乾正信 – Wikipedia

板垣正信の墓(板垣山)

乾 正信(いぬい まさのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。土佐山内氏の家臣。板垣退助の直系の先祖にあたる。知行1000石。家紋は「榧之内十文字」。

幼少期[編集]

甲斐武田氏の家臣・板垣信憲の嫡男として甲斐国で生まれる。父・信憲は板垣信方の嫡男で武田家の両職(筆頭家老)を継いだが、素行に問題があり、弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに参陣の後頃、武田信玄から不行跡を理由に城代を解任されたうえ、甲府長禅寺へ謹慎に処せられた。あるいは改易に処し、板垣の名跡を板垣信方の娘婿・於曾左京亮に継がせ板垣信安と名乗らせて、以後、信玄はそちらを板垣家の嫡流として扱い、信憲は「板垣」の名を名乗ることも召し上げて追放したとも、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたともいわれる[1][2]

父が死去したとき、正信はまだ幼少であったため、従者の北原羽左衛門・都築久太夫の両名に供奉され籠居したとされる。正信の弟・板垣正寅は父が殺害された後、生母と共に一旦丹波国へ籠居し、のち京都・南禅寺に預けられて育った。『遠碧軒記』によれば、正寅は聡明さを認められて還俗し、京都下御霊神社の斎部信英の女を娶り社家を継ぎ、下御霊神社出雲路家の祖となっている[3]

青年期[編集]

正信は武田氏滅亡後、同じく浪人となっていた孕石元成らと共に、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐で陣借りして奮戦し遠江国掛川城主となった山内一豊に、同年10月7日に召抱えられた。

山内家に仕官以降[編集]

この時、推挙した家老・山内備後守(乾和三)より「乾」の使用を許可されたといわれる[4]。石高は136石で、知行地は、遠江榛原郡勝間田麻生村であった[5](孕石元成も一豊に召し抱えられ200石を賜った)。その後、20人の鉄砲衆を従えて御馬廻役に列した。

慶長6年(1601年)、主君・山内一豊が土佐国に封ぜられた際、知行1000石(内200石は鉄砲衆の役料知)を下し置かれた。

慶長13年1月17日(1608年3月3日)に病死。土佐土佐郡薊野村(現 高知県高知市薊野東町)板垣山に葬られた。

正信の跡は、養子・正行(山内一照の二男)が継いだ。

正信は血気盛んな侍で「家中のもめごとを治める事」という慶長9年(1604年)頃の話の中で喧嘩をした侍の例として取り上げられている。以下『南路志』巻52によると、「ある日の夕方、乾加兵衛正信という侍が馬具もつけていない裸馬に乗って、江ノ口川へ入り、それより比島[6]あたりへ遠馭(とおがけ)に行ったとき、山田久兵衛の従者が一宮村の宿場より帰って来るのに出くわした。山田の従者は、橋の西側の堤の上で正信とすれ違ったが、狭い道のため、堤の下によけて正信を通したところ、(脇に生えていた)竹が(正信の)着物の片方引っかかったため、正信は手綱を手放してしまった。驚いた馬は駆け出し、二、三間走ったところで、正信は落馬した。しかしすぐ立ち上がり、その従者を一討ちして正信は帰って行った。この事を聞いた山田久兵衛は、すぐさま正信宅へ討ち入って、『たかが出会いがしらのいざこざで、その後従者を一討ちにするとはどういうことか』と久兵衛は怒り、「この上は果し合いも持さず」と言い残して、山内一豊へ陳情したところ、「双方の言い分にはもっともなところがあるが、些細な喧嘩で日ごろから信認している侍(原文「御調法の侍」)を無くすのは残念である。この上は、久兵衛には一豊の顔に免じて許してやってくれ。それから正信は、やはり対処の仕方を誤っておったので、しばらくは寺に入って謹慎するように」と言われ、20日間ほど吸江寺で謹慎したので、許されて以前の職務に戻った」と書かれている。正信が知行1000石を賜うという破格の扱いがあり、一豊にとって「御調法の侍」であったと記されている。

1板垣兼信

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

板垣頼時 2板垣頼重

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3板垣頼兼 板垣信頼 板垣実兼 武田長兼

 

 

 

 

 

 

4板垣行頼 武田信貞

 

 

 

 

 

 

5板垣長頼 中村兼邦

 

 

 

 

 

 

6三郎左衛門 中村兼貞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7三郎左衛門 板垣四郎

 

 

 

 

 

 

8板垣兼光

 

 

 

 

 

 

9板垣播磨守

 

 

 

 

 

 

10板垣松溪

 

 

 

 

 

 

11願阿彌陀佛

 

 

 

 

 

 

12板垣善満坊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13板垣備州 14板垣信泰 中村信勝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

板垣伯耆守 15板垣信方 室住虎登 女子 中村繁勝 中村元明 中村信里

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

16板垣信憲 酒依昌光 17板垣信安[7] 板垣信安妻 中村就親 中村元行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

板垣正信 板垣正寅 女子 18板垣修理亮 板垣隼人 中村元誠

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

乾正行[8] 板垣正善 酒依昌吉 (嫡流) (伊豆板垣家) (安芸中村氏)

 

 

 

 

 

 

 

 

(土佐藩士) (社家出雲路) (幕臣酒依家)
  • 実線は実子、点線は養子
  • 北原羽左衛門
  • 都築久大夫

乾正信の登場する小説[編集]

  1. ^ 実際、永禄元年(1558年)に於曾左京亮は、信玄の命によって板垣氏を継いでいる。
  2. ^ 『甲陽軍鑑』には天文22年(1553年)、私怨により本郷八郎左衛門に殺害されたとあるが、『千野文書』の弘治3年(1557年)7月、信濃小谷城攻めに板垣信憲の名前が見えるため、『甲陽軍鑑』の年暦については信頼できない。
  3. ^ 『遠碧軒記』黒川道祐著、延宝3年(1675年)
  4. ^ 「関ヶ原の合戦で陣借りし、乾彦作の推挙によって板垣信方の遺児を召し抱えた」とする説は誤り。宇田友猪が、事実誤認のまま板垣の伝記(『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、自由新聞社、1893年)で紹介し、それが『国府村史』竹内英省編、昭和36年(1961年)12月発行に掲載された。昭和38年(1963年)司馬遼太郎が『功名が辻』を執筆するにあたって『国府村史』を参照したことによりこの誤りが広まったが、土佐藩の藩政期史料によれば、正信の仕官は天正18年10月7日(1590年11月4日)に遠江国掛川であり、乾彦作(乾和信)は、それより5年前の天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた近江長浜の大地震の際、一豊の娘・与祢姫を助けようとして夫婦共に圧死(「天正13年11月29日(1586年1月18日)於江州長浜宇内、大地震。山川転動裂壊家屋、顛潰長濱之御城殿崩、與禰姫様喪亡、御歳六歳。号光景妙円。是、見性院様御腹子也。此時、御家人乾彦作和信始数拾人死」『一豊公紀』)しているため、関ヶ原合戦の時に、正信を推挙することはあり得ない。推挙したのは和信の弟・乾和三である。また、正信を板垣信方の子とするのも誤り。正しくは板垣信憲の子である。(『板垣会』会報第1号)
  5. ^ 『南路志』巻50所収の古文書、「天正18庚午年(1590年)より慶長5年迄於遠州掛川被 召抱士(えんしゅうかけがわにおいて、めしかかえらる、さむらい)」によると、「一、百三十六石 乾加兵衛正信。天正十八年十月被 召抱。慶長六年千石、内鐡炮廿挺。二代金右衛門正行。實山内刑部一照次男。(山内)但馬一長弟。慶安二年十二月死。三代與三兵衛。當左近兵衛家也」とある。
  6. ^ 現 高知県高知市比島
  7. ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
  8. ^ 永原一照次男

参考文献[編集]

  • 『孕石家家記』孕石元政著
  • 『遠碧軒記』黒川道祐著、1675年(延宝3年)
  • 『南路志』(巻50、巻52)、武藤致和・武藤平道 共編、1813年(文化10年)
  • 『御侍中先祖書系圖牒』高知県立図書館寄託文書、1826年
  • 『板垣・乾系圖』