Month: March 2022

マクスウェルの方程式 – Wikipedia

マクスウェルの方程式(マクスウェルのほうていしき、英: Maxwell’s equations、マクスウェル方程式とも)は、電磁場を記述する古典電磁気学の基礎方程式である。マイケル・ファラデーが幾何学的考察から見出した電磁力に関する法則が1864年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによって数学的形式として整理された[1]。マクスウェルの方程式はマックスウェルの方程式とも表記される。マクスウェル-ヘルツの電磁方程式、電磁方程式などとも呼ばれる。 これらの方程式系に整理されたことから、電場と磁場の統一(電磁場)、光が電磁波であることなどが導かれ、その時空論としての特殊相対性理論に至る。後年、アインシュタインは特殊相対性理論の起源はマクスウェルの電磁場方程式である旨を明言している。 マクスウェルが導出した方程式はベクトルの各成分をあたかも互いに独立な量であるかのように別々の文字で表して書かれており、現代の洗練された形式ではなかった。これを1884年にヘヴィサイドがベクトル解析の記法を適用して現在の見やすい形に書き改めた。しかも彼は既にそこで電磁ポテンシャルが消去出来ることを示して、方程式系を今日我々が知る形に整理していた。しかし、その意義は直ちには認められるに至らず、それとは独立に上記のヘルツの仕事がなされた。 ベクトル記法が一般化し始めるのは 1890年代半ばであって、ヘルツの論文ではまだそれを使っていない。いずれにせよ、このベクトル解析の記法の採用は場における様々な対称性を一目で見ることを可能にし、物理現象の理解に大いに役立った[2]。 真空中の電磁気学に限れば、マクスウェルの方程式の一般解は、ジェフィメンコ方程式として与えられる。 なお電磁気学の単位系は国際単位系に発展したMKSA単位系のほかガウス単位系などがあり、単位系によってマクスウェルの方程式の表式における係数が異なるが、以下では原則として国際単位系を用いることとする。 4つの方程式[編集] マクスウェルの方程式の図示 (微分形による)マクスウェルの方程式は、以下の4つの連立偏微分方程式である。記号「 ∇⋅{displaystyle nabla cdot } 」、「 ∇×{displaystyle nabla times

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モンゴル系民族 – Wikipedia

モンゴル系民族(Mongolic peoples)は、モンゴル語族の言語を母語とする諸民族の総称。主な居住域はモンゴル高原(現在のモンゴル国と中華人民共和国の内モンゴル自治区を合わせたものにほぼ一致する地域)にバイカル湖~興安嶺の一帯とバイカル湖~アルタイ山脈の一帯を合わせた地域(中央ユーラシア)。 大雑把な人口の内訳は、モンゴル国に200万、中国・内モンゴル自治区に400万、ロシア・ブリヤート共和国に20万である。詳細に見るとモンゴル国では人口約253万3100人のうち95%(約241万人)がモンゴル族(2004年統計年鑑)であり、中国には約1000万人(内モンゴル自治区に約400〜500万、それ以外の中国内に約500〜600万)のモンゴル族がいる。 現在のモンゴル系民族[編集]   現在のモンゴル系民族の居住地域 モンゴル国および中華人民共和国におけるモンゴル族の自治区域 外モンゴル(モンゴル国)[編集] 現在のモンゴル国にあたる「外蒙古(がいもうこ)」とは、「内蒙古」とともに清朝時代につけられた呼び名で、現在も世界的に使われる用語である(英語でOuter Mongoliaと呼ぶ)。しかし、清朝側から見たこの呼称はモンゴル人に嫌われており、モンゴル人自身では「北(アル)モンゴル」と称している。また、モンゴル国の8割弱がハルハ族と呼ばれるモンゴル系の民族で占められているため、「ハルハ・モンゴル」とも呼ばれる。モンゴル国は世界で唯一のモンゴル人の独立国家であり、人口は256万人(2005年)、そのうち8割弱がハルハ・モンゴル族、残り2割強にその他モンゴル系、テュルク系民族の16部族が居住する。言語はハルハ・モンゴル語が標準語で、文字は1941年以来キリル文字であるが、民主化後は古来の縦書きモンゴル文字を復活させようという動きがある[1]。 内モンゴル(中国・内蒙古自治区)[編集] 現在中国領である内モンゴル自治区は、清朝時代に「内蒙古(ないもうこ)」と呼ばれ、もともとはモンゴル帝国(北元)の中心地でチャハル・モンゴルの支配域であったが、17世紀に清に編入されて以降中国領となっている。現在もなお「内蒙古」と呼ばれているが、上記の理由からモンゴル人自身では「南(オボル)モンゴル」と呼ばれている。人口はモンゴル国の外モンゴルに対し、モンゴル系モンゴル族が1割であり、残り8割が漢族で占められており、文化的に漢化が進み、モンゴル語を解さないモンゴル族もいる。文字は伝統的な縦書きモンゴル文字を使用する[2]。 その他中国領内のモンゴル[編集] 中国の新疆ウイグル自治区のにはかつてオイラトのジュンガル帝国の子孫であるオイラド族が居住しており、ボルタラ・モンゴル自治州・バインゴリン・モンゴル自治州が行政区画に存在する。寧夏・甘粛地方にはイスラム教徒であるドンシャン族、バオアン族が居住している。 [3] ロシア領のモンゴル[編集] ロシア連邦のブリヤート共和国にはモンゴル語北部方言に属するブリヤート語を話すブリヤート人が住んでいる。自治共和国の総人口は97万人(2005年)であり、そのうちの半数はロシア人である。「ブリヤート」とはロシア風の発音で、もともとは「ボリヤド」という。ブリヤート人は12~13世紀ごろ「森の民(オイン・イルゲン)」と呼ばれ、モンゴル北部の森林地帯で狩猟と牧畜を営んでいた。1207年、チンギス・カンの長男ジョチによってモンゴル帝国に編入されて以来、モンゴル民族となり、その影響でチベット仏教も広まった。17世紀よりロシアの侵入が始まり、1689年のネルチンスク条約によってロシア領となる。1920年には赤軍により極東共和国が建てられ、まもなくソ連領となり、1923年にはブリヤート・モンゴル自治共和国に編入され、1958年には現在のブリヤート自治共和国に改称された。また、カスピ海北岸のカルムイク共和国には上記のオイラド族と同族であるカルムイク人が住む。「カルムイク」とはヨーロッパ側からの呼び名であり、自称はやはり「オイラド」という。自治共和国の人口は29万人であるが、カルムイク人はその半数以下である。カルムイク語はモンゴル語西部方言に属し、文字はキリル文字の他縦書きモンゴル文字を改良したトド文字を使用する[4]。 東胡[編集] 中国の春秋戦国時代から秦代にかけて内モンゴル東部~満州西部に住んでいた遊牧民族。山戎などとともに燕の北に位置し、それぞれ分散して谷あいに居住していた。秦の始皇帝が中国を統一したころ、東胡は北方で強大となったが、匈奴の冒頓単于の侵攻により東胡王が殺され、その国は滅んだ。のちに東胡の生き残りで烏桓山に逃れた勢力は烏桓となり、鮮卑山に逃れた勢力は鮮卑となった。[5] 烏桓・鮮卑[編集] 匈奴の冒頓単于によって東胡の国家が滅ぼされると、その残存勢力は烏桓山や鮮卑山に逃れたため、それぞれ烏桓、鮮卑と呼ばれるようになる。烏桓は早くから匈奴の臣下となっていたが、匈奴の壺衍鞮単于(こえんていぜんう)(在位:紀元前85年

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日本ファンタジーノベル大賞 – Wikipedia

日本ファンタジーノベル大賞(にほんファンタジーノベルたいしょう)とは、未発表の創作ファンタジー小説を対象とした公募型の文学賞。プロ・アマを問わない。1989年創設。受賞作品は新潮社から刊行される。候補作には挙がったものの、入賞していない作品でも優れていれば刊行された(恩田陸や小野不由美、高野史緒など)。発表誌は『小説新潮』。大賞受賞作品が同誌に全文掲載されていたこともある。 1989年に読売新聞東京本社と三井不動産販売が、三井不動産販売の創業20周年を迎えた記念事業として始めた文学賞で、三井不動産販売は1998年まで主催した。バブル経済の好景気の末期でもあり、三井不動産販売が広告代理店各社に企画案を提出させ、その中から読売広告社のファンタジーをテーマにした文学賞という案が採用。文学賞のノウハウを持ち、受賞作の出版を行える出版社ということで、新潮社が後援として参加した(創設時の担当編集者には、大森望、木村由花がいた)。 三井不動産販売は10年で降板。有望な新人が発掘される成果があったため、このまま終わらせるのは惜しいと清水建設が主催を引き継ぐことになり、第11回から第25回まで清水建設と読売新聞社が主催した。 この間の大賞賞金は500万円。 第25回(2013年度)を機に一定の役割を終えたとして賞を休止した[1][2][3]。 2017年になって主催者を一般財団法人新潮文芸振興会、後援を読売新聞社としてリニューアル再開した。大賞賞金は500万円から300万円に減額された。2017年度の名称は「日本ファンタジーノベル大賞2017」、翌年は「日本ファンタジーノベル大賞2018」と再開前までの回数は引き継がれていない[4][5]。 受賞作のアニメ化[編集] 最初の2年は、日本テレビが協賛となり、三井不動産販売が番組スポンサーとなって受賞作をアニメ化。酒見賢一の『後宮小説』が1990年3月21日に『雲のように風のように』、鈴木光司の『楽園』が1991年6月16日に『満ちてくる時のむこうに』のタイトルで日本テレビ系で放送された。アニメの制作は、スタジオぴえろが行っている。 歴代選考委員[編集] 当初手塚治虫を含め6人の審査員で行われる予定であったが、手塚が死去したため、5人で審査する形になった。 第1回 – 第7回 第8回 – 第10回 荒俣宏、安野光雄、井上ひさし、椎名誠、矢川澄子 第11回 – 第13回

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ゲームセンター – Wikipedia

この項目では、遊技施設について説明しています。Appleのソーシャルゲームネットワークサービスについては「Game Center」をご覧ください。 アミューズメント施設例。セガ秋葉原2号館(秋葉原GiGO、セガ エンタテインメント運営) ゲームセンター (Game Center) とは、ゲーム機などの遊技設備を設置して客に遊技させる営業を行う店舗やそれに類する区画された施設[1]である。略して「ゲーセン」とも称される。業界やメディアでは「アミューズメント施設」という呼称も積極的に用いられており、GENDA GiGO Entertainment、バンダイナムコアミューズメント、タイトー、ラウンドワンのゲームコーナー、ワイドレジャーなど、多くの企業の公式サイト内では、原則として「アミューズメント施設」の呼称を用いている。後述の事業所内を占める遊戯設備の設置面積が風適法で定める物より少ないものは「ゲームコーナー」と呼ばれる。 「ゲームセンター (Game Center)」という語は和製英語で、英語では同種の施設を指して「アミューズメント・アーケード (Amusement arcade)」や「ビデオ・アーケード (Video arcade)」という表現が使用される。また20世紀初頭には「ペニー・アーケード (Penny arcade)」という語も用いられた。 写真シール自販機設備

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有効質量 – Wikipedia

有効質量(ゆうこうしつりょう、英: effective mass)とは、何らかの物理現象を、「古典力学における質量を含む物理法則(比較的簡単な現象の場合が多い)」と類比することで現象論的に理解しようとしたときに出てくる、質量相当の物理量の総称である。結晶中の電子の物性を用いる上で用いられる「有効質量」を指すことがほとんどだが、結晶中の電子の物性とは異なる物理現象にもこの概念を持ち込むことがある。 「結晶中の電子の有効質量」以外の「有効質量」としては、例えば、原子間力顕微鏡のカンチレバーの機械的な振動(古典力学の現象)を、よりやさしい(古典力学の)現象である、フックの法則に置き換えて考えるときに、フックの法則における質量に相当するパラメーターを有効質量と呼ぶことがある[1]。 以下、本節では、「結晶中の電子の有効質量」について説明する。 結晶中の電子の有効質量[編集] 真空中の自由電子の(静止)質量 m に対し、結晶中の電子は見かけ上、これと異なる質量を持っているように観測される場合がある。これを、半導体物性では有効質量という[2][3][4]。3 次元の場合、有効質量はテンソルで表現される(→ 異方性が存在する場合がある)。これは系のもつ対称性に依存し、(完全に)等方的な系ではテンソルの対角部分のみが残る(かつ全ての対角要素が同じ値となる)。 電子を波束と考え、その加速度 a{displaystyle mathbf {a} } は群速度 vg{displaystyle mathbf {v}

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フクシマハルカ – Wikipedia

この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。 フクシマ ハルカ(4月12日[1] – )は、日本の漫画家。岡山県真庭市(旧真庭郡落合町)出身[2]。 作陽短期大学卒業後、漫画専門学校に進む[2]。 1999年(平成11年)、「さくらんぼ☆キッス」(なかよし増刊なつやすみランド、講談社)で活動を開始し、『おとなにナッツ』、『チェリージュース』などを執筆[1]。2007年(平成19年)、ドイツ最大のアニメイベント「AnimagiC」でサイン会を開く。影響を受けた漫画として『うる星やつら』(高橋留美子)を挙げる[1]。 東日本大震災被災者支援のチャリティ同人誌「pray for Japan」に描き下ろし漫画を執筆した。 2013年11月より、吉備川上ふれあい漫画美術館にて原画展を開催する[2][3]。 作品リスト[編集] 連載[編集] おとなにナッツ(『なかよし』2000年6月号 – 2002年1月号) ビビってむーちょ♥(『なかよし』2002年2月号

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データレコーダ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “データレコーダ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年2月) この項目では、磁気テープを用いてデータ列を記録する装置について説明しています。センサから得られた情報を記録する装置については「データロガー」をご覧ください。 データレコーダーを搭載したパソコンMZ-80 データレコーダとは、音楽用として大量に出回っていたテープレコーダーを利用してカセットテープにデータを書き込むというもの。CMT(Cassette Magnetic Tape:カセット磁気テープ)などとも呼ばれた。これはコンピュータ業界では磁気テープをMTと略すため、それにカセットのCを付けたものである。 本項では1980年代以前のホビーパソコンブームにおける磁気テープによるデータの記録について扱う。2000年代以降現在にかけてのデータ用磁気テープについてはテープドライブを参照のこと。 1970年代、マイクロコンピュータが発展したが、手頃な補助記憶装置がなかった。このため、民生用に大量生産されており非常に安価で便利な記録媒体と録音再生機器である、コンパクトカセットやマイクロカセットなどとカセットテープレコーダーを流用するというアイディアが生まれた。 これは、情報をFSKなどの変調方式でオーディオ周波数帯の信号に変調して記録するもので、代表的な記録方式にKCS(カンサスシティスタンダード)があり1200Hz/2400HzのFSK方式で300bpsの記録ができた。やがて電子工作の延長的なマイクロコンピュータは様々なコンピュータメーカーから発売された初期のパーソナルコンピュータへと置き換えられていったが、フロッピーディスクは当初、読取装置となるドライブもディスクメディア自体も高価なものであり、ディスクドライブ搭載機は高価な機種に限定され、ホビーパソコンのような廉価で一般家庭への普及を目指した機種では採用し難いものであったことから、データレコーダーは依然として利用され続けた。 8ビット時代のパソコンへの具体的な採用例としては、日本においてはNECのPC-8000シリーズなどではキャリア周波数はそのままでシンボル長のみ短縮した600bpsでの記録を標準としていた。シャープのMZシリーズではコンピュータ本体に直接内蔵され、ソフトウェア制御によるパルス幅変調方式で記録を行い、他の機種と比較し、エラーの少ないアクセスと共に、1200bpsの速度を実現していた。この筐体に直接内蔵される専用のデータレコーダはMZ-80B、並びにその系譜にある機種では2000bpsに速度を変更すると共に、後述の通り、制御の多くもソフトウェアから行うことが可能であった。CPUからの直接制御であるため、そのタイミングの書き換えによって、そのレコーダの信頼性も手伝い、更に高速な読み書きも可能であった。別部署から発売されたX1でも、この電磁制御が可能なデータレコーダを採用しており、速度は2700bpsになっている。他に千葉憲昭の提唱したサッポロシティ・スタンダードがある。 また、コンピュータの周辺機器として使い勝手がいいようにモディファイされたカセットテープレコーダーが作られ、データレコーダと呼ばれた(後述)。 以上で述べたような時代には、メーカー純正のドライブはもとより比較して安価なサードパーティ製でも、パソコン本体より高価ということもザラだったため、データレコーダがよく使われた。その後、時代を下ってディスクドライブやディスクメディアが低価格化するようになると、廉価なホビーパソコンでもデータ転送速度の遅さからロード時間が長く、またシーク(データ読み出しのために媒体の該当データ箇所に読み取りヘッドを移動すること)に対応していないか、対応していたとしても時間の掛かるデータレコーダーからランダムアクセス性の優れたフロッピーディスクメディアへと切り替えられていった。過渡期には、クイックディスクのようなディスクメディアとテープメディアの中間のような機器(と媒体)も存在した。

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クロフネ – Wikipedia

クロフネ(1998年3月31日 – 2021年1月17日)は日本の競走馬、種牡馬。 アメリカ合衆国で生産され、日本で調教された外国産馬。2001年春にNHKマイルカップに優勝、ダート路線に転じた秋にはジャパンカップダートを含む2戦をいずれも大差でレコード勝ちしたが、同年末に屈腱炎発症のため引退した。同年のJRA賞最優秀ダートホース。通算10戦6勝、うちレコード勝利4回。芝とダートの双方で活躍したが、特にダートでは日本競馬史上の最強馬と評される1頭である。 2002年より種牡馬。短距離GI競走で2勝を挙げたカレンチャンなど9頭のGI級競走優勝馬を輩出している。2020年限りで種牡馬を引退。 日本軽種馬協会が運営するJBISサーチにおいては、同名の競走馬が1957年産[5]、1971年産[6]において存在。本記事では1998年産の競走馬について記述[注 1]。 生い立ち[編集] アメリカ合衆国ケンタッキー州のニコラス・M・ロッツによる生産。父フレンチデピュティは競走馬時代に米G2・ジェロームハンデキャップなど4勝を挙げ、2年前にアメリカで種牡馬入りしたばかりだった[7]。母ブルーアヴェニューは北米で5勝を挙げ、その姉にはヴァニティー招待ハンデキャップ、ミレイディハンデキャップ(いずれもG1)など11勝を挙げたブロートツウマインドがいた[7]。他方、母の父であるクラシックゴーゴーはテキサス州において無料に近い種付け料で種牡馬生活を送っていた無名の存在であった[8]。 1歳時にピンフッカー[注 2]に7万ドルで購買[8]された後、ナイルブレイン・ステーブルズで調教を積まれ[9]、2000年2月にファシグ・ティプトン社主催のトレーニングセールに上場された[7]。当時ナイルブレイン・ステーブルズで研修していた吉田俊介(後のノーザンファーム空港牧場場長)によれば、同所で育成されていた後のホープフルステークス(アメリカ)優勝馬・ヨナグスカに勝るとも劣らないという評判であったといい、吉田自身も「大物感というか、落ち着き払った感じで風格があった」と回想している[9]。ここで最初の購買時から6倍強の価格となる43万ドルで吉田勝己に落札され[8][10]、4月に輸送され北海道早来町のノーザンファームで育成調教を積んだ[7][10]。同場の育成担当者も「良い動きをするし、古馬のような雰囲気を感じる」と高く評価し、調教の進捗に連れてその評判はさらに高まっていった[7]。翌年の2001年には東京優駿(日本ダービー)がはじめて外国産馬にも開放される予定となっており、馬主となった金子真人は本馬に「開放初年度のダービーを勝って欲しい」という願いを込め、1853年に浦賀へ来港し日本に開国を迫ったマシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊の通称「黒船」に由来するものである「クロフネ」と命名した[7][11]。 競走馬時代[編集] 2歳(旧3歳)時(2000年)[編集] 松田国英(2010年) 8月、管理調教師・松田国英(栗東トレーニングセンター)のもとへ入厩[12]。松田はトレーニングセールでの姿をビデオで観た際、その雄大な馬格から「歴戦の古馬のようだ」という印象を抱いていたが、当時は日本到着後の長い検疫明けだったこともあり、痩せた牝馬のようであったという[12]。しかし松田はクロフネがこうした厳しい経験をしたことでさらなる成長が見込めると期待していた[12]。松田は気心の知れた記者から「今年期待の新馬は」と問われた時にクロフネの名を挙げ、「馬体のバランスが良くて、勝負根性もある。しかも品がある。彼こそ本当の紳士だよ」とクロフネを言い表した[13]。 10月14日、京都開催の新馬戦で松永幹夫を鞍上にデビュー。関係者の間では注目を集めていたが[13]、直前の調教でのタイムは水準級といったものであり[12]、父・フレンチデピュティの実力も未知数だったということに加えて芝の適性に疑問符がつく血統だったため当日は3番人気であった[13][14]。レースでは逃げるシゲルフェニックスの2番手につけて折り合いもつき、終始楽な手応えを維持[14]。4コーナーではエイシンスペンサーとほぼ同じ位置取りだったものの、馬群の中を割ったエイシンスペンサーに対して窮屈な内に入ってしまい[14]、立て直して外に持ち出し急追したもののエイシンスペンサーにクビ差届かず2着に敗れた[14][12]。 続いて出走した2戦目の新馬戦は距離が前走の1600メートルから2000メートルに延長されたが、単勝オッズは1.3倍の人気を集めた[14]。道中は3番手につけ、スタート直後の1コーナーでやや行きたがるそぶりを見せたもののそれ以降はスムーズに折り合う[14]。直線持ったままで先頭に並びかけると松永がわずかに鞭を入れたのみで抜け出してゴールし、従来のレコードを1秒2更新しての初勝利を挙げた[15][14]。続くエリカ賞でも単勝1.3倍の人気を集め[16]、レースではマイネルユーゲントとアドマイヤコンドルの先頭争いを見ながら3番手を追走し、外目を回って直線に向くと松永が軽く追い出しただけで抜け出して快勝[16]。2000メートルで2戦連続のレコードを記録する[17]。2000メートルという中距離を連続して使われた背景には、2400メートルで行われる日本ダービーに向け、騎手の手綱に反して先へ行きたがる気性を矯正しておきたいという思惑もあった[12]。 重賞初出走となったラジオたんぱ賞3歳ステークスでは、当年の日本ダービー優勝馬アグネスフライトの全弟・アグネスタキオン、札幌3歳ステークスの優勝馬・ジャングルポケットが出走してきたものの当日の単勝オッズでは1.4倍の1番人気に支持された[18]。クロフネの馬体はレースを使いつつ絞れてきた馬体だったが[19]、松田はクロフネが最も強いとみて余裕を残した仕上げで送り出し[12]、前走から6キロ増の514kgで出走した[19]。レースはスターリーロマンスとマイネルエスケープの2頭が先行争いを演じるもペースは上がらず、1000メートルの通過は61秒8[20]。淡々とした展開の中でジャングルポケットとともに5番手を追走。その直後にアグネスタキオンがつけて3コーナーに入ると久々のレースで手応えが悪いジャングルポケットが下がり気味になり、変わって上がってきたアグネスタキオンとともに先頭に立つ勢いで直線へ入った[19]。しかし、前走までのような伸びがなくクロフネをマークしていたアグネスタキオンに難なく抜き去られ[20]、さらにはゴール前でジャングルポケットにも先着を許しての3着に敗れた[20][19]。 レース後、松永は「今日はテンから外へ逃げ気味。ロスが多かったよ」とコメントし[19]、松田は「エリカ賞と同じタイム(2分1秒2)で勝てる」とみていたが[12]、アグネスタキオンのタイムはそれを0秒4上回るレコードであった[18]。松田は「初めて味わう挫折」であったと述べている[12]。レース後のレントゲン検査では左内側の管骨溜が判明し[21]、当年はこのレースを最後に休養に入った[12]。 3歳時(2001年)[編集]

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セガサターン – Wikipedia

この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2010年1月) セガサターン(SEGA SATURN)は、日本においては1994年11月22日にセガ・エンタープライゼスから発売された家庭用ゲーム機である。一般にはサターンもしくはSSの略称で呼ばれる。発売時の日本での価格は44,800円。本体開発に関わった日本ビクター(後のJVCケンウッド)からはVサターン、日立製作所からはHiサターンがそれぞれ互換機として発売された。 メガドライブの後継機として開発された。世界展開したセガ歴代コンソールであるSG-1000M3を含むSG-1000シリーズ、メガドライブシリーズ、ゲームギアと比べて1,000万台を下回り、ドリームキャストに次いで売れなかったハードである。しかし日本国内に限れば、長年の競合相手だった任天堂の同世代機NINTENDO64の販売台数を上回っており[注 2]、日本市場ではセガとして最も売れたハードである[注 3]。 2007年9月28日、佐倉事業所CSサービスセンター到着受付分をもって、セガによる本体有償修理が終了した[4]。 ハードウェア[編集] セガサターンの名称は、セガの第六番目のコンシューマゲーム機ということから太陽系第六惑星である土星から付けられた[5]。 2D描画機能は当時のアーケードゲームや競合機と比較しても高水準であり、そのため変形スプライトによる3D描画も出来る。一方で3D表示はCPUによる演算と変形スプライトに頼っているため、3D全体の表現能力では専用ハードウェアを搭載する同時代の競合機であるPlayStationやNINTENDO64に比べ劣っている。 その多彩な機能を支えるべく、多くのLSIに分散された構成となっている。初代機(HST-3200)相当に実装されているLSIはおおよそ以下の通り。他の本体形番ではLSIが異なる。 SH-2 HD6417095(1 CORE版) VDP1 315-5689(HD64440F) VDP2 315-5690(FH3006) SCSP 315-5687(YMF292-F)

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ジョン・H・ワトスン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ジョン・H・ワトスン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年1月) ジョン・H・ワトスン (John H. Watson) は、アーサー・コナン・ドイルの推理小説『シャーロック・ホームズシリーズ』の登場人物。軍医を経た後開業医となった。名探偵シャーロック・ホームズの友人であり[1]、伝記作家。ホームズシリーズのほとんどの作品は彼を語り手としており、その物語を綴ったことにもなっている[2]。日本語ではワトソンと表記されることも多い。 少年時代を家族と共にオーストラリアで過ごす[要出典]。ロンドン大学卒業後、聖トーマス病院に入って医学博士号を取得、第二次アフガン戦争に軍医として従軍し、英軍が敗れたマイワンドの戦い(英語版)で負傷した[3]。傷病兵として本国に送還され、ロンドンで下宿を探していた際、友人のスタンフォードにホームズを紹介され、ロンドンのベーカー街221Bで共同生活を始めるようになる。当初はホームズの行動に対して懐疑的だったが、『緋色の研究』事件においてホームズと共に事件に関わり、ホームズの探偵としての姿を目の当たりにすることとなる。そして、ホームズが事件を見事に解決したにもかかわらず、その手柄をレストレード警部らに全て取られる形となったことを(ホームズ自身は気にしていないが)不満に思ったワトスンは、ホームズの活躍をいずれ物語として世に発表することを宣言する。 『四つの署名』事件で知り合ったメアリー・モースタン と結婚し、一旦ベイカー街を出たが、『空き家の冒険』の後でホームズとの共同生活に戻っている。その理由として、メアリーとの離婚、あるいは死別等諸説があるが、ワトスン自身が「悲しい別離」と語っていることから、死別であったとする説が一般的である。いくつかの事件の年代と結婚についての記述が矛盾することや、ずっと後年の『白面の兵士』ではワトスンが妻のためにホームズと別居していたという記述があることから、メアリーとの結婚が終わった後(またはメアリーとの結婚以前)に別の女性と結婚したとする説もある[4][5]。 『四つの署名』で、父親の名前の頭文字がHであり、物語で描かれた時期よりかなり前に亡くなったことや、兄がいたことが語られている。 ワトスンのファーストネーム「ジョン (John)」については、妻が「ジェームズ

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