頼近美津子 – Wikipedia

頼近 美津子(よりちか みつこ、1955年8月1日 – 2009年5月17日)は、日本のアナウンサーである。本名、鹿内 キャサリーン 美津子(しかない キャサリーン みつこ[1])。旧姓、頼近(よりちか)[2]

広島県安芸郡府中町出身[3]。広島大学附属高等学校、東京外国語大学卒業。身長162cm[1]

テレビアナウンサーとして最初はNHKに勤務し、後にフジテレビに転じた。また、後年にはコンサート・プランナー、司会、女優としても活動した。フジサンケイグループ創業家に嫁いだ玉の輿婚でも知られ、結婚後の姓で「鹿内 美津子[2]」とも名乗った。

来歴・人物[編集]

NHKからフジテレビに転身し、その後にはフジサンケイグループ創業家に嫁ぐなど多くの話題を提供、このような経歴はその後にタレント化した「女子アナ」の元祖ともいわれる[4][5][6][注 1]。女子アナのタレント化が一気に進むのは頼近の登場からといわれ、頼近が高額年俸でフジテレビに移籍したことを契機に、報道からバラエティまで、あらゆる番組で女子アナブームが巻き起こり「女子アナの時代」が到来することになった[7]。週刊ポストは頼近を「女子アナブームのパイオニア」と論じている[7][注 2]

生い立ち[編集]

祖父母は広島からアメリカへ移住した日系一世だった。父親はアメリカ生まれの日系二世で[1][9]第二次世界大戦後に広島市に移り、原爆傷害調査委員会(通称:ABCC、現在の放射線影響研究所)に勤務した[10]。同郷で父親がアメリカ生まれの日系二世というのも、後に慕った田丸美寿々との共通点である[1][11][12]

幼少時からクラシックに馴染み[13]ピアノとチェロを学ぶ。小学校3年生のとき広島に桐朋学園大学音楽学部附属子供のための音楽教室が開設されるとこれに通った。齋藤秀雄に才能を見込まれ、東京に出て本格的にチェロを学ぶことを勧められたが家族会議の末に断念。広島の進学校に高校卒業まで通った後、東京外国語大学に進学した[14]

スポーツも好きで、大学在学中にはスキー部に所属[1]

NHKアナウンサー[編集]

1978年に東京外国語大学を卒業すると、NHKに入局した[2]

入局翌年に放送が開始されたゴールデンタイムのバラエティ番組、『ばらえてい テレビファソラシド』の司会進行役として異例の抜擢をされ、「女性アナウンサーが芸能番組に主役で登場するのはNHK開局以来」と言われた[15]。また、同番組で共演した当時売り出し中だったタモリからは番組中、本名のミドルネームで「キャサリン」と呼ばれていた[7][16][17]。「英語が堪能でピアノの弾ける新人アナ」としても人気を得た頼近は「週刊TVガイド」の表紙を女子アナとして初めて飾った[7][注 3]

1980年4月から始まったNHK初の早朝ニュースショー、『NHKニュースワイド』でも、初代女性キャスターを務めた(森本毅郎とのコンビ)。加賀美幸子の『7時のニュース』も同月から放送開始(頼近と加賀美がNHK初の女性キャスター、民放では1979年4月から始まった『FNNニュースレポート6:30』の田丸美寿々が女性キャスター第1号)。当時、女性アナウンサーは10年経験を積まなければ、出演できなかったといわれていたが[19]、同番組は30%の高視聴率を得た。

注目が高まっていた1981年、「自分のことばで語りたい」と[20] フジテレビに移籍[5][注 4]

民放テレビ局によるNHKアナの引き抜きは[注 5]、これまでにも高橋圭三など多数いたが、女性アナウンサーでは、ほぼ最初のケースであった[23]。野際陽子の場合は、NHKを退社した後、フリーとなってTBSの番組に出演したもので引き抜きとは異なる[24]。頼近はフジテレビからのヘッドハンティングである[7]。1981年1月にNHKで行われた退局記者会見は、翌日のスポーツ紙が大見出しで報じ、一般紙も特集記事で後追い報道した[25]。一女性アナウンサーの進退問題がこれほど騒がれたのは前代未聞であった[1][25]。1980年代初頭当時、“振り向けばテレ東”と揶揄される低視聴率にあえいでいたフジテレビは、頼近以降、メインを張れる女子アナを次々養成していくことになる[7]。1981年7月、田丸と共にダイアナ妃結婚の衛星中継をロンドンからレポート[26][27]

フジテレビアナウンサー[編集]

フジテレビでは同局史上初の女性正社員となる。それまでフジテレビは、女性は全員契約社員でのみ採用する方針を貫いており、益田由美や城ヶ崎祐子らも当時は契約社員であった。頼近のフジテレビ入社で田丸らも正社員となる。移籍金は1,200万円とも2,000万円とも3,000万円ともいわれ大きな話題を呼んだ[注 6]。年収も300万円から1,200万円に跳ね上がったとされ、現在のフリー転向の流れの先駆け的存在でもあった[28]。田丸と頼近でフジの二枚看板などと[29]、鳴り物入りでフジテレビに迎えられ『小川宏ショー』の新アシスタントになるが[注 7]、NHKから来たのでミスしてはいけないという気負いから「お高くとまってる」などと見られ、当時のマスメディアに散々たたかれた[21][31]。各方面から批判を受けていたこの年、映画監督の野村芳太郎がフジテレビ専務の村上七郎と中学の同級の関係で、撮影所に見学に来ていた頼近に出演交渉して松竹映画『真夜中の招待状』にブティックのママ役で出演した[32]。頼近はNHKから移籍する際「私はジャーナリスト」とミエを切ったこともあってゴタゴタが起きた[32]。話題づくりのため、頼近の出演を大いに宣伝したい松竹サイドと、この程度の出演で女優と宣伝されては主婦層の反発を買うと恐れたフジテレビの間で揉めた[32]。元々、頼近のフジ移籍は、視聴率の低迷していた『小川宏ショー』に出演依頼を受けたからだったのだが[25]、同番組は一年後に終了。続いて露木茂と組んで『ニュースレポート11:30』を担当した。

結婚[編集]

1984年、当時フジテレビの副社長だった鹿内春雄と結婚(春雄は再々婚)しフジテレビを退社。これも玉の輿婚とマスコミを賑わせた[6]。2児をもうけるも、結婚からわずか4年後の1988年、春雄はB型肝炎による急性肝障害のため42歳で病死し、頼近は未亡人となった[6]

林真理子『幕はおりたのだろうか』の倉田恵子のモデルは頼近だという説を唱える者もいる。なお『幕は・・・』は1990年にテレビ東京で「女キャスター物語」としてテレビドラマ化されている(テレビ東京日曜9時連続ドラマ)。

夫との死別後[編集]

フジテレビは春雄の後継問題と社内抗争で揺れ、美津子は1990年、2人の息子とともに渡米した[6]。頼近はワシントンD.C.に居住し、スミソニアン博物館でボランティアとして働いた。

春雄は豪邸の他、フジテレビの親会社にあたるニッポン放送株を大量に所有しており、実質的にはその株のほとんどを未亡人である頼近が相続することになり、フジテレビは美津子の支配下に置かれかねない状況となっていた[6][33][34]。これに慌てた春雄の父・鹿内信隆はなりふり構わずニッポン放送株を取り戻そうとして、美津子が相続した時価にすれば100億円は下らないニッポン放送株は鹿内家に6,600万で買い戻された[6][33][34]

1993年、古巣のNHKでテレビ復帰。1996年には、NHK大河ドラマ『秀吉』に出演。同年12年ぶりにフジテレビ『来日直前!三大テノール』の司会者として復帰。コンサートプランナーやクラシックコンサートの企画構成、ナレーションなどを行いながら、日本音楽財団や日本音楽作家協会理事などを務め幅広く活動した。「コンサートプランナー」という肩書きは、頼近が使ってから知られるようになったもの[35]

2004年(平成16年)、大田区田園調布の豪邸を売却して世田谷区野毛のマンションに移る。

2007年に食道がんと診断され、翌年9月、通院のため千葉県流山市のマンションに転居した。癌治療を受け続けたものの、2009年5月17日午後1時46分、千葉県柏市の病院にて53歳で死去。直接の死因は心不全であった[36]

歌手でファッションデザイナーのMEGは、従妹にあたる。

出演番組[編集]

テレビ[編集]

ラジオ[編集]

映画[編集]

雑誌[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「週刊サンケイ」1981年2月19日号24頁や「週刊新潮」1981年5月14日号35頁に、頼近や田丸を”美人アナ”と紹介した記事が見られる。1981年から1982年にかけての頼近の記事には”女子アナ”と書かれた記述は見られない。
  2. ^ 泉麻人も「今日にいう女子アナの登場は頼近からではないか」と述べている[8]
  3. ^ 1981年12月18日号が柄本明と、1983年7月19日号が単独で、計2度表紙を飾る。「TVガイド」の表紙は創刊号が高橋圭三だったのを始め、毎年『NHK紅白歌合戦』のシーズンに司会のNHKアナが表紙を飾ったが、それまでは全て男性アナのため、女子アナで表紙に登場したのは頼近が初めて。ただし単独表紙としては1983年6月10日号の宮崎緑の方が少し早い[18]
  4. ^ 『小川宏ショー』と専属契約を結んだのは1981年1月27日[21]。『小川宏ショー』は1981年3月30日放送から出演[21]
  5. ^ 当時の週刊誌に「頼近はフジテレビに引き抜かれた」という記事が見られる[22]
  6. ^ この時の移籍金額は文献によりかなり異なる。「週刊ポスト」2012年1月1・6日号などの記事では1,200万円[16]。「週刊文春」1981年12月24、31日号の記事では推定1,000万円(月給約90万円)[21]。スポニチでは3,000万円[9]
  7. ^ 『小川宏ショー』では「ホステス」という言い方を用いていた[30]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『アナウンサーたちの70年』NHKアナウンサー史編集委員会、講談社、1992年12月21日。ISBN 4-06-203232-5。

外部リンク[編集]