ローマの休日 – Wikipedia

ローマの休日』(ローマのきゅうじつ、原題:Roman Holiday)は、1953年製作のアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン。ウィリアム・ワイラーが製作・監督した。

イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出して一人でローマ市内に出たときに知り合った新聞記者との1日の恋を描いている。トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場する。

新聞記者をグレゴリー・ペック、王女をオードリー・ヘプバーンが演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。このほかイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、イアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞している。

ただし、本作の原案(ストーリー)は実際にはダルトン・トランボが執筆したものだった。当時のマッカーシー旋風による赤狩りでトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用したのである。アカデミー賞選考委員会は、1993年にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈している[3]

ストーリー[編集]

ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王位継承者であるアン王女は、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついに王女はヒステリーを起こしてしまう。

その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで、無防備にも路傍のベンチでうとうとし始める。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう[4]。眠くて仕方のない王女は、詩を朗読して寝てしまう[5]

翌日の昼になって、王女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。

王女は、市場での散策を楽しむ。まずサンダルを買い、美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとベスパに2人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々とスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都ローマで、自由を満喫するアン王女と新聞記者のジョーの気持ちは、次第に近づいていくのであった。

キャスト[編集]

製作決定[編集]

ダルトン・トランボが『ローマの休日』の原案(ストーリー)を書き、イアン・マクレラン・ハンターと共同で脚本を執筆したのは1940年代半ばごろで、元々フランク・キャプラが映画製作会社リバティ・フィルム社のために書かせたものである[6][7][8][9]。1948年にリバティ・フィルムがパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることに決まっていた[8]。この時、エリザベス・テイラーとケーリー・グラントに出演交渉されたが、パラマウントの予算が150万ドルと少なかったためキャプラは妥協できず、『ローマの休日』を放棄した[8][7][10]

その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーがこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった[6][8]

製作時にアメリカ本国では、ジョセフ・マッカーシー上院議員らによる「赤狩り」と呼ばれるマッカーシズムが吹き荒れ、非米活動調査委員会による共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でも「ハリウッド・テン」と呼ばれた人物たちがパージされた。本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが、本作の原案と脚本にその名前をクレジットした。

ウィリアム・ワイラー監督はこの映画の撮影はローマでロケをすると主張し、パラマウントも反対しなかった[7]。制作費を節約するために、パラマウント映画がイタリアで稼いだリラ(国外には持ち出せない)を制作費に充てられる、というのがその理由であった[6]

オードリー・ヘプバーンの起用[編集]

衣装テスト中のオードリー・ヘプバーン。

この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラーであった[6][8][7]。その後監督がフランク・キャプラからウィリアム・ワイラーに変わり、ヒロイン候補にはジーン・シモンズの名前が挙がった[8]。しかしジーン・シモンズと専属契約をしているハワード・ヒューズが貸し出しを拒否した[6][7]。グレゴリー・ペックも最初は出演を渋ったがワイラーが説得、出演を承諾した[7][9]。しかし予算の問題もあり、大スターを2人使うことは問題外であった[10]。インタビューでワイラーは「主役にグレゴリー・ペックを使えると決まって急に具体化しました。相手の王女役に大スターを使う必要がなくなったからです。そこで私は無名であっても王女の役にふさわしい娘さんを捜しにかかりました。」と答えている[11]

パラマウントの各海外拠点が何人か王女役を提案してきたが、シュザンヌ・クルーティエ (en:Suzanne Cloutier) とコレット・リペール (en:Colette Ripert) の2人が際立っていた[10]。それとは別に1951年7月パラマウント社ロンドン支社のリチャード・ミーランド製作部長は「『ローマの休日』の新しい候補、オードリー・ヘプバーンを発見した。『素晴らしき遺産』で彼女が演じた小さな役に感銘を受けた。」とニューヨークの事務所にヘプバーンを推薦した[12][9]。ロンドンに立ち寄ったワイラーはヘプバーンに会い「何か独特の個性を持っているという強い感銘を受け、早速カメラ・テストをすることにしました」と答えている[11]

当時、ヘプバーンは映画界では無名に近い存在であったが、その彼女をロンドンのパインウッド撮影所に呼んで1951年9月18日にスクリーン・テストを受けさせた[6]。監督はヘプバーンの希望で『初恋』の監督だったソロルド・ディキンソン[6]。他に俳優でライオネル・マートンとキャスリーン・ネズビットが出演した[12][9]。ワイラーはありのままのヘプバーンを評価するために、ベッドから起き上がるシーンのテストが終わってもカメラを回して撮影しておくように指示した[6][9]。テストが終わったと思い込み、笑顔で伸びをする自然なヘプバーンのフィルムを見たワイラーはヒロインに抜擢することを決めた[13][14][15]。シュザンヌ・クルーティエもテストを受けたが、明らかにヘプバーンが最善の選択であった[10]

この時、パラマウント社ロンドン支社のミーランド製作部長はヘプバーンにキャサリン・ヘプバーンと混同されるので改名してはどうかと打診している。その時彼女は「私をお望みなら、名前も採用してください」と答えている[9]

グレゴリー・ペックも彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等のクレジットを与えることをエージェントとスタジオに要求[6][8]。ヘプバーンは映画のタイトルの前に主演としてグレゴリー・ペックと共に載った[6][8]

しかし、彼女にはそれ以前に声がかかってブロードウェイで上演される『ジジ』の主役に抜擢されており、この後9月末に船でニューヨークに向かった[6]。『ジジ』は大好評で、パラマウントはオードリー・ヘプバーンを5月末で解放してくれるよう『ジジ』のプロデューサーに5万ドルを支払った[6][7]。『ジジ』はチケット完売のままでおよそ6か月の公演が続き、5月末に終了した[6][7]。『ローマの休日』の撮影に入ったのは主演に決まってから8か月後の1952年6月であった[6]

撮影[編集]

最終脚本が完成していなかったため、イギリスの脚本家ジョン・ダイトン英語版がローマへ渡り、撮影の間に脚本を書き、現場でワイラー監督と一緒にシーンを考案した[10]。ローマは使用可能なロケ地が多すぎるために、絶えず書き直しが必要なため、ダイトンは貴重な存在であった[10]。1953年に映画が公開された時には、脚本家のクレジットはハンターとダイトンが共有した[16]

しかしスタジオ撮影ではなく、ロケ撮影のため様々な問題が起きた[10]。この作品の撮影に入ったのは1952年夏であったが、ローマ市内の観光名所や公共施設で撮影するので、騒音対策、交通整理、パパラッチ問題に悩まされて、移動のたびに見物するファンの群れを整理する仕事はまさに悪夢であった[6][17][9][10]。このため撮影は遅れ、完璧主義者のワイラーが普段撮れる数のテイクが撮れなかった[10][9]。撮影監督のフランツ・プラナーは病気になり、撮影半ばでアンリ・アルカンに交代した[10]

またこの年の夏はローマにおいて例を見ないほどの猛暑で街全体がサウナ状態であった[17]。出演者はメイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップを直していた[17][6]。さらには政治的状況は危険と暴力に満ち満ちていた[17][6]。ファシストとコミュニストが激突し、突如爆発があったり、発砲騒ぎがあったりしていた[17]。ある時は撮影しようとしていた橋の下でテロリストによる5つの爆薬の束が見つかったりもした[6][17]。ローマ市内を2人がスクーターで走る場面は、この映画の代表的なシーンになったが、わずか3分のシーンであるのに撮影には6日間を要した[9]

それでもワイラー監督はロケ撮影がもたらす自由のおかげで生き生きしており、撮影現場はリラックスして楽しい雰囲気だったという[10]。エディ・アルバートは、全員があまりに楽しんでいたので、「金(出演料)を取るのが恥ずかしいほどだった」と語っている[10]

真実の口のシーンの撮影では、ペックとワイラーは一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた[6]。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、2人を十分満足させるものであり、1テイクでOKが出た[6]

ワイラーが唯一悔いを残したのが、テクニカラーで撮影しなかったことであった[6][7]。制作費を抑えるためにワイラーはモノクロで撮ることに同意し、「その誤りに気付いた時はすでに遅く、充分なカラーフィルムをイタリアに送る時間がなかった」と語っている[6][7]

エピソード[編集]

スペイン広場の時計
後景の教会の時計は11時25分を指している。
スペイン広場でのシーン

映画の中盤に、アン王女が市内に出て美容院で髪を短く切り、尾行してきた新聞記者ジョー・ブラッドレーが、スペイン広場で「偶然の再会」を装って、2人が語り合う場面がある。

上映時間にして2分にも満たないが、その時に階段下から撮ったカットで、後景に教会の鐘楼の下の時計が映っている。カットのたびに時計の針が大きく動いており、一度に撮影されたものではないことがわかる。

まず、アン王女が広場の階段の端に座っている時にジョーが声をかける最初のカットでの時計の針は8時10分で、9秒後に同じアングルでジョーがアンの横に座ろうとしたカットでは9時15分を指し、ジョーがアンの横に座った後にアップしたカットでは11時25分、そして一緒に市内観光に行こうと合意して立ち上がったカットでは10時20分を指している。

その他
  • 映画の途中でアン王女が髪をカットするシーンがあるが、昔の一部の本ではそれが本当のヘプバーンの髪だったと書かれているものがあった[18]。しかし『ローマの休日』のヘア・スタイリストだったグラツィア・デ・ロッシの息子で、撮影当時10歳で現場にも居たジャンネット・デ・ロッシが「あれはカツラだよ。何テイクも撮る監督だよ、もう一度と言ったらどうするんだい? あれは母がいくつもカツラを用意してたんだ。」と明かしている[19]
  • イギリスの女王エリザベス2世の妹マーガレット王女に関して、王女と民間人との恋の主人公として『ローマの休日』公開前に話題となったが、この恋は成就しなかった。そのため『ローマの休日』はこのことをモデルにしたのではと思われることもあるが、この映画の撮影は1952年であり、マーガレット王女の恋が公になったのは1953年である。このためこの映画のプロデューサーであったパラマウント社のライルズは明確に否定している。ただし、映画のプロモーションとしてこの事件が功を奏したことは否定していない。
  • 映画の中で、エディ・アルバートが演じるカメラマンが使用する、ライターで紙巻きたばこに火をつけるように見せかけて写真を撮る「ライター型写真機」は、日本製の「エコー8」である。
  • 劇中でヘプバーン演じるアン王女がジェラートを食べるシーンが撮影されたスペイン階段は、2019年7月から「観光客がゴミを散らかしているため」座ったり寝そべったりするのが禁止された。悪質な場合は最大で400ユーロ(約4万7000円)の罰金が科される[20]

日本初公開[編集]

『ローマの休日』の日本初公開は、1954年4月27日(東京地区)であったことになっているが、正確にはそれより6日早く、4月21日に長崎県佐世保市の「佐世保富士映画劇場」で先行して公開されている[21][22]。4月23日には名古屋市の「名古屋ミリオン座」で封切られ、28日間の興行で名古屋地区洋画興行界始まって以来の大入りとなった[21]。他の一部の地方都市でも、東京よりも早く公開されている。4月27日公開の東京の日比谷映画劇場では当初3週間の上映期間のところお客が減らずに延々と伸ばされ、最終的に5週間と3日となり、開館以来の新記録を打ち立てた[21][23][24]。大阪でも開館以来のヒットであった[23][24]。最終的には1954年公開の洋画での配給収入第1位になっている。

デジタル・ニューマスター版[編集]

2003年に映画製作50周年を記念してデジタル・ニューマスター版が発表された。原案のクレジットはイアン・マクレラン・ハンターからダルトン・トランボに変更されている。

日本では全国のテアトル系・ユナイテッド・シネマ系の劇場でリバイバル公開の後、DVDとVHSが販売された[25]

東京のテアトルタイムズスクエアで上映された時は大ヒット、テアトルタイムズスクエアの劇場前売り券新記録達成、観客動員数でも第1位になった[26]。その後『パッション』に抜かされたものの、2009年の閉館時でも歴代観客動員数第2位であった[27][28]。閉館の最終上映日の大トリも『ローマの休日』であったが、他の作品に先駆けて前売り券だけで完売していた[29]

デジタル・リマスター版[編集]

2020年には4Kフィルムからのデジタル・リマスター版ブルーレイが発売された(日本ではパラマウント映画の配給権・映像ソフト販売権を持つNBCユニバーサル・エンターテイメントから発売)。2003年のデジタル・ニューマスター版で変更された原案のクレジットに加えて、脚本のクレジットでもダルトン・トランボが追加されたため、脚本はダルトン・トランボ、イアン・マクレラン・ハンター、ジョン・ダイトンの3人の連名になっている。

賞歴[編集]

アカデミー賞
ゴールデングローブ賞
  • 主演女優賞:オードリー・ヘプバーン
英国アカデミー賞
  • 主演女優賞:オードリー・ヘプバーン
ニューヨーク批評家協会賞
  • 主演女優賞:オードリー・ヘプバーン
ヴェネツィア国際映画祭
  • 金獅子賞(作品賞):ウィリアム・ワイラー
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
バンビ賞
  • 主演女優賞:オードリー・ヘプバーン
  • 主演男優賞:グレゴリー・ペック
全米監督協会賞
全米脚本家組合賞
  • 脚本賞(コメディ部門):イアン・マクレラン・ハンター、ジョン・ダイトン
アメリカ国立フィルム登録簿
Online Film & Television Association

ランキング[編集]

『スクリーン』1955年5月号読者投票
『映画の友』1955年5月号読者投票
『キネマ旬報』1954年度外国映画
『映画の友』1964年5月号読者投票
大アンケートによる洋画ベスト150(文藝春秋編 1988年[30]
『キネマ旬報』(1989年)外国映画史上ベスト10
100万人の映画ファン投票「わが青春の一本」 NHK&JSB衛星映画マラソン365共同事務局編(1990年)
映画人・著名人が選んだわが青春の映画ベスト109本 NHK&JSB衛星映画マラソン365共同事務局編(1990年)
アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) アメリカ映画「情熱的な映画ベスト100」(2002年)
アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) アメリカ映画「10ジャンルのトップ10」(2008年)

日本語吹替[編集]

  • N.E.M.版は、様々な名画を現代の人気声優が吹き替える「New Era Movie」というプロジェクトによって製作されている。
  • 書籍『名作映画で声優アフレコトレーニング』付属DVD(雷鳥社)では、厳選した9シーンの映像で、アン王女を久川綾、渡辺明乃、恒松あゆみが、ジョーを藤真秀、野島健児、三木眞一郎が吹き替えている。

テレビ放送履歴[編集]

※地上波のみ表記。

回数 放送日 放送時間 放送局 番組枠 吹替
1 1972年4月7日 21:00 – 22:56 フジテレビ ゴールデン洋画劇場 フジテレビ版1
2 1974年4月19日 21:00 – 22:55
3 1976年3月5日 21:00 – 22:54
4 1979年11月11日 21:00 – 22:54 テレビ朝日 日曜洋画劇場 テレビ朝日版
5 1986年5月9日 21:00 – 22:51 日本テレビ 金曜ロードショー
6 1992年12月23日 21:00 – 22:54 TBS 水曜ロードショー TBS版
7 1994年1月15日 21:02 – 23:24 フジテレビ ゴールデン洋画劇場 フジテレビ版2
8 1996年12月8日 21:03 – 22:54 テレビ朝日 日曜洋画劇場 テレビ朝日版
9 2000年5月6日 21:00 – 22:54 フジテレビ ゴールデン洋画劇場 フジテレビ版2
10 2004年10月29日 21:03 – 23:24 日本テレビ 金曜ロードショー[33] 日本テレビ版
11 2005年12月24日 21:30 – 23:24 フジテレビ プレミアムステージ フジテレビ版1
12 2007年9月8日 3:00 – 4:50 テレビ朝日 テレビ朝日版
13 2009年3月21日 3:15 – 5:00 フジテレビ フジテレビ版1

著作権問題[編集]

本作は米国においては著作権が切れる前に保護期間が95年間に延長されており、2048年まで有効である。

日本においては、1953年(昭和28年)上映の映画作品は、2003年(平成15年)12月31日をもって「著作権法による著作権の保護期間が終了したもの」と解釈されたことから、2004年(平成16年)1月1日以降、いくつかの会社から格安DVDとしてリリースされた。パラマウント・ピクチャーズは、日本では著作権が存続していると主張して、販売差し止めと損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。2005年(平成17年)7月11日、一審の東京地方裁判所民事47部は、『ローマの休日』について「著作権の保護期間は終了した」としてパラマウント・ピクチャーズの主張を全面的に退け、パラマウント側の敗訴となった。パラマウントはこの東京地裁判決を不服として、東京高等裁判所に控訴したが「戦術の見直し」を理由に、東京高裁への控訴を取り下げ、東京地裁判決が確定判決となり、『ローマの休日』は、日本でパブリックドメインとして扱われることになった。

なおパラマウントが、同じ著作権の存続を理由に裁判で争っていた西部劇『シェーン』についても、一審・二審ともパラマウントは敗訴して最高裁に上告したが、2007年(平成19年)12月18日、最高裁が、パラマウント側の主張を退け、著作権は消滅しているとの確定判決が下されて、この著作権問題は決着した。

映画に登場した名所[編集]

「真実の口」:ここでのペックの演技は台本にない、ヘプバーンを驚かせるアドリブであった。
バルベリーニ宮殿
(クアットロ・フォンターネ通りに面した門)

「ローマの休日」を題材にした作品[編集]

翻案作品[編集]

テレビ映画

  • 『新・ローマの休日』1987年にアメリカで放映されたテレビ映画(日本ではビデオ発売のみ)。本作のリメイク作品。キャサリン・オクセンバーグが主演。

ノヴェライズ

漫画

  • 『ローマの休日』水野英子(1963年〈昭和38年〉発表の漫画化作品。祥伝社より単行本発売。)

舞台

  • ミュージカル『ローマの休日』制作:東宝、脚本:堀越真、演出:山田和也、音楽:大島ミチル、作詞:斉藤由貴
  • 演劇「ローマの休日」制作:梅田芸術劇場、脚本・演出:マキノノゾミ、脚本:鈴木哲也、アン王女・ジョー・アーヴィングの3人のみで演じられた。第36回菊田一夫演劇賞受賞。
  • タカラヅカ・シネマティック『ローマの休日』脚本・演出:田渕大輔

その他[編集]

映画

  • 『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年(昭和39年)、東宝製作・配給、出演:夏木陽介、星由里子、若林映子ほか)
    • 宇宙怪獣と地球怪獣連合の戦いと、セルジナ公国の王女[36]をクーデター派の暗殺者たちから守る刑事の暗闘が同時進行する中、王女と刑事の淡い恋が描かれている。
    • 王女役の若林映子はラストシーンについて、監督の本多猪四郎から「『ローマの休日』を意識してやってごらん」と言われ、「私もヘップバーンが大好きで、このときは頭の中でイメージして演じていました」と述べている[37]

ドラマ

  • 『ローマの休日』(1993年(平成5年)、TBS系列スペシャルドラマ、出演:田村正和、安田成美ほか)
    • ニュースキャスターがローマで皇太子の花嫁候補に瓜二つの女性と出会い恋をする恋愛ドラマ[38]

漫画

  • 『9番目のムサシ』高橋美由紀
    • 第2シリーズ「ミッション・ブルー」第4巻・「MISSION3」西アジア ダージェ王国皇太子アラム・アーレイ・アージェリア
  • 『COMBINATION』聖りいざ
    • 第1巻・「FILE3」パミス国第1王女 プリンセス・アーリエ・ヤスコ・エレオノーラ
  • 『シティハンター』北条司(週刊少年ジャンプにて連載。集英社。)
    • 第15巻「ハーレム地獄の巻」「TOKYOデート・スクランブルの巻」「王女誘拐!?の巻」「告白のエアポートの巻」セリジナ公国アルマ王女[36]
  • 『パタリロ!』
    • 第23巻6話目「王女様の一日」(パタリロ!93)

アニメ

  • 『サイボーグ009』(1979年版)
    • 第27話「美しく生きよ! 愛しき王女」モナミ王国キャサリン王女
  • 『シティーハンター2』
    • 第10話・第11話「モッコリ殺し!? 王女の高貴なオーラ 前編・後編」セリジナ公国アルマ王女(原作15巻収録エピソードのアニメ化)
  • 『ストライクウィッチーズ2』
    • 第5話「私のロマーニャ」 ロマーニャ公国第一公女 マリア・ピア・ディ・ロマーニャ (Maria Pier Di Romagna) :米澤円
  • 『機動戦士ガンダムUC』
    • ヒロインが名前を聞かれ、看板にあった「ローマの休日」をみて、とっさに「オードリー・バーン」と名乗る。

戯曲

外部リンク[編集]