ローマ – Wikipedia
ローマ Roma |
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行政 | |||||
国 | イタリア | ||||
州 | ラツィオ | ||||
県/大都市 | ローマ | ||||
CAP(郵便番号) | 00118~00199 | ||||
市外局番 | 06 | ||||
ISTATコード | 058091 | ||||
識別コード | H501 | ||||
分離集落 | Ostia, Ostia antica, Acilia, Vitinia, Infernetto, Trigoria, Piana del sole, Casal palocco, castel di leva, Villaggio prenestino, Castelverde, Corcolle, La storta-olgiata, Massimina, valle santa. | ||||
隣接コムーネ | #隣接コムーネ参照 | ||||
地震分類 | zona 3 (sismicità bassa) | ||||
気候分類 | zona D, 1415 GG | ||||
公式サイト | リンク | ||||
人口 | |||||
人口 | 2,856,133 [1] 人 (2019-01-01) | ||||
人口密度 | 2,222.2 人/km2 | ||||
文化 | |||||
住民の呼称 | Romani | ||||
守護聖人 | 聖ピエトロ(San Pietro)と聖パオロ(Paolo) | ||||
祝祭日 | 6月29日 | ||||
地理 | |||||
座標 | 北緯41度53分35秒 東経12度28分58秒 / 北緯41.89306度 東経12.48278度座標: 北緯41度53分35秒 東経12度28分58秒 / 北緯41.89306度 東経12.48278度 | ||||
標高 | 20 (0 – 377) [2]m | ||||
面積 | 1,285.30 [3]km2 | ||||
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ローマ県におけるコムーネの領域 |
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ポータル イタリア |
ローマ(伊/羅: Roma、英/仏: Rome)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、首都ローマ大都市の首府でもある。
イタリアの首都で政治、経済、文化、宗教の中心地である。当市に囲まれるようにローマ教皇の居住するバチカン市国があり、そこは全世界のカトリック教徒にとっての中心地で、現在は外国であるが歴史・宗教・文化的にはローマ市地域と密接な関わりがある。そして昔のローマの大国さを表した「ローマは一日にして成らず」という諺もある。また、領土を持たないマルタ騎士団の本部、マルタ宮殿がコンドッティ通り68にあり、治外法権が認められている。
2019年現在の人口は約286万人で、イタリアで最も人口が多い都市である。2010年の都市的地域の人口では271万人であり、世界128位である[8]。
かつてのローマ帝国の首都であったため西洋文明圏を代表する都市のひとつであり、カトリック教会の中枢であり、そしてまたその美しさから『永遠の都』と称される。
2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス、人材、文化、政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第32位の都市と評価されており、イタリアの都市では第1位であった[9]。
観光都市としての側面もあり、2012年には7,800,000人の観光客が訪れた[10]。後述の「観光」、「聖地として」も参照。
紋章[編集]
ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。
今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスやタクシー、マンホールの蓋にも紋章が入れられている。
地勢[編集]
ティレニア海にそそぐテヴェレ川河口から25kmほどさかのぼった位置にあるイタリアの首都で、ラツィオ州の州都でありローマ県の県都。伝説によれば、ローマは紀元前753年、テヴェレ川東岸の「ローマの七丘」のひとつ、パラティーノの丘に建設されたという。七丘とは、パラティーノ、アヴェンティーノ、カピトリーノ、クイリナーレ、ヴィミナーレ、エスクイリーノ、チェリオの丘をさしていた。しかし考古学的には、紀元前1000年にはすでに人が定住していたことが証明されている。歴史的に由緒のある地区は意外に狭く、そのほとんどがテヴェレ川東岸にある。ローマの過去の栄光をしめす記念建造物の大部分はこの地区にある。
気候[編集]
ローマの気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
平均最高気温 °C (°F) | 11.8 (53.2) |
13.0 (55.4) |
15.2 (59.4) |
18.1 (64.6) |
22.9 (73.2) |
27.0 (80.6) |
30.4 (86.7) |
30.3 (86.5) |
26.8 (80.2) |
21.8 (71.2) |
16.3 (61.3) |
12.6 (54.7) |
20.52 (68.92) |
平均最低気温 °C (°F) | 2.7 (36.9) |
3.5 (38.3) |
5.0 (41) |
7.5 (45.5) |
11.1 (52) |
14.7 (58.5) |
17.4 (63.3) |
17.5 (63.5) |
14.8 (58.6) |
10.8 (51.4) |
6.8 (44.2) |
3.9 (39) |
9.64 (49.35) |
降水量 mm (inch) | 102.6 (4.039) |
98.5 (3.878) |
67.5 (2.657) |
65.4 (2.575) |
48.2 (1.898) |
34.4 (1.354) |
22.9 (0.902) |
32.8 (1.291) |
68.1 (2.681) |
93.7 (3.689) |
129.6 (5.102) |
111.0 (4.37) |
874.7 (34.436) |
% 湿度 | 77 | 75 | 72 | 73 | 71 | 68 | 67 | 66 | 69 | 74 | 78 | 78 | 72.3 |
出典:MeteoAM 2009-05-29 |
地域[編集]
ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。
行政区画[編集]
行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。またローマは郊外区域、および52の農業区域を公式に指定しているが、後者は開発の対象となりやすいのが実情である。
- 歴史
ローマに初めて行政区を創設したのはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスで、紀元前7年のことである。それまで首都の境界線(ポメリウム)の内外程度しか区分けがなかったものを、14の行政区に分割し行政上の責任を明確にしようとした[11]。それぞれの区には任期1年の政務官(護民官、法務官と造営官)が選出された。各区はウィクス(町)に分割され、それぞれのウィクスには解放奴隷階級の中より4名の町役人(ウィコマギステル)が選出され、主に治安と防火の責任を負った。記録によれば74年時点ではローマ全市で265ウィクスあり、帝政末期のディオクレティアヌス帝の時代には304ないし306ウィクスに増えていた[11]。
- ローマのムニチーピオ
ムニチーピオ(it)は、19の行政区に分けられる。
- ローマのリオーネ
リオーネ(it)は、以下の22の行政区に分けられる。
- ローマのクアルティエーレ(近隣住区)
クアルティエーレ(it)は、以下の35に分けられる。
隣接コムーネ[編集]
隣接するコムーネおよびそれに相当する区域は以下の通り。
- 主要記事:Storia di Roma(伊語) History of Rome (英語)
起源[編集]
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロームルスとレムスにより建てられた。ロームルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロームルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる[12]。
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された[12]。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる[13]。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた[13]。
発展[編集]
紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。またカンピドリオの丘にはユピテル神殿が建設された[14]。これら土木・建築様式はエトルリアやギリシアの影響が見られ、それらの地から技術が導入されたと考えられる[14]。
王政ローマ期に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウスの頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である[15]。
共和政ローマ期にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる[16]。紀元前312年からはローマ街道の敷設が[17]、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった[18]。
ローマ帝国[編集]
ローマ帝国の首都となり、皇帝アウグストゥスの時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した[19]。しかし皇帝ネロ統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた[20]。
そしてこの頃、ローマ帝国は隆盛を極めた。皇帝ウェスパシアヌス在位期の69-79年には火災復興事業が盛んに行われ、5万人を収容可能なコロッセオは石灰石を用いた化粧が施され、剣闘士の戦いなどの催しが行われた。さらに石灰岩と火山灰を混ぜたローマン・コンクリートが発明され、パンテオンなど様々な建物が次々と建設され[21]、ローマは大帝国の首府にふさわしい都市となった[22]。ここには、皇帝が権威を示し民衆の支持を得るために、都市建築を用いたことも影響している[22]。この栄華は皇帝ディオクレティアヌスが拠点をニコメディアに移すまで続いた。
286年にディオクレティアヌスによってローマ帝国の行政区画が東西に分けられた後は西ローマ帝国に属したが、西ローマ皇帝は拠点をミラノやラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は大きく低下した。5世紀には西ゴート人やヴァンダル人の掠奪を受けて衰微し、476年に西ローマ皇帝の地位が消滅した後は東ローマ皇帝によってイタリア領主に任命されたオドアケルや東ゴート王の支配下に入った。
6世紀中頃、イタリアを統治していた東ゴート王が東ローマ帝国に滅ぼされ、ローマは再びローマ皇帝の支配下となった。だが、度重なる戦争で荒廃し、歴代の東ローマ皇帝はローマ維持には努めたものの、重要視はしなかった。ローマを訪れた最後の東ローマ皇帝は663年のコンスタンス2世であるが、この人物以外にローマを訪れた東ローマ皇帝はいない。この時期のローマは、宗教的にはともかく、政治的、軍事的にはラヴェンナ総督府の影響下にあった。
しかし、751年にランゴバルド族の攻撃によりラヴェンナが陥落。ローマも脅かされることになる。ローマ教皇ステファヌス2世は、教義問題で対立する東ローマ皇帝コンスタンティノス5世ではなく、フランク族のピピン3世に救援を求め、結果、東ローマ帝国から独立を果たす。
文化の中心地[編集]
この後は『シャルルマーニュの寄進状』によれば800年にカールによりローマ教皇に寄進されたとされるが、この文書は今日では偽書とする見解が優勢である。15世紀半ば以降、ローマ教皇領の首都として栄え、ローマはルネサンス文化の中心地となった。教皇ニコラウス5世の時代には、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復工事がおこなわれた。おもな芸術家や建築家はローマで活動するようになり、15世紀末にはローマはフィレンツェにかわってルネサンスの一大中心地となり、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなどの芸術家が教皇のために仕事をした。しかし1527年、ハプスブルク家の傭兵軍による、いわゆる「ローマ劫掠」によって、この都の盛期ルネサンスは終わりをつげた。なお、家屋が雑然と密集した中世の都市形態が近代化されはじめたのは、16世紀末の教皇シクストゥス5世の時代で、ポポロ広場から市の中心部にむかって3本の道路を開き、広場や泉をつくり、フェリクス水道を修復した。サン・ピエトロ大聖堂の丸屋根が完成したのもこの時代である。
対抗改革期のローマを特徴づけるバロック様式は、17世紀の建築物に多くみられる。ベルニーニやボロミーニのような彫刻家と建築家が、この時代にローマの外観をかえていった。18世紀のローマは、教皇の支配のもとで比較的穏やかな時代をむかえていた。スペイン階段などにみられる18世紀前半のロココ様式の建物は、やがて新古典主義の建物にかわった。1797年ナポレオン1世はローマを占領し、多数の貴重な美術品を持ち去ったが、ウィーン会議の後、ローマはふたたび教皇領となった。
統一イタリアの首都[編集]
ウィーン会議後のオーストリア帝国によるイタリア支配は独立達成にむけてイタリア人を奮起させたが、援軍とあおいだナポレオン3世によるイタリア占領はイタリア人の反発をまねき、1861年、イタリアの大部分はサヴォイア家のもとで統一をはたした(リソルジメント)。教皇の本拠地だったローマは1870年、フランス軍の撤退後、1871年にイタリア王国にローマ教皇領が併合されイタリアが統一され、ローマはフィレンツェに代わって統一イタリアの首都となった。
その後1930年代にはファシスト党の独裁者、ベニート・ムッソリーニがローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)を建設したが、ムッソリーニ主導による第二次世界大戦へのイタリアの枢軸国としての参戦によりEURの拡大は一時的に中止となった。
1943年6月5日、ローマに戦火が及ぶことを避けるため首都防衛を担ってきたドイツ軍がローマ郊外へ撤収[23]。同年7月、ムッソリーニ政権が倒れてバドリオ政権が誕生すると、秘密裏に連合国軍との間で停戦協定の交渉が始った。その中でローマは無防備地域を宣言するものの連合国側には無視され、ローマは空爆された。
同年9月8日、連合国軍側がイタリアとの休戦を発表。ローマはファシストが徹底抗戦を図るために建国したイタリア社会共和国の首都となった。
現在[編集]
第二次世界大戦後には、航空機の発達により、日本をはじめとするアジアやアメリカなどのヨーロッパ圏外からも多数の観光客が訪れるようになった。1970年代初期に文化の中心都市がミラノへ移るまではイタリアにおいてファッションの中心地であった。
現在はパリやアテネなどと並び、ヨーロッパを代表する観光都市として親しまれている。また、イタリアの首都で政治や経済、文化の中心地的存在であるとともにカトリック教会の中枢でもあるほか、市内には国際機関や多国籍企業の本拠があり、イタリアを代表する大企業の本社や官公庁が立ち並ぶ世界的に重要な都市となっている。一方で公共サービスの停滞やインフラの老朽化が深刻になっている[24][25]。
対外関係[編集]
姉妹都市・提携都市[編集]
2008年におけるローマの都市GDPは1440億ドルであり、世界第43位である。
アメリカのダウ・ジョーンズらの2017年の調査によると、世界74位の金融センターと評価されており、イタリアではミラノに次ぐ2位である[26]。
第三次産業[編集]
イタリアの首都であることから、政治の中心地であるが、ローマの経済は基本的に行政と観光によっており、労働者の大半はこの分野と卸売、小売業などのサービス業(第三次産業)に従事している。ローマには、イタリアの大企業本社や多国籍企業の本拠地、国営放送局 (RAI)、大手新聞社などのマスコミの本社、在外公館が集中し、また国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際農業開発基金 (IFAD)、国際連合世界食糧計画 (WFP) の本部がおかれている。またアパレル産業では、ブルガリ、フェンディ、ヴァレンティノ等の創業地になる。ヴァレンティノは1971年にミラノに本店及び本社機能を移転した。
商業[編集]
- 大型店舗
- スーパーマーケット
- 格安系スーパーマーケット
観光業[編集]
市内には古代遺跡や美術館などが多く残り、世界各国から観光客が集まることから観光業界が重要な産業となっており、特にヴェネト通りやスペイン広場周辺には高級ホテルやレストラン、ブティックが立ち並び一年中賑わいを見せている。
映画産業[編集]
郊外には独裁者ベニート・ムッソリーニが作った世界的に著名な映画撮影所「チネチッタ」があり、フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」や「インテルビスタ」など多数の名作が撮影された。イタリアの映画産業のみならずイタリアの近代文化にとっても重要な場所である。なお、フェリーニ監督は1971年に映画「Roma」
(邦題は「フェリーニのローマ」)を撮っている。都市名だけがそのまま題となっている映画は珍しいが(他には「カサブランカ」「シカゴ」など)、内容的にも特にストーリーの無い幻想的なローマ論で埋め尽くされており、キネマ旬報ベストテン2位など名作映画として評価されている。
道路[編集]
公共交通[編集]
- 市内・郊外
イタリア鉄道(トレニタリア Trenitalia)が市内と郊外を結ぶローマ近郊鉄道(FL線)を8路線運行している。イタリア鉄道の路線網は市内中心部のローマ・テルミニ駅やローマ・ティブルティーナ駅と旧市街外周部のローマ・オスティエンセ駅など複数駅の分散ターミナル方式である。また、ATACも都市鉄道を3路線運行し、オスティアなどの郊外との間を結んでいる。市内の交通はATACが運営するローマ地下鉄、トラム、バス網が中心である。他にもタクシーが安価な交通手段として多用されている[27]。なお、バスやトラムは信用乗車方式であるため、駅の券売機やキオスク等で事前に切符を購入しておく必要がある。
- 長距離
長距離交通は、ローマ・テルミニ駅を発着する長距離列車のほか、時速300キロで運行されているユーロスター・イタリア(ES*)やItaloなどの高速鉄道、航空便や高速道路を使用する長距離バスなどで結ばれている。
航空[編集]
日本を含む長距離国際線とEU内国際線、国内線はフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ国際空港)を使用し、EU内国際線と国内線は主にチャンピーノ空港(ジョヴァン・バッティスタ・パスティーネ空港)が使われる。フィウミチーノ空港まではテルミニ駅から直通列車「レオナルド・エクスプレス」が運行され、所要時間は30分ほどである。
日本への就航都市
- 東京(成田国際空港)
- アリタリア航空が運行しているフィウミチーノ空港への直行便の他、ミラノをはじめ欧州主要都市経由で行くことができる。以前は日本航空も直行便を運航していたがその後運休し、現在は運行していない。日本からローマへの直行便は、前述のアリタリア航空による成田発の便のみである。
- 大阪(関西国際空港)
- 成田国際空港と同様、アリタリア航空がフィウミチーノ空港への直行便を就航していたが、現在は就航していない。
観光スポット[編集]
- 古代ローマ遺跡
- 広場・公園
- ローマのオベリスク
- 教会
- 宮殿
- 美術館・博物館
- その他の建造物
- 市内の他の場所
- ローマの七丘
ローマの七丘とは、ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置する古代ローマ時代の七つの丘のこと。
- バチカン市国内の観光名所
- ローマ郊外の観光名所
文化・名物[編集]
聖地[編集]
ローマ市内にはキリスト教の聖地のひとつバチカン市国があり、毎年多くの観光客や巡礼者が訪れる。特にサン・ピエトロ広場は大規模なイベント時にも多くの信者を収容できるよう、最大で約30万人が一度に入れる敷地を持っている[28]。
音楽[編集]
北イタリアの諸都市に比べると意外なほどオペラは盛んではなく、ローマ歌劇場は2014年にいったん全従業員解雇が発表されたことがある(その後労使の妥協により撤回)。むしろイタリアには数少ないコンサートオーケストラの名門として、サンタ・チチェーリア国立アカデミー管弦楽団が特筆すべき存在である。イ・ムジチ合奏団も同地が拠点である。
スポーツ[編集]
ローマは1960年ローマオリンピック開催地で、同年には第1回のパラリンピックが開催された。2009年の世界水泳選手権はこのローマで開催された。
ローマで最も人気のあるスポーツはサッカーである。スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマでは1990 FIFAワールドカップ決勝試合が行われ、現在はセリエA屈指の強豪ASローマや他にもSSラツィオ、セリエC1のアトレティコ・ローマの本拠地として使用されている。各チーム間には猛烈なライバル意識があり、ローマのスポーツ文化として定着している。ASローマのフランチェスコ・トッティやダニエレ・デ・ロッシを初めとし、各チームでは有名選手が在籍、また有名選手が誕生しやすい傾向がある。
サッカー人気には遠く及ばないが、ラグビーも広く受け入れられてきている。スタディオ・フラミニオはラグビーイタリア代表の本拠地で、シックス・ネイションズでは2000年以来試合が行われている。
毎年5月、テニストーナメントのATPマスターズ1000ローマ・マスターズが市内で行われている。サイクリングは第二次世界大戦後に急速に人気を博し、1989年と2000年にジロ・デ・イタリアの最終部分が開催。しかし、サイクリング人気はここ10年で衰退してしまった。他にも、バスケットボールのパッラカネストロ・ヴィルトゥス・ローマ、バレーボール、ハンドボール、水球のチームがローマを本拠地とする。
ローマは1987年世界陸上競技選手権大会の開催地であり、スタディオ・オリンピコ・ディ・ローマが会場として使用された。イタリア陸上競技連盟会長のプリモ・ネビオロにより1980年に創設され、2010年以降はIAAFダイヤモンドリーグの1大会に加わった陸上競技会・ゴールデンガラもスタディオ・オリンピコを会場として行われている[29]。
関連著名人[編集]
出身者[編集]
その他ゆかりある人物[編集]
参考文献[編集]
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
公式
日本政府
観光
その他
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