HIDランプ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “HIDランプ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年11月) HIDランプ(エイチ・アイ・ディ・ランプ、英語:high-Intensity discharge lamp、HID lamp)は、金属原子高圧蒸気中のアーク放電による光源である。高圧水銀ランプ、メタルハライドランプ、高圧ナトリウムランプの総称であり、高輝度放電ランプ (こうきどほうでんランプ)ともいう。 電極間の放電を利用しているためフィラメントがなく、白熱電球と比べて長寿命・高効率である。メタルハライドランプはテレビや映画などの演出照明分野でも、その高輝度、高効率、太陽光と色温度が近い、などの特徴をいかし、ロケーション照明の主力となっている。1990年代よりシールドビームやハロゲンランプに代わって自動車や鉄道車両などの前照灯に用いられるようになってきていたが、製品に水銀を含むことなどから2010年代以降はLEDに取って代わられつつある。 光束が大きく、大規模空間の照明に適している。 電球やハロゲンランプに比べエネルギー効率が良いため消費電力が少なく寿命も長い。 低圧放電灯に比べ、一般に演色性が高い。 水銀ランプは硬質ガラス製の「外管」の中に石英ガラス製の「発光管」があり、その発光管を物理的に支えながら電気を供給する「金属部材」が収容されている。発光管の両端に「電極」が装着され、その両極間で発生する放電作用により内部に封入された水銀とアルゴンガスの水銀原子が発光する。外管内には窒素ガスが封入されており、高温による金属部材の酸化を防ぐ。 水銀のほかにナトリウムやスカンジウムなどの金属ハロゲン化物

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許蘭雪軒 – Wikipedia

許 蘭雪軒(きょ らんせつけん、ホ・ナンソロン、허난설헌、1563年 – 1589年)または蘭雪軒 許氏(らんせつけん きょし、ナンソロン・ホシ、난설헌 허씨)は、李氏朝鮮時代の女流詩人。本名は許楚姫(きょ そき、ホ・チョヒ、허초희)。蘭雪軒は号。蘭雪とも。字は景樊[1][2](けいはん、ギョンボン、경번)。本貫は陽川許氏。江陵出身。弟はハングル最古の小説「洪吉童伝」の作者許筠(きょ いん、ホ・ギュン)。 一族はみな文人、詩人として名を成している。『三唐詩人』の一人李達(イ・ダル)に詩を学び、8歳にしてその才能を発揮する。儒教道徳に厳しく、女性蔑視の風潮のあった当時にあって革命的ともいえる詩を遺している。代表作には美しい女神が恋をするファンタジー「游仙詩」、自身の二人の子供を失った悲しみを綴った「哭子」、貧しい女性の生活を詠った「貧女吟」などがある。 しかし実生活では不遇であった。15歳で金誠立に嫁ぐが、凡庸な官吏だった夫は才能ある妻を疎んじて妓女に耽溺した。姑からは、息子が家庭を顧みないのは嫁が至らないせいだと虐待を受けた。それが元で腹の子を流産し、ようやく儲けた二人の子も病によって相次いで喪った。一方で実兄が罪を得て流罪となり実家は没落した。それがさらに蘭雪の婚家での立場を悪いものにした。詩作に生きる望みを託した蘭雪であったが、病を得、27歳で夭逝した。若く才能ある姉の死を悼んだ弟の許筠によって200編あまりの遺稿が明の使臣の朱之蕃に手渡された[3][2]が、遺稿の大半は夫や姑たちによって火に投じられたとされる[4]。 朝鮮においては永らくその評価は低かった。儒教に基づく女性蔑視の風潮のあった李氏朝鮮時代では女性による詩作が認められるはずは無く、女性が詩を書くという一点のみによって批判され続けた。その質や内容に対しては、真っ当な評価が下されることは朝鮮戦争停戦後まで無かった。第二次世界大戦を経て朝鮮戦争後、韓国に男女同権思想が普及すると、「韓国の紫式部」として再評価される。2005年女性国会議員によるアンケートで新札の肖像候補の一人に挙げられた。現在では韓国で許蘭雪軒文学賞が設立され、若き詩人たちを見守っている。 朝鮮では長年低い評価を得ていた許蘭雪軒だが、中国や日本では古くから知られ、称賛され続けた。中国では「蘭雪軒集」が刊行され絶賛される[2]。日本へは1711年文台屋次郎兵衛が紹介した。[5] 著名な作品[編集] 哭子[編集] 原文 去年喪愛女 今年喪愛子哀哀廣陵土 雙墳相對起蕭蕭白楊風

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マツダ・DISI – Wikipedia

マツダ・DISI(マツダ・ディジー)はマツダが開発、および製造していた直列4気筒ガソリンエンジンである。 アテンザに搭載されて以降、多くのマツダ車に搭載されているMZRエンジンをベースとしたガソリン直噴エンジンであり、自然吸気のDISIとターボチャージャーを装着したDISI TURBOが存在する。 直噴化によるガソリン冷却効果により、自然吸気エンジンと変わらない高圧縮比を実現した。ターボの効かない低回転でも燃費の改善ができ、ターボのブースト圧も高める事が可能。 なおL3-VDTは当時の過給器付きエンジンとしては珍しく[1]低粘度オイル(0W-20または5W-20)も推奨エンジンオイルとなっていた(CX-7搭載エンジンは5W-20までで0W-20は推奨オイルに含まれない)。 DISI TURBOは2005年6月23日にマツダスピードアテンザに初搭載された。その後、2006年2月2日にMPVのフルモデルチェンジと同時に搭載された(2010年のマイナーチェンジで設定消滅)。同年6月22日にマツダスピードアクセラ(2009年発売の2代目モデルにも設定)や、12月19日にCX-7にも搭載された。 DISIは2007年1月30日にプレマシーのマイナーチェンジ時に設定され(2010年発売の2代目モデルにも設定)、2代目アテンザには2010年のマイナーチェンジ時に搭載されている。2009年発売の2代目アクセラへの搭載に際してはアイドリングストップ機構「i-stop」を搭載。このエンジンはビアンテやプレマシーにも設定されていた。本エンジンは現在製造を終了しており、事実上の後継エンジンはマツダ・SKYACTIV-Gである。 バリエーション[編集] L3-VDT[編集] 名称は「MZR 2.3L DISI TURBO」である。 タイプ : 2,260 cc 直列4気筒 DOHC 16バルブ

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妙見山 (大阪府・兵庫県) – Wikipedia

妙見山(みょうけんさん、みょうけんざん)は兵庫県、大阪府にまたがる山。北摂山系に属する。 山体が信仰の対象であり、山頂近くには日蓮宗の関西地区における重要寺院である能勢妙見堂がある。能勢妙見堂は正式名称を無漏山真如寺境外仏堂(けいがいぶつどう)能勢妙見山と称し、能勢町地黄にある真如寺の飛び地境内であるが、本寺の真如寺よりもはるかに多くの参詣者を集めている。 山頂には4等三角点が設置されている。三角点の所在地は大阪府豊能郡豊能町で、記念碑の陰の目立たない場所に標識が設置されている[1]。 当山は西南日本の標高600m付近でのブナの自生の南限とされ、これまでは大阪府側のみに分布すると考えられてきたが、兵庫県川西市で8本発見され(この個体群は2013年に兵庫県のレッドリストに追加された)[2]、さらに山頂付近のブナ林(9.5ヘクタール)が一部兵庫県側に入っていることが確認された[3][4]。大阪府下のブナ自生地は妙見山と和泉葛城山のみであり、いずれも天然記念物に指定されている。 山頂[編集] 山頂には行基の建立を伝える為楽山大空寺があった。鎌倉時代に入ると源満仲を祖とする能勢氏が領主となりその地に妙見菩薩を祀ったとされる。その後、江戸時代初期に当時の領主能勢頼次の帰依を受けた日乾(後の日蓮宗総本山である身延山久遠寺二十一世)の手によって新たな妙見菩薩像が彫られ、大空寺趾に建立した仏堂に祀ったのが現在の能勢妙見堂である。 山頂の境内地に残るブナ林は一万年以上前から残る自然林である。そのことより、行基による大空寺建立以前から山頂付近には何らかの信仰があったことがうかがえる。 中腹の滝[編集] 北側中腹には能勢の本滝があり、江戸時代より滝に打たれる者が増えた。江戸時代中期に刊行された摂津名所図会には能勢の本滝ではなく妙見滝とあり、能勢妙見堂の参詣者が打たれた滝であった。当時、滝の横には常富堂があったとされる。1834年に編纂された能勢東郷志においても参詣者が行をする妙見山滝と記述されており、滝が境内地の一部として栄えていたことがうかがえる。 しかし、妙見山は旗本である能勢氏の知行地であったため、明治政府の廃藩置県や版籍奉還の影響を少なからず受け、その後天台宗系修験道の僧侶である野間日照が、妙見瀧の地を野間中村より取得し居を構えた。1935年には野間日照により滝の横にあった常富堂を改築する形で本瀧寺(現在の妙見宗総本山)を建立した。現在、能勢の本滝までの山道に多くの石仏が祀られているのを見ることができるが、これは能勢の本滝が行場であった時代の名残である。 他に東側中腹に清滝、南西側中腹に新滝(雄滝)と呼ばれる滝がある。清滝の側には日蓮宗松籟山妙瀧寺がある。また、新滝は白瀧神社の境内地にある。 交通・アクセス[編集] 2019年7月13日をもって阪急バス『妙見山上』停留所は廃止された。 ^ “Google ストリートビュー 妙見山三角点”. Google ストリートビュー (2016年5月).

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ケラング! – Wikipedia

ケラング! (Kerrang!) は、1981年に創刊されたイギリスのロック専門誌。月刊誌として創刊され、1987年に週刊誌化した。創刊当初は完全なヘヴィメタル・ハードロック系アーティストの専門誌であったが、時代が進むにつれ、取り上げられるジャンルがニューメタルや、エモ・メタルコアといったハードコア系のジャンルにも広げられた[1]。キャッチフレーズは”The world’s biggest selling weekly rock magazine”(世界で最も売れているロックの週刊誌)。 ケラング!アワード[編集] ケラング誌主催で、一年に一度、バンドや楽曲などの表彰を行っている。日本のグループも表彰されたことがあり、2015年に開催された際にはBABYMETALがThe Spirit of Independence Awardとして受賞し[2]、2016年に開催された際には同じくBABYMETALがBest Live Bandとして受賞した[3]。2017年には、雑誌のオーナーであるバウアー・メディア・グループがケラング誌に関連する権利を全て売却したことに関連して開催されなかった。2018年には新たにオーナーとなったWasted Talent Ltdによりケラング!アワードが再開された[4]。 ケラング!ツアー[編集]

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サイトロン・レーベル – Wikipedia

サイトロン・レーベル(Scitron Label)とは、かつて存在した日本のレコードレーベルである。 ゲームミュージックを中心に、多数の音楽・映像作品をリリースした。 前史[編集] 1984年、イエロー・マジック・オーケストラのA&Rやプロデューサーだった小尾一介が、アルファレコード株式会社の¥ENレーベルで細野晴臣と、『ゼビウス』や『マッピー』、『ニューラリーX』などのBGMを収録した日本初となるゲームミュージックのレコード『ビデオ・ゲーム・ミュージック』を制作した。それに手ごたえを得た小尾は、後にアルファレコード内にゲームミュージック専門レーベル「G.M.O.レコード」を立ち上げた。 1986年、小尾が独立し、遠藤雅伸のゲームスタジオのメンバーと合流してサイトロン・アンド・アート株式会社を設立。ゲームミュージック音楽ソフトの制作を開始。 創立[編集] 1988年6月、サイトロン・アンド・アートがポニーキャニオンと「サイトロン・レーベル」を設立して、音楽・映像・ゲームソフトの制作・発売を開始。それまでG.M.O.レコードでサウンドトラックを発表していた多数のゲームメーカーと、レーベルのファンクラブ[1]が移籍した。第1弾作品はZUNTATAによる『ニンジャウォーリアーズ -G.S.M.TAITO 1-』。 以後、G.M.O.レコードと同様に大手のみならず中堅ゲームメーカーの作品も積極的にリリース。ジャレコや日本物産、UPLのゲームミュージックは、サイトロン・レーベルにより初めてアルバム化された。 またメディアミックスも積極的に行い、1989年頃、開局したばかりのFM富士で、同社提供のラジオ番組「サイトロン・デジタル・プレス!」や「GAME MUSIC LAND」を放送していた。ディスクジョッキーは木場剛(後のバッキー木場)だった。さらに、ゲームの最新情報を収録したビデオマガジン「サイトロン・デジタル・ビデオプレス!」を発刊、全国のレンタルビデオ店にて無料レンタルを行っていた(第2号にて終了)。 1989年には、CDにゲーム1 – 2タイトルの楽曲のみを収録し、1500円の安価で販売する「G.S.M.1500シリーズ」を開始。 ゲームミュージックバンド[編集] 第2弾作品『ギャラクシーフォース -G.S.M.SEGA

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新しい風 (自民党) – Wikipedia

新しい風(あたらしいかぜ)は自由民主党内の議員グループ。2006年12月20日、元自民党幹事長の武部勤が設立した。 主催者の武部によれば、派閥ではなく、主に当選1回の新人議員を選挙面から支援することが目的のグループ、とのこと。ここには、1年生議員の多くが小泉旋風によって当選を得たため、次回の選挙に不安があるという背景があった。猪口邦子・佐藤ゆかり・杉村太蔵ら新人議員(いわゆる「小泉チルドレン」)が多数を占め、千葉7区自民党候補の齋藤健や、当選回数2回以上の国会議員が10名「特別会員」として参加し、総勢36名が名を連ねていた。 武部グループに参加していながら、他派閥にも参加していた議員もおり、そもそも武部自身も山崎派に籍を置いたまま活動していたため、原則二重在籍を認められない従来の派閥とは一線を画していたといえる。 武部と二階俊博における仲の良さから、新しい波(二階派)との関係が良好であった。この二人には、2005年の郵政選挙当時にそれぞれ党幹事長・総務局長として選挙を仕切った縁があった。 名称[編集] 武部によれば、「新しい風」というグループ名は「ますらおが 心定めし 北の海 風吹かば吹け 波立てば立て」という歌にあやかっている。これは武部の選挙区である北海道の開拓者・依田勉三の歌である。加えて、二階の主宰する「新しい波」に呼応した名前でもある[1]。報道では武部グループという呼称が用いられる場合が多く、武部派とは呼ばれない。 安倍内閣の発足後は、改革姿勢が後退したとされる安倍晋三首相に対し、小泉政権並みの改革姿勢を求めていく党内最改革派グループとしても機能する姿勢をとった。 2007年9月に安倍晋三内閣総理大臣・自由民主党総裁が退陣し、総裁選挙が実施されると、グループの大半の議員が福田康夫元官房長官を支持する形勢であると報じられた。また、その際に武部がグループ全体を福田支持にしようとしたことに反発した杉村太蔵は麻生太郎を支持するため退会。その後二人は絶縁状態にあると言われたが、2018年10月10日、毎年恒例となっている小泉純一郎元総理らとの赤坂の料亭での会合に武部が杉村を呼び出したことで和解済みであることがわかった。 2009年8月30日に投票が行われた第45回衆議院議員総選挙では、役員・特別会員含めて所属議員の2/3が落選した。2010年には公式ホームページも削除された。 2012年、武部が引退を表明。3年前に落選した1年生議員の何人かは同年末の第46回衆議院議員総選挙で国政に復帰したが、会としての実体はほぼなくなったものと思われる。 カッコ内は当選回数、選挙区(印付の場合は失職時の選挙区)、他に所属する派閥。※は、第45回衆議院議員総選挙で落選。●は、同選挙に立候補せず議員でなくなった。 役員[編集] 会長 代表幹事 運営委員長 運営委員長代理

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エドウィン・ハリス・コルバート – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “エドウィン・ハリス・コルバート” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年3月) エドウィン・ハリス・コルバート(Edwin Harris Colbert, 1905年9月28日 – 2001年11月15日)は、アイオワ州クラリンダ(英語版)生まれの古脊椎動物学者であり、多くの研究と著作で知られる。ネブラスカ大学で学士号、コロンビア大学で修士号および博士号を取得している。 コルバートはアメリカ自然史博物館の古脊椎動物学部門のキュレーター、およびコロンビア大学の古脊椎動物学の名誉教授の地位にあった。 ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンの友人であり、恐竜学における最高権威であった。コルバートは何十もの新しい分類群について記述し、主要な系統についてのレビューを発表した。この中にはニューメキシコ州ゴーストランチ(英語版)における三畳紀の小型恐竜コエロフィシスの発見と記載や角竜類の系統発生についてのレビューも含まれる。 また、コルバートは後にエフィギア・オケエフェアエ(英語版)として命名・分類された化石爬虫類も発見した。 恐竜、古生物学、および層位学におけるコルバートの人気と彼の教科書は、この分野の科学者と熱心なアマチュア研究家の一世代に広まり、南極大陸でのフィールドワークは大陸移動説が確固たる承認を受けるのに助力した。コルバートは科学の分野での多くの業績を記念し、非常に多数の賞と表彰を受けていた。 関連項目[編集]

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出雲教 – Wikipedia

出雲大社北島国造館御神殿 出雲教(いずもきょう)は、1882年(明治15年)第76代出雲国造・北島脩孝(当時の出雲大社少宮司)が内務省の承認を経て、創設した神道教団である。総本院は、島根県出雲市大社町杵築東194(出雲大社北島国造館)に所在する。出雲大社に祀られている大国主大神の神意、信徳を教化する神社神道である。 大国主大神を主祭神として、造化三神・天照皇大神・産土大神・天穂日命を併神とする。また、境内の天神社には少名毘古那神、天満宮には菅原道真公・野見宿禰、御三社には出雲国造家の始祖である天穂日命(天照皇大神第二御子神)、荒神社には荒神(須佐之男命とされる)、稲荷社には宇迦之御霊神が祀られている。 天穂日命の子孫である出雲国造北島家に伝わる祭祀の道に従い、出雲大社に祀られる大国主大神の御神徳を世に広めることを主たる目的とする神道教団である。天穂日命を教祖として、初代教長は第76代国造・北島脩孝(きたじまながのり)であり、以降、出雲国造北島家の当主が教長を継いでおり、現在第80代国造・北島建孝(きたじまたけのり)である。 第76代国造・北島脩孝は、1871年(明治4年)の太政官布告により官幣大社に列格された出雲大社の少宮司に任ぜられたが、1882年(明治15年)に神官の教導職兼帯が禁じられたのを受け、少宮司を辞任して、内務省の承認を経て、出雲大社の崇敬講として「出雲北島教会」を設立した。翌年、神道事務局(後の神道大教)に所属して、名称を「神道出雲教会」とし、1885年(明治18年)に「神道出雲教」と改めた。その後、1952年(昭和27年)に宗教法人法に基づき宗教法人「出雲教」と改称して現在に至る。 出雲教は幽事を司られる大国主大神様にお仕えしお祀りするという出雲大社創建の精神を基として、出雲大社という神社と、その御神徳を広める教団としての出雲教を区別して、出雲大社をお護りしている。また、出雲教は、千家家の主宰する出雲大社教と同様に、出雲信仰を基盤として島根県をはじめ中国地方を中心に全国各地に分院・教会・宣教所が広がっている。 御神殿[編集] 主祭神の大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)をはじめ、造化三神・天照皇大神・産土大神・出雲国造家の始祖である天穂日命が祀られている。 境内社[編集] 天神社(祭神は、農業の神、医薬・温泉・酒造の守護神、少名毘古那神である。) 天満宮(祭神は、出雲国造家と深い縁のある学問の神・菅原道真と相撲の神・野見宿禰である。) 御三社(天穂日命社・荒神社・稲荷社) 山王社(祭神は、鬼門を護る大地の守護神、大地主之神である。) 祖霊社(祭神は、大国主大神の別名、「幽冥主宰大神(かくりよしろしめすおおかみ)」と神官、教徒の祖霊である。) 亀山会館[編集] 参集殿として設けられており、祭典の直会などで利用されている。地元では、「北島さんの結婚式」が親しまれており、その結婚披露宴などが行われる。また、夏には期間限定で出雲茶や地元のスイーツが楽しめる「亀山カフェ」が開店され、教信徒をはじめ参拝客に利用されている。 八雲会館[編集] 旧信徒会館であり、結婚式場として改築され、地元の住民や全国の婚約者からの利用依頼が増えている。芸能人やスポーツ選手などの結婚式も、秘かに行われているようである。また、斎館や参集殿として利用されており、講社などの講演会にも利用されている。 文化財[編集] 四脚門(島根県指定文化財 北島国造家正門で出雲大社最古の建造物である。)

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由布院温泉 – Wikipedia

「由布院」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ゆふいん」をご覧ください。 由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市(旧国豊後国速見郡)にある温泉。由布岳(標高1,584m)の麓に広がる温泉地である。 温泉湧出量、源泉数ともに全国2位の豊富な湯量を誇る[1]。1959年5月5日に湯平温泉とともに「湯布院温泉」として国民保養温泉地に指定され、2019年10月4日には、由布市内の塚原温泉・庄内温泉・挾間温泉を含めた「湯布院温泉郷」として拡充指定された[2][3][4]。 由布院駅前の観光用馬車 かつてはひなびた温泉で団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかったが、それがプラスに転じた。 昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。 温泉湧出量は全国2位の量である。源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位である。 由布院駅から温泉街の方向に延びる通称「由布見通り」や、そこから金鱗湖(きんりんこ)に続く「湯の坪街道」(ゆのつぼかいどう)には、しゃれた雑貨屋やレストランが並び、周辺には各種の美術館が点在する。この付近は近年商店の出店が激しく、2006年1月現在のこの近辺の地価は、人口10万人以上の大分市・別府市に次いで、大分県内で3番目となっている。このことからも温泉街のにぎわいの様子が見て取れる。 各宿泊施設はにぎやかな町並みから外れた周辺の川端や林の間、丘の上などに点在している。湯量が豊富で広い範囲で湯が湧くため、旅館が一箇所に集積する必要が少なかったことから、一軒の敷地も比較的広く、町の造りはゆったりとしている。しかも開発規制により高層の巨大旅館・ホテルもなく、田園的な名残を残している。なお、ネオンサインの煌く歓楽街は無い。また、このようなまちづくりに深く関わってきた由布院玉の湯、亀の井別荘をはじめとして高級旅館が多い。 このような特徴から、由布院温泉は、数多くの調査で九州の温泉の第1位に選ばれている [5][6][7] 。連休には多くの人が訪れ、湯の坪街道には人があふれる。昭和の大規模温泉街に多く見られた歓楽性を極力排しており、女性に特に人気が高い。逆に、そうした客層を目当てにした外部資本の観光・土産物業者が進出してきており、田園的な雰囲気を損ねているとの指摘がある。 共同湯[編集] 豊富な湯量のおかげで安価な値段で入浴できる共同温泉も多い。金鱗湖脇には一般客も入浴できる簡素な下ん湯(したんゆ)がある。その他に土地の人だけが利用できる共同温泉が各所にある。 特徴[編集] 由布岳 駅前から温泉街への方向の正面には由布岳が見え、町のランドマークとなっている。 霧 山間の盆地特有の朝霧が、独特の雰囲気をかもし出す。朝霧は、冬季で気温が低く、放射冷却の起こりやすい晴天の日の朝によく見られる。盆地のすぐ東には標高1160mの倉木山があるため、盆地に朝日が届いて霧が晴れるのは下の写真のように周辺が明るくなってからである。 左の写真から30分経って、盆地に朝日が差し込むと霧が徐々に晴れてくる

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