼称は使用できず、「学林」と呼ぶようになった。「学林」の語の初見は、第2代能化・知空の『論註翼解』にある。知空はまた1714年(正徳4年)に『学林之由来』を著している。 第3代能化・若霖の記録には「其後町名をも講舎に随い学林町と名づけ申し候」とあり、町名まで学林町と変わることとなった[1]。今も京都市下京区に「学林町」の地名が残っている。1738年、第4代能化・法霖が「学林法制5条」を制定する。 発展と火災[編集] 学林町時代は、講堂、大門、食堂、寮などの施設を増築するなど拡大・発展したが、1788年(天明8年)に大火により学林は全焼する。この時は本山の集会所を仮学舎として復興され、講堂の再建に続いて南寮、北寮、新寮、東寮、勧学寮なども増築された。 三業惑乱と能化職の廃止[編集] しかし、1797年(寛政9年)に第7代能化に就任した智洞が三業帰命説を唱えると、安芸の大瀛、河内の道隠ら在野の学僧(古義派)が批判を挙げ、全国の門徒が混乱して流血の紛争へと発展した(三業惑乱)。最終的に寺社奉行の裁定に持ち込まれ、智洞の説が誤りとされて事態は収拾したが、門主をも凌ぐと言われた能化の権威は崩壊し、西本願寺は能化職を1807年(文化4年)に廃止し、1824年(文政7年)に任期1年の勧学職を置いて集団指導体制に転換する。 幕末と維新[編集] 学林は幕末の1864年(元治元年)、禁門の変に巻き込まれて炎上し、本山の北集会所を講堂に転用したが、同所も新選組に占拠されたため、南集会所に移転した。学林町に復興を目指すも大政奉還を迎え、1871年(明治4年)に新政府より学林の敷地を上納せよという官命が出され、さらに廃仏棄釈で本山も危機に陥る。こうした中、第21代門主・明如はヨーロッパの大学制度を採り入れ、1876年(明治9年)に学林を「大教校」に転換した[1]。これより以後の歴史は龍谷大学を参照。 歴代能化[編集] 准玄

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フランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音主義教会 – Wikipedia

フランツェーズィシュ・ブーフホルツ 福音主義教会 (東端部の煉瓦建築アプスは不明瞭になっている フランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音主義教会(ドイツ語: Dorfkirche Französisch Buchholz “)はベルリンの北東部パンコウ区のフランツェーズィシュ・ブーフホルツ地区にある福音主義教会である。この教会はベルリン郊外ブーフホルツ村の歴史を映す史跡としての性格を有している。この教会は珪長岩を用いて3つのアプスを持つスタイルで13世紀に建築された。16世紀の宗教改革導入以降、ルター派教会共同体がこの教会堂で礼拝するようになった。その後、この教会堂でフランス改革派教会共同体も礼拝するようになった。1852年に教会堂は改造され、増築された。第2次世界大戦時に、パイプオルガン、会堂内装飾の一部、屋根を支える骨組み、教会塔が破壊された。 教会の所在地と所属[編集] この教会はベルリン北東部パンコウ区のフランツェーズィシュ・ブーフホルツ地区ハオプト通り58番地にある。利用できる交通機関はベルリン市電 50系統であり、教会最寄りの電停はフランツェーズィシュ・ブーフホルツ・キルへである。この50番系統の市電は途中、パンコウ電停でベルリンSバーン 、ベルリン地下鉄2号線(Uバーン)のパンコウ駅に連絡している。 フランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音主義教会はベルリン=ブランデンブルク=シュレージシェ・オーバーラウジッツ福音主義教会(EKBO)のベルリン教区(Sprengel Berlin)・ノルト-オスト地区に属している。フランツェーズィシュ・ブーフホルツ福音主義教会の属しているベルリンの州教会はドイツ福音主義教会(EKD)に加盟し、合同教会として福音主義合同教会(UEK)にも属している。 フランス改革派教会共同体記念碑 1230年頃にアンガー(草地)型村落がこの地で形成されたことが1242年に初めて文書に言及された。珪長岩角石を積んだ壁と半円アーチ構造のアプスが後期ロマネスク建築としての特徴を示す教会だった。1250年から1260年の間に建築されたと推定される。当時のブーフホルツ村には4人の司祭と1つの教会堂があった。 1539年11月1日、ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世が数人の貴族たちと共にシュパンダウ区にある聖ニコライ教会においてルター派聖餐式に初めて参加した。この日がブランデンブルク辺境伯領での宗教改革の始まりとされている。1670年にブーフホルツ村は大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの領地になった。1685年、ポツダム勅令に従って、国務大臣ヨアヒム・エルンスト・フォン・グルンプコウによってユグノー入植地フランツェーズィシュ・ブーフホルツがこの村に形成された。1689年からこの教会堂はルター派教会共同体とフランス改革派教会共同体による共同教会として使われ始めた。この2つの教会共同体は1910年に1つの福音主義教会共同体にまとめられ、礼拝はルター派の様式でおこなっている。 会堂建築の変遷[編集] この教会の新築時は入り口からは身廊が伸び、内陣と3つのアプスを持った形であった。教会堂の建築材料として用いられていたのは、教会周辺の農地において豊富にあった珪長岩であった。その珪長岩は可能な限りの綿密さでもって切り出された角石として用いられていた。正面入り口と小振りな窓の上部は半円アーチのスタイルであった。16世紀終わりにおいて、天井下空間を交差ヴォールト様式に変更した。現在においても、屋根を支える骨組みにおいて13世紀当時の天井下空間の特徴を見ることが出来る。加えて、会堂西側の切妻壁側の上に木造の屋根塔をのせていた。1772年に屋根塔の上に旗の形をした風見をのせた。この教会はバロック様式でまとめられていた。 1705年、会堂内採光改善のため、新たに大きな丸い窓がはめ込まれた。1830年において375人の教会員がいたが、225人分の座席しかなかったため、1852年になって教会はアプスを含んだ翼廊部分を増築した。同時に、当初から使われて来た内陣とアプスは取り壊されている。その面積は教会堂の3分の1に及んだ。取り壊された後に煉瓦で出来た翼廊と新しいアプス部分が建築された。翼廊の両側の側面と西側入り口正面は階段状破風(クロウ・ステップゲーブル)スタイルになり、教会堂は統一された外観を示すようになった。

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ベネヴェントゥムの戦い (紀元前214年) – Wikipedia

第一次ベネヴェントゥムの戦い(ベネヴェントゥムのたたかい)は第二次ポエニ戦争中の紀元前214年に、現在のベネヴェント近郊で発生した戦いである。ティベリウス・センプロニウス・グラックスが指揮するローマ「奴隷軍団」が、ハンノ率いるカルタゴ軍を殲滅した。この戦いは、カンナエの戦い以降にカルタゴ側に付いた南イタリアの都市国家を平定する作戦の一環として行われ、歴史家のティトゥス・リウィウスがその記録を残している[1]。 ハンニバルはカンパニアのノラの攻略を準備していたが、副将のハンノがブルティウム(現在のカラブリア州)から1,200のヌミディア騎兵と17,000の歩兵(ブルティア人とルカニア人)を引き連れて合流するのを待っていた。ハンノはマグナ・グラエキア(イタリア南部のギリシャ系都市国家)で騒乱を起こし、新たな兵士を募集する任務を与えられており、それはすでに完了していた。ハンニバルはハンノに対し、これらの新たな兵士を連れて、ベネヴェントゥム(現在のベネヴェント)を通ってカンパニアに向かい、自身に合流するよう命令した。 執政官のクィントゥス・ファビウス・マクシムスは、法務官(プラエトル)のティベリウス・センプロニウス・グラックスに対し、冬営地のルケルキアからベネヴェントゥムに進軍するように命じた[2]。ファビウスの同名の息子(en)は別の軍を率い、ルケルキアを守備するように命じられた[2]。ファビウスと元老院は奴隷から志願兵を募って軍団を編成し、グラックスがこの奴隷軍団の指揮者となっていた。ファビウスはグラックスに対して、ハンニバルをカンパニアに閉じ込めるよう命令したが、これは前年に失敗していた作戦であった。また、援軍の合流阻止も命じたかもしれないが、ファビウスがハンノの援軍が向かっていることを知っていたという証拠は無い[2]。 戦闘まで[編集] 紀元前214年のカンパニアにおけるハンニバルの行動 ハンノとグラックスはほぼ同時にベネヴェントゥムに近づいていた。しかし、グラックスの方が先に街を占領し、街に守備兵を入れることができた[2]。そこでグラックスは、ハンノが街から3マイル程離れた場所に野営し、周囲を略奪していることを知った[2]。グラックスは街を出て1マイルほど離れた場所に野営した。この時点で、グラックスは彼の2個「奴隷軍団」の兵士に対し、勝利の暁には自由を与えるとの元老院からの許可を得たことを伝えた[3]。 両軍が戦闘態勢を取ったのは翌日であった。両軍共に配置は当時の典型的なものであった。ハンノは彼の右翼側をカロエ川に接するようにして騎兵を配置し、中央には歩兵、左翼にも騎兵を配置した。左翼の騎兵は開けた地域に展開しており、地形的に防御されていなかった。 ローマ軍の戦列はカルタゴ軍より広かった。ローマの左翼も騎兵であった。ローマ騎兵の右側に軍団歩兵が並んだ。通常ローマ軍は4個軍団から構成されており、内側にローマ2個軍団、その両側に同盟国軍団が配置された。しかし、この戦いに同盟国軍団が参加していたかは不明である。また、奴隷軍団に加えて正規のローマ軍団が参加していたかも不明である。右翼側も騎兵であったが、左翼よりも右翼の騎兵が主力であった。 戦いは血まみれのものとなった。奴隷兵士は敵兵を殺すと、まずその首を切り落とし、さらにその切り取った首を持ち運んだため、戦闘が妨げられてしまった[4]。戦場で何が起こっているかを理解したグラックスは、首を捨てて剣を取るように命じ、敵を撃滅するまでは奴隷身分からは解放されないと宣言した。 歩兵同士の戦いでこのようなことが起こっている中、グラックスは騎兵に対してヌミディア騎兵が守るハンノの側面を攻撃するように命令した。ヌミディア騎兵はその技能を発揮してローマ騎兵の攻撃に対処し、勝敗は分からなかった[4]。しかしながら、グラックスは伝令兵を派遣し、奴隷兵士に対して、敵を直ちに打ち破らない限り自由の身にはなれないと再度伝えた。これが功を奏し、奴隷軍団は最後の捨て身の攻撃を実施した。これに耐えかねたカルタゴ軍は自身の野営地に向かって退却したが、ローマ軍は直ちにこれを追撃した。カルタゴ軍が野営地に戻ると、ローマ人捕虜が武装して待ち構えていた。カルタゴ軍は完全に包囲され、撃滅された[4]。 この猛攻撃によりハンノの軍は完全に壊滅し、野営地も占領された。戦場から脱出できたのは、ハンノ自身も含めて2,000人以下であった[4]。ローマ軍の戦死は2,000人に留まった[4]。グラックスは勝利の後には奴隷を解放すると宣言していた。しかし4,000人程度の兵士に対しては戦場での勇気に欠けたとして、不快感を示した。それらの兵士に対しては、残りの兵役を勤める間、夕食を座ってではなく立って食べるように命令した[4]。 ハンノが新たな軍を編成してハンニバルと合流することを阻止するために、戦闘の後にグラックスはルカニア(en)に向かった。続いてグラックスはハンノをブルティウムに押し込んだ[5]。必要としていた援軍を得る見通しが無くなり、ハンニバルはカンパニアでの作戦を成功裏に進めることはできないという現実に直面することとなった[5]。 参考文献[編集] 外部リンク[編集] 座標: 北緯41度08分00秒 東経14度47分00秒 / 北緯41.1333度 東経14.7833度

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深瀬俊夫 – Wikipedia

深瀬 俊夫(ふかせ としお、1946年11月26日[1] – 2007年2月26日[2])は、日本の経営者。栗田俊夫という名義で、作曲家、編曲家としても活動した。 目次 1 作曲家・栗田俊夫 2 経営者・深瀬俊夫 3 脚注 3.1 注釈 3.2 出典 作曲家・栗田俊夫[編集] 東京都生まれ[1]。東京音楽大学に学び、在学中から、叔父にあたる作曲家の船村徹の下で、栗田俊夫として編曲助手の仕事を始めた[1]。 船村の作曲作品などの編曲のほか、一時は年間100本以上のコマーシャル曲を作曲していた[1]。また、埼玉県松伏町の町民歌「まつぶしの歌」なども作曲しており[3]、さらに、アートネイチャーのサウンドロゴや[1]、テレビアニメ「サザエさん」の効果音なども手がけていた[4]。 経営者・深瀬俊夫[編集]

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林村ゆかり – Wikipedia

林村ゆかり(はやしむらゆかり、1982年10月15日 [1][2]– )は、歌手、美容家、タレント。本名木村ゆかり(きむらゆかり)。岡山県出身。血液型A型。身長160cm。 来歴・人物[編集] 美容師一家に生まれ、美容師資格を持つ。兄はヘアサロンairで執行役員ディレクターであり、月間200万PVを越えるブロガーでもある美容師木村直人[3]。 二十歳の時に、自身で作詞作曲を手がけた自主制作ミニアルバム「you make me feel so good / FLUiD」を作成。美容学校卒業後、25歳で上京しジャズバーで歌い始め、YouTubeで音楽配信を始める。その後、美容やパフォーマンス動画の動画配信もするようになり、一部の出演動画は台湾の蘋果日報[4]やNHKの特ダネ!投稿DO画にも取り上げられた[5]。2016年からSHOWROOMで配信を始める。 2017年9月20日にJTB MUSICよりデビューミニアルバム「瞬間」を発売[6]。東京、川崎、岡山の3箇所でインストアイベントも開催した[7]。 2018年1月から17 Liveの配信を開始し、日本人最多となる27万人のフォロワー数(2018年10月時点)を獲得している[8][9]。 ファンからの愛称はゆかりん。アロマセラピスト、ビューティアドバイザーの資格を持っている。愛犬はチワワのうぶ、チワプーのパン。 Discography[編集] シングル[編集]

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国際成人力調査 – Wikipedia

国際成人力調査(PIAAC、ピアック、Programmefor the International Assessment of Adult Competences)[1]は、経済協力開発機構(OECD)の成人のスキルを評価する世界規模の調査である。この調査はOCED各国の知識基盤社会における読解力、数的思考力、そして問題解決能力のスキルを評価し、各国国民のこれらのスキルを向上させるための情報を提供するのが主目的である。 労働力人口(16歳から65歳まで)に焦点を合わせたこの調査は、2013年10月8日にはじめて公表された [2][3]。 1990年代以来、先進国における読解スキル評価の必要性は2つの主な国際調査によって提起されてきた。一つは 1994、1996、そして1998年度にて行われた国際成人読解力調査(International Adult Literacy Survey、IALS)、もう一つは2003年度と、2006から2008年度までの間に行われた国際成人読解力および生活スキル調査(International Adult Literacy and Life Skills Survey)である[4]。PIAACは、2011年8月1日から2012年3月31日に24か国、2014年4月から2015年3月末に9か国で調査され、約250,000人の成人を対象に行われた[5]。33の国と地域の16歳から65歳の成人8億1500万人を代表する調査で、各国と地域の公用語を用いて行われた[5]。

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ヴィルヘルム・ゾルフ – Wikipedia

ヴィルヘルム・ハインリヒ・ゾルフ(Wilhelm Heinrich Solf、1862年10月5日 – 1936年2月6日)は、ドイツの学者、外交官、政治家。 ドイツ国(ドイツ帝国・ヴァイマル共和政)で外務大臣、駐日ドイツ大使を歴任した。妻ハンナ・ゾルフ(ドイツ語版)は夫の死後にゾルフ・サークル(ドイツ語版)を形成し、反ナチ運動を展開した。 出自[編集] 1862年にベルリンの裕福なリベラルの家庭に生まれる。ゾルフの祖父は解放戦争に従軍し、ブランデンブルク州(ドイツ語版)レブース(ドイツ語版)に移住した。父ヘルマン・ゾルフはシュテティーンで商業を営み、1856年にヤーコプ・ヴァッカーナーゲルの従妹アウグスタ・ペータースと結婚する。ヘルマンはカトリック教徒だったが、アウグスタはプロテスタントだった。事業の成功で富を得たヘルマンは、1880年代にアルテンブルクの亜炭鉱山の権利を購入し、6人の子供を全員大学に進学させ教育を受けさせた。さらにドイツ自由思想家党のメンバーとしてベルリン市議会で活動していた。 青年期[編集] ゾルフはアンクラムのギムナジウム(現在のリリエンタール・ギムナジウム(ドイツ語版))に通うが、母アウグスタはギムナジウムの教育方針に満足しなかったため、1879年にマンハイムのカール・フリードリヒ・ギムナジウム(ドイツ語版)に転校させ、1881年に良好な成績を修めて卒業する。卒業後、ゾルフはインド学に興味を抱き、フンボルト大学でサンスクリットを、ゲッティンゲン大学とハレ・ヴィッテンベルク大学で文献学を学び、1885年冬に文学博士号・哲学博士号を取得する。卒業論文のテーマにはサンスクリットを選び、生涯にわたり研究を続けることになった。 大学卒業後はキール大学の図書館で勤務する。在職中にドイツ帝国海軍に徴兵されるが、兵役検査で医学的理由で不合格となり徴兵を免除された。ゾルフは、仕事の合間を利用してウルドゥー語とペルシア語の研究を行っていた。1888年にはフランツ・キールホルン(ドイツ語版)が著した英語・サンスクリット文法のドイツ語訳を出版した。この著作は、ドイツにおけるインド研究の参考書として広く使用されている。 外務官僚[編集] 領事館職員[編集] 1888年に友人のフリードリヒ・ローゼンに倣いロンドンに行き、インド研究を続ける。ゾルフはロンドン滞在時に外交官のルドルフ・リンダウ(ドイツ語版)と知り合い、高い言語スキルを評価され通訳として勧誘される。12月10日に外務省に入省し、1889年1月1日にコルカタのドイツ領事館に赴任する。ゾルフは勤勉さを領事のヘルマン・ゲルリッヒに評価され、5月31日のオットー・フォン・ビスマルク宛ての書簡で、「ゾルフは、通訳よりも高度な職務に対応することができる」と報告している。ゾルフとゲルリッヒは友人関係となり、また開放的な性格だったゾルフは領事館職員の間で人気者となった。 1890年にエドムント・フォン・ハイキング(ドイツ語版)が新しい領事として赴任したが、ゾルフは彼とは相性が悪く、良好な関係は築けなかった[1]。ゾルフは、自身が求めた職務をハイキングに拒否されるなど妨害を受けたため、より高度な職務に就くためのスキルを身に付けようと考え、1891年1月14日に領事館職員を辞職する。辞職したゾルフはイェーナ大学で法学を学び、大学総長ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アレクサンダーからドイツ植民地帝国の情勢を聞かされる。1896年9月に法学博士号を取得したゾルフは外務省に戻り植民地局に配属される。 ドイツ領サモア知事[編集] サモア総督時代のゾルフ(1910年) 1897年8月、ドイツ領東アフリカ総督オスヴァルト・フォン・リヒトホーフェン(ドイツ語版)は現地住民の負担軽減の政策を模索していた。ゾルフはドイツ領東アフリカ赴任を求め、翌1898年にドイツ領東アフリカに赴任し、短期間ダルエスサラームの裁判官を務めた。4月上旬にタンガに異動となり、知事エドゥアルト・フォン・リーベルト(ドイツ語版)と良好な関係を築いた。リーベルトは汎ドイツ同盟(ドイツ語版)に所属して外交政策に精通しており、ゾルフは彼からイギリス・ベルギー国境地帯の管理を任された。ゾルフは「知事はイギリスを敵と認識している。私はその認識を変えるために全スキルを駆使する」と述べている[2]。 1899年にはサモア諸島・アピアの暫定自治政府議長を務めた[3]。同年ドイツ領サモア(ドイツ語版)が成立し、1900年3月1日にゾルフは初代知事に就任した。知事時代のゾルフは勤勉で自由主義的な監督者として知られ、「現地の人々の意見に敏感で、総督としては珍しい才能を有していた」と評されている[4][5]。ゾルフはサモアの慣習を政府の統治システムに取り入れ、さらに植林・農業を促進して植民地経済の基礎を整備した[6]。また、公立学校、病院、道路、港湾施設を建設して現地人の雇用を確保したことで、サモアの税収が上がり植民地運営は軌道に乗った。 閣僚[編集]

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第一ホテル (音更町) – Wikipedia

株式会社第一ホテル(だいいちホテル)は、北海道河東郡音更町の十勝川温泉にある企業。十勝川温泉第一ホテル豊洲亭・豆陽亭(とかちがわおんせんだいいちホテル ほうしゅうてい・とうようてい)と三余庵(さんよあん)を運営している。十勝毎日新聞社グループ[2]。 十勝川沿いに位置している。名称は、豊洲亭が十勝川温泉の開発に貢献し、十勝毎日新聞社創業者でもある林豊洲に由来し、豆陽亭が依田佐二平(依田勉三の兄)が賀茂郡松崎町に開校した「私立豆陽学校」に由来し、三余庵が依田勉三が師事した漢学者の土屋三余に由来している[3]。いずれの旅館も観光経済新聞社主催の『人気温泉旅館250選』による5つ星の宿に認定されている[4]。 1955年(昭和30年):温泉を掘削。 1957年(昭和32年):有限会社十勝温泉クラブを設立し、営業開始[5]。 1961年(昭和36年):有限会社第一ホテル登記[5]。 1973年(昭和48年):第2泉源を掘削。 1976年(昭和51年):株式会社第一ホテル登記。 1992年(平成04年):新館となる豊洲亭[5]、コンベンションホール「白鳥」完成。 2000年(平成12年):本館全室改修。 2004年(平成16年):十勝管内初となるデザイナーズ旅館の三余庵オープン。 2007年(平成19年):本館を豆陽亭にリニューアル[5]。三余庵がジェイティービー(JTB)の2006年度「サービス優秀旅館ホテル」最優秀賞(小規模部門)獲得[3]。 2011年(平成23年):豊洲亭改修[6]。 2012年(平成24年):『ミシュランガイド北海道2012特別版』の料理で三余庵が星を獲得、宿泊施設の内装やサービスを評価する「快適度」においても三余庵と第一ホテルが星を獲得[7]。 宿泊施設[編集] 十勝川温泉第一ホテル豊洲亭・豆陽亭[編集] 客室 豊洲亭 デラックス(洋室40m²、全室川側、展望露天風呂・暖炉・バルコニー付) コーナーデラックス(洋室52m²、全室川側、展望露天風呂・暖炉・バルコニー付)

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秋コレ 〜MTR&Y Tour 2015〜 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “秋コレ 〜MTR&Y Tour 2015〜” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) 『秋コレ ~MTR&Y Tour 2015~』は、日本のミュージシャン奥田民生の3枚目のライブ・アルバム。2016年5月11日発売。発売元はラーメンカレーミュージックレコード。 全国ツアー秋コレ ~MTR&Y Tour 2015~13か所13本のライブ音源をCD化、初回盤には、その初披露となった「フリー」「息するように」と、「最強のこれから」の大宮でのLIVE映像が付属する。

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行列の対数 – Wikipedia

数学において、行列の対数(英語: Logarithm of a matrix)とは、行列の指数関数を施したとき与えられた行列と一致するようなもう一つの行列をいう。つまり行列の対数函数は、スカラー変数スカラー値の対数函数の一般化であり、また行列の指数関数のある意味での逆関数を与えるものとなる。必ずしも全ての行列がその対数を持つわけではなく、また対数を持つ場合であっても複数の行列を対数として持ち得る。対数を持つ行列は何らかのリー群に属し、かつ、その対数はそのリー群に付随するリー代数の元に対応するため、行列の対数函数の研究はリー理論(英語版)につながる。 与えられた正方行列 A に対して、eB = A を満たす正方行列 B を、A の(行列の)対数と呼び B = log(A) あるいは ln(A) などで表す。複素数の場合と同様、行列の対数はしばしば一意ではない(後述)。

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