藤原基家 (陸奥守) – Wikipedia

藤原 基家(ふじわら の もといえ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原北家道綱流、参議・藤原兼経の長男。官位は正四位下・陸奥守。

後朱雀朝の長暦4年(1040年)左近衛少将に任ぜられると、後冷泉朝の永承7年(1052年)頃まで10年以上に亘ってこれを務める。のち、左近衛中将を務めた。

民部大輔を経て、三河守・周防守と後三条朝から白河朝にかけて地方官を歴任する。後三年の役の翌年である寛治2年(1088年)陸奥守・源義家の後任を藤原永清と争い、基家が任ぜられた。寛治6年(1092年)5月から6月にかけて陸奥国最大の在地勢力である藤原清衡に合戦の企てが見える旨を朝廷に報告した[1]。翌寛治7年(1093年)8月15日に任国において卒去。最終官位は陸奥守正四位下。享年70歳ほどとされる。

『尊卑分脈』による。

  1. ^ 『中右記』寛治6年6月3日条(増補史料大成『中右記』一85頁)。『中右記』で清衡は「清平」と書かれる。また、6月3日の日記で「近日」の国解とあるので、事実はそれより少し前。さらに伝達日数まで計算に入れると、基家が解を発したのは5月であろう。
  2. ^ a b 『春記』
  3. ^ 『山槐記』建久3年11月20日条
  4. ^ 『尊卑分脈』
  5. ^ 『定家朝臣記』
  6. ^ 『大記』
  7. ^ 『親王御元服部類記』
  8. ^ 『後二条師通記』(大日本古記録『後二條師通記』上181頁)
  9. ^ 『中右記』(陽明文庫本)寛治7年9月14日条