Month: March 2022

ハシブトペンギン – Wikipedia

ハシブトペンギン(Eudyptes robustus)は、ペンギン目ペンギン科に分類される鳥類。別名:スネアズペンギン。 ニュージーランド(スネアーズ諸島)固有種[1] 全長51-61センチメートル[1]。頭部から上面の羽衣は黒く、下面の羽衣は白い[1]。嘴基部から眼上部、後頭にかけて太く黄色い筋模様が入り、後部では垂れ下がる[1]。頬には白い筋模様が入らない[1]。 虹彩は赤褐色[1]。嘴基部に白い皮膚が裸出する[1]。嘴は橙褐色[1]。後肢はピンク色[1]。 繁殖形態は卵生。集団繁殖地(コロニー)を形成する[1]。標高70メートル以下で海岸から600メートル以内にある岩場や低木の下、湿原などに2個の卵を産む[1]。生後6年で性成熟する[1]。 人間との関係[編集] 1968年から調査が進められ生息数が増加傾向にあったが、1988年の調査では生息数が安定していると考えられている[1]。スネアーズ諸島では動物の持ち込みを禁止するなどの保護対策が進められている[1]。1988年における生息数は66,000羽と推定されている[1]。 参考文献[編集] ^ a b c d e f g h i j

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秋休み – Wikipedia

この項目では、休暇について説明しています。CooRieのアルバムについては「秋やすみ」をご覧ください。 秋休み(あきやすみ)は、秋に設定される学校の長期休暇。 学校教育法施行令第29条に定める「農繁期等における休業日」が秋休みに比定される。昭和30年代までは、農村地帯の学校で農繁期に児童生徒が家業を手伝うために設定されていた。ただこの場合は「秋休み」の呼称はあまり用いられておらず、「中間休み」「稲刈り休み」等と呼ばれ、5日間から10日間ほどの休みであった。長野県や山形県などでは1990年代まで存続していたが、学校週5日制導入後に授業時間確保のためすべて廃止されている。 同条により、秋休みを設定するか否か、また設定した場合にその期間を何日間とするかは、公立学校の場合は学校の設置者が定める。一般に3学期制を採る学校では存在しない(夏休みに秋休みを含ませて、立秋の前日までが夏休みで立秋以降が秋休みという考え方もある)ことから、秋休みは「存在しないもの」の代表例としてしばしばギャグにされてきた。 しかし、伝統的に2学期制を採る一部の国立の小・中・高等学校では、前後期の間に3日~1週間程度の秋休みが設けられている。また近年では、一部の3学期制から2学期制に移行した非国立学校でも、学期の区切りとして秋休みを設けている学校がある。この場合、夏休みが多少短くなる。また、一部の学校で4学期制を採用している学校もある。その場合は初夏休みも同時に存在する。 一部の大学などでは、夏休みが長期にわたるため途中から休暇の呼称を秋休みに変えるところもある(東京大学[1]など)。ただしこのような例においては、厳密にいつまでが夏休みで、いつからが秋休みであるかの定義はほとんど成されることがなく、また、定義そのものもあまり重要な意味を成さない。 平成30年度から本格実施となるキッズウィークが、設定時期によっては秋休みに比定される。キッズウィークの具体的な時期は各地域によって異なるが、キッズウィーク設定の狙いの一つとして、大人と子供が向き合う時間を確保するための親の年次有給休暇取得促進があり、政府が毎年10月を「年次有給休暇取得促進期間」と定めていることから、キッズウィークの設定時期は10月前後の秋の時季を想定しているとされる[2][3]。 2学期制の学校での秋休みは、9月末から10月初旬に設定されていることが多い。 仙台市の場合、夏休みが東京などの地域より約1週間短く、冬休み・春休みは東京などの地域と同じだが、秋休みは2日設定されているのみである。(多くの学校では土日、新人大会振り替え休日などを組み合わせて5~7日にしているところが多い) 筑波大学では3学期制をとっているが、推薦入試の実施と、2学期(9月から11月下旬)及び3学期(12月から翌年3月)の間の休業を兼ねて、11月の末に秋休みを設けている[4]。また秋休み期間を利用して筑波大学を主会場とするつくばマラソンが開催されることが多い。 関連項目[編集] 外部リンク[編集]

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ケーブルネット下関 – Wikipedia

種類 株式会社 本社所在地 日本〒751-0816山口県下関市椋野町3丁目25番35号 設立 1996年(平成8年)9月5日 業種 情報・通信業 法人番号 4250001005382 事業内容 有線一般放送事業電気通信事業 代表者 代表取締役社長:岩尾 克也 資本金 10億円 売上高 41億0600万円(2021年03月31日時点)[1] 営業利益

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本郷三丁目駅 – Wikipedia

本郷三丁目駅(ほんごうさんちょうめえき)は、東京都文京区本郷二丁目にある、東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅である。 東京メトロの丸ノ内線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れている。どちらも駅番号が制定されており、丸ノ内線がM 21、大江戸線がE 08である。 両社局の駅は地下通路で接続されていないため、乗り換えの際は地上に出る必要がある。これは連絡通路を建設すると民地に掛かりコスト高となることや、地上連絡でも距離がさほど離れていないことが理由だが[3]、2011年には両線を接続する通路の設置が検討されている[4]。隣の春日駅・後楽園駅の場合は駅の外に出ることなく乗り換えが可能である(ただし、同駅は両線間の高低差が大きく、距離も長いため、当駅より乗り換えに時間を要することがある)。 東京メトロ[編集] 相対式ホーム2面2線を有する地下駅。鉄骨造2階建ての駅舎で改札口は地上にある[5]。改札口は1か所で、改札階と各ホームの中央付近とを連絡するエスカレーター、階段、エレベーターがそれぞれ設置されている。ホームまではさほど深くない。2006年にホームドアが設置された。 開業当初のプラットホームは、4両編成に対応した80 mの長さであったが、将来の6両編成化を想定して2両分40 mの延伸スペース(池袋寄りにトンネルの拡張スペース)が確保されていた[6]。1960年(昭和35年)に6両編成対応に延伸した[7]。 駅施設の狭隘化と老朽化が目立ってきたことやバリアフリー対応が求められたことから、2000年11月から2002年11月にかけて駅舎の建て替えやバリアフリー化を兼ねた大規模リフレッシュ工事が行われた[5][10]。本郷通りや春日通りから奥まったところに駅舎があるため、周辺地域との融和や視認性の向上にデザインの主眼を置いて建て替えが行われた[5]。 のりば[編集] (出典:東京メトロ:構内図) 丸ノ内線改札口(2018年3月) 丸ノ内線の1番線ホーム(2008年12月) 発車メロディ[編集] ワンマン運転開始に伴い、スイッチ制作の発車メロディ(発車サイン音)が導入されている。 曲は1番線が「素敵にハート」(串田亨作曲)、2番線が「サニーサイドステーション」(福嶋尚哉作曲)である[14]。 都営地下鉄[編集] 島式ホーム1面2線を有する地下駅。改札口は春日寄りに1か所があるのみだが、ホームと連絡するエスカレーター・階段は2か所設置されている。ホームと連絡するエレベーターは中間部に設置されている。 駅舎と改札口は地下にあるが、地上への出口は数か所もあり複雑な上、地上までの距離もある。 かつて[いつ?]は、5番出口への通路の途中にお忘れ物センターが設置されていたが、春日駅前の交通局春日庁舎1階に移転した。

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タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦 – Wikipedia

タイコンデロガ級ミサイル巡洋艦(タイコンデロガきゅうミサイルじゅんようかん、英語: Ticonderoga-class guided missile cruiser)は、アメリカ海軍のミサイル巡洋艦の艦級。スプルーアンス級駆逐艦を元に、イージスシステムを搭載するよう設計を修正した初の実用イージス艦として1978年度より建造が開始され、1983年から1994年までに同型艦27隻が就役した。 アメリカ海軍の巡洋艦としては、クリーブランド級軽巡洋艦と並び最多建造数を誇っているほか、1999年にカリフォルニア級原子力ミサイル巡洋艦が退役したため、アメリカ海軍が保有する唯一の巡洋艦となっている。本級よりやや遅れて建造を開始したアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦と比べて戦闘指揮所の機能が充実し、艦砲やミサイルの搭載量も多く、また船体が大きいため居住性が良好で航続距離が長いという特長がある。 イージスシステムの開発[編集] アメリカ海軍は、第二次世界大戦末期より、全く新しい艦隊防空火力として艦対空ミサイル(SAM)の開発に着手していた。戦後も、ジェット機の発達に伴う経空脅威の増大を受けて開発は拡大され、1956年にはテリア、1959年にタロス、そして1962年にターターが艦隊配備された。これらは3Tと通称され、タロスはミサイル巡洋艦、テリアはミサイルフリゲート(DLG)、そしてターターはミサイル駆逐艦(DDG)に搭載されて広く配備された。また経空脅威の増大が続いていることを踏まえて、1958年からは、早くも3Tの次の世代の防空システムとしてタイフォン・システムの開発を開始していたが、これは要求性能の高さに対する技術水準の低さ、統合システムの開発への経験不足により難渋し、1963年にキャンセルされた。ただしその過程で開発された改良型の固体燃料ロケットは、テリアとターターの共通化を進めた発展型であるスタンダードミサイルに引き継がれた。 タイフォンの挫折を受け、1963年11月より先進水上ミサイル・システム(ASMS)計画が開始され、1969年にはイージス計画と改称した。1967年のエイラート撃沈事件、1970年にソ連が行なったオケアン70演習を受けて開発は加速され、1973年からはテストサイトでの地上試験、そして1975年には試作機を実験艦「ノートン・サウンド」に艤装しての洋上試験が開始された。 原子力艦の検討と挫折[編集] 幻に終わったCGN-42 (想像図) もともとイージスシステムは、次期原子力ミサイル駆逐艦(DXGN)の後期建造艦に搭載される予定であった。1970年に海軍作戦部長に就任したズムウォルト大将はこれを修正し、より小さく簡素なガスタービン主機の駆逐艦(DG/Aegis)に搭載することとしたが、1974年に海軍作戦部長がホロウェイ大将に交代すると、再び原子力艦への搭載へと修正された。 この頃には、DXGN計画から発展したバージニア級(DLGN-38級)が既に建造に入っていたが、同級にそのままイージスシステムを搭載することは困難であった。このことから、イージス搭載に適合化した原子力ミサイル駆逐艦としてDG(N)計画が着手され、1974年1月の時点では満載10,708トンとなる予定であった。しかし同年7月、ホロウェイ大将はこの計画は消極的過ぎるとして中止させ、かわって原子力打撃巡洋艦(CSGN)計画を推進した。概念設計は1975年5月に完了し、満載12,700トンの強力な戦闘艦とされたが、当然のように高コストの艦でもあった。このことから、ズムウォルト大将が検討させていたようなガスタービン主機のミサイル駆逐艦の案が復活することになり、CSGN 8隻と在来動力型ミサイル駆逐艦(DDG)16隻によるハイ・ローミックスが予定された。この在来動力型ミサイル駆逐艦はスプルーアンス級の派生型として予定されており、これが本級の源流となった。DDGは1977年度計画から、CSGNは1978年度計画からの建造が予定されていたが、議会はこれらの計画を差し止め、かわりに「ロングビーチ」をCSGNのプロトタイプとして改装するよう予算を振り替えた。しかし1977年1月17日、フォード政権は改修を中止させ、続くカーター政権はCSGN計画の見直しを指示した。かわってバージニア級を発展させたCGN-42の設計が着手されたものの、当初5隻が予定されていた建造数は、1978年3月には1983年度計画の1隻のみに削減され、1981年2月にはその建造も中止された。 DDG-47からCG-47へ[編集] 1970年代初頭、ズムウォルト海軍作戦部長が検討させていたDG/Aegis計画では、5,000トン級のCOGOG推進艦を軸に検討が進められていた。一方、スプルーアンス級はもともと、ミサイル駆逐艦としての設計変更を前提として設計されていたこともあって、同級の設計・建造にあたっていたリットン・インガルス造船所では、同級をもとにイージスシステムを搭載する案を独自に作成し、1974年に海軍に提案した。海軍は、この案はさしあたり採用しないことにしたものの、外部のコンサルティング会社であるJJMA社に検討を依頼した。JJMA社では、スプルーアンス級をもとにイラン海軍が発注していた防空艦(後にキッド級としてアメリカ海軍に編入)を土台として検討を進めた結果、大規模な改設計とマージンの見直しを必要とするものの、イージスシステムの搭載は可能と結論した。 これらの検討を踏まえて、上記の通り、1975年にはスプルーアンス級をもとにイージスシステムを搭載する案が正式に推進されることになり、海軍装備局(NavSea)による検討を経て、1978年9月、リットン・インガルス造船所が詳細計画と建造を受注した。これによって建造されたのが本級である。 このような経緯から、当初はミサイル駆逐艦(DDG-47級)として計画されていたが、期待される任務や性能を考慮して、1番艦の建造途中の1980年1月1日、ミサイル巡洋艦(CG-47)に種別変更された。 船体[編集]

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俵国一 – Wikipedia

俵 国一(たわら くにいち、1872年4月5日(明治5年2月28日) – 1958年(昭和33年)7月30日)は、日本の冶金学者。工学博士[1]。東京帝国大学名誉教授。島根県平民[1]。 来歴・人物[編集] 島根県浜田市出身。上京後、共立学校などを経て、東京帝国大学工科大学採鉱及冶金学科卒業。同大助教授、教授を経て、昭和7年(1932年)定年退官後は名誉教授となる。電気製鋼法にも通じた鉄鋼冶金学の権威で、金属顕微鏡を用いた金属組織研究で成果を残した。研究の一環としてたたら製鉄の科学的分析を行い『日本刀の科学的研究』などを著すなど、和鋼(たたら製鉄により生成される特殊鋼)と日本刀研究の第一人者であった。 学術団体である社団法人日本鉄鋼協会の設立にも尽力し、島根県安来市に所在する和鋼博物館の前身である和鋼記念館(日立製作所設立・日立金属継承)の設立にも貢献があった。昭和21年(1946年)には文化勲章受章。千葉県一宮町に別荘を所有していた。 俵教授退官後の冶金学科教授には海軍造兵少将の吉川晴十が就任し、昭和21年(1946年)まで教授をつとめた。 家族・親族[編集] 俵家[編集] (島根県浜田市、東京市外大久保町百人町[1]) 兄は政治家で濱口内閣商工相なども務めた俵孫一。政治評論家の俵孝太郎は孫一の孫。 ^ a b c d e f

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キマユペンギン – Wikipedia

キマユペンギン (Eudyptes pachyrhynchus) は、ペンギン目ペンギン科マカロニペンギン属に分類される鳥類。別名フィヨルドランドペンギン、ヴィクトリアペンギン。ニュージーランド固有の種[3]。マオリ語ではタワキ (Tawaki) で、マオリ族の神様に由来する[3][5]。 分類と名称[編集] キマユペンギン (Eudyptes pachyrhynchus) は1845年にイギリスの動物学者ジョージ・ロバート・グレイによって記載され、種小名pachyrhynchusは古代ギリシャ語の「太い」(英:thick)を意味するpachy- (παχυ-) と「くちばし」(英:beak)を意味するrhynchos (ρύγχος) による[6]。マカロニペンギン属(英語版) (Eudyptes) の一種であり、属名は古代ギリシャ語の「上手な」(英:good)を意味するeu (ευ) と「ダイバー」(英:diver)を意味するdyptes (δύπτης)

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教諭 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “教諭” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年10月) 教諭(きょうゆ)とは、日本の学校におかれる教員の職の1つであり、在籍者の教育または保育をつかさどる職のことである。 教諭は、公立学校の場合、教員採用試験の合格を通じて採用される。その他の学校の場合は、学校の設置者の定めるところにより採用された、正規の教員であり、各学校の種別に対応する教員免許状の普通免許状または特別免許状を有していなければならない。また、教諭の職務を助ける職としては、助教諭がある、 原則として教諭をおかなければならないとされる学校は、就学前教育、初等教育、中等教育を行う学校である。具体的には、幼稚園(広義的には認定こども園を含む)、小学校、中学校、義務教育学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校が該当する。 教諭は、児童・生徒の教育または幼児の保育をつかさどっている。また、学校の管理運営上必要とされる校務分掌も担当するのが一般的である。学校運営において連絡調整などにあたる一定の主事職・主任職には、教諭をもってあてられる職も多数ある。 学校教育法(昭和22年法律第26号)においては、幼稚園の教諭は、幼児の保育をつかさどること(学校教育法第81条第6項)、小学校の教諭は、児童の教育をつかさどること(学校教育法第28条第6項)が、それぞれの職務として規定されている。中学校の教諭、高等学校の教諭、中等教育学校の教諭の職務については、小学校の教諭に関する規定が準用され「生徒の教育をつかさどる」とされている(学校教育法第40条・第51条・第51条の9第1項)。特別支援学校の教諭は、幼稚部・小学部・中学部・高等部のそれぞれにおいて、幼稚園・小学校・中学校・高等学校と同様な職務を遂行する(学校教育法第76条)とともに、各部の連携に必要とされる職務にもあたる。 児童・生徒と直接関わるなど学校教育上の主要な職位であり、責任が大きい。 免許状の種類と教員の職階等(新免許法) 種類 区分 基礎資格 効力

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ハイパートンネルズ&トロールズ – Wikipedia

『ハイパートンネルズ&トロールズ』とは、テーブルトークRPGのルールシステムの一つ。プレイヤーはファンタジー世界の一人の冒険者となり、ゲームマスターから提示された課題(ダンジョン探索や誘拐事件の解決など)をクリアすることになる。5 – 6人のプレイヤーでパーティを組んでプレイするのが最適。ダメージ判定や行動の成否判定はサイコロを使って行う。 略称は、ハイパーT&TあるいはHTTなど。 ケン・セント・アンドレらによるテーブルトークRPG『トンネルズ&トロールズ第5版(以下、T&T)』をもとに、安田均、清松みゆきらグループSNEのメンバーがルール改変等を行ったもので、1991年に最初のルールブックが社会思想社より(T&Tの追加ルールと言う位置づけで)出版された。その後、1994年6月に角川書店(角川スニーカー・G文庫)より(T&Tがなくてもプレイできるよう編集された)リニューアル版のルールブックが発刊されており、通常、こちらのルールに従ってプレイされる。 T&Tは、ダンジョン探索に特化したルールシステムだったが、スキル制やハイパーポイントなどの導入によりシティアドベンチャーにも対応できるようになったことが大きい。 また、従来は1系統のみであった魔法を「魔術師系」と「呪術師系」に分類し、T&Tのサプリメント『モンスター!モンスター!』に収録された「僧侶系」魔法の追加ルールを導入、さらに新たな系統として「怪盗系」を追加した。 これに伴って選択可能な職業が大幅に追加された。 戦闘時の行動も、行動タイミングの明確化やスキルの使用、また職業別の特殊なオプションが追加された事で、戦術の幅が広がっている。 だが、基本的な部分では、テーブルトークRPGの黎明期に作られたT&Tの特徴を、ほぼそのまま受け継いでいる。すなわち、スピーディーかつ大胆なゲーム進行が可能で、ダイナミックなストーリー展開に向いているが、反面、戦闘中ふつうならありえない出来事(例えば一人の熟練戦士が50体の敵を一撃で退治する)が起こりやすくなっており、細かな面でのバランスは悪い。 また他のテーブルトークRPGに比べて、強力な魔法や武器を比較的弱いうちから使えるのも特徴で、中レベル以上になるとゲームバランスの調整に苦慮することになる。 システム[編集] スキル制 行動の成功/失敗を判定する際に、行動に対応したスキルを持っていると成功しやすくなる。例えば、ある河を渡れるかどうかを判定する時に、従来は「体力」のないキャラクターは誰でも失敗しやすかったところ、「水泳」スキルを持っている人は体力がなくても成功しやすくなる。 ハイパーポイント 各キャラクターは自分の強さに応じた『ハイパーポイント』をもっており、このポイントを消費することで、行動の成否判定を成功しやすくしたり攻撃力を上げたりといったことができる。いわゆるヒーローポイント。 キャラクター[編集] キャラクターが選択可能な職業は以下の通り。 戦士 T&Tの戦士とほぼ同じ。攻撃力を高める戦闘オプション「渾身の一撃」、より強力となった「ハイパー・バーサーク戦闘」が使用可能。

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栗山英樹 – Wikipedia

栗山 英樹(くりやま ひでき、1961年4月26日 – )は、東京都小平市[1] 出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)、プロ野球監督。マネジメントは有限会社オフィスマリーン。 選手引退から監督就任までの間は、野球解説者、スポーツジャーナリストのほか、白鷗大学教授としても活動していた。2012年から北海道日本ハムファイターズの監督を球団最長となる10年間務めた後、2021年に野球日本代表監督に就任した[2]。現在は北海道日本ハムファイターズプロフェッサー。 日本のプロ野球監督で、国立大学出身・大学教授の経歴を持つ人物はともに栗山が史上初めてである[注 1]。 プロ入り前[編集] 野球好きの兄に誘われ、小学校時代に軟式野球を始める。中学校では一度野球を離れ、バレーボール部のセッターとして活躍。この時に会得したフライングレシーブが、後の外野守備での華麗なダイビングキャッチを生み出すことになる[3]。中学3年時には、地元小平市のポニーリーグチームに所属し、投手として日米大会に出場、大会MVPを獲得する。大会後、小平市内の創価高校野球部の熱心なスカウトに心を動かされ、ともに甲子園を目指すことを決意する。 創価高校では1年時からベンチ入りし、3年時には主将兼エースとしてチームを牽引したが、春の全東京大会では早稲田実業に0-3で敗れて関東大会出場を逃し、優勝候補として期待された夏の西東京大会でも4回戦で敗退し、甲子園への夢は断たれた。高校一年と二年の年末に1週間、広島商業で合同練習を行う[4]。「当時学んだ広商野球は今も僕のベースになっている」と話している[4]。その後は教員を目指して東京学芸大学教育学部に合格する。 東京学芸大学では硬式野球部に入部し、投手、内野手として活躍する。東京新大学野球連盟では投手として1年春、2年春のシーズンをリーグ制覇するも、スライダーを投じた際に右肘を故障してからは投手としての限界を感じ、野手に転向することになる。東京新大学野球連盟での通算成績は、投手として25勝8敗、打者として打率.389(リーグ史上3位)という並外れた成績を残した。在学中に小・中・高の教員免許を取得し卒業後は教員を目指していたが、野球への夢が再燃して4年時には社会人・朝日生命へ内定[5]、その後プロチームの入団テストを受け、その結果ヤクルトスワローズへのドラフト外入団が決まった。担当スカウトは片岡宏雄[6]。 ヤクルトスワローズ選手時代[編集] 1年目の1984年に遊撃手として一軍デビューを果たしたが、プロのあまりのレベルの高さに強い衝撃を受け、野球を辞めることばかり考えていたという。 さらに2年目の1985年からは、平衡感覚が狂う三半規管の難病であるメニエール病に苦しむようになり、試合中に突然目まいや立ちくらみを覚えるようになる。最初にメニエール病の症状に襲われたのは、5月の二軍公式戦であった。この試合の最終回に突然地面が揺れ始め、ボールが2つにも3つにも見えるようになり、あと1人で試合終了というところでベンチへ交代を願い出ている。しかし、一・二軍間のボーダーラインにいた栗山は、その後は目まいが起こっても首脳陣には隠して頭をクラクラさせながらも試合に出続けたという[3]。同年には外野手として一軍でのスタメン出場を果たし、ジュニアオールスターゲームに出場。オフには意図的に三半規管を麻痺させる治療を受け、一時的に症状を抑え込んでいる。 このオフには若松勉[注 2] が、栗山の俊足を生かすためにスイッチヒッターに挑戦させてはどうかと土橋正幸監督に提案。栗山はもともと右打ちだったが[7]、若松の指導の下、左打ちの猛練習に取り組んでスイッチへと転向した。この猛練習が功を奏し、翌1986年の5月末に杉浦享が負傷して外野のポジションが空くと、6月からは1番右翼手としてレギュラーに定着し、規定打席未満ながら打率.301を記録した。 しかし、シーズン終盤には再び試合中に目まいや立ちくらみを覚えるようになり、オフには治療に専念するため長期入院を余儀なくされた。栗山は、いつ症状が再発するか分からない将来への不安の中で入院生活を送っていたが、たまたま顔見知りになった同じ入院先の子供たちが自分よりもはるかに深刻な病を持っていることを知らされてからは、自分の甘さを恥じて「また発症してもそれは仕方がない。一期一会の精神で野球に全力を尽くそう」と、前向きな気持ちになれたという[8]。

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