内藤國雄 – Wikipedia
この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “内藤國雄” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年5月) 内藤 國雄(ないとう くにお、1939年11月15日-)は、将棋棋士。棋士番号77。兵庫県神戸市出身。藤内金吾八段門下。演歌歌手、詰将棋作家としても活動。レコードジャケット、音楽配信での氏名の表記は「内藤国雄」。棋聖、王位のタイトルを通算4期(各2期)獲得。竜王戦1組通算3期。順位戦A級通算17期。 藤内門下に入ったときは13歳にしてようやく藤内よりアマ13級とみなされるなど将棋指しとしては遅咲きであった。 奨励会入会して間もない時期に、同じ関西奨励会に在籍していた加藤一二三と対戦している。同い年ではあるが、当時すでに三段となっていた加藤とは飛車落ちでの対戦となり、熱戦の末深夜となったため、両者協議の上引き分けとして終局した。 その後、猛勉強の末1年足らずで初段格の実力をつけ、奨励会では「西の内藤」と誉れ高く1958年10月に18歳で瞬く間にプロ入りを果たす。順位戦でも勝ち進み、プロ8年目にしてA級八段となる。以降、A級とB級1組の間を3度往復する。 1964年度の最強者決定戦で棋戦初優勝。同棋戦では、1966、1970年度にも優勝する。1965年度の東西対抗勝継戦では、同棋戦史上1位の15連勝の成績で優勝する。 初のタイトル戦登場は、1968年度の王将戦七番勝負である。しかし、大山康晴三冠(王将・名人・王位)に力及ばず、0勝4敗のストレートで敗れる。 2度目のタイトル戦は、1969年度後期の棋聖戦(第15期棋聖戦)五番勝負・中原誠棋聖との戦いであった。後手番での2局で得意の横歩取り空中戦法を披露して勝利するなどし、初タイトルとなる棋聖位に就く。この年度は、NHK杯戦でも優勝する。同1969年度は、当時将棋大賞が制定されていなかったため表彰等はなかったもの、日本将棋連盟が勝敗記録を厳密に管理するようになってからは初となる、年度内における勝率、勝利数、対局数、連勝の4つの記録で1位を達成した[1]。 1971年度、日本将棋連盟杯戦で優勝する。 1972年度の第13期王位戦七番勝負における大山康晴王位との戦いでは、第3局と第5局で大山得意の振り飛車に対し「鳥刺し」戦法含みの序盤戦術を見せて、いずれも勝利。これを含み4-1で奪取し、大山の王位連覇を12で止める。
Continue reading
Recent Comments