山口ケーブルビジョン – Wikipedia

山口ケーブルビジョン本社(2008年5月) 山口ケーブルビジョン株式会社(やまぐちケーブルビジョン)は、山口県山口市に本社がある、山口県央部をサービスエリアとする中四国最大のケーブルテレビ局である。通称 “C-able“(シー・エイブル)。 山口市及び周辺の自治体と民間企業との出資による第三セクターとして、1984年に設立された。 元々は山間部の難視聴対策を目的としているが、他県のテレビ局の電波を受信できるエリアが多い山口県にあって、山口県内波以外の受信が困難である県央部の大部分での視聴対策の意味合いもある。特に、(県内に系列局のない)FNN、TXN系列の番組が、通常では受信できないことが多い。このような事情もあって、サービスエリア内の加入率は80%を超えている。 県域地上波テレビ局(TBS系列)であるテレビ山口とは、同じ山口トヨタ自動車の系列傘下。県域民放FM局であるエフエム山口とは、業務提携関係にある。また読売新聞西部本社も株主のひとつで関係が強い。 1984年(昭和59年)5月14日 – 会社設立。 1993年(平成5年) 4月5日 – 有線テレビジョン放送施設設置許可取得。 12月21日 – ケーブルテレビ事業を開始。 2000年(平成12年)11月17日 – 第一種電気通信事業許可取得。 2001年(平成13年)

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金剛 (戦艦) – Wikipedia

金剛 館山沖を海上公試中の金剛(1936年11月) 基本情報 建造所 ヴィッカース社[1]バロー造船所[2] 運用者  大日本帝国海軍 艦種 巡洋戦艦[3]→戦艦 級名 金剛型 建造費 購入金額:2,417,100ポンド[4] 艦歴 計画 明治40年度補充艦艇費[5] 発注 1910年11月17日製造契約[4] 起工 1911年1月17日[6][7][8]

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血脈相承 (日蓮正宗) – Wikipedia

日蓮正宗における血脈相承(けちみゃくそうじょう)とは、宗祖日蓮が第2祖日興へ本門戒壇の大御本尊をはじめとする仏法の一切を譲った、とすること。 位置付け[編集] 日蓮正宗では、第2祖日興は、1282年(弘安5年)の二箇相承に基づき宗祖日蓮から「唯授一人の血脈相承」を受け、以後、大石寺歴代(第3祖日目・第4世日道・第5世日行)に順次伝えて現法主第68世日如に至っている、とする。これによって、日蓮正宗の正統性と、時の法主による本尊に関する一切の専有性が保証される、とする。現創価学会は「唯授一人の血脈相承」を否定し、もしくは認めた上でその断絶や汚れを主張している。 浄土真宗・真言宗・禅宗における血脈相承については血脈相承を参照 日蓮正宗が採用する血脈相承に関する根拠は、以下の通り。 「血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡々座主伝法の書、塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ、秘すべし伝ふべし」(『本因妙抄』[注釈 1]) 注釈[編集] ^ (日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 362)には、「本書は最澄に仮託された〔略〕『三大章疏七面相承口決』〔略〕の形式に準拠していることによって、〔日蓮〕聖人の撰述ではなく、後世の偽作であることが明らかであり、またそれは文中の用語によっても知られる。日興門流の〔略〕広蔵日辰〔略〕〔は〕日蓮聖人の真撰であるか疑問であると述べているほどである」とある。 出典[編集] 参考文献[編集] 外部リンク[編集]

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源義賢 – Wikipedia

源 義賢(みなもと の よしかた)は、平安時代後期の武将。河内源氏、源為義の次男。源義朝の異母弟。源義仲(木曾義仲)の父。 保延5年(1139年)、のちの近衛天皇である東宮体仁親王を警護する帯刀の長となり、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)と呼ばれた。長兄の義朝が無官のまま東国(関東)に下った後、重要な官職に補任されており、この時点では河内源氏の嫡流を継承すべき立場にあったと考えられる。 翌年、滝口源備殺害事件の犯人の宮道惟則を捕らえるが、義賢が犯人に関与していたとして帯刀先生を解官される。このために、為義は弟である四男・頼賢に嫡男の地位を譲らせる形で義賢を事実上の廃嫡にせざるを得なくなった[1]。 その後藤原頼長に仕える。康治2年(1143年)頼長の所有する能登国の預所職となるが、久安3年(1147年)年貢未納により罷免され、再び頼長の元に戻り、頼長の男色の相手になっている(『台記』久安4年1月5日条)。 京堀川の源氏館にいたが、父・為義と不仲になり関東に下っていた兄・義朝が、仁平3年(1153年)に下野守に就任し南関東に勢力を伸ばすと、義賢は父の命により義朝に対抗すべく北関東へ下った。上野国多胡を領し、武蔵国の最大勢力である秩父重隆と結んでその娘をめとる。重隆の養君(やしないぎみ)として武蔵国比企郡大蔵(現在の埼玉県比企郡嵐山町)に館を構え、近隣国にまで勢力をのばす(なお、義賢は重隆の養子になったとする見方もある[1])。為義・義賢は秩父氏・児玉氏一族に影響力を持つ重隆を後ろ盾に勢力の挽回を図ろうとしたみられるが、結果的には両氏の内部を義賢派と義朝派に分裂させることになる[1]。 久寿2年(1155年)8月、義賢は義朝に代わって鎌倉に下っていた甥・源義平に大蔵館を襲撃され、大蔵合戦に及んで義父・重隆とともに討たれた。享年は30前後とされる。大蔵館にいた義賢の次男で2歳の駒王丸は、畠山重能・斎藤実盛らの計らいによって信濃木曾谷(木曽村)の中原兼遠に預けられ、のちの源義仲(木曾義仲)となる。京にいたと思われる嫡子の仲家は、源頼政に引き取られ養子となっている。 埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている[2]。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。なお、大蔵館の所在は現在の東京都世田谷区大蔵とする説もある。また、世田谷の大蔵は義平の居住地という説もある。埼玉県児玉郡上里町帯刀の福昌寺は、室町時代に義賢の菩提を弔うために創建され、大蔵合戦後に落ち延びてきた義賢を祀ったとされる五輪塔がある。 源義賢公御廟所(東武東上線、武蔵嵐山駅都幾川学校橋方面へ下る) 源義賢公五輪塔(御廟所石碑から鳥居くぐる) 大蔵神社(大蔵館跡)(源義賢公墓所近く) ^ a b c 川合康「鎌倉街道上道と東国武士団」(初出:『府中市郷土の森博物館紀要』23号(2010年)/所収:川合『院政期武士社会と鎌倉幕府』(吉川弘文館、2019年)) 2019年、P100-105. ^

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創氏改名 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “創氏改名” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月) 創氏改名(そうしかいめい)は、日本統治時代の朝鮮における統治機関である朝鮮総督府が、1939年(昭和14年)制令十九号(創氏)[注釈 1]および二十号(改名)[注釈 2]で、本籍地を朝鮮に有する日本臣民(以下朝鮮人という)に対し、新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可した政策。儒教文化のために女性は結婚後も他所者として夫や子供の「姓」には加われなかったが[1]、個々の判断で決めた新たな「氏」において夫婦一致させることが義務付けられた。約8割が日本風の「姓」で「氏」を創設したが、金や朴など従来の「漢姓」を夫婦の「氏」とすることが出来た。 創氏の法院公告、仮名・漢字混じり文で、仮名にハングル訳をつけている。日本風など新たな「氏」の設定を希望する者は8月10日までに申請し、それ以降に希望しても出来ませんとしている。新たな「氏」の設定を希望しない場合は夫の従来の「姓」が「金」で妻が「尹○○」とすると 、「金○○」になると夫の従来の「姓」が一家の「氏」と一致するようになると報告している。名の変更は期限が無く、希望時に可能だとしている。「氏」を設定すると従来の「姓」が無くなるとの誤解について、戸籍には残っているから安心するようにと不明点は役所や裁判所に問い合わせるようにとしている。 朝鮮の戸籍[編集] 1909年、大韓帝国は「民籍法」を制定し、近代戸籍の整備を開始した。朝鮮初の近代戸籍である「隆熙戸籍」の整備が終了したのは日韓併合直前の1910年4月である。併合後も民籍法は維持され、日本の戸籍法とともに朝鮮人に適用された。この時一部の朝鮮人が日本内地風の姓名を届け出たため、当時の朝鮮総督府は1911年11月1日、「朝鮮人ノ姓名改称ニ関スル件」(明治44年朝鮮総督府令第124号)によって、戸籍や出生で「内地人ニ紛ハシキ姓名」の届出に厳しい制限をつけた。その後、2種類の戸籍法規を統一する必要があったため、1923年「朝鮮戸籍令」(大正12年朝鮮総督府令第154号)が公布された。 「氏」とは何か[編集] 創氏改名に関しては、「姓」と「氏」は明確に異なる意味を持つものとされた。 当時において日本や欧米諸国の慣習や法制度では、一部を除き、結婚し家族を形成すると、男女のどちらかが姓を変え、家族で姓を統一する。一方儒教では、先祖の祭祀を行う関係上、子孫は先祖姓を引き継ぐものであり、血統が個人の姓を決定した。先祖の異なる者が婚姻により家族となっても、各個人の姓は同一にならない。朝鮮・中国・ベトナムなど儒教文化圏が基本的に夫婦別姓なのはこのため[注釈 3]で、朝鮮人の姓は、父を通じ始祖にまで遡る男系血統を表す。

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ジョヴァンニ・スキアパレッリ – Wikipedia

ジョヴァンニ・スキアパレッリ 生誕 1835年3月14日 イタリア・サヴィリアーノ 死没 (1910-07-04) 1910年7月4日(75歳没) イタリア・ミラノ 研究分野 天文学 主な業績 火星の「運河」の発見 主な受賞歴 王立天文学会ゴールドメダル(1872年)ブルース・メダル(1902年) プロジェクト:人物伝 テンプレートを表示 発見した小惑星 (69) ヘスペリア 1861年4月29日

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JスカイB – Wikipedia

JスカイB(JSkyB)は、ジェイ・スカイ・ビー株式会社(Japan Sky Broadcasting Co., Ltd.)が運営する予定であったCS放送のプラットフォーム。 1996年6月、英国・BスカイB(現在のSky UK)の大株主であるニューズ・コープ(ニューズ、現・21世紀フォックス)がソフトバンクとパートナーを組み、「JスカイB」計画を発表。同年委託放送事業者とプラットフォーム会社を設立。翌1997年にソニーとフジテレビジョンがイコールパートナーとして資本参加した。 1998年4月25日の放送開始に先立ち、同年5月1日にはジェイ・スカイ・ビーと「パーフェクTV!」を運営する日本デジタル放送サービス(現・スカパーJSAT)が対等合併することが決まっていたため、スカイパーフェクTV!(スカパー!)の「SKYサービス」として放送開始することとなった。 なお、JスカイBの本社(東京都江東区青海)は、合併後、スカパーの青海放送センターとして使用されている。 1996年6月20日 – ニューズ・コーポレーションとソフトバンクにより「JスカイB」計画発表。同日発表された旺文社が保有するテレビ朝日(当時は全国朝日放送)株式の買収(のちに朝日新聞社に売却)もその一環(日本のテレビ局が持つ優良な日本語コンテンツ獲得を円滑に進めるため)と説明。 1996年9月4日 – 使用衛星を日本サテライトシステムズ(現・スカパーJSAT)が保有するJCSAT-4に決定。 1996年9月5日 – 委託放送事業者(スカイエンターテイメント株式会社(現・ジェイ・スポーツ))設立。代表取締役社長は北尾吉孝[1]。 1996年12月17日 –

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姫路バイパス – Wikipedia

姫路バイパス(ひめじバイパス)は、兵庫県高砂市から揖保郡太子町に至る国道2号のバイパスであり、自動車専用道路である。 姫路市を横断し、阪神高速道路 – 第二神明道路 – 加古川バイパス – 姫路バイパス – 太子竜野バイパスと相互接続された、阪神・播磨間臨海地域の一大バイパス群を形成する。 2000年の無料開放までは、姫路東 – 中地と姫路西 – 太子東は建設省が、高砂北 – 姫路東と中地-姫路西は日本道路公団が管理していた。料金は高砂北-姫路東は普通車で200円、中地-姫路西は無料であった。無料開放後は全区間を国土交通省が管理しているが、渋滞が頻発しており[1]、姫路バイパスのバイパス道路として播磨臨海地域道路が計画されている。 道路の位置関係[編集] (←岡山方面) 太子竜野バイパス

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オペラ座の夜 – Wikipedia

『オペラ座の夜』(A Night at the Opera)は、イギリスのロックバンド、クイーンの4枚目のアルバムである。 クイーンの代表的なアルバムのひとつであり、本国イギリスで初めてチャート1位を記録したアルバム。当時のイギリスのポピュラー・ミュージック史上、最高の制作費がかかったといわれている。 クイーンの代表曲のひとつである「ボヘミアン・ラプソディ」はシングルカットされ、イギリスのチャートで9週間連続1位を記録した。「クイーン II」のジャケットをモチーフにし、映像エフェクトを駆使したプロモーション・ビデオが製作され話題になった。それまでのポピュラー音楽の動画によるプロモーション形態は演奏シーンなどが主であったが、このビデオは世界で初めての「プロモーションを目的としたビデオ」として、一般的に認識されている。 本作と次作のアルバムタイトルは、アメリカのコメディ俳優マルクス兄弟の映画のタイトルから採られたものである。 本作と次作のアルバムジャケットに描かれたロゴマークは、フレディがメンバー4人の誕生星座を忠実にデザインした図柄をアレンジし直したものである。 『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』に於いて、128位にランクイン[1]。 2019年10月より、本作の世界観を舞台化したNODA・MAP 第23回公演『Q:A Night At The Kabuki』が上演[2]。 リリース[編集] 2002年にはDVD-Audio版がリリースされ、全曲dtsの5.1ch化が行われた。現在発売されているミュージック・ビデオ収録のDVDのdts 5.1ch音声は、このDVD-Audio版の音声の流用である。

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紀元前284年 – Wikipedia

紀元前284年(きげんぜん284ねん)は、ローマ暦の年である。 当時は、「ガイウス・セルヒリウス・トゥッカとルキウス・カエキリウス・メテッルス・デンテルが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元470年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前284年と表記されるのが一般的となった。 他の紀年法[編集] できごと[編集] 共和政ローマ[編集] ギリシア[編集] 小アジア[編集] 中国[編集] 燕の昭王が斉を攻撃する軍を発し、楽毅を上将軍とした。秦は尉斯離に軍を与えて趙・魏・韓の軍と合流させた。趙の恵文王は相国の印授を楽毅に与えた。楽毅と秦・魏・韓・趙の兵は連合して斉を攻めた。斉の湣王は国中の人々を動員して防戦にあたったが、済西の戦いで斉軍は大敗した。楽毅は秦と韓の軍を帰国させ、魏軍には宋の旧地を攻略させ、趙軍には河間の地を接収させ、自らは燕軍を率いて、斉国の奥深くまで侵入した。斉の湣王は逃走し、楽毅は臨淄に入った。燕の昭王は遠征軍の功労をねぎらって、楽毅を昌国君に封じた。 斉の湣王は衛に亡命したが、態度が不遜だったために追い出された。鄒や魯に逃れたが、やはり傲慢だったため、入国を許されなかった。やむなく自国領でなお降伏していなかった莒に逃れた。湣王は楚が斉を救援するために送り込んだ淖歯を斉の宰相とした。しかし淖歯は、燕とのあいだで斉を分割することをもくろみ、湣王を殺害した。 燕の楽毅は斉の70城あまりを攻略し、燕の郡県として編入した。 秦の昭襄王と魏の昭王と韓の釐王が洛陽で会合した。 注釈 出典 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、紀元前284年に関連するカテゴリがあります。

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