エディ・チーバー – Wikipedia

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エドワード・”エディ”・マッカイ・チーバーJr.Edward “Eddie” McKay Cheever, Jr. 、1958年1月10日 – )はアメリカ出身のカーレーサー。元F1、CART、IRLドライバー。2008年現在、アメリカ人のF1最多出走ドライバーである。F1時代はエディ・チーバーと、またアメリカに戻ってからは、エディ・チーバーJr.と呼ばれることが多い。1998年にインディ500をチームオーナー兼ドライバーとして制している。また、弟のロス・チーバーは日本でも活躍したドライバーで、息子もヨーロッパを中心に活躍しているドライバーである。

プロフィール[編集]

カート/F3時代[編集]

アリゾナ州フェニックス出身。幼少時にイタリア・ローマに移住し、そこでレーシングカートでレースキャリアをスタートさせる。カートでチャンプ獲得後はフォーミュラ3に参戦。F3では同じアメリカ人で、後に同じくF1に参戦し、インディ500も制したダニー・サリバンとコンビを組み、またフォーミュラ2ではマクラーレン参入前のロン・デニスのチーム、プロジェクト4で走っている。

F1時代[編集]

1978年、弱冠20歳でセオドールから開幕2戦にエントリーするも、共に予選落ちし、ケケ・ロズベルグに交代させられる。ヘスケスからエントリーした翌3戦目の南アフリカで初めて予選を通過するが、この年の決勝レースはこれ1戦のみとなる。また翌年はブランクをあけることになる。

1980年、オゼッラから初めてフル参戦を果たすが、4戦予選落ち、完走1戦のみに終わる。活躍するのはティレルに移籍した1981年から。開幕戦母国アメリカで初入賞を5位で果たすと計5戦に入賞、10ポイントを上げる。さらにリジェに移籍した1982年には入賞は4戦に減るが、母国での2位表彰台を含む3回の表彰台を獲得し、翌1983年にルノーに抜擢される。

ルノーでは、アラン・プロストのチームメイトとなり、4度の表彰台を含む22ポイントでランキングベストの7位に食い込む。しかしルノーでの生活も1年で終わり1984年・1985年はアルファロメオに在籍。アルファロメオの戦闘力不足でもあり、この2年間での成績は移籍初戦の4位入賞のみであった。

1986年はカール・ハース率いるハース・ローラから母国アメリカのみスポット参戦。1987年からは中堅チームのアロウズに3年間在籍し、1989年アメリカグランプリでは3位表彰台を獲得するが、目立った成績を上げることはできず、1989年末で母国アメリカへと戻ることになる。

CART/IRL時代[編集]

その後はCARTへチップ・ガナッシ・レーシングのCART最初のドライバーとして参戦。CARTとIRLが分裂した1996年にはIRLへ移籍、その年のインディ500では決勝ファステストラップのトラックレコード(236.103mph/379.971km/h)を樹立した。同年後半には自らのチームを立ち上げ、IRLでの参戦を継続する。

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1998年にはインディ500を制し、またその後は参戦台数中1、2台しか採用していなかった日産製インフィニティエンジンで参戦を続けたが、インフィニティが撤退した2002年限りで第一線からは退き、その後はチームオーナーに専念しつつ、インディ500を中心としたスポット参戦や、グランプリマスターズにも参加(シルバーストン大会では優勝)している。

エピソード[編集]

  • F1での予選でのこと。チーバーがアタックをかけていると、目の前を横切るものがあった。避けきれずヒットしてしまい、ピットへ戻ると彼は沈み込んでしまった。ヒットしたのは野生のウサギであり、不可抗力とは言え命を奪ってしまったことに心を痛めていた。
  • 大柄な体格だがベジタリアンであった。
  • 1989年のアロウズのニューマシンが自身の体型に合わず、乗り降りには相当苦労していた。取り囲むカメラマンなどに向かって、「お前ら!俺は真面目にやってるんだぞ!」と怒る場面もあった。尚、同年の開幕戦であったブラジルGPではレース中に足が痺れてしまい、リタイア後にコクピットを降りると倒れ込んでしまう場面も見られた。
  • 弟のロスが日本で活躍していた当時、エディ自身は弟が日本で何のレースに参加しているか全く知らなかったという。
  • F3に参戦する際、まだ17歳であった年齢を1歳詐称し18歳としていた。
  • 30歳の頃から既に白髪が目立っていた。
  • 1998年のインディ500で優勝した際に、勝者の伝統である「Winner’s Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した[1]。 ただ本人は後年のインタビューで「実はミルクを受け付けない体質なんだよ。だから、優勝してから1週間ぐらいお腹の調子がおかしかったし、口にミルクの味が残ってしまって大変だった(笑)。」と語っている[2]

レース戦績[編集]

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権[編集]

F1[編集]

(key)

ル・マン24時間レース[編集]

* チーバーはDNSとして記載されました。

  1. ^ 『Racing On』No.271 ニューズ出版、1998年、p.116。
  2. ^ 『Racing On』No.327 ニューズ出版、2000年、p.31。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]


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