Month: August 2021

楊椿 – Wikipedia

楊 椿(よう ちん、455年 – 531年)は、北魏の政治家・軍人。字は延寿、または仲考。本貫は恒農郡華陰県。 楊懿の次男として生まれた。中散を初任とし、宮中の厩の管理をつかさどった。細心で慎重な仕事ぶりが評価されて、医薬の管理を任され、内給事に転じ、兄の楊播とともに宮中に仕えた。さらに蘭台を兼ねて職務を代行した。中部曹に転じて、訴訟を公正に裁き、孝文帝の賞賛を受けた。490年(太和14年)に文明太后が死去すると、孝文帝は5日のあいだ食事を取らなかったため、楊椿は帝を諫め、その言に感じいった帝は1杯の粥をすすった。491年(太和15年)、楊椿は宮輿曹少卿に転じ、給事中の任を加えられた。 492年(太和16年)、安遠将軍・豫州刺史として出向した。493年(太和17年)、孝文帝が洛陽から豫州に向かい、その州館に幸すると、楊椿は馬10匹と絹布1000匹を賜った。さらに冠軍将軍・済州刺史に転じた。495年(太和19年)、孝文帝が鍾離から鄴に向かい、碻磝に入り、済州の州館に幸すると、楊椿は馬2匹と絹布1500匹を賜った。平原郡太守の崔敞が官炭を売却した罪で告発されると、楊椿は連座して免官された。500年(景明元年)、寧朔将軍・梁州刺史として出向した。 ときに武興王楊集始が楊霊珍に敗れて、南朝斉に降っていた。楊集始は1万人あまりを率いて漢中から北進し、旧領の奪回を図った。楊椿は5000の兵を率いて下弁に駐屯し、楊集始に信書を送って、利害を説いた。楊集始は楊椿の説得に応じて、北魏に降った。まもなく楊椿は母が老齢であることを理由に、辞任して洛陽に帰った。503年(景明4年)、武都氐の楊会が反乱を起こすと、楊椿は仮節・冠軍将軍・都督西征諸軍事・行梁州事となり、軍司の羊祉とともに楊会を討ち、これを撃破した。後に梁州が運んでいた食糧を、氐族たちに強奪されると、楊椿は征虜将軍を兼ね、持節として招慰にあたった。505年(正始2年)、仇池氐が反乱を起こすと、楊椿は光禄大夫の位を受け、仮の平西将軍となり、督征討諸軍事としてこの反乱を討った。凱旋すると、太僕卿を兼ねた。 506年(正始3年)、秦州の羌の呂苟児と涇州の屠各の陳瞻らが人々を集めて反乱を起こすと、楊椿は別将となり、安西将軍の元麗の下で反乱の討伐にあたった。わざと進軍を遅らせて、反乱軍の油断を待ち、突如夜襲を仕掛けて撃破すると、陳瞻を斬り、その首級を洛陽に送った。508年(正始5年)、楊椿は入朝して正式に太僕卿となり、安東将軍の号を加えられた。 かつて献文帝のときに柔然の1万戸あまりを帰順させて、高平鎮と薄骨律鎮に居住させていたが、太和の末年にはほとんどが離反して去り、1000家あまりを残すのみとなっていた。北魏の朝廷は、王通らの進言により、柔然からの帰降者たちを淮北に移して、脱走を防ごうと計画された。楊椿が持節として移転を取り仕切ることとなったが、楊椿は移住策に反対であり、上書してその無益を説いた。しかし聞き入れられず、帰降者たちを済州の黄河沿いに移転させた。508年(永平元年)に冀州で元愉の乱が起こると、済州にいた帰降者たちはことごとく反乱側につき、楊椿の懸念は的中することとなった。 この年、徐州の城民の成景儁が宿預で反乱を起こすと、楊椿は宣武帝の命を受けて、4万の兵を率いて討伐に赴いたが、敗北して退却した。510年(永平3年)、都督朔州撫冥武川懐朔三鎮三道諸軍事・平北将軍・朔州刺史に任じられた。514年(延昌3年)、撫軍将軍の号を加えられ、入朝して都官尚書に任じられ、白溝の堤防や堰を修築する監督にあたった。516年(熙平元年)、撫軍将軍のまま定州刺史に任じられた。兵士に屯田をおこなわせ、民衆を労役に徴発するのを止めさせたが、兵力を動員して仏寺を私的に造営したことが御史の弾劾を受け、官爵を剥奪されて庶人とされた。 524年(正光5年)、輔国将軍・南秦州刺史に任じられた。ときに南秦州では反乱が勃発しており、赴任できず、長安にとどまった。525年(正光6年)、岐州刺史に転任した。同年(孝昌元年)、撫軍将軍・衛尉卿に任じられた。526年(孝昌2年)、左衛将軍の号を受け、さらに尚書右僕射を兼ねた。并州・肆州を訪れて絹3万匹を運び、恒州・朔州の流民を徴募して軍士に当てさせた。都督雍南豳二州諸軍事・衛将軍・雍州刺史として出向し、車騎大将軍・儀同三司の位に進んだ。527年(孝昌3年)、蕭宝寅と元恒芝の軍が反乱軍に敗れ、元恒芝が渭水の北から東方に逃れようとすると、楊椿は人に追わせて、元恒芝を止めさせた。蕭宝寅が後からやってきて、逍遙園に敗残兵を集結させると、1万人あまりとなり、どうにか三輔の人心を安堵させることができた。ときに涇州・岐州・豳州は反乱軍の手に落ちており、扶風郡より西の地方は北魏の統制下になかった。楊椿は兵を徴募し、7000人あまりを得て、兄の子の録事参軍楊侃らに率いさせて反乱軍の進攻を防がせた。楊椿は本官のまま侍中の任を加えられ、尚書右僕射を兼ね、行台となって、関西の諸将を統率し、関西の五品以下の郡県の官吏を仮に任命する権限をえた。しかし楊椿は突然の病のために、解任を願い出て許され、蕭宝寅が楊椿に代わって雍州刺史となった。 楊椿が郷里に帰るにあたって、ちょうど子の楊昱が洛陽に向かうところであったため、蕭宝寅の弐心に注意するよう伝言させた。楊昱は洛陽で孝明帝や霊太后にそのことを報告したが、聞き入れられなかった。蕭宝寅は御史中尉の酈道元を殺害したが、そのことを弁明する上表では、楊椿父子が誹謗をおこなっていると非難していた。楊椿は都督雍岐南豳三州諸軍事・衛将軍・開府儀同三司・雍州刺史・討蜀大都督として再び起用されたが、老病を理由に断り、赴任しなかった。 528年(建義元年)、司徒公に上った。爾朱栄が葛栄を討つべく東征の軍を発すると、楊椿は後詰めの軍を率いるよう命じられたが、爾朱栄が葛栄を捕らえたため、取りやめられた。同年(永安元年)、太保・侍中に進んだ。529年(永安2年)、楊昱が滎陽で元顥に敗れ、孝荘帝は河内に避難し、元顥が洛陽に入った。楊椿の一族の多くが孝荘帝に従っていたため、洛陽に残された楊椿は元顥の嫌疑を受ける立場にあったが、楊椿の家が代々の顕貴であったため、元顥も人望を失うのを恐れて、罪に問うことができなかった。楊椿は人に避難を勧められたが、「座して運に任せるのみ」と言ってしりぞけた。 元顥が敗れて、孝荘帝が洛陽に帰ると、楊椿は引退を願い出て許され、惜しまれながら郷里の華陰に帰った。531年(普泰元年)7月、爾朱天光により殺害された。享年は77。532年(太昌元年)、都督冀定殷相四州諸軍事・太師・丞相・冀州刺史の位を追贈された。 伝記資料[編集] 『魏書』巻58 列伝第46 『北史』巻41 列伝第29

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ビジネスソフトウェア – Wikipedia

ビジネスソフトウェア(英: business software)は、ビジネスの生産性を向上させたり、生産性を測ったりするソフトウェア一般を指す。 ビジネス環境で使う非常に広範囲なソフトウェアを指し、規模を中心として様々に分類される。 これまで Napster などの Peer to Peer ソフトウェアにしかなかった技術が、ビジネスソフトウェアにも取り込まれつつある。オープンソースプラットフォームの JXTA は、ハードウェアやプログラミング言語に依存しないアプリケーション作成を可能にする。Peer to Peer ベースのアプリケーションは、ユーザーの頭の中にある情報を収集する手段として有効と考えられている。 デジタルダッシュボード – ビジネスデータを要約し、(例えば、KPIなどを使って)一目でビジネスの状況がわかるよう表示する。2000年以降、急激に成長してきた。 OLAP

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パジリク古墳群 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “パジリク古墳群” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年1月) パジリク5号墳出土の壁面覆いに見られる「乗馬する男」 パジリク古墳群(パジリクこふんぐん)、または、パジリク遺跡(パジリクいせき)とは、ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓(クルガン)群。 1929年にM.P.グリャズノフとS.I.ルデンコ、1947年から1949年にかけてS.I.ルデンコによって大型円墳5基を含む8基の墳墓が発掘調査された[1]。 年代については、発掘担当者は紀元前5世紀と考えたが、紀元前3、同2世紀のものと考える研究者もいて論争があり、放射性炭素年代測定では紀元前400±140年の測定値が出ていると報告されていた。2000年にエルミタージュ博物館所蔵のもっとも新しい墳墓と考えられる5号墳出土の織物を改めて測定すると、紀元前383 – 同332年の可能性25.4%、紀元前328 – 同200年の可能性74.6%という測定値が得られ、測定者のG.Bonani、I.Hajdasらの研究グループは紀元前260 – 同250年の年代を与えている。なお、墓室用木材を年輪年代法で検証したところ、大形墳5基は前後48年という短期間に構築されたことが判明していることから、この古墳群の年代は紀元前3世紀前半頃と考えられる。 大型墳は、墳丘の直径24

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岡内重俊 – Wikipedia

岡内 重俊(おかうち しげとし、1842年5月11日(天保13年4月2日[1])- 1915年(大正4年)9月20日[1][注 1])は、幕末の土佐藩士、明治期の司法官僚・政治家。元老院議官、貴族院勅選議員、男爵、錦鶏間祗候。通称・俊太郎[1]。 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市)で、土佐藩士・岡内清胤、鹿子夫妻の長男として生まれる[1][2]。土佐藩の横目職を務めた[3][4]。その後、海援隊に加わり坂本龍馬の秘書役を務め[1][4]、土佐藩の武器調達に尽力[3][4]。 明治維新後、新政府に出仕し、明治2年2月15日(1869年3月27日)刑法官鞫獄判司事に任じられた[5]。以後、鞫獄副知判司事、徴士・鞫獄司知事、刑部大解部、刑部少判事、刑部中判事、司法少判事、司法権中判事を歴任[5]。 岩倉使節団に理事官として参加した佐々木高行司法大輔の随行を命ぜられ、明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港を出港し、欧米各国を巡行して1873年(明治6年)3月13日に帰国した[5]。 1873年3月15日、司法権大検事に就任。以後、判事、長崎上等裁判所長、大審院刑事局詰、高等法院陪席裁判官などを歴任した[1][5]。 1886年(明治19年)5月10日、元老院議官に任じられ、1890年(明治23年)9月29日、貴族院議員に勅選され[1][5][6]、死去するまで在任[7]。同年10月20日、元老院が廃止され議官を非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられた[5]。1900年(明治33年)5月9日、男爵を叙爵した[2][8]。立憲政友会に属して活動した[1][4]。 位階 勲章等 注釈[編集] ^ 『大正過去帳 物故人名辞典』73頁・『海を越えた日本人名事典』新訂増補184頁では「9月19日」。 出典[編集] ^ a b

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ジャック・ハーヴェイ – Wikipedia

ジャック・アリ・ハーヴェイ(Jak Ali Harvey、1989年4月5日 ‐ )は、ジャマイカ出身でトルコ国籍の陸上競技選手。専門は短距離走。 100mで9秒92、200mで20秒38の自己ベストを持つ、100mのトルコ記録保持者。2014年にトルコの市民権を取得[1]。 ジャマイカ人時代の名前はジャック・モンゴメリー・ハーヴェイ(Jacques Montgomery Harvey)[2]。 2011年[編集] 8月、深圳ユニバーシアードに出場すると、100m決勝で10秒14(-0.2)をマークし、リーティス・サカラウスカスに0秒001差で競り勝って金メダルを獲得した[3]。これまでユニバーシアードの100mでジャマイカ男子勢が優勝したことはなく、初の金メダル獲得となった[注 1][4]。 2014年[編集] 7月25日にトルコの市民権を得て、2015年7月24日からトルコ代表として国際大会に出場することが可能となった[1]。 2015年[編集] 7月21日、Gala dei Castelli Bellinzonaの100m予選で10秒04(+0.4)のトルコ記録(当時)を樹立し、ラミル・グリエフが2015年にマークした10秒12を塗り替えると、決勝Bレースでも10秒03(-0.1)のトルコ記録(当時)を樹立した[5]。 8月、北京世界選手権の100mに出場すると、予選を自己ベスト(当時10秒03)に迫る10秒04(+0.3)で突破し、初出場ながらセミファイナリストとなった[6]。準決勝でも自己ベストに迫る10秒08(-0.4)をマークしたが、組5着で敗退した[7]。

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西園寺公重 – Wikipedia

西園寺 公重(さいおんじ きんしげ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿・歌人。内大臣・西園寺実衡の次男。権大納言・西園寺公宗の異母弟。官位は正二位・内大臣(北朝)、太政大臣(南朝)。竹林院・北山と号する。 正中2年(1325年)12月元服と同時に従四位上侍従に叙任。後醍醐天皇からの信任厚く[2]、以後累進して嘉暦3年(1328年)9月従三位に叙され、公卿に列した。元弘元年/元徳3年(1331年)1月土佐権守、2月参議・左中将、10月権中納言に任じられ、元弘2年/正慶元年(1332年)9月従二位に昇叙。翌月には皇太子康仁親王の春宮大夫を兼ねたが、元弘3年/正慶2年(1333年)5月光厳天皇が廃されたために参議正三位に落とされ、大夫も辞することとなった。 建武政権下では、建武元年(1334年)2月権中納言に復した。同2年(1335年)6月に兄・公宗が北条氏残党と結んで謀反を画策するも、これを知った公重は未然に後醍醐天皇へ密告し、その功績によって、西園寺家を継ぐこととなった。政権崩壊後も北朝から家門を安堵されたが、この際に室町幕府が介入し、公宗の遺児・実俊の成長の暁には家門を実俊に移譲させるという条件を付したため、一族間に対立関係を残すことになる。延元2年/建武4年(1337年)12月正二位、延元3年/暦応元年(1338年)11月権大納言に任じられ、興国7年/貞和2年(1346年)2月大納言となった。正平3年/貞和4年(1348年)右近衛大将、次いで左近衛大将を兼任し、正平4年/貞和5年(1349年)9月には内大臣に任じられたが、この時既に家門は公重の手を離れて実俊が相承していたようで、公重は竹林院第に住して竹林院と称せられた。正平6年/観応2年(1351年)4月に辞職した背景にも家門をめぐって北朝方公家や武家側からの圧迫があったらしい。 正平一統下の正平7年(1352年)2月再び家門を安堵されて北山第に移り、嫡流として復帰するも、5月幕命によってもとの竹林院に帰住させられた。廟堂からの締め出しや所領没収などの憂き目に遭いながらも在京し、正平8年/文和2年(1353年)6月南軍が京都を回復した際には、久我長通・洞院公賢と議して京都の諸事を処理するように後村上天皇から命じられた。しかし、同年9月に足利尊氏が入京して南朝との和平が破れると、万策尽きた公重は竹林院を売払い京都から没落した。 その後、正平11年/延文元年(1356年)までに南朝へ参候し、右大臣に任じられた。具体的な官歴については史料を欠くが、正平19年/貞治3年(1364年)7月には太政大臣として家門を「了長」に譲っているので[3]、間もなく散位へ移って出家したものと推測されよう。正平22年/貞治6年(1367年)9月3日に薨去。享年51。 勅撰和歌集には『風雅和歌集』に「大納言公重」として7首、『新拾遺和歌集』に「入道前内大臣」として1首、『新続古今和歌集』に「竹林院前内大臣」として2首入集し、また、南朝の准勅撰集『新葉和歌集』に「遍照光院入道前太政大臣」として9首入集した。主観的な歌風で、南朝公卿としての真情がこもる詠も見られる。 父:西園寺実衡(1290-1326) 母:家女房(?-1347) 室:従三位行子? 生母不明の子女 ^ 『新葉和歌集』には公重が行子の死を悼む哀傷歌が見えているので、公重の室(谷森善臣)か娘(井上宗雄)だったと思われる。 ^ 後醍醐天皇が公重を抜擢したのは、関東申次であった嫡兄・公宗を親幕府派と見なして牽制する意図があったためとみられる。 ^ 『西園寺家記録』13。家門を継いだ「了長」について、『大日本史料』は子の実長と解しているが、実長は正平10年/文和4年(1355年)に早世しているから明らかに誤りである。あるいは公重の孫にして、実長の子か(太田亮)。さらに、この人物を新葉和歌集作者の「左近大将公長」に比定する説もある(小木喬)。 参考文献[編集] 小木喬

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マリナー・エクルズ – Wikipedia

マリナー・エクルズ(Marriner Stodderd Eccles、1890年9月9日 – 1977年12月12日)は、アメリカ合衆国の実業家、銀行家。1934年から1948年まで連邦準備制度理事会(FRB)の議長を務めた。 誕生から父の死まで[編集] ユタ州ローガンに生まれた[1]。父親のデヴィッドはモルモン教の移民基金によってスコットランドのグラスゴーからユタ州に移り住んだ移民で、マリナーが生まれたときは伐木事業などを経営していた[2]。母親のエレンも移民の家系である。当時のモルモン教は重婚を禁止していなかったため、エレンはデヴィッドにとって2人目の妻である。2人の間には男子4人、女子5人の子供が生まれ、マリナーは長男であった[3]。 マリナーが生まれてから、父デヴィッドは木材会社や製糖会社を作り、事業規模を拡大していった[4]。マリナーも8歳から木材会社で仕事を手伝い、賃金を得ていた。11歳になって100ドルの貯金ができたマリナーは、父から木材会社の株を1株売ってもらい、資本家となった[5]。 15歳になったとき、ブリガム・ヤング・カレッジ(英語版)に入学し、1909年6月に卒業した。同年12月、モルモン教会から、モルモン教宣教団として布教活動するよう命じられ、スコットランドのグラスゴーに渡った。現地では日曜日に公園に行って布教を続けたが、改宗者はあまり得られなかった[6]。 1912年5月、2年2カ月の布教活動を終えて帰国してからは、父の仕事を手伝った。しかし同年12月、父デヴィッドは63歳で死去した。マリナーが22歳のときである。 実業家としての成功[編集] 父の死後、マリナー・エクルズ(以後エクルズと呼ぶ)はエクルズ・インベストメント・カンパニーを設立し、遺産の一部(7分の2)を管理した。また1913年には、グラスゴーで知り合ったメイ・キャンベル・ヤングと結婚した[7]。エクルズは同年、ハイラム州法銀行の社長になり、また、ザッチャー・ブラザーズ・バンキングの副社長になった。1919年にはセゴ乳製品会社を買収した[8]。 エクルズ・インベストメント・カンパニーは順調に収益を上げていた。一方、父デヴィッドの最初の妻の息子も、遺産を元にデヴィッド・エクルズ・カンパニーを作っていたが、経営はうまくいっていなかった。そのためデヴィッド・エクルズ・カンパニーは自社の保有する株式を売却していっており、結果的に、同社が経営する木材会社の株の28%はエクルズ・インベストメント・カンパニーが保有することになった。そこでエクルズは他の株主も味方につけて、デヴィッド・エクルズ・カンパニーに対し、自分たちの株を買い取るか、社長が辞任するか、どちらかにせよと迫った。デヴィッド・エクルズ・カンパニーは、自らが保有する銀行株などを利用してエクルズたちの株を買い取った[9]。 この取引により、エクルズはオグテン・ファースト・ナショナル・バンクとオグデン・セイビングス・バンクの頭取になった。2行を合わせると市内で最大の銀行になる。1925年にはユタ州銀行協会の会長となり、さらに1928年、多くの銀行の持ち株会社であるファースト・セキュリティ・コーポレーション(英語版)を設立して社長になった[8][10]。 こうしてエクルズは大富豪になり、大恐慌前の1929年には、銀行、ホテル、乳製品会社、製材会社などの社長の地位に就き、さらに製糖会社、土建会社、鉄道会社、石炭会社、農具会社、電力会社などの重役にもなっていた[8]。 大恐慌への対応[編集] 1929年から始まる世界恐慌は、エクルズの会社にも大きな打撃を与えた。始めのうち、エクルズや周りの人々は、この危機はほんの一時的なもので、すぐに経済は元通りになると思っていた。しかし事態は悪化する一方だった[11]。エクルズは当時の状況を次のようにつづっている。 1930年には私は目が覚めてみると、その険しい両側の壁を測ってみる方法が全くないような杭の底に落ちていることを見出した。……私ははじめて、17年間金融や生産の世界に活動し、その技術を知っていながら、その経済的社会的効果についてはなんにも知っていないことを悟った。しかし、いまさら無知を告白したところでどうにもならなかった。その不動産を私が管理していた友人、その利益を私が代表していた家族、私がその経済生活の中で敏感な役割を演じていた社会などはすべて私が杭からの逃れ路を見出すことを期待した。しかし私が私自身の中に見出しえたものは絶望だけであった。[12] しかしそうはいってもエクルズの銀行は財政的にまだ余裕があった[11]。さらにエクルズは資金を借り入れ、逆に貸し付けは減らして現金を確保した上で、様々な手法で危機を乗り越えていった。 まず1931年、オグデンにあるオグデン・ステート・バンクが取り付けにあって休業したとき、同地にあるエクルズの銀行には預金の引き出しを求める人々が押し寄せて混乱していた。そこでエクルズは預金者に対し、本日は営業終了時間の3時を過ぎても対応するから興奮しなくて良いと告げ、さらに、ちょうど連邦準備銀行から現金輸送車が来ていたのでそのことを預金者に報告し、そのうえ、連邦準備銀行はもっと多くの現金を持っていると言って人々を安心させた(ただし、エクルズの銀行がその現金を入手できるとは言わなかった)。こうしてエクルズはオグデンでの取り付けを避けることができた[13]。

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のびのびパスポート – Wikipedia

のびのびパスポートは兵庫県と徳島県の対象配布地域に在籍している小学生・中学生が持ち込み・提示すると施設の観覧料が無料になるパスポートである。 目次 1 対象配布地域 2 加盟施設 2.1 兵庫県 2.2 徳島県 2.3 大阪府 2.4 和歌山県 3 脚注 4 関連項目 5 外部リンク

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アーサー・ショーロー – Wikipedia

Arthur Leonard Schawlowアーサー・ショーロー アーサー・ショーロー 生誕 (1921-05-05) 1921年5月5日 アメリカ合衆国、ニューヨーク州マウントバーノン 死没 1999年4月28日(1999-04-28)(77歳) アメリカ合衆国、カリフォルニア州パロアルト 国籍 アメリカ合衆国 研究分野 物理学 研究機関 ベル研究所コロンビア大学スタンフォード大学 出身校 トロント大学 博士課程指導教員

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