国民健康保険税 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 国民健康保険税(こくみんけんこうほけんぜい)とは、国民健康保険を行う市町村が、国民健康保険に要する費用に充てることを目的として、被保険者の属する世帯の世帯主に対し課する税金であり(地方税法703条の4)、分類上は地方税、直接税、目的税に該当する。一方、市町村が地方税法の規定によらず保険料を徴収する場合や、国民健康保険組合が保険料を徴収する場合は、国民健康保険料と呼ぶ。 税方式・料方式[編集] 国民健康保険制度に要する費用の徴収方式として国民健康保険法第76条では、保険料方式を定めており、保険税方式は例外である。だが、実態は、大半の地方公共団体で保険税方式を採用している。これは保険税方式を採用した方が、徴収権の時効が長くなることや、滞納処分の優先順位が高くなる等の理由からである。ただし保険税方式を採用している自治体であっても、納税者向けの納付書類では「保険料」と称している事がある。 医療分に加え、後期高齢者支援分の額が含まれる。 40歳から64歳の者は、介護保険料に相当する額が、介護分として国民健康保険税額に含まれる。 納税義務者[編集] 国民健康保険税は世帯を単位とし、世帯主が納付義務者になる。 世帯主が被保険者で無い場合も、世帯主が納税義務者(擬制世帯主)となる(ただし賦課算定の数値からは外れる)。 賦課方式[編集] 賦課方式には、市町村によって異なり、主に4方式(所得割・資産割・被保険者均等割・世帯平等割)・3方式(所得割・被保険者均等割・世帯平等割)・2方式(所得割・被保険者均等割)がある。 加入者のうち、40歳から64歳の者は、介護保険の第2号被保険者に該当することから、別途、介護分が加算される。 賦課数値の決定[編集] 国民健康保険の運営については、市町村に国民健康保険運営協議会が設置されており、原則として国民健康保険運営協議会の答申に基づいて市町村の条例で決定される。 徴収方法[編集] 市町村により異なるが、口座振替等により納付する方法が一般的である。なお公的年金受給者については、2008年(平成20年)から開始された後期高齢者医療制度の創設に伴い、特別徴収による公的年金から天引き納付となる。 但し、口座振替による納付を希望する場合には、申請により口座振替に切換えることが可能である。 各自治体の保険税(料)額(年額)の例[編集] 医療分[編集] 以下は2020年度(令和2年度)の医療分の税額である。医療分の最高限度額は市町村によらず一律で63万円である。(*のついた市町村は2017年度の税額)

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ゴリツィア – Wikipedia

ゴリツィア(イタリア語: Gorizia ( 音声ファイル))は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口約3万4000人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都である。 スロベニアとの国境の都市であり、スロベニア側のノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。 Gorizia は /ɡoˈriʦʦja/ [注釈 1]と発音される。 日本語文献では「ゴリツィア」[5][6]のほか、「ゴリーツィア」とも記される。 標準イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。 ゴリツィア県概略図 位置・広がり[編集] ゴリツィア県東北端に所在するコムーネで、イゾンツォ川の流域であるヴァッレ・デル・ヴィパッツォ(ヴィパーヴァ谷) (Vipava Valley) の中心都市である。ゴリツィアの中心市街はイゾンツォ川の左岸(東岸)にあり、ウーディネの東南東33km、州都トリエステの北北西35km、スロベニアの首都リュブリャナの西70kmに位置する[10]。ゴリツィアの市街はスロベニアと国境を接している。 コムーネとしてのゴリツィアの領域はイゾンツォ川の両岸にまたがっている。 隣接コムーネ[編集] 隣接コムーネ(およびスロベニアの基礎自治体)は以下の通り。括弧内のSLOはスロベニア領を示す。 地勢[編集] 市域の中央を北東から南西へイゾンツォ川が流れる。北部には山脈が位置しており、市域最北端にある国境の山・サボティノ山(Monte

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高木広子 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “高木広子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) 高木 広子(たかぎ ひろこ、1972年4月7日[2] – )は、日本の美容研究家、化粧品会社「メリー・マリー」の経営者、元フジテレビのアナウンサー。 アナウンサー時代初期には、出生名である杉浦 広子(すぎうら ひろこ)で活動。後に活動名を、初婚後の本名である高木 広子へと改めた。2014年夏頃からは高木姓の使用も中止し、HIROKO名義で活動している。 来歴・人物[編集] 兵庫県姫路市で出生の後、4歳のときに東京都へ転居。本人は兵庫県を出身地としている[2]。日本女子大学附属中学校・高等学校、日本女子大学家政学部家政経済学科卒業。

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平重衡 – Wikipedia

平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。平清盛の五男。母は清盛の継室・平時子。三位中将と称された。 平氏政権の大将の一人として各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼亡させた。治承・寿永の乱(源平合戦)においては墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり、鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。 父の清盛は保元の乱、平治の乱を勝ち抜いて平氏政権を樹立。継室の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、治承3年(1179年)、23歳で左近衛権中将に進んだ。 だが、平氏の権勢の高まりは後白河法皇・院近臣との軋轢を生み、同年11月、清盛はクーデターを起こして院政を停止する(治承三年の政変)。この事件の際に重衡は後白河法皇への奏上を行う使者となっている。 翌治承4年(1180年)5月、以仁王の挙兵が起こり、重衡は甥の平維盛と共に大将軍として出陣した。この反乱は早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次いだ。8月に源頼朝が伊豆国で挙兵し、同年10月の富士川の戦いで平氏の追討軍を破り、関東を制圧した。さらに後白河院と密接につながる園城寺や、関白・松殿基房配流に反発する興福寺も公然と反平氏活動を始めた。 南都焼討[編集] 『平家物語』巻五「奈良炎上」の場面を描いた蝋人形。高松平家物語歴史館 重衡は清盛の命により、12月11日に園城寺を攻撃し寺を焼き払うと、12月25日に大軍を率いて南都(奈良)へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と般若寺に垣楯・逆茂木を巡らせて迎え撃つ。河内方面から侵攻した重衡の4万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫った。28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に東大寺大仏も焼け落ちた。『平家物語』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風に煽られて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。 この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。翌治承5年(1181年)閏2月4日、清盛は死去する。また清盛の後を追うかのように清盛の盟友的存在で舅だった藤原邦綱も同年の閏2月23日に薨去して重衡の後ろ盾も万全なものではなくなり、後に甥の清宗に一時期位階を抜かれる事になる。同年3月、大将軍として墨俣川の戦いに赴き、源行家・義円軍を破り、源氏の侵攻を食い止めた。ところが、寿永元年(1182年)9月には、重衡の郎従が従弟である平経正の郎従と衝突を起こしてしまう。これは、経正の父である平経盛が重衡の兄である宗盛に謝罪をしたことで収拾したが、平家一門の分裂を危惧させる事態となった(『吉記』寿永元年9月11日条)[2]。 一門都落ち[編集] 寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦いで平維盛の軍が源義仲に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされた。重衡も妻の輔子と共に都落ちした。 重衡は勢力の挽回を図る中心武将として活躍。同年10月の備中国・水島の戦いで足利義清を、同年11月の室山の戦いで再び源行家をそれぞれ撃破して源義仲に打撃を与えた。翌寿永3年(1184年)正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した源範頼と義経率いる鎌倉源氏軍によって滅ぼされた。この間に平氏は摂津国・福原まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していた。 だが、同年2月の一ノ谷の戦いで平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは『平家物語』では梶原景季と庄高家、『吾妻鏡』では梶原景時と庄家長とされる。重衡は京へ護送され、土肥実平が囚禁にあたった。後白河法皇は藤原定長を遣わして重衡の説得にあたるとともに、讃岐国・屋島に本営を置く平氏の総帥・平宗盛に三種の神器と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。 しかし『玉葉』の2月10日条によると、この交換は重衡の発案によるものであり、使者は重衡の郎党だった。 同年3月、重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手の前を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった。 元暦2年(1185年)3月、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。 最期[編集]

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天然理心流 – Wikipedia

この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2018年5月) 天然理心流(てんねんりしんりゅう)とは、日本の古武道の流派。剣術、居合術、小具足術(小太刀術)を含み、その他柔術、棒術(棍法と称する)も伝えた総合武術である。 江戸時代後期の剣客近藤内蔵之助が寛政年間(1789年 – 1801年)頃に創始した流派で、古武道としては比較的新しい。 剣術と居合は鹿島神道流(鹿島新當流)、柔術や小具足術、棒術は竹内流の系統である。門弟は剣術、柔術を別に学ぶ事が出来たようである。(つまり、剣術のみの皆伝、柔術のみの皆伝などもあったという事である)。棍法では、棒、半棒、中段の三種類の長さの棒を使った。なお、二代近藤三助や三代増田蔵六の出した伝書の表書きが『天然理心流棍法』になっているが、伝書の中では『棒』『半棒』と書かれており、棒、半棒、中段の技術を総称して棍法と呼んだようである。また棍法ではなく天然理心流棒術として伝えた系統もある。 技量に応じて入門から切紙、目録、中極位目録、免許、指南免許、印可と進み、指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来た。但し指導自体は免許等を得た時点で行われていたようである。 幕末期に近藤家四代目(試衛館)の近藤勇が新選組を結成した事で知名度を上げた。また、日野の名主の新選組後援者、甲陽鎮撫隊の佐藤彦五郎が学んだことも確認できる[1]。 初代及び二代[編集] 開祖近藤内蔵之助は遠江国出身といわれ、江戸に道場を構えたが、近隣の農村へ出向き指導したため、門下生の数は大変多くなった。二代目を近藤三助が継ぎ、江戸はもとより、現在の多摩地域や埼玉、神奈川まで広範囲に普及した。近藤内蔵之助には近藤三助以外の高弟に小幡万兵衛、主に柔術を伝承した戸田角内がいる。 近藤三助以降[編集] 二代目の近藤三助は、天然理心流の最後の免状である指南免許や印可を誰にも与えず46歳で早世した。そのため決まった後継者がいなかった。免許までを受けていた高弟たちは、その後天然理心流を各地で教授する事となった。また近藤三助の高弟の一部は、初代近藤内蔵之助の高弟である小幡万兵衛に改めて指導を仰ぎ、指南免許を受ける事となる。 各地で天然理心流を教授した近藤三助の高弟には以下のような人物がいる。 幕末期に近藤周助の養子である近藤家四代目近藤勇が京都で新選組を結成した事で知名度を上げた。また、桑原永助門弟の小野田東市が講武所剣術師範に採用されている。 明治維新以降[編集] 近藤家の系統[編集] 天然理心流は、師から口伝や免状を受ける事によって伝承するが、前宗家から免状を受けたのは四代目の近藤勇までである。近藤家五代目は近藤勇の婿養子である近藤勇五郎が継承し、1876年(明治9年)に撥雲館道場を開いた。 現在伝わる天然理心流の会派では、近藤勇五郎は、その当時存命であった多摩在住の師範より天然理心流を学んだとされている。ただし、現在の研究者間ではこの伝承には疑問が呈されている。現在残っている記録から、近藤勇五郎は天然理心流の形稽古はほとんど行わず、おもに竹刀稽古(撃剣)を行っていた事がわかっている。 近藤勇五郎の撥雲館道場に通っていたという(撥雲館の正式な門人ではなく三鷹の剣友会の所属であり、たまに撥雲館に来ていただけに過ぎないとも言われる)加藤伊助の系統は現在5派に分かれている。その内、門人会を主宰する平井正人と、近藤勇の生家である宮川家子孫で勇武館を主宰する宮川清蔵がともに近藤系宗家を名乗っている。また、同系の荒川治が剣究会を、中島陽子が撥雲会をそれぞれ主宰している。 近藤家以外の系統[編集]

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エボシドリ科 – Wikipedia

ウィキメディア・コモンズには、エボシドリ科に関連するカテゴリがあります。 エボシドリ科(エボシドリか、学名 Musophagidae)は鳥類エボシドリ目の唯一の科である。エボシドリ(烏帽子鳥)と呼ばれる。 エチオピア区(サハラ以南のアフリカ)の森林とサバンナに生息する。 頭部の上に目だつ冠羽があり、和名では烏帽子(えぼし)にたとえられる。 樹上に住み、巣も枝の上に小枝を重ねて作る。木の実を主食とする。 系統と分類[編集] エボシドリ目は aquatic and semi-aquatic birds 系統に含まれる[1][2]。姉妹群は不確実だが water birds(アビ目+ペンギン目+ミズナギドリ目+コウノトリ目+ペリカン目)と思われる。 伝統的にはカッコウ目エボシドリ亜目 Musophagi に分類されてきたが、狭義のカッコウ目(カッコウ科)とは異なり、托卵をせず、果実食で、雛は早生性である[3]。カッコウ目も aquatic and

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蓮舫 – Wikipedia

この存命人物の記事には検証可能な出典が不足しています。信頼できる情報源の提供に協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “蓮舫” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年9月) 蓮舫(れんほう、Lien-Fang、本名:齊藤 蓮舫〈さいとう れんほう〉、1967年〈昭和42年〉11月28日 – )は、日本の政治家。参議院議員(3期)、元タレント。元夫・村田信之との婚姻中の氏名は、村田 蓮舫(むらた れんほう)[注 1][注 2][4][5]。 菅直人内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、消費者及び食品安全)、内閣総理大臣補佐官。野田内閣で内閣府特命担当大臣(行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画)、公務員制度改革担当大臣を務めたほか、民主党幹事長代行、参議院東日本大震災復興特別委員長、民主党代表代行、民進党代表代行、民進党代表(第2代)、立憲民主党代表代行を歴任した。 来歴

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登別川 – Wikipedia

登別川(のぼりべつかわ)は、北海道登別市を流れ太平洋に注ぐ二級河川。登別川水系の本流である。上流のカルルス温泉や、支流クスリサンベツ川沿いの登別温泉があり、北海道屈指の温泉地となっている。かつては千歳川と呼ばれたことがある。 北海道登別市北東部のオロフレ峠南東の谷に源を発し、南に向かって流れる[1]。源流部のオロフレ峠直下は粘土質変質岩が露出した崩壊地形となっており北海道地質百選にも選定されている[2]。上流の途中にはカルルス温泉がある。中流で南南東に流れ変え深い渓谷を刻み、渓谷の終わり近くで支流のクスリサンベツ川を合わせる。下流では両岸に平地を作りつつも山の中を流れ、南から東に向きを転じて、登別市街の南で太平洋に注ぐ。温泉の影響により河口付近までわずかに硫黄の匂いが漂うことがある。上流ではマスが釣れる。 アイヌ語で「(水色の)濃い川」を表すヌプル・ペッが語源とされる[3]。最上徳内が1790年(寛政2年)に著した『蝦夷草紙』は、ノボルベツという川について記している。それによれば、川上でおびただしく湧き出る温泉の水が流れこむため、「白粉と紺青を掻き立てた」ような色に濁っていたという。現在の水色には変わったところはない。温泉街ができたせいかという[4]。 温泉水はクスリサンベツ川から来る。アイヌがヌプル・ペッと呼んだのはクスリサンベツ川との合流点より下流で、それより上流はペケレ・ペッといった[5]。日本語でもかつては合流点より上を千歳川と呼んだ。合流点の直前にある千歳水源から取水し、千歳浄水場を経て室蘭市と登別市に上水道を引いている。 登泉橋(2004年3月) 参考文献[編集] 山田秀三「北海道のアイヌ語地名十二話」、『アイヌ語地名の研究』第1巻所収、草風館、1982年。初出は『アイヌ民俗誌』、1969年。 山田秀三「北海道のナイとペッ その分布と意味」、『アイヌ語地名の研究』第1巻所収、草風館、1982年。初出は『アイヌ民俗誌』、1969年。 ウィキメディア・コモンズには、登別川に関連するカテゴリがあります。

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番組 – Wikipedia

番組(ばんぐみ)とは、 上演する演目とその順番および、それを記したもの(プログラム)。もともとは能および狂言の用語。寄席演芸、スポーツの試合(公営競技の競走など)の組み合わせ、だが放送、インターネットに関するプログラムは一般的に番組とは呼ばない。テレビ・ラジオなどの一般的な放送形態に限った呼称でありインターネットや映像制作などでの放送形態を取ってる団体は、委員会と呼ばれる。 放送番組[編集] 放送における番組を放送番組と呼ぶ。日本の放送法2条28号における放送番組の定義は「放送をする事項の種類、内容、分量及び配列」のことである。 放送番組の種別・分類の方法[編集] 放送番組は、その内容と対象などの性質によって様々に分類可能であり、放送波の違い、用途(調査、番組表記載など)によって様々である。 放送法5条では、「放送番組の種別」は「教養番組、教育番組、報道番組、娯楽番組等」としている。また106条では、各放送事業者において、各種別の「相互の間の調和」が義務付けられている。そして107条では、テレビジョン放送局において「放送番組の種別の基準」の公表が義務付けられている(例→[1][2][3])。 なお、教養番組と教育番組については法2条に内容の定義があるが、報道番組と娯楽番組についての定義はなく、特にテレビ番組の場合は、上記「放送番組の種別の基準」の自主公表に委ねられている。日本放送協会(NHK)では「等」を除いた各4種[1]、民間放送テレビ各局では4種に「通信販売」と「その他」を加えた6種を公表のための分類目安としている[2][3]。ラジオ放送局においても自主的に番組種別公表を行っている例がある[4]。 12条における「広告放送」=コマーシャルメッセージは、放送法の定める分類上の放送番組に含まれない。 配信番組[編集] インターネットにおける番組をインターネット番組、または配信番組と呼ぶ。 日本においては「放送番組」とは異なり、放送法の管轄には入らない。 視聴者による番組「実況」文化[編集] コンピュータネットワークやインターネットの普及と共に、2ちゃんねるなどにある各種実況板(電子掲示板)、Twitterなどのソーシャルメディアを利用して、放送や配信の番組をリアルタイムに視聴(聴取)しながらネット上で「実況」を行なう文化が生じ[5]、「実況」に特化したアプリケーションソフトが開発されるにいたった[6][7]。 関連項目[編集]

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和食駅 – Wikipedia

和食駅(わじきえき)は、高知県安芸郡芸西村和食甲にある、土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の駅。駅番号はGN31。なお、本項目では1974年4月1日に廃止され、同位置にあった土佐電気鉄道安芸線にあった同名の駅についても記述する。 交換設備を備えた相対式2面2線のホームを持つ、駅員無配置の高架駅である。駅舎はなく、直接ホームに上がる形になっている。1番線を上下主本線、2番線を上下副本線とした一線スルーとなっており、設備も両方向の入線・発車が想定されているが、すべての定期列車が停車するため、ホームは方向別に使い分けられている。 のりば[編集] のりば 路線 方向 行先 1 ■ごめん・なはり線 下り 後免・高知方面 2 ■ごめん・なはり線 上り 安芸・奈半利方面 ※上表の路線名は、旅客案内上の名称(愛称)で表記している。 駅からやや北方を国道55号が走っている。駅南方から太平洋を見渡すことができる。 芸西村営バス・久重・国光方面 イメージキャラクター[編集] 名称は「わじき

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