中浦ジュリアン – Wikipedia

ローマを指さす中浦ジュリアン像
中浦ジュリアン記念公園
(長崎県西海市西海町中浦)

中浦 ジュリアン(なかうら ジュリアン、Nakaura Julian[1], Nacaura Julian[2], Nacaura Juliaô[3], 中浦寿理安[4]、 1568年2月8日ころ(永禄11年正月)[5] – 1633年10月21日(寛永10年9月19日))は、肥前国中浦(現・長崎県西海市西海町中浦)に生まれた安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンで、天正遣欧少年使節の副使。イエズス会士でカトリック教会の司祭となり、殉教して福者となった。中浦は地名、ジュリアンは洗礼名で、幼名は小佐々甚吾(こざさ じんご)。

出自[編集]

中浦ジュリアンの出自については、宣教師の報告書などを所蔵するイエズス会ローマ文書館や天正遣欧少年使節が公式訪問したイタリア・スペイン各地の文書館に資料が残されている[6][7][8][9]。これらの資料によれば、中浦ジュリアンは「肥前国中浦領主の中浦甚五郎の息子」「中浦城に生まれた肥前国の貴族」「肥前国の貴族17才」「中浦殿(Nacahurandono)の息子」と記述されている。そのため、当時の肥前国中浦城主の小佐々兵部少輔甚五郎純吉(こざさ ひょうぶのしょう じんごろう すみよし、小佐々純吉)が「中浦殿(なかうらどの)」と呼ばれていたことから、中浦ジュリアンはその息子の小佐々甚吾である[5][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20]

戦国領主小佐々氏の家系は、宇多天皇を太祖とする宇多源氏(近江源氏)嫡流の佐々木定綱の後裔であり、応仁年間に室町幕府4代将軍足利義持の倭寇取締の命により、近江守佐々木満信が次男の佐々木時信一族を伴って肥前国に下向した[5][12][13][21]。小佐々氏は北方の松浦氏(松浦水軍)の南下阻止のため、五島灘沿岸の在地領主である外浦(ほかうら)衆の惣領家となり、小佐々水軍として七釜港(鳥崎港、現・西海市西海町七釜)を水軍基地、小佐々水軍城(小佐々城・城の辻古城・城ノ辻城址、現・西海市大瀬戸町多以良(たいら)内郷 字城・字小峰・字田平・字道目木)[20][22][23][24][25][26][27][28][29][30][31][32][33][34][35][36][37]を本城とし、西彼杵半島西岸北端の面高(現・西海市西海町)から南端の三重(現・長崎市三重町)と西方海上の五島列島近くの平島までの島嶼部にも支城や出城を築いて、九州北西海域(西海)の五島灘を領有支配した。小佐々水軍は、中国や朝鮮半島などの海外交易、西海航路の要衝である寺島水道と角力灘の海上関料(警護料)、五島灘と大村湾とを陸路で結ぶ北往還と南往還の通行関料、中浦の隠し金山経営や馬生産などで栄えた[5][12][13][20][31][38]。肥前国大村藩作成の『大村郷村記』「中浦村」の「由緒之事」には、戦国時代初期から江戸時代初期の万治3年(1660年)まで、小佐々氏が中浦村の領主であり、知行していたことが記されている[5][13][20][39]。また、戦国時代の西肥前では、小佐々弾正や小佐々兵部の名は代々西海の勇将として知られていた[31][40]

幼少期[編集]

中浦ジュリアンは1568年に中浦城主小佐々甚五郎純吉の息子として、 中浦城の館(たち)で小佐々甚吾として生まれた。その翌年の1569年に肥前国宮村(現・長崎県佐世保市)の葛峠(久津峠・くづのとうげ)の合戦で、父親の小佐々兵部純吉と大伯父の小佐々弾正純俊が、敗走する大村純忠軍を助けるために殿をつとめて討死した[11][12][20][21][31][40][41][42][43]。この縁から、大村純忠の要請により、天正初期に純忠の息子で1歳下の新八郎(後の大村藩初代藩主大村喜前)の子小姓となり、純忠の居城三城城に住む[5][12][31]。その後1580年4月に開設した有馬のセミナリヨに1期生として入学し、純忠により天正遣欧少年使節の副使に選ばれた[5][12][20][44][45][46][47]。なお、父親の純吉と大伯父の純俊は、顕彰石祠や顕彰墓碑がある「小佐々弾正・甚五郎塚」(佐世保市南風崎町)と、特異な大型墓碑やキリシタン墓が残る「長崎県指定史跡・多以良の小佐々氏墓所」(西海市大瀬戸町多比良内郷寺山)との二か所に祀られている[5][11][12][20][21][48]

天正遣欧少年使節[編集]

イエズス会の巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、九州のキリシタン大名・大村純忠などに提案して、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣することを企画した。そこでセミナリヨで学んでいたジュリアンを含む4人の少年たちが選び出され、ジュリアンは副使となったのである[8][9][20][44][45][46][47]

1582年(天正10年)2月20日、長崎を出帆してローマへ向かった13~14歳の4人の使節は、3年もの長旅を終えて1585年3月22日夜にローマのイエズス会本部の宿舎に到着し、翌23日にローマ教皇・グレゴリウス13世と謁見した。ところが、ジュリアンはローマ到着直前の3月19日に、当時の中央イタリアで流行していた伝染病で間欠的に発病する三日熱にかかり高熱のため宿舎で病臥していた。枢機卿会議での公式謁見予定日の23日には重病だったが、皆の静養の勧めを押し切って謁見に臨んだ[44][45][47][49]

これに対し、ジュリアンの病状を気遣った教皇は公式謁見前にジュリアン一人だけのための特別謁見を行っており、彼を抱擁して祝福しながら、慈愛に満ちた言葉で宿舎に帰って静養するように優しく言い聞かせた。ジュリアンはこれに従い公式謁見は欠席したが、4人の使節の中で最初に謁見するという特別な栄誉を与えられた。謁見後も教皇はジュリアンの容態を毎日気遣い、自身の主治医にジュリアンの治療をさせたので、病状は快方に向かった。一方、教皇は謁見から1週間ほどで病気になり、半月後の4月10日に帰天したが、臨終に際してジュリアンの体調を気遣う言葉を残した[44][45][47]

4月24日にシクストゥス5世が新教皇に選ばれ、ジュリアンを含む4人の使節は26日に教皇に招かれ、謁見した。5月1日の教皇の戴冠式ではジュリアンは体調がすぐれず欠席したが、5月5日のローマ司教座があるラテラノ大聖堂への教皇行幸には、バチカン図書館にある壁画「教皇シクストゥス5世のラテラノ教会行幸図」のとおり、4人全員が馬に乗って行列に加わっており、この日からジュリアンが再び他の使節と共に行動したのである。また、5月10日午前にはローマ市議会に招かれて名誉あるローマ市民権が与えられ、午後には教皇により聖ペトロ騎士団の騎士に列せられるという格別な栄誉を授かった[8][9][44][45][47]

フィレンツェのメディチ家文書館にある中浦ジュリアンの市民権証書の写しには、「ローマ元老院は、肥前国中浦の名門ドン・ジングロウ(甚五郎)の子にあたる顕栄なるドン・ジュリアンは勿論のこと、その子々孫々に至るまで、ローマの市民権を与え、ローマ貴族の名簿に加え、同時にローマ元老院に列席し、意見を述べ、投票し、公役を遂行し、その他すべてのローマ出身の貴族や市民が有する名誉・恩恵・特権・免除などを与える」という栄えある処遇を受けたのである[8][50]

ジュリアンはポルトガルやスペインを経て、ローマに至るまでのイタリア各地訪問の往路では健康であったが、ローマ到着直前から三日熱の発病を繰り返して体調不良が続き、復路のイタリアのフェラーラやミラノ、スペインのバルセロナ訪問時にも再発した。そのため、使節として十分な訪問活動ができないこともあったが、その都度多くの人々の厚意に助けられた。このことが、ローマ教皇やキリスト教に対して深い崇敬の念を抱くことになり、後の殉教に至ったとされている[44][45][50]

帰国[編集]

十字架のように手を広げて立つ中浦ジュリアン像
西海スポーツガーデン体育館前(長崎県西海市西海町木場)

1590年(天正18年)7月21日、8年5ヶ月もの長旅を終えて長崎に帰国した4人の使節は21〜22歳の青年になっていたが、大村喜前や有馬晴信(鎮貴)などの歓迎を受けた。翌年1591年3月3日に、4人は聚楽第で関白豊臣秀吉に拝謁した。拝謁後の宴席では、4人の使節が教皇から賜った上等なビロードに金糸の洋服を着て、西洋楽器を演奏して西洋の歌を披露したところ、関白が三度もアンコールしたことや、関白が使節に仕官を勧めたが彼らは断ったことが記録されている。この時に、帰国時に連れてきた1頭のアラビア馬が関白に献上されたが、ポルトガル人調教師が騎乗して見事なポルトガル馬術を披露すると、関白や同席した諸大名はアラビア馬の大きさと速さや美しさに驚嘆して大いに賛美し、贈物の中でもこの馬をとりわけ気に入ったことがルイス・フロイスの「日本史」に記録されている。また、聚楽第に向かう使節一行の先頭を歩むこのアラビア馬は、見物していた全ての群衆を驚かせた。「時慶卿記」や「兼見卿記」には、「五尺余(体高150cm余り)の馬」と記述され、当時の日本在来馬(体高約130cm)よりはるかに大きな馬の雄姿が記録されている[8][51][52][53]

同年7月25日、ヴァリニャーノ神父の司式で、4人は天草の修練院でイエズス会に入会。1593年(文禄2年)7月25日に4人は2年間の修練期を終えて誓願を立ててコレジヨに入るが、1597年(慶長2年)にコレジヨの長崎移転に伴い長崎に移り、1600年(慶長5年)にジュリアンは八代の教会に務め、薩摩の川内に行って長崎に戻る。1601年にジュリアンと伊東マンショの2人はマカオに3年間留学して倫理神学を修め、1604年(慶長9年)に長崎に帰国して有馬のセミナリヨで教える。同年9月に、ジュリアンやマンショと原マルチノは長崎で副助祭になり、1607年9月に3人は助祭となる。1608年(慶長13年)にジュリアンは京都、博多で布教し、9月に中浦ジュリアン、伊東マンショ、原マルチノの3人は司祭に叙階された[44][45]

キリシタン禁教と弾圧[編集]

中浦ジュリアン神父 自筆の手紙
日本二十六聖人記念館 所蔵・展示

江戸幕府のキリシタン禁教令により、1614年2月7日と8日にマカオとマニラに多数の宣教師や信徒が追放され、原神父はマカオに流刑された。一方、中浦神父は禁教令に叛いて国内に残り、潜伏して布教の道を選び口之津で布教していたが、天草、肥後、筑前、筑後や豊前のキリシタンも毎年訪ね歩いていた。また、1621年(元和7年)9月21日に中浦神父が口之津からローマのイエズス会総長顧問マスカレニアス神父宛に書いたポルトガル語の自筆の手紙が、長崎の日本二十六聖人記念館に所蔵されて展示されている。同年12月21日に中浦神父は加津佐で終誓願を立てたのである[44][45][54]

殉教と列福[編集]

約20年間にわたりキリシタン禁教・弾圧下で潜伏して布教活動をしてた中浦神父は、1632年(寛永9年)ついに小倉で捕縛され、長崎へ送られて拷問により棄教を迫られたが、かたくなに拒絶した。そして翌1633年10月18日(寛永10年9月17日)、イエズス会司祭のジョアン・マテウス・アダミ、アントニオ・デ・スーザ、クリストヴァン・フェレイラ、ドミニコ会司祭のルカス・デ・スピリト・サントと3人の修道士とともに、西坂(現・日本二十六聖人記念館付近)で穴吊るしの刑に処せられた。穴吊るしの刑では全身の血が頭にたまり、こめかみから数滴ずつ垂れていくため、すぐに死ねずにもがき苦しむという惨刑であった(一方で棄教の意思を示すことは簡単に出来たため、信徒を屈するに適した拷問だった)。クリストヴァン・フェレイラが棄教し、ほかの受刑者は棄教せずにすべて殉教した。最初に死亡したのは中浦ジュリアンで、穴吊るしにされて4日目の10月21日(寛永10年9月19日)であった。65歳没。役人に対し毅然として「わたしはローマに赴いた中浦ジュリアン神父である」と言い残したとされ[44][45][55]、最期の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」だったという[44][45][49]

殉教から374年が経過した2007年(平成19年)6月、ローマ教皇ベネディクト16世は、中浦ジュリアンを福者に列することを発表し、2008年(平成20年)11月24日に長崎で他の187人と共に列福式が行われた[56][57][58]。天正遣欧少年使節の一員で福者になるのは彼が初めてである。

  1. ^ 列福時の名称表記。
  2. ^ ヨーロッパの史料表記、Nacaura Don Julianとも。
  3. ^ ポルトガル語表記、Nacaura Don Juliaôとも。
  4. ^ 和名表記、中浦鈍寿理安とも。
  5. ^ a b c d e f g h 小佐々学「福者中浦ジュリアンと中浦城主小佐々氏の家系 -中浦城主家子孫に伝わる源姓小佐々氏系図について-」『キリシタン文化研究会会報142号』キリシタン文化研究会 上智大学、2013年。
  6. ^ 東京大学史料編纂所編『大日本史料 第十一編 別巻ノ一・天正遣欧使節関係資料一』東京大学出版会、1982年。
  7. ^ 東京大学史料編纂所編『大日本史料 第十一編 別巻ノ二・天正遣欧使節関係資料二』東京大学出版会、1982年。
  8. ^ a b c d e 結城了悟『新史料 天正少年使節』南窓社、1990年。
  9. ^ a b c 結城了悟『天正少年使節 -史料と研究-』純心女子短期大学長崎地方史研究所、1992年。
  10. ^ 小佐々学「天正遣欧少年使節中浦ジュリアンの出自について」『大村史談35号』大村史談会、1989年。
  11. ^ a b c 小佐々学「長崎県指定史跡 多以良の小佐々氏墓所について」『大村史談 39号』大村史談会、1991年。
  12. ^ a b c d e f g 小佐々学「小佐々弾正・甚五郎塚と中浦ジュリアン」『大村史談48号』大村史談会、1997年。
  13. ^ a b c d 小佐々学「小佐々水軍と中浦ジュリアン」『大村史談51号』大村史談会、2000年。
  14. ^ 日本史広辞典編集委員会編「中浦ジュリアン」『日本史広辞典』山川出版、1997年。
  15. ^ 永原慶二監修「中浦ジュリアン」『岩波日本史辞典』岩波書店、1999年。
  16. ^ NHK取材班編『堂々日本史 17巻 ローマを見た少年たち・天正遣欧使節の栄光と悲劇』KTC中央出版、1998年。
  17. ^ 小佐々学「中浦ジュリアンと小佐々マチアス」『南蛮学の発見』思文閣出版、1997年。
  18. ^ 大村市史編纂委員会編「第四章・第五節 天正遣欧使節と大村氏」『新編大村市史 第二巻中世編』大村市、2014年。
  19. ^ 伊川健二「Ⅱ 遣欧使節構想の誕生・使節四名の出自」『世界のなかの天正遣欧使節』吉川弘文館、2017年。
  20. ^ a b c d e f g h 脇田安大「第Ⅱ部 西海地区のキリスト教、3. 中浦ジュリアンと小佐々水軍・4. 小佐々一族の関連遺跡」『世界遺産公式ガイドブック
    「探訪 長崎の教会群」 大村・西海外海編』長崎の教会群情報センター、2018年。
  21. ^ a b c 大村藩「巻之九 小佐々氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。
  22. ^ 小佐々学「小佐々水軍城とその関連遺構 -戦国期に五島灘を支配した小佐々水軍の本城と居館群跡-」『城郭史研究 23号』日本城郭史学会、2003年。
  23. ^ 西ケ谷恭弘・光武敏郎編「小佐々水軍城(長崎県)」『城郭みどころ事典 西国編』東京堂出版、2003年。
  24. ^ 西ケ谷恭弘編「小佐々水軍城」『探訪 日本の名城7. 海に臨む名城』夢みつけ隊、2003年。
  25. ^ 西ケ谷恭弘編「象徴としての城」『城郭の見方・調べ方ハンドブック』東京堂出版、2008年。
  26. ^ 児玉幸多監修「小佐々城」『日本城郭大系 17巻 長崎・佐賀』新人物往来社、1980年。
  27. ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会編「小佐々城」『角川日本地名大辞典 42長崎県』角川書店、1987年。
  28. ^ 長崎県庶務課史誌掛「多以良村、城ノ辻城趾」『西彼杵郡村誌』長崎県、1885年。
  29. ^ 藤野保編「多以良村、古城蹟之事・城の辻古城」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。
  30. ^ 大瀬戸町「第五節 郷土の史跡 1.乱世の古城跡 (2)多以良の古城跡、2.先人の墓所 (6)小佐々氏の古廟」『大瀬戸町郷土誌』大瀬戸町、1996年。
  31. ^ a b c d e 小佐々学「中浦ジュリアンを生んだ西海の歴史と風土」『長崎県地方史だより 68号』長崎県地方史会、2009年。
  32. ^ 「近世城郭への二つの途」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。
  33. ^ 西ケ谷恭弘「日本の城石垣の歴史と北九州の戦国・織豊期の城石垣」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。
  34. ^ 伊藤一美「中世小佐々氏と小佐々水軍城の城下機能」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。
  35. ^ 小佐々学「小佐々水軍城と西海の城 -東アジアの城郭との関わりについて-」『海路 11号 戦国・織豊期の九州の城郭』海鳥社、2013年。
  36. ^ 小佐々学「東アジアと西海の城 -小佐々水軍城を中心として-」『城郭史研究 35号』日本城郭史学会、2015年。
  37. ^ 丸山雍成「第十一章 近世城郭への二つの途 三 戦国城郭の調査方法」『前近代日本の交通と社会 日本交通史への道1』吉川弘文館、2018年。
  38. ^ 西日本文明交流史取材班「天正少年使節 中浦ジュリアン」『西日本文明交流史・海を駆けた人たち』西日本新聞社、1994年。
  39. ^ 藤野保編「中浦村、由緒之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。
  40. ^ a b 外山幹夫『大村純忠』静山社、1981年。
  41. ^ 藤野保「宮村、古戦場之事・葛の峠古戦場」『大村郷村記 第三巻』国書刊行会、1982年。
  42. ^ 大村藩『大村家記 巻之二』大村市史料館蔵。
  43. ^ 大村藩「巻之二 大村氏・巻之九 小佐々氏」『新撰士系録』大村市史料館蔵。
  44. ^ a b c d e f g h i j 結城了悟『天正少年使節の中浦ジュリアン』日本二十六聖人記念館、1981年。
  45. ^ a b c d e f g h i j 結城了悟『ローマを見た天正少年使節』日本二十六聖人記念館、1982年。
  46. ^ a b 久田松和則『大村史-琴湖の日月』国書刊行会、1989年。
  47. ^ a b c d e 松田毅一『天正遣欧使節』朝文社、1991年。
  48. ^ 藤野保「多以良村、古廟之事」『大村郷村記 第五巻』国書刊行会、1982年。
  49. ^ a b ローマを見た宣教師 ジュリアン中浦  カトリック中央協議会
  50. ^ a b H. チースリク著・高祖敏明監修「教皇に会った殉教者・中浦ジュリアン」『キリシタン時代の日本人司祭』教文館、2004年。
  51. ^ 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス 日本史2. 豊臣秀吉篇Ⅱ』中央公論社、1981年。
  52. ^ 小佐々学「日本在来馬と西洋馬 -獣医療の進展と日欧獣医学交流史-」『日本獣医師会雑誌 64巻 6号』日本獣医師会、2011年。
  53. ^ 小佐々学「第2章 獣医史学」『獣医学概論』池本卯典ほか監修、緑書房、2013年。
  54. ^ 結城了悟『中浦ジュリアンの手紙 口之津 1621年9月21日』日本二十六聖人記念館、1997年。
  55. ^ 結城了悟『日本とバチカン』女子パウロ会、初版、1989年2月20日。122-123頁。ISBN 4-7896-0308-3。
  56. ^ 日本カトリック司教協議会列聖列福特別委員会編「西坂の殉教者ジュリアン中浦」『ペドロ岐部と187殉教者』カトリック中央協議会、2007年。
  57. ^ きょう日本初の列福式、殉教者188人が福者に Christian Today, Japan
  58. ^ 小佐々学「天正遣欧使節中浦ジュリアン神父の列福とローマ教皇ベネディクト十六世に謁見して」『大村史談 60号』大村史談会、2009年。

参考文献[編集]

  • 新人物往来社編「長崎県の名族・小佐々(こざさ)氏」『日本の名族十一・九州編Ⅰ』新人物往来社、1989年。
  • 小佐々学「天正遣欧使節が描かれたペニャロンが修道院のアズレージョ」『大村史談 59号』大村史談会、2008年。
  • 小佐々学「中浦ジュリアン神父の列福と天正遣欧使節ゆかりのラテン語の古書」『大村史談 59号』大村史談会、2008年。
  • 小佐々学「特別寄稿 天正遣欧少年使節福者中浦ジュリアンの足跡を訪ねて」『大村純忠の夢~いま、450年の時を超えて~』活き活き大村推進会議、2009年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]