本多正識 – Wikipedia

本多 正識(ほんだ まさのり、1958年[1] – )は、大阪府高槻市生まれ[1]の日本の漫才台本作家[2][3]、構成作家[4]、吉本総合芸能学院(NSC)講師[2]、よしもとクリエイティブカレッジ(YCC)講師[3]、大阪シナリオ学校講師[5]である。なんばグランド花月舞台制作ブレーン、よしもと漫才劇場総合アドバイザーも務める[4]。 目次 1 来歴 2 受賞歴 3 著作 3.1 著書 3.2 執筆 4 影響を与えた芸人 5 脚注

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太学 – Wikipedia

太学(たいがく)とは、古代の中国や朝鮮・ベトナムに設置された官立の高等教育機関。古代の教育体系においては最高学府にあたり、官僚を養成する機関であった。 経書において[編集] 「太学」という言葉は、経書に見られる。 『礼記』によれば、舜(虞)は「上庠」という学校を作ったといい、周の時代には「辟雍」という学校があった。こうした貴族子弟のための高等教育機関は「国学」 (zh) と総称され[注釈 1]、また「太学」「大学」といった語でも呼ばれた[注釈 2]。 ただし、「太学」が確実な制度として現れるのは、漢代以降とされる[1]。 漢代以後[編集] 熹平石経残石。後漢時代の石経(儒学の経典を刻んだ碑)の一部。1922年に洛陽の太学の遺跡から発見された。同じ遺跡からは三体石経も見つかっている。 漢の時代に「太学」は首都に所在する高等教育機関の正式名称となった。前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている[1]。「太学」は儒教を正統学問とした。 前漢の時代の「太学」は長安(現在の西安市)に設けられ、後漢の時代には洛陽(現在の洛陽市)に設けられた。学生たちは地方から選抜され、試験に応じて官に任用された[1][2]。後漢の時代に学生(弟子員)の数は3万人を越えたとされ[1]、「清流派」(党錮の禁参照)の拠点として一大政治勢力となった[1]。 西晋は洛陽に太学を設け、東晋は建康(現在の南京市)に太学を置いた。 西晋の咸寧2年(276年)、公卿・大夫の子弟(国子)の教育機関として、太学とは別に「国子学」が設けられた。国子学と太学の双方は国子祭酒が管掌した。 隋唐以後[編集] 唐代には太学と国子学が並置されており、他の教育機関とともに行政機関「国子監」[注釈 3]の下に置かれた「六学」[注釈 4]のひとつであった。六学卒業者には、科挙の最終試験にあたる省試の受験資格が認められた。なお、唐代の太学では、遣唐使として唐に留学した阿倍仲麻呂が学んでいる。 太学の官僚養成機関としての役割は、宋代に科挙制度が整備されるとともに失われていった[2]。 明代に諸教育機関と教育行政機関は「国子監」という名で一本化され、以後清末までこの名で続いた。 朝鮮半島[編集]

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イリオモテヤマネコ – Wikipedia

イリオモテヤマネコ(西表山猫、Prionailurus bengalensis iriomotensis)は、ネコ科ベンガルヤマネコ属に分類される、ベンガルヤマネコの亜種である。 1965年、八重山列島の西表島で発見された。20世紀に入って発見された中型以上の哺乳類は稀有であり、また当初はネコ類でも原始的な形質を有する新属・新種と発表されたこともあってその発見は大きく取り上げられた。しかし、現在は遺伝情報の分析により、独立種ではなく、アジア東部に生息するベンガルヤマネコの亜種に分類されている(ベンガルヤマネコに似ていること自体は、当初から指摘されていた)。国の特別天然記念物に指定されている。 日本(西表島)の固有亜種[8][9]。 西表島は面積が290平方キロメートルほどで、これはヤマネコの住む島としては(またヤマネコの生息域としても)世界最小。 分布域内では、主に標高200メートル以下にあるスダジイやカシからなる亜熱帯もしくは暖帯の森林に生息する[9]。河川の周辺や低湿原、林縁などを好む。 イリオモテヤマネコの骨格標本(西表野生生物保護センター) 体長はオス 55-60センチメートル、メス 50-55センチメートル、体重はオス 3.5-5キログラム、メス 3-3.5キログラムと、オスの方がメスより少しやや大きい。尾は先端まで太く、尾長は23-24センチメートル。胴が長く、四肢は太く短い。 全身の地色は暗灰色や淡褐色で、腹部や四肢の内側はより淡く、あごは白色である。頭部の暗褐色の斑は頬に左右に2本ずつあり、他のベンガルヤマネコのように額から背面にかけて5-7本の縞模様が入るが、他のベンガルヤマネコとは違い肩の手前で途切れる。体側面には暗褐色の斑点、胸部には不規則に3-4本の帯模様が入る。尾全体は暗褐色であり、尾背面には不規則に暗褐色の斑点が入るが、尾腹面に斑紋が入らず、先端は暗色である。 耳介の先端は丸く黒色の毛で縁取られ、先端の体毛は房状に伸長しない。また成獣の耳の背面は白濁色の虎耳状斑とよばれる斑紋がある。この虎耳状斑は、他のベンガルヤマネコは幼獣の時から小さな白濁した斑があり、成長するにつれ白色になるが、イリオモテヤマネコは幼獣にはこの虎耳状斑は無く、成長しても白色にはならない。虹彩は淡い琥珀色である。吻端の体毛で被われない板状の皮膚(鼻鏡)は淡赤褐色をしており、大型で、鼻面も太い。肉球の幅はイエネコの24-30ミリメートルより大きく、29-37ミリメートルである。 頭骨はイエネコに比べて細長いが、他のベンガルヤマネコとは大きな違いはない。しかし、他のベンガルヤマネコよりも頭骨が厚く、その分脳の容量も小さく、脳の重量は他のベンガルヤマネコのオスの42グラムに対して、イリオモテヤマネコのオスは30グラムと小型である。後頭骨の突起と聴胞が接しない。下顎の縫合部が短い。歯列は門歯が上下6本、犬歯が上下2本、小臼歯が上下4本、大臼歯が上下2本の計28本で、ヤマネコなどのネコ類より上顎前臼歯が1対少ない[13]。亜熱帯に生息する哺乳類には珍しく、歯に年輪ができることが確認され、これにより年齢別での行動分析などができるようになると期待されている[14]。臭腺(肛門腺)は他のベンガルヤマネコを含む他のネコ類は肛門内にあるのに対し、イリオモテヤマネコは肛門を取り囲むように存在する。 遺伝的な差異がわずかであるにもかかわらず、このように形態的な差異が大きいことから、発見当時は新属新種とされた。 分類と系統[編集] 発見当時[編集] 1967年の学会発表時には、イリオモテヤマネコは食肉目ネコ科の新属イリオモテヤマネコ属の1属1種

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田村重治 – Wikipedia

田村 重治(たむら しげじ、1964年1月23日 – )は東京都武蔵野市出身のドラマー。身長165cm。血液型はO型。 中学2年生の頃に、レインボーのコージー・パウエルに影響されてドラムを始める。 1978年アマチュアバンド時代、EastWest関東地区予選大会 ジュニア部門入賞、 1982年10月10日 AIR(エアー)でデビュー 1983年代にメンバー間の音楽性の違いで AIR(エアー)脱退、 1985年11月12日 オーディションを経てネバーランド加入、2代目ドラマーになる[1] 1989年11月1日 TAMA – 星野楽器製造と専属モニター契約を締結する。 1990年2月4日 ネバーランド

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ヘルドニアの戦い (紀元前212年) – Wikipedia

第一次ヘルドニアの戦い(ヘルドニアのたたかい)は第二次ポエニ戦争中の紀元前212年にヘルドニア(現在のオルドーナ)[1]で発生した、ハンニバル率いるカルタゴ軍と法務官(プラエトル)グナエウス・フルウィウス・フラックスの間の戦い。ローマ軍は完敗し、アプリア(現在のプッリャ州)を失った[2][3]。 紀元前216年のカンナエの戦いの勝利の後[4]、ハンニバルはイタリア半島のローマ同盟都市にカルタゴとの同盟を結ぶように働きかけた。紀元前212年頃までにいくつかの都市国家や部族はローマから離れたが[5]、それにはカンパニアのアテラ(en)、カラティア(en)、アプリアの一部、サムニウム人(ペントリ族を除く)、ブルッティ族(en)、ルカニ族(en)、ウゼンティ族、ヒルピニ族[6]、コンパサ(現在のコンツァ・デッラ・カンパーニア)、マグナ・グラエキアのギリシャ人都市国家ではタレントゥム(現在のターラント)メタポントゥム(en)、クロトーン、ロクリ[7]、加えてガリア・キサルピナ全土[8]等が含まれる。その中で最も重要な都市は、ローマに次ぐ都市であるカプアであった[9]。 開戦の原因[編集] カプア攻略を目指していた2人の執政官アッピウス・クラウディウス・プルケルとクィントゥス・フルウィウス・フラックスはカプアでの戦闘に敗れたが、ハンニバルをカプアから引き離すために二手に分かれて撤退した。フラックスはクーマに、プルケルはルカニアに向かった。ハンニバルは迷ったが、プルケルを追撃することにし、それにシラルス川(現在のセレ川)沿いの平原で追い着いた[10]。ここでハンニバルはローマ軍に大勝した(シラルスの戦い)[11]。 しかしローマ軍は諦めず、執政官二人は攻城兵器を準備し再びカプアを包囲することとした[12]。ヴォルトゥルヌス川沿いのカシリヌムに食料を集積し、また河口のヴォルトゥルヌムの防備を強化して守備兵をおいた。また制海権強化のためプテオリ(現在のポッツオーリ)にも守備兵をおいた[13]。これら二つの港湾要塞とローマの外港であるオスティアに、サルディニアからの食料と法務官のマルクス・ユニウス・シラノがエトルリアで冬季に集めた食料を集積した[14]。この危機的な状況の中、ハンニバルはカプアを離れることは望まなかったが、法務官グナエウス・フリウィウス・フラックスがアプリアの幾つかのカルタゴ側都市を攻撃し成功したとの連絡が届いたため、そちらに対処するためにアプリアに向かわざるを得なかった。ハンニバルはこの新しく編成されたローマ軍を殲滅する意思を固めてた[15]。 グナエウスのローマ軍18,000はヘルドニアに野営していた。グナエウスはハンニバルがアプリア向かっているとの報告を受けておらず、それを知ったのはヘルドニア近郊に接近したときであった。ハンニアルは勝利を確信した[1]。翌日の夜、ハンニバルはローマ軍キャンプで暴動が発生しており、兵士たちがグナエウスを脅していることを知った。ハンニバルは奇襲用として軽歩兵3,000を左翼側の農場・森林に隠し、合図があれば攻撃するように命令した[16]。続いてマゴ・サニタにヌミディア騎兵2,000を与え、ローマ兵が脱出に使いそうな野営地背後の道を押さえさせた[17]。この5,000を除いても、カルタゴ軍の兵力はローマ軍を上回っていた。 夜の間にこのように準備を整え、翌日の早朝に出撃した。グナエウスは出撃に躊躇したが、直ぐに兵士に引きずられて出撃した[17]。しかしローマ軍は組織的な動きができず、兵士は正面に幅広く並び[18]、背後の防御が全くできていなかった[19]。 戦闘が開始されると、ローマ軍はカルタゴ軍の雄たけびにすら抵抗できず、第一撃で崩れた。シラルスの戦いに敗れたマルクス・センテニウス・ペヌラは有能では無かったが勇敢であった。しかしグナエウスは無能な上に臆病であり、正面からの攻撃が始まると直ぐに200騎の騎兵と共に脱出を試みた[2][3][20]。 残されたローマ軍は包囲され、粉砕された。18,000のローマ軍の内、戦場から脱出できたローマ兵はおよそ2,000だったとされる。カルタゴ軍はその後ローマ軍野営地を占領した[2]。ハンニバルの戦法は紀元前217年のゲロニウムの戦いでマルクス・ミヌキウス・ルフスに勝利したものと類似のものであった。 ^ a b c Liviy, XV, 21.1. ^ a b c

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平成28年台風第18号 – Wikipedia

平成28年台風第18号(へいせい28ねんたいふうだい18ごう、アジア名:チャバ、フィリピン名: イグメ)は、2016年9月29日に発生した台風。韓国南部を直撃して大きな被害をもたらしたほか、沖縄付近で猛発達して特別警報が発表されるに至った台風である。 9月26日頃にウェーク島の西で発生した低気圧98Wが次第に発達し[注 1]、合同台風警報センターは同日に熱帯低気圧形成警報(TCFA)を発した。既に熱帯低気圧として観測していた気象庁は、28日3時に台風への昇格を発表した[1]が、事後解析で発生日時を修正。同日、JTWCは熱帯低気圧番号21Wを付けたのち、29日15時(協定世界時同6時)に21Wは台風に昇格したことになった。アジア名チャバ(Chaba)と命名された。18号は10月1日午前にフィリピンの監視領域に達し、フィリピン大気地球物理天文局(PAGASA)によってフィリピン名イグメ(Igme)と命名された[2]。台風は発達しながら北西に進み、3日15時には久米島の南で中心気圧915ヘクトパスカルの猛烈な勢力に発達した。18時にはさらに発達して905ヘクトパスカル、最大風速60メートルに達し、「中心気圧910ヘクトパスカル以下または最大風速60メートル以上」という基準[3]を満たしたため、気象庁は19時2分に沖縄本島地方に大雨、暴風、波浪、高潮の特別警報を発表した[4][5][6]。台風はその後勢力を若干弱めながらも東シナ海を北上、進路を東寄りに変え、5日未明には韓国の済州島を、正午頃には釜山をそれぞれ直撃し、大きな被害をもたらした[7]。台風は対馬海峡を通って日本海東進し、一時観測史上初めて台風が日本海から直接新潟県に上陸する可能性も考えられた[8]が、上陸前の同日21時に日本海上で温帯低気圧に変わった。 台風が10月5日に強風と豪雨を伴って韓国南部を通過したため、沿岸部の約23万世帯が停電に見舞われた。6日までに鉄砲水により6人が死亡、4人が行方不明となった[9]。最大瞬間風速56.5m/sを記録した済州島では道路が冠水し、空の便においても欠航が相次いだ[9][10]ほか、停泊中の漁船の船員が海に落ちて行方不明になったり、河川の氾濫によりおよそ60台の車が流されたりした[10][7]。一方釜山では、900校もの学校が休校となったほか、6日夕方に開幕予定であったアジア最大の映画祭、釜山国際映画祭(BIFF)のため、海雲台海水浴場に設置された屋外ステージが、強風によって倒壊した[9]。映画祭の関連イベントが一部中止になったほか、会場変更を余儀なくされるなどした[9]。工業都市の蔚山では現代自動車の工場が洪水に見舞われたという[9]。梧桐島(朝鮮語版)では、防波堤を歩いていた旅客船の船員ら6人が、高波に襲われて海に投げ出された。6人はまもなく救助され、命に別条はなかった[10]。国民安全処が5日6時までにまとめた被害状況によれば、済州市の工事現場でタワークレーンが倒れ、近隣の住民6世帯8人が避難したという。市内を流れる漢川が4時ごろに氾濫したため、西帰浦市では停泊中の漁船1隻が転覆した。さらに、済州火力発電所の5基のうち2基が一時稼働停止となり、2万4,998世帯が停電となった[11]。 注釈[編集] ^ 気象庁の事後解析では、9月25日には熱帯低気圧として発生していたことになった。 出典[編集] 外部リンク[編集]

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寄付のお願い (ウィキペディア) – Wikipedia

モバイル機器における表示例(上部の橙の部分)(2013年、英語) 寄付のお願い(きふのおねがい)は、ウィキペディアのウェブサイトに表示されるバナー。寄付広告[1]、寄付バナー[2]とも呼ばれる。ウィキペディアを運営するウィキメディア財団が運営資金を募るためのバナーである。ページ上部に表示され、「閉じる×」と書かれている部分をクリックすると一時的に消すことができる[3]。また、アカウントを取得すると二度と表示されない[4]。 惹句としては、コーヒー一杯の金額でよい[5]、一人が何円寄付すると何時間で寄付活動が終わる[1]、などが代表的である。寄付バナーは2010年から試験的な運用が始まった。以後、継続的に募金キャンペーンが行われ[6]、定期的にバナーが現れることから、インターネットにおける恒例行事とも言われている[7][8]。 ウィキペディア存続の危機を訴える寄付バナーには、記事の可読性を損なうことへの批判[3][9][1][2]だけでなく、ウィキメディア財団の財政状態を考えるとむやみに不安を煽りすぎではないかとの声もあがっている[10][11]。 ウィキペディア日本語版においても、通常スマートフォンのスクリーンショット2枚分にもなる寄付のお願いに対して2020年9月から「寄付圧が以前より強い」などとして再び話題となっている[12][13]。 寄付バナーは2010年から試験的な運用が始まった[4]。同じ年の12月には、アカウントを取得したログインユーザーには寄付のお願いを表示しないことになった。ログインユーザーはすでに寄付を行っている可能性が高いからである[4]。 2011年の年末には全ての言語版で数週間に渡ってバナーが表示されたが、2012年の同じ時期には英語圏5か国に対して9日間だけ表示された[14]。 2015年には寄付のお願いの運用ではA/Bテストの結果が重視されると報じられている[11]。 テスト後のメッセージ「一切の広告を掲載いたしません」「オンラインのままで」「小さな非営利組織」 (ウィキメディア財団の2014-2015年財務報告書より) ウィキペディアを運営するウィキメディア財団は寄付によって全ての運営費を調達している[3]。コンテンツである記事の編集はすべて無償のボランティアが行うが、サーバー代、プログラム代、人件費、訴訟費用などが運営費で賄われる[1][11]。その一方でウィキペディアのウェブサイトに広告バナーは登場しない。理由としては、中立性、独立性、公平性を維持するため、と説明される[9][5]。 2011年1月1日、ウィキメディア財団は、およそ50万件の寄付が140か国から50日間で集まり、1600万ドルの資金調達に成功した、と発表した[6]。この時の寄付額は平均するとおよそ22ドルであった。また2009年には、24万人が合計800万ドルを寄付した[15][16]。 2014年6月の決算で、ウィキメディア財団の純資産は7700万ドルを超えている[11]。そのため、寄付のお願いはウィキペディアの危機を過剰に煽っているのでないかともいわれてきた[10][11]。ウィキメディアのソフト開発者であるオリ・リヴネは財団のメーリングリストに「僕が(もちろん限られたものではあるけれど)理解している範囲では、いまの我々の財政状態と、お願いにあるような切迫感や懸念は釣り合っていない」と投稿したことがある[17]。 莫大な寄付金の使途については、「ゴールデン・チェア」とも揶揄された職員一人あたり3200ドルに及ぶ家具の購入費が槍玉にあがったこともある[17]。またIBタイムズのメアリ=アン・ルッソンは、2015年以来のアメリカ国家安全保障局 (NSA) を相手取った訴訟の費用も安価では済まないだろうと推測している[10]。 日本語版の寄付の願い[編集] 2016年、ウィキメディア財団はウィキペディア日本語版読者の好む寄付について理解を深めるため調査を実施。資金が主に読者の寄付であることを日本語版利用者が認識していないことが判明したため、ウィキペディアが営利目的ではないこと、サイトの成長や改善が個人の寄付にかかっていることを、より明確かつ強力に伝えるメッセージを日本のコンサルタントと連携し作成している[18]。 批判と反論[編集] 寄付のお願いには、利用者からウィキメディア財団のメーリングリストに「うざい」と抗議の声があがったり、文章がA/Bテストの結果に頼り過ぎているのではないか、そもそも支出が毎年膨れあがっていることに問題はないかという指摘がなされてきた[11][注 1]。 2016年9月ごろに表示された寄付のお願いは今までで最も大きく、スマートフォンでは半画面、または全画面で表示された[2]。多くの人が寄付のお願いを不快に感じている[3][9][1][2]。日本国内のSNSなどでは広告を載せた方がいいのではないかという意見があり[2][1]、また、ガジェット通信は「アフィリエイトやGoogle

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南禅寺 – Wikipedia

この項目では、京都市の寺院について説明しています。 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と号する。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。 草創期[編集] 南禅寺の建立以前であるが、この地には、亀山天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に隣接する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)[1]に由来している。この離宮は「上の御所」(上の宮)と「下の御所」(下の宮)に分かれていたが、弘安10年(1287年)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「南禅院」と名付けた、これが南禅寺のそもそもの始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭・南禅院となっている。 亀山上皇は正応2年(1289年)、40歳の時に落飾(出家)して法皇となった。2年後の正応4年(1291年)、法皇は禅林寺殿を寺に改め、当時80歳の無関普門を開山としてこれを龍安山禅林禅寺と名付けた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇やお付きの官人たちを悩ませたが、無関普門が弟子を引き連れて禅林寺殿に入り、静かに座禅をしただけで妖怪変化は退散したので亀山法皇は無関を開山に請じたという。 無関普門は、信濃国の出身。東福寺開山の円爾に師事した後、40歳で宋に留学、10年以上も修行した後弘長2年(1262年)に帰国した。70歳になるまで自分の寺を持たず修行に専念していたが、師の円爾の死をうけて弘安4年(1281年)に東福寺の住持となった。その10年後の正応4年(1291年)に南禅寺の開山として招かれるが、間もなく死去する。開山の無関の死去に伴い、南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円(南院国師)が指揮し、かつての禅林寺殿の「下の御所」を整備して、永仁7年(1299年)頃に寺観が整った。当初の「龍安山禅林禅寺」を「太平興国南禅禅寺」という寺号に改めたのは正安年間(1299年 – 1302年)のことという。一山一寧が正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、上洛して南禅寺3世となった。正中2年(1325年)には夢窓疎石が当寺に住している。 建武元年(1334年)、後醍醐天皇は南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385年)に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために[2]南禅寺を「別格」として「五山の上」に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。 この頃には南禅寺は塔頭60か寺を要する大寺院となっていたため、旧仏教勢力の延暦寺や三井寺と対立して政治問題に発展、管領の細川頼之が調停に乗り出すという一幕もあった。 明徳4年(1393年)の火災と文安4年(1447年)の南禅寺大火に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してからは再建も思うにまかせなかった。 近世以後[編集] 南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になった慶長10年(1605年)に以心崇伝が入寺してからである。翌慶長11年(1606年)には豊臣秀頼によって法堂が再建されている。 以心崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。塔頭の金地院に住した崇伝は、江戸幕府から「僧録」という地位を与えられている。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。以後、金地院の住持は金地僧録と呼ばれ、絶大な権勢を誇った。慶長16年(1611年)には、豊臣秀吉が天正年間(1573年 – 1593年)に建てた女院御所の対面御殿が下賜され大方丈とされた。 1875年(明治8年)、境内に日本初の公立精神科病院「京都府療病院付属癲狂院」(現・川越病院)が設立されている[3][4]。  1888年(明治21年)に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水の水路閣は田辺朔郎の設計によるもので[5]、テレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。当初は塔頭南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定であったが、それでは南禅院にある亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対した。そのために現在の形を取ることになった。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声も上がった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという[6]。明治維新直後には政府の上地に遭い寺領の多くを失ったため廃絶に追い込まれた塔頭も少なくなかったが、その跡地は邸宅地として再開発され、そこには植治こと小川治兵衛により疎水から引き込んだ水流を主景とする数々の名庭園が造られ、いまなお貴重な空間として残っている。 1895年(明治28年)に法堂が焼失し、1909年(明治42年)に再建された。 1937年(昭和12年)、将棋の坂田三吉・木村義雄の対局の舞台となった。この対局は同年の2月5日から11日までの7日間で、持ち時間が各者30時間という大勝負であった。また先手木村の▲7六歩に後手阪田が△9四歩と指したことでつとに有名。勝負の結果は若い木村が高齢の阪田に快勝した。

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リープ・フロッグ法 – Wikipedia

リープ・フロッグ法は、微分方程式の数値積分法 (常微分方程式の数値解法) の一種、2次のシンプレクティック数値積分法である[1]。リープ・フロッグ法は、 x¨=d2xdt2=F(x){displaystyle {ddot {x}}={frac {d^{2}x}{dt^{2}}}=F(x)} または v˙=dvdt=F(x),x˙=dxdt=v{displaystyle {dot {v}}={frac {dv}{dt}}=F(x),quad {dot {x}}={frac {dx}{dt}}=v} という形式の微分方程式を解く際に用いられ、特に、古典力学における力学系の計算で重要である。 リープ・フロッグ法における時間積分は、互いの上を蛙跳び (Leap-frog) するように位置 x(t){displaystyle

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