ブライアン・エプスタイン – Wikipedia

ブライアン・サミュエル・エプスタイン(Brian Samuel Epstein, 1934年9月19日 – 1967年8月27日)は、イギリスのビジネスマン。

1962年6月26日、ビートルズをマネージメントする為の会社「NEMSエンタープライズ」を弟クライヴを共同経営者に迎えて設立する。ビートルズのマネージャーとして最もよく知られ、彼らからはエピーという愛称で呼ばれていた。なお、彼自身は自分の苗字を常にエプスティーン(Epsteen)と発音した。

家族と生い立ち[編集]

父方の祖父アイザック・エプスタイン(1877〜1955)は、リトアニアからイギリスに移住したユダヤ人(ユダヤ系リトアニア人)。アイザックは、息子ハリーとリヴァプールのウォルトン・ロードで家具店を経営していた。ポール・マッカートニーの一家は、そこでピアノを購入したという。

ブライアン・エプスタインは、1934年9月19日、リヴァプールのロドニー・ストリートの産院で父ハリー(1904〜67)と母クイーニー(1914〜96)の間に長男として誕生。1936年、弟クライヴ(1936〜88)誕生。第二次大戦中、一家はサウスポート等に疎開。戦争が終わりに近づく頃、リヴァプールのクイーンズ・ドライヴ197番地に戻る。[1][2]

ユダヤ系小学校のビーコンズフィールドを卒業後、シュロップシャーのパブリック・スクール、リーキン校に入学。しかし服飾デザイナーになるため退学したいとの手紙を家に送る。結局二年で退学するが、服飾デザイナーの夢は父ハリーに反対され、1950年9月、父の家具店で働き始める。週給5ポンドでの家具販売は本意ではなかったが、鏡を購入しに来たある女性に12ポンドでダイニング・テーブルを販売することがあり、その楽しさを知るようにもなっていた。[3][4]

1952年12月、徴兵されて陸軍に入隊。隊規違反を起こし、精神鑑定によって同性愛者であるという結果が出たため除隊になり、家具店の1フロアに作られたレコード売り場を担当する。

1956年、俳優を志してロンドンの王立演劇学校に入学。後に活躍するスザンナ・ヨーク、アルバート・フィニー、ピーター・オトゥールなどもいた。しかし3学期で挫折。リヴァプールに戻り、父親が電気製品の分野に進出した「NEMS」と名付けられた店のレコード部門の責任者となる(弟クライブが電気&家庭用品部門を担当)。1961年8月3日発行の『マージー・ビート』誌3号から音楽コラムの連載を始めた。

ビートルズとの出会い[編集]

対面の経緯[編集]

ブライアン・エプスタインの自伝「地下室いっぱいの騒音」によると、ビートルズの存在を知ったのは、1961年10月28日、トニー・シェリダン(伴奏がビートルズ)のシングル「マイ・ボニー」を、レイモンド・ジョーンズというビートルズのファンが彼の店に買いに来たときだった。エプスタインと友人のアリステア・テイラーは、バンドの演奏を見るために、同年11月9日、キャヴァーン・クラブを訪れた。クラブは彼の店から通りを下ったところに位置した。バンドの演奏を見たエプスタインは「私はそれまで、地元のリヴァプールで人気を集め始めていたビート・グループに対して一度も興味の目を向けた事は無かったが、すぐに彼らの音楽、彼らのビート、彼らのユーモアセンスに打たれた。そして彼らに会った後でさえ、彼らの個人的魅力に再び心打たれた。そしてそれは全ての始まりだった…」と語っている。

ただし、この定説は、現在では信憑性に乏しいと言われていた。上記の通りエプスタインは1961年8月3日発行のマージー・ビート3号から音楽コラムを担当しているが、同誌前号に相当する2号(当時のマージー・ビートは隔週誌)のトップ記事がビートルズであり、3号から音楽コラムを担当する様な人間が、その二週間前に発行された2号のトップ記事を知らなかった…というのは客観的に考えて著しく整合性を欠くという意見がある。

また一方で、ポップミュージックにまったくの興味がなくクラシックとオペラを好んでいたブライアンがこのマージービート誌を通して、当時人気のあったビートグループに興味を持ったとする意見がある。リヴァプールの毎夏行われるビートルズコンベンションでゲスト出演したアリステア・テイラーが語ったこともある。この話によると、地元で手広くレコード屋を開いていたエプスタインが「新しいネタ」をさがしており、ブライアンのショップからわずか2、3分の場所にあるキャヴァーン・クラブに出向き出演していた「ビートルズ」に興味を持ち契約に至った、というのが対面の経緯という話がある。

(なお、アリステアの著書『シークレット・ヒストリー』には、「レイモンド・ジョーンズっていうのは、客たちが欲しがっているビートルズのレコードってやつを入手したくて、僕が適当に考え出した架空の人物なんだから。(原文)」と書いてある)

しかし、後になって、アリステア説を覆すためにレイモンド・ジョーンズ本人が名乗り出たため、現在は当初の説が支持されている。

契約の経緯[編集]

1961年12月10日に、エプスタインがバンドのマネージメントを行うことを決定した。その後彼らは、1962年1月24日にピート・ベストの家でエプスタインとの5年契約にサインした。しかし、あえてエプスタインはサインせず、いつでも契約を解除できるオプションを、ビートルズに与えた。

この件について、エプスタインは自伝で、ビートルズのメンバーが将来的に自由な活動が出来る様に気を遣ったという意味の発言を述べている。一方、エプスタイン以前にビートルズのマネージメントを手がけていたアラン・ウィリアムスとビートルズの間で金銭トラブルが生じた事があり、エプスタインはウィリアムスから「彼らは金に汚いから契約をする時は注意しろ。トラブルで財産を失う可能性もあるから、いつでも彼らを切り捨てられる様に準備しておけ」というアドバイスを得ていた事が分かっている。また、エプスタインがビートルズに接近した時点で、当時ビートルズのメンバーだったピート・ベストの母親モナが、ビートルズのマネージメントに近い活動を行っており、しかも契約した場所がピート・ベストの家だった。そこでもしエプスタインがサインをしたら、モナからクレームが付く可能性があった。この2つの理由によって、エプスタインはサインを断念した、という説がある。

※アリステアは著書『シークレット・ヒストリー』でこの風説も否定している。「契約したのはピートの家ではなく、NEMSのオフィスだったホワイト・チャペル」。契約書は話がまとまった直後にホワイト・チャペルで作成され、完成されると、4人はすぐにサインを書いた――と書かれている。アリステアの名は、証人として契約書に署名されている)

契約後の経緯[編集]

エプスタインがビートルズと出会った当時、彼らはジーンズと革ジャケットを着用し、騒がしい演奏を行っていた。不良のイメージを払拭させるべく、エプスタインは彼らにスーツとネクタイを着用させ、ステージ上で小綺麗にするようにさせた。また、ステージ上での喫煙をやめさせ、演奏の終わりには一礼を行うようにさせた。その外観は(モップ・ヘアを除いて)バンドが一般に受け入れられるのに役立った。これらのスタイルは長くは続かなかったが、ビートルズのイメージとして、現代に至るまで永く印象付けられる事になった。

エプスタインは、新入社員のロバート・スティッグウッド(1934〜2016)に命じて、ビージーズをイギリスへ帰国させ、1967年5月にポリドール・レコード本社よりワールド・デビューさせる事に成功するも、同年8月27日にアスピリンの過剰摂取で死去。満32歳没。

死因は自殺だったのではないかと、しばしば推測された(同年9月30日にビートルズとNEMSとの契約が期限切れになること、ビートルズがコンサートを中止したためにエプスタインの仕事が減り、自分の必要性がそれまでよりなくなってしまい悩んでいたとも言われている)が、公式の検死は偶然の事故死とされた。

エプスタインは、ビートルズの経歴全ての面を管理していた。彼が死んだ後、メンバーの対立が表面化し、ビートルズは解散に向かうこととなったため、解散の重要な要因となったとも言われている。葬儀はロンドン市内にある墓地で行われ、ビートルズのメンバーは混乱を理由に誰も出席しなかった。しかし、1967年のブライアンの死を掲載した日本の音楽誌「ミュージックライフ」によると、ジョージ・ハリスンからひまわりの花を手向けられたそうである。

生前公表されることはなかったが、エプスタインは同性愛者であった。ジョン・レノンに惹かれ恋愛感情を抱いていたものの、個人的な感情に基づいて行動した形跡はほとんどない。1963年4月、2人は4日間のスペイン旅行を共にする。この際、2人が性的な接触をもったという噂が流れた。率直な発言で知られるジョンは、常にこの噂を否定していた。1980年には、プレイボーイ誌のインタビューに「決して頂点に達することはなかったけど、かなり強烈な関係だった」と答えている。ポール・マッカートニーも、ジョンとエプスタインの関係はプラトニックだったと述べている。映画 『僕たちの時間』 The Hours and Times (1991) は、このスペイン旅行の事実に基づいたフィクションである。

ジョンの長年の親友ピート・ショットンは、著書 The Beatles, Lennon and Me のなかで、エプスタインに誘われたジョンが、ある程度要求を受け入れたと主張している。「手コキさせてやった。それでおしまい」。伝記作家のハンター・デイヴィスも、ジョンが「どんなものか試してみようと」一度の行為に同意した、と回想している。作家のアルバート・ゴールドマンは著書「The Lives of John Lennon」でこれらの主張について詳述し、2人の関係は長期間続いたと主張している。だが、彼らを知る者はほぼ全員、この主張を否定している。また、ブライアンの長年の秘書であったアリステアは著書の中で「レノンとの関係はなかった、4人とはすべて対等の立場であるように相当な配慮をしていた」と記述した。いずれにせよ、エプスタインはビートルズのマネージメントに関しては一貫して公平であり、えこひいきをしてメンバーの間に緊張を生まぬよう注意していた。

ジョンはその手の噂などには敏感で、1963年6月18日、ポールの誕生日を祝う席で、当時リヴァプールでDJをしていたボブ・ウーラーにエプスタインとスペインへ出かけたことへの「ちょっとした関係」「ジョンの性的指向」を創作話で触れられた途端、暴力行為に及び、彼の顔面を何度も殴打した。翌日にはエプスタインが詫びを入れ、これをボブが受け入れたことで収まった。ケンカのニュースが北部版の全国紙に届いた時にはジョンは「酔っ払いのケンカだよ、本気じゃないさ」とコメントした。ジョンはボブに電報を送り、「とにかく悪かった、以上それだけ」と形式的に詫びを入れた[注釈 1]。1969年のインタビューでもわざわざエプスタインとの関係を否定するコメントを語り、以後この件はインタビュアーには暗黙の了解として後々までタブー視されていた。

注釈[編集]

  1. ^ 電報全文は「レノンレターズ」(ハンター・デイヴィス著)にて明らかになった

出典[編集]

参考文献[編集]

  • ブライアン・エプスタイン『ビートルズ神話 – エプスタイン回想録』片岡義男訳、新書館、1972年11月5日。Epstein, Brian (1964). A Cellarful of Noise. UK 
  • レイ・コールマン『ビートルズをつくった男 – ブライアン・エプスタイン』林田ひめじ訳、新潮社〈新潮文庫〉、1992年12月。 Brian Epstein: The Man Who Made the Beatles. UK: Viking , The Man Who Made the Beatles: An Intimate Biography of Brian Epstein. US: McGraw Hill Publishing