Month: March 2022

深川留萌自動車道 – Wikipedia

深川留萌自動車道(ふかがわるもいじどうしゃどう、英語: FUKAGAWA-RUMOI EXPRESSWAY)は、北海道深川市から北海道留萌市に至る国土交通大臣指定に基づく高規格幹線道路(一般国道の自動車専用道路)(一般国道233号)である。略称は深川留萌道(ふかがわるもいどう、英: FUKAGAWA-RUMOI EXPWY)。 高速道路ナンバリングによる路線番号は、「E62」が割り振られている[1]。 ※ 深川JCT – 深川西IC間は東日本高速道路株式会社が管轄する有料道路、深川西IC以北は国土交通省北海道開発局が管轄する無料道路である。 事業名[編集] 深川沼田道路[編集] 沼田幌糠道路[編集] 起点:北海道雨竜郡沼田町字北竜(沼田IC)[3] 終点:北海道留萌市幌糠町(留萌幌糠IC)[3] 延長:16.0 km[3] 規格:第1種第2級[3] 設計速度:100 km/h[3]

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取り直し – Wikipedia

取り直し(とりなおし)は、大相撲で行われる取組の再試合のことである。このシステムは大阪相撲において1925年(大正14年)6月場所に導入され、好評であったことから同年11月の東西連盟相撲を経て、東京相撲でも1926年(大正15年)1月場所から採用された。それ以前は、「引分」か「預」か「無勝負」となっていた。また、状況に応じて「痛み分け」も適用されていた。 物言いの取り直し[編集] 行司が軍配を挙げた後の物言いの協議において同体(同時に土俵を割る・同時に手や胴体が着地した)とみなされた場合、行司の判定如何にかかわらず、再試合となる。同体となった取組で負傷するなどし、両方の力士が続行不可能なときは痛み分け、一方の力士が続行不可能となったときは、同様に痛み分けか、他方の力士の不戦勝となる。近年では十両の取組で、2005年5月場所7日目、琴春日-五城楼で五城楼が負傷し、取り直しを取れなくなったため琴春日の不戦勝となった。 取り直しの一番が再びもつれ、同体となった場合はどちらかの勝利が決まるまで何度でも取り直しとなる。1988年5月場所初日の前頭7枚目霧島-同8枚目水戸泉との対戦で、3回取り直しとなったことがある(4回目の勝負で水戸泉が勝利した)。 水入り後の取り直し[編集] 水入りの大相撲になった際、それでも決着がつかないときに審判委員の協議の上二番後取り直しとなることがある。その取組の後に二番しか残っていないときは一番後取り直しとなる。結びの一番が取り直しとなった事例はない。 旭國-魁傑戦は結び前の一番だったため10分後に取り直した。 このとき、取り直しのあとも水が入り、勝負がつかないときには引分となる。 1974年9月場所11日目、前頭6枚目二子岳-同10枚目三重ノ海戦で水入りの上、二番後取り直しとなったが、決着がつかず引き分けとなった。この一番以降、40年以上引分は出ていない。 1939年1月場所11日目、前頭筆頭磐石-大関鏡岩の対戦は、二番後取り直しになったが、双方が棄権を申し出たために、双方不戦敗の扱いとなった。 幕下以下では取組が長引いた場合、水を入れず即座に二番後取り直しとなる。二番後取り直しで決着が着かない場合には審判委員の協議の上引分とするか再度二番後取り直しを行うか決める。 アマチュアの場合には競技開始後5分(女子・小中学生は3分)を経過して決着が着かない場合には競技を中止し直ちに取り直しとする。(日本相撲連盟審判規定17条) 現制度以前[編集] 現在の取り直しはその日のうちに行われ、それ以前の記録は残らないが、それ以前は星取表に引分または預りの記録をつけたあとで、その場所の別の日に再び対戦させたこともあった。その記憶があったため、1931年5月場所では8日目に大関能代潟と関脇天竜の対戦が水入り後の取り直しでも決着がつかなかったとき、10日目にそれぞれの取組とは別に再戦して結果的に天竜が勝ち、星取表には引分をつけずに8日目の天竜の勝ちとして成績をつけたことがあった。また、1943年5月場所13日目で前頭10枚目青葉山と同17枚目龍王山とが引分になったときも、〈敢闘精神不足〉という理由でいったんは出場停止になったあと、停止がとけた日に再戦させたことがある。このときは、どちらの取組も正規のものとして、星取表に掲載された。 同体や水入り以外による取り直し[編集] 2012年5月場所6日目、三段目の龍勢旺-大翔虎戦で、行司木村隆之助が軍配を勝負の決まる前に挙げてしまったため取り直しとなった[1]。 2012年7月場所7日目、十両の北磻磨-旭日松戦で、立合い両者の手つきが不十分のため、鏡山審判部長(元関脇多賀竜)が「立合い不成立」を宣言。しかし、これが聞こえなかったのか行司木村堅治郎が気づかず、そのまま取組を続行。旭日松が北磻磨を押し出しに破ったが、取り直しとなった。取り直しの一番は逆に北磻磨が旭日松を突き落としに破った[2][3]。 2012年11月場所9日目、幕内の日馬富士-豪栄道戦で、豪栄道が西側の白房下に日馬富士を寄って両つま先で俵を伝った際に、東側の赤房下にいた審判委員の湊川(元小結大徹)が手を上げて、「勝負あり」を示して取り組みを止めさせた。その後協議となったが、実際には日馬富士の足は俵の外には出ておらず(実際取組中のすぐ目前で見ていた大鳴戸(元大関出島)は「土俵内の砂が飛んで来た」と説明している)、審判部長の鏡山(元関脇多賀竜)は「向正面の審判(湊川)が日馬富士の足が出たと勘違いし手を挙げてしまいました。従って、もう一度やり直しという形でやらせていただきます」と場内へ説明。取り直しの場合と同様に再試合となったが、行司が軍配を上げないまま協議に入ったため、記録上「取り直し」とは扱わず、取り組みは「やり直し」となった。やり直しの一番は日馬富士が豪栄道を寄り切りで破った[4]。この一件以降、微妙な判定が発生した場合はすぐに取組を止めずに行司が軍配をどちらかに上げてから協議することになったため、この様な事態は発生していない[5]。 関連項目[編集]

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物言い – Wikipedia

土俵での行司・勝負審判・控え力士配置 物言い(ものいい)とは、大相撲において、行司が下した判定(軍配)に対し、審判委員や控え力士が異議を唱えること。またそれから転じて、異議を申し立てること全般を「物言いをつける」ともいう。 審判委員は、勝負の判定を正しくし、公平に決定する責任があるから、行司の軍配に異議を感じた場合(主に対戦両者が微妙な体制で土俵を割ったり体が落ちたりした場合、反則行為が疑われる場合など)は、直ちに速かに、異議ありの意思表示(物言い)をして、協議に入らねばならない[1]。この際、ビデオ室と連絡を取り、ビデオ映像も参考にする。行司は物言いを拒否することはできない[2]。協議が合意に達すると、行司の下した判定の如何を問わず、改めて勝負の結果が審判長から発表される。1965年1月場所より、物言いの際の経過説明を審判長が行うこととなった[3]。なお、行司は必ずどちらかに軍配を上げねばならず[4](江戸時代には『無勝負』という、行司が同体と判断するケースも認められていた)、また行司は禁手・反則の有無を判断することは出来ないため、これらを取り上げるのも審判委員の意思表示による。 また、土俵下に控えている力士も、物言いをつけるための挙手をする事ができ[5]、審判委員は控え力士から物言いが出た場合、必ず土俵上で協議を行わなければならない[6]。なおその控え力士自身は協議に参加することは出来ない[7]。なお、行司は取組の状況を述べたり、勝負の流れがどちらに有利であったかと言う説明をする事以外では協議に参加できない。 前述のような微妙な体制の際に物言いが行われることから、多くの場合は、体が落ちる、あるいは土俵を割る瞬間が同時(同体)として、勝敗の決定をせず、取り直し(再試合)となるか、そのまま行司軍配通りの結果となるが、稀に行司の軍配と逆の結果となる場合もあり、このケースは行司差し違え(もしくは行司軍配差し違え、俗に言う行司黒星[8])という。行司にとっては、軍配差し違えはいわゆる負け、相撲用語的には黒星とも言える出来事であり、査定にも響くため、かなりの心理的ダメージを負うこととなる。 審判長から協議内容の説明の際、原則として十両以上の取組の場合は当該力士の四股名を用いて説明を行うが、幕下以下の場合は原則として四股名ではなく「東方力士」「西方力士」と呼ばれる。また「只今の協議は確認のための物言いでありまして、軍配どおり○○の勝ちといたします。」と説明する時もある。 アマチュア相撲においては「異議申し立て」という。控え力士に物言いの権利のないことや、大会にもよるが、ビデオ判定は用いられないことなどを除き、形態は大相撲とほぼ同じである。 この大相撲の「物言い」は、複数の元選手が審判の判定をチェックするために場外に待機する制度であり、他のスポーツでは見られないものである。 ビデオ判定[編集] 大相撲にビデオ判定が導入されるきっかけは、1969年3月10日の3月場所2日目、横綱・大鵬と前頭筆頭・戸田の一番だった。土俵際に追いつめられ回り込む大鵬を追ううちに戸田の右足が俵を踏み越え、ほぼ時を同じくして大鵬の体が土俵を割った。22代式守伊之助の軍配は大鵬にあがったが、審判より物言いがあり協議をした結果、大鵬が先に土俵を割ったという結論(審判長の春日野(元横綱栃錦)以外の4人が戸田の勝ちを支持)になり、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。しかし、この時の中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。この日、NHKは午後7時からのニュースで、この一番をスローモーションで放送。大鵬がここまで45連勝していたこともあり、この一番の判定は「世紀の大誤審」と騒がれた。相撲協会には抗議の電話が相次ぎ、大鵬が所属する二所ノ関部屋宿舎には「タイホウが勝っていた。気を落とすな」との電報まで届いた。翌日、1969年3月11日付の日刊スポーツは、「大鵬『45』でストップ!」との大見出しで、この一番を報じている。小見出しには「誤審防止へ写真も使う」とある[9]。 武蔵川(元幕内・出羽ノ花)は誤審について、「こうした微妙な勝負に対しては審判員の参考として写真、工業用テレビなど利用することを考える。しかし、相撲の勝負判定は他の競技と違う特殊性があるので、写真を判定の主にすることはない。あくまで参考にして使いたい。運営審議会にもかけ、工業会社にも依頼して近いうちテストしてみたいと考えている」とコメント。この段階ではまだ、協会側はビデオ判定のテストをしていないように推測される。誤審を受けて、日本相撲協会は目視による判定を補う方法について検討し、次の5月場所よりビデオ判定を導入することになった[9]。 日本相撲協会広報部の資料には、「写真判定」の欄に「昭和44年3月場所2日目、大鵬-戸田戦で大鵬の連勝記録45でストップの一番と、9日目琴桜-海乃山戦の物言いが原因となって、翌10日目に審判部にて正式に翌5月場所からNHKテレビのVTRを参考資料にすることを決定した(実際には以前から準備しており、44年5月場所より採用予定であった)」と書かれている。1969年3月場所10日目、当時の春日野審判部長(元横綱・栃錦)は「写真判定採用は海乃山-琴桜戦が動機でもなければ、もちろん大鵬-戸田戦でもない。初場所前の記者会見後みんなで話し合って、最も近い時期を選んでということで、夏場所から実施することに決めたものだ。どんな方法でやるかはまだ分からないが、とにかく決まった以上は審判部が一丸となってやるつもりだ」とコメント。武蔵川理事長は「写真判定採用については5月からやることを正式に決めた。具体的なことは審判部に一任、協会はこれに対して全面的にバックアップをする」とした[9]。 相撲協会は、写真判定導入決定後の1969年4月8日、理事長、審判部長らがトップ会談を行い、写真判定の方法を発表。まずは幕内だけの取組を対象に、NHKの大相撲中継の録画映像を勝負判定の参考にすることにした。実際は「ビデオ判定」だが、当時は「写真判定」という言い方が一般的だった[9]。 1974年に発行された「武蔵川回顧録」(ベースボールマガジン社)によると、同理事長は当時について「数年来の懸案としてこの問題を討議していた協会は、この年の1月場所においてNHK画像からビデオ・テープに収録して勝負判定の補助とするよう試験を行い、良好な結果を得たので5月場所から本格的実施に踏み切ろうとした矢先の、大鵬-戸田戦であった」と振り返っている[9]。 2000年頃より多くのプロスポーツでビデオ判定を導入する動きが見られるが、大相撲のビデオ判定はこれらに大きく先んじるものである[10][11]。 エピソード[編集] 近代相撲以前[編集] 講談などでは、寛政時代雷電と小野川の取組で、雷電の寄りを土俵際こらえた小野川が必死に残すも軍配は雷電、しかし小野川を抱える久留米藩の藩士が小野川がうっちゃったであろうと刀に手をかけ、土俵に駆け上って物言い、行司は委細構わず凛然と「雷電ン~!」と勝ち名乗りをあげ、観客の喝采を得るという話があった。これ自体は全くの創作だが、こうした強引な物言いは当時決して少なくなく、江戸の庶民も腹に据えかねていた。 1789年(寛政元年)11月場所6日目、角界史上初の横綱(番付上は大関)披露を翌日に控えた関脇小野川は前頭2枚目関ノ戸と対戦。小野川がちょっとしたはずみで左膝をつき、関ノ戸の勝ちとなるところを強引な物言いがついて勝負預りとなった。関ノ戸にとっては不運であったが、小野川の横綱披露に差し障りがあるため、無理難題な物言いだったとされている。 明治時代[編集]

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鹿児島湾 – Wikipedia

鹿児島湾(写真左)、湾内北部に桜島が位置する。 鹿児島湾(かごしまわん)は、鹿児島県の薩摩半島と大隅半島に挟まれた湾。鹿児島県では錦江湾(きんこうわん)の名称で古くから呼称されている。鹿児島湾は日本百景の一つであり、霧島錦江湾国立公園の南部に位置する[1]。 鹿児島湾の北部、すなわち、霧島市と桜島との距離約20㎞を直径とする円形部はカルデラ噴火でできたものであり[2]、また、桜島は1914年(大正3年)に「桜島大正大噴火」で鹿児島湾東岸の大隅半島と陸続きとなった[3][4][5]。 海域としては、薩摩半島最南端の長崎鼻と、大隅半島南端部の立目崎を結ぶ直線から北側を指す。 面積1,130km2、南北約80km、東西約20kmのやや蛇行した形状をなし、北から湾奥部、湾中央部、湾口部の3海域に分けられる。湾奥部と湾中央部の間に活火山である桜島を擁する。平均水深は117mと比較的深く海岸付近の傾斜角が大きい椀形の海底地形となっている。海岸線総延長は約330kmあり、そのうち約60%は護岸など何らかの人工的な措置が施されている。 湾奥部[編集] 面積250km2、平均水深140m、最大水深206m、南北10-20km、東西約20kmにわたる海域。桜島の北側に位置し姶良カルデラと呼ばれるカルデラ地形を構成する。南部には鹿児島湾唯一の有人島として新島(ただし2014年現在は定住者なし)があり、北部には神造島または隼人三島と総称される辺田小島、弁天島、沖小島がある。 北東部に海底活火山の若尊があり、たぎり(滾り)と呼ばれる火山性噴気活動が確認されている。天降川、別府川などの河川が流入する。沿岸の自治体は鹿児島市、姶良市、霧島市、垂水市。 西桜島水道(桜島西側水道)[編集] 桜島と薩摩半島の間に位置する水深40m、幅1.9kmの水道(海峡)。桜島フェリーが西桜島水道の両岸ある鹿児島港と桜島港を結んでいる。 湾中央部[編集] 面積580km2、平均水深126m、最大水深237m、南北約30km、東西約20kmにわたる海域。海底に阿多北部カルデラと呼ばれるカルデラ地形を構成する。甲突川、永田川、神川などの河川が流入する。沿岸の自治体は鹿児島市、垂水市、鹿屋市、錦江町、指宿市。 湾口部[編集] 面積300km2、平均水深80m、南北約20km、東西幅約10kmにわたる海域。知林ヶ島の南側に位置し阿多南部カルデラと呼ばれるカルデラ地形の東側を構成する。薩摩半島側に山川湾が分岐する。雄川などの河川が流入する。沿岸の自治体は指宿市、錦江町、南大隅町。 鹿児島湾は「錦江湾」とも呼ばれており、鹿児島市内には「錦江」の名を含む地名や橋名、学校名、会社名などがある[6]。 島津家第18代当主島津家久(忠恒)が詠んだ和歌「浪のおりかくる錦は磯山の梢にさらす花の色かな」が起源になっているとされ、島津久徴の「黒川記」に由来する文を刻んだ石碑が日木山川河口に建立されている[6]。島津久徴の「黒川記」にある「歌中有錦波二字、因此又呼錦江」から『加治木郷土誌』などでは久徴の時代に黒川河口の入江が「錦江」と名付けられたとしているが、「黒川記」の原文からはあくまでも黒川(日木山川)に「錦江」という別称が生じただけで明治時代に入ってから「錦江」が海の呼称に転化したとする説もある[6]。 江戸時代末期まで鹿児島湾全体を指す固有名詞は存在せず、地誌類では「入海」や「裏海」、「内海」などの普通名詞を使っていた[6]。 1863年(文久3年)の薩英戦争で英国が作製した海図には「KAGOSHIMA BAY」と表記されているほか、同時期のウィリアム・ウィリスの書簡には「The Bay

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六甲山 – Wikipedia

「六甲」はこの項目へ転送されています。台湾台南市の市轄区については「六甲区」をご覧ください。 六甲山(ろっこうさん)は、兵庫県南東部、神戸市の市街地の西から北にかけて位置する山塊である。瀬戸内海国立公園の区域に指定されており、また新日本百名山、日本三百名山、ふるさと兵庫50山の一つでもある。 一般に「六甲山」は大小の山を含む六甲山系全域(狭義には中央部から東部)を指し、最高峰は特に六甲(山)最高峰と称される。山域は神戸市のほか、芦屋市、西宮市、宝塚市に属す。 山系は南北に狭く、東西方向に長さ数十kmにわたって市街地の北側直近に迫っており、その山並みは神戸や阪神間また大阪市内を含む大阪府内からも天然のランドマークとして機能している。また裏六甲側からの山系も高い山地に遮られないこともあり、三田市や三木市、天気が良ければ小野市・加東市・加西市・加古川市などの兵庫県中部、姫路市などの兵庫県南西部などからも望むことができる。古くから交通路や観光施設の開発が進められ多くの観光客や登山客を集めている。 以下、本項では六甲山系およびその最高峰について述べる。北西に位置する丹生山系を含む六甲山地全体は六甲山地を、山系に属する個々の山、施設はCategory:六甲山地を参照。 南西端は塩屋駅付近の明石海峡に程近いあたりで大阪湾に接し、そこから山稜が北東方向に伸びる。山系のほぼ中央に位置する摩耶山で方向を東寄りに変え、東灘区と北区の境界に位置する最高峰を経て宝塚駅の西方に達する。東西方向の長さは 30 km 超であり、南北方向の幅はおおむね5キロメートル未満、最深部の最高峰周辺でも 10 km 程度である。北西に続く丹生山系とともに六甲山地を形成し、西から北方の西半にかけては播磨平野東部の印南野台地、北方の東半には三田盆地が位置する。また、北東方向に武庫川渓谷をはさんで続く北摂山地とともに大阪平野の北限をつくっている。 東部の一部を除いたほぼ全域が神戸市に、芦屋川流域周辺が芦屋市に、夙川・仁川流域周辺および太多田川・名塩川・船坂川流域周辺が西宮市に、逆瀬川流域周辺が宝塚市に属している。 神戸市と西宮市の市域はこの山系によって南北に分断されているため、多数の道路、鉄道がこの山系を横断して市内を南北に連絡している。(個々の道路、鉄道は本項下部の#交通を参照)また、大阪湾に接している南西端では地形の制約から山陽電気鉄道本線、国道2号、JR山陽本線(JR神戸線)が海岸線に沿って数キロメートルにわたって併走している。そのため国道2号ではボトルネックになっており、第二神明道路がバイパス道路として整備されている。 南に広がる市街地はこの山系に源を発する河川によって形成された、合流扇状地を主とする沖積平野上にある。また、この山系が北西の風を弱めることが、神戸港を良港とした理由の一つである。 山上の街[編集] 最高峰の西にある神戸市灘区六甲山町の六甲有馬ロープウェー「六甲山頂駅」から摩耶山山頂近くの摩耶ロープウェー「星の駅」にかけて、多くの文化・保養施設やホテルなどが集まって“山上の街”をつくっている。その中にある神戸市立六甲山小学校は神戸市内で一番高い標高にある学校として知られており、冬の入りの風物詩として他に先駆けてストーブに点火する様子が地元のニュースでしばしば取り上げられる[1]。六甲山ホテルの旧館が関西では数少ないクラシックホテルとして名高いほか、別荘建築として複数の西洋館が現存している(ただし個人所有であるため一般公開されていないものが多い)。六甲山観光六甲ケーブル線の六甲ケーブル下駅、六甲山上駅の駅舎も開通当初の近代建築で、極めて美しい。 個々の施設はTemplate:六甲山上の名所・施設を参照のこと。 一般人の宿泊できる施設としては現在(2018年)改装中の六甲山ホテル、旧国民宿舎摩耶ロッジ:オテル・ド・摩耶六甲スカイヴィラ六甲YMCA神戸市立自然の家オーシャンテラスあじさい 他数軒がある。 かつては、六甲オリエンタルホテル、摩耶観光ホテル、六甲山ホテルと現YMCAの間の日本庭園に囲まれ、将棋の対局も行われた全但ハウス なども存在したが、現在はない。跡地には企業の保養所や会員制の別荘などが散見される。

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丸山駅 (三重県) – Wikipedia

丸山駅(まるやまえき)は、三重県伊賀市才良にある、伊賀鉄道伊賀線の駅である。副駅名はくノ一グラウンド前。 近鉄時代の駅舎(2006年2月) 1922年(大正11年)7月18日 – 伊賀鉄道(旧)上野町 – 名張(後の西名張)間延伸時に開業。 1926年(大正15年)12月19日 – 社名変更により伊賀電気鉄道の駅となる。 1929年(昭和4年)3月31日 – 会社合併により大阪電気軌道伊賀線の駅となる。 1931年(昭和6年)9月26日 – 路線譲渡により参宮急行電鉄の駅となる。 1941年(昭和16年)3月15日 – 大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併、新発足した関西急行鉄道の駅となる。 1944年(昭和19年)6月1日

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最高神祇官 – Wikipedia

最高神祇官(さいこうじんぎかん)またはポンティフェクス・マクシムス(ラテン語: Pontifex Maximus)は、古代ローマの国家の神官職のひとつである。 通常は神官団長[1][2]、大神官[1][2]、神官長[1]、大神祇官長[3] などと訳され、公の場で最高神祇官なる表記が使われることは希である。共和政ローマにおいては全ての神官の長として神官団 (Pontifices) を監督した。閏月を決定する権限を持つ。任期は終身で、他の官職との兼任も可能。 伝説によると、王政ローマ二代目ヌマ・ポンピリウス王が、王自身が出征した場合などでも祭祀を絶やさないよう、常任の祭祀役としてユーピテルやマールス、クゥイリーヌス神に仕える神官 (フラーメン) や、ウェスタの処女、神に奉献する踊りを行うサリイーなどを設置した。更に全ての祭祀の詳細な手順や経費を管理し、葬儀や鎮魂の方法を教示する職として神祇官 (ポンティフェクス) を定めたという。 こうした神官職の頂点に立つポンティフェクス・マクシムスの権威は、他の官職と比べ何の権限も持たない割には非常に絶大で、神官団の中で最も権威と実績を持った高齢者が就任することが通常であった。ポンティフェクス・マクシムスにはフォルム・ロマヌムにあった公邸(レギア)が与えられた。 ローマ帝政の基礎を築いたガイウス・ユリウス・カエサルは自らの政治的成功のためにポンティフェクス・マクシムスの権威を利用しようと目論み、大量の借金で行なった買収工作により異例の若さでこの神職に就任している。この後、ユリウス・カエサルの権威を継承したアウグストゥスもマルクス・アエミリウス・レピドゥスの死後に、ポンティフェクス・マクシムスに就任し、その神聖な権威を元首政の確立に利用した。 アウグストゥス以降もローマ帝国においてはローマ皇帝が兼ねるのを常としたが、3世紀以降の皇帝はポンティフェクス・マクシムスへの就任を拒むことが多くなり[5]、その地位をローマ教皇に譲った。 ポンティフェクス・マクシムスは、現在もローマ教皇の称号の一つである。 共和政ローマ最高神祇官一覧[編集] 参考文献[編集] ウィキメディア・コモンズには、最高神祇官に関連するカテゴリがあります。

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地域 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “地域” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年2月) 「値域」とは異なります。 地域(ちいき、英語: region)とは、地形が似通っている、同じ性質をもっているなどの理由からひとまとめにされる土地のこと。 地理学、特に場所ごとの差異を解明しようとする人文地理学や地誌学において、「地域」とは大変重要な概念である。 日本の地理学界で権威があるとされる二宮書店刊行の『地理学辞典』(1973年発行)には以下のような説明がある。 「 一般には地表の広狭さまざまな部分を地域と称している.例えば,アジア大陸・日本・関東地方・武蔵野台地・九十九里平野などを,それぞれ地域と呼ぶようにである.しかし,現在の地理学の用語としては,この言葉が地理学の本質上極めて重要な意味を有しているために,ある程度,厳密な内容を持つものとして使われている.地表上,自然が類似する地域を自然地域と呼ぶように,地域を単なる任意の区域の広がりとせず,個性的な内容を有する広がりとして理解する必要がある. 」 (後略) しかし、この説明がすべての地理学者に受け入れられているわけではなく、1950年代から1960年代にかけては、アメリカやイギリスを中心として、「地域」を中核に据える「伝統地理学」(Traditional Geography)に対する批判が起こった[1]。これを受けて、朝倉書店刊行の『オックスフォード地理学辞典』(2003年発行)では、

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リディック・ボウ – Wikipedia

リディック・ボウ(Riddick “Big Daddy” Bowe、1967年8月10日 – )は、アメリカ合衆国の男性プロボクサー。元WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級王者。元WBO世界ヘビー級王者。ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン出身。1988年ソウルオリンピックボクシング競技スーパーヘビー級銀メダリスト。 13人兄弟の12番目として生まれる。マイク・タイソンと同じ小学校に通っていた。 1988年、ソウルオリンピックのボクシング・スーパーヘビー級に出場し、決勝でレノックス・ルイスに敗戦して銀メダルを獲得した。アマチュア戦績は104勝18敗。 1989年3月6日、トレーナーにエディ・ファッチを迎え、プロデビュー。2回TKO勝ち。 1992年11月13日、世界初挑戦。WBA・WBC・IBF統一世界ヘビー級王者イベンダー・ホリフィールドに挑み、12回判定勝ち。32戦目にして無敗の世界王者に輝く。その後、WBCから指名試合としてソウル五輪の決勝で敗れたレノックス・ルイスとの対戦を義務付けられたが、それを拒否。記者会見を開きWBCのチャンピオンベルトをゴミ箱に捨てる有名なパフォーマンスを行った。これを受け、WBCは12月14日付でボウから王座を剥奪しルイスを新王者に認定した。その後、ボウはWBA・IBF王者として2度の防衛に成功。 1993年11月6日、3度目の防衛戦でイベンダー・ホリフィールドと再戦し、12回判定負け。前王者ホリフィールドに雪辱を許し、世界王座から陥落。 1995年3月10日、世界再挑戦。WBO世界ヘビー級王者ハービー・ハイドに挑み、6回KO勝ち。1年4ヵ月ぶりの世界王座返り咲きを果たした。1度防衛後、王座を返上。 1995年11月4日、イベンダー・ホリフィールドと通算3度目の対戦をノンタイトル12回戦で行い、8回TKO勝ち。 1996年7月11日、アンドリュー・ゴロタと対戦。ゴロタが反則のローブローを再三繰り返しレフェリーから2度に渡って減点されるも、ゴロタはローブローをやめず7回に再びローブローを受けたボウが悶絶してリング上に倒れると、レフェリーはゴロタに失格負けを宣告した。ボウが悶絶して倒れたのと同時に両陣営がリング内になだれ込んで大乱闘となり、この大乱闘の際に、ゴロタはボウ陣営のボディーガードからトランシーバーで殴られ、頭部に11針縫う怪我を負い、ゴロタのトレーナーである74歳のルー・デュバも殴られて倒れ担架でリングから運ばれた。また、乱闘は観客席にも広がって、HBOのテレビ実況席が破壊されるなど暴動状態となり、最終的に10人が逮捕され、8人の警官が負傷、9人の観客が病院に運ばれた。 当初はレノックス・ルイスと1996年の秋に対戦することで合意しておりゴロタ戦はその調整試合として組まれた試合で、スポーツブックメーカーの賭け率でも1対12とボウの圧倒的有利とされていた試合であったが、ボウは前戦のホリフィールド戦よりも12ポンド重いトレーニング不足が明らかな体で試合に臨み、ゴロタの反則により失格勝ちにはなったものの、試合終了時点のジャッジの判定で66-67 、65-67、65-67と、 ジャッジ3者共にゴロタのリードと判定しており、この不甲斐ない試合内容の結果、レノックス・ルイス戦が消滅した。また、真剣にトレーニングを行わないボウに激怒したトレーナーのエディ・ファッチがゴロタとの再戦前にトレーナーを辞めた。 1996年12月14日、アンドリュー・ゴロタとダイレクトリマッチで再戦。しかし再びゴロタはボウから2度ダウンを奪うなど優勢に試合を進めながらも、頭突きとローブローで2度に渡って減点されるなど反則を繰り返し、9回にローブローを受けたボウが悶絶してリング上に倒れると、レフェリーはゴロタに失格負けを宣告した。ジャッジの判定も前戦と同じく72-74、73-75、71-75と、試合終了時点で3者共にゴロタのリードと判定していた。 現役引退[編集] ゴロタとの試合後、29歳でボクシングからの現役引退を発表し、アメリカ海兵隊予備役へ入隊することを決めた。

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コミックボンボン – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “コミックボンボン” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年3月) 『コミックボンボン』が並ぶ売場(上から2段目(下から4段目)の中央。『月刊コロコロコミック』と隣り合わせになっている。2004年撮影) 『コミックボンボン』は、かつて講談社が発行していた日本の月刊児童漫画雑誌。1981年(昭和56年)10月15日創刊、2007年(平成19年)廃刊。略称は「ボンボン」。 2017年(平成29年)7月末からWEB版の刊行が行われている。 創刊時[編集] 『月刊コロコロコミック』(小学館)に対抗する形で企画され、1981年10月15日に創刊。2か月後に2号を発刊し、その後月刊化される。ホビー漫画・お色気漫画(パンチラが中心)・ギャグ漫画、そして『機動戦士ガンダム』を中心に据える。当初は『スパットマンX』をアニメ化させる約束をジョージ秋山と結んでおり、旭通信社(後のADKホールディングス、ADKエモーションズ)とのアニメ化の締結までには至ったものの、小学館の妨害に遭い実現しなかった、と初代編集長の田中利雄がチャンネル北野でのインタビューで語っている。 ガンプラブームからの発展[編集] ガンダムブームが小学生以下にもガンプラから火がつき始めたのに注目し、本誌でもガンプラをメインに扱う特集を組むようになる。プラモで戦う『プラモ狂四郎』や既存商品の改造テクニックなどと連動し、一大ガンプラブームを巻き起こし、パーフェクトガンダムを始めとした本誌からのガンプラが登場するなど、大きな影響を与えた。MSVの発展にも大きく貢献し、ガンダムの資料としての価値もあるといわれ、『エースパイロット列伝』は特に評価されている。以後本誌はガンダムと密接なつながりを持つようになった。またガンダムの影響でリアルロボットアニメが多数作られたななか、『太陽の牙ダグラム』『装甲騎兵ボトムズ』も漫画版が連載され、プラモデルも『狂四郎』や特集記事に登場している。幼年向け漫画雑誌としては、これら模型関係の記事が長らく組まれていたことも特徴である。 ファミコンブームでは、『ファミコン風雲児』『ファミ拳リュウ』を連載。シールブームでは、コロコロの『ビックリマン』シールに、『ビックリマン』シールの情報を載せつつ『レスラー軍団』シール、『秘伝忍法帖』シールなどで対抗した。 その後も『トランスフォーマー』『SDガンダム』『ロックマン』『スーパーマリオ』『ゴジラ』などの人気作品を題材とした特集や漫画を連載し、ブームを巻き起こした。また、オリジナル漫画に関しても良好な作品が多く輩出された。特に『SDガンダム BB戦士』シリーズで、『武者七人衆編』後半や、『地上最強編』などの時期の“武者ガンダム”のブレイク時である1991年から3年間は、部数で宿敵コロコロを追い抜いていた[1]。 この時期のいずれか数年程度を本誌の黄金期とする読者は多い。具体的にどの年とするかは世代によって分かれるが、「MSVのメディアミックスが行われていた創刊当初」「SDガンダムブームで部数がもっとも多かったと言われる1980年代末期から1990年代前半」「『温泉ガッパドンバ

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