長命寺 – Wikipedia

この項目では、滋賀県にある西国三十三所の長命寺について説明しています。その他の用法については「長命寺 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 三重塔(重要文化財) 本堂(重要文化財) 長命寺(ちょうめいじ)は、滋賀県近江八幡市長命寺町にある天台宗系単立の寺院。山号は姨綺耶山(いきやさん)。本尊は千手観音、十一面観音、聖観音の三尊を千手十一面聖観世音菩薩としたもの[1]。聖徳太子の開基と伝わる。西国三十三所第31番札所。 2015年(平成27年)4月24日、「琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 」の構成文化財として日本遺産に認定される[2]。 本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか ご詠歌:八千年(やちとせ)や柳に長き命寺(いのちでら) 運ぶ歩みのかざしなるらん 琵琶湖畔にそびえる長命寺山(標高333m)の南西の山腹標高240m辺りに位置し、麓から本堂に至る808段の長い階段で知られる。かつての巡礼者は、三十番札所の竹生島宝厳寺から麓の港(標高87m)に船で上陸し長命寺に参詣した。 伝承によれば、第12代景行天皇の時代に、武内宿禰がこの地で柳の木に「寿命長遠諸願成就」と彫り長寿を祈願した。このため宿禰は300歳の長命を保ったと伝えられる。その後、聖徳太子がこの地に赴いた際、宿禰が祈願した際に彫った文字を発見したという。これに感銘を受けてながめていると白髪の老人が現れ、その木で仏像を彫りこの地に安置するよう告げた。太子は早速、十一面観音を彫りこの地に安置した。太子は宿禰の長寿にあやかり、当寺を長命寺と名付けたと伝えられている。その名の通り、参拝すると長生きすると言い伝えられている。 実際の創建年次や創建の事情については未詳であり、確実な史料における長命寺の寺号の初見は、承保元年(1074年)3月2日付の「奥島庄司土師助正畠地寄進状」という文書である[3]。 元暦元年(1184年)、佐々木定綱が戦死した父佐々木秀義の菩提を弔うために、三仏堂を建立したのを皮切りに、平安時代後期に仁王門、本堂、鐘楼、太子堂、護摩堂、宝塔などを建立し、伽藍が整った。鎌倉時代を通じて近江守護佐々木六角氏の崇敬を受けている。 長命寺には中世以降の文書が豊富に残されている[4]。それによると、中世の長命寺は比叡山延暦寺西塔の別院としての地位を保ち、室町時代に入っても変わらずに守護六角氏の崇敬と庇護を受けて栄えた。 しかし、永正13年(1516年)、六角高頼と伊庭貞隆の対立による兵火・伊庭氏の乱により伽藍が全焼する。現存する堂宇は室町時代から江戸時代初期にかけて再建されたものである。

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井出千草 – Wikipedia

いで ちぐさ 井出 千草 プロフィール 出身地 日本・北海道札幌市 生年月日 (1976-09-28) 1976年9月28日(45歳) 血液型 O型 最終学歴 東洋英和女学院大学院 職歴 NHK契約キャスター→秋田テレビアナウンサー ジャンル 報道・情報 出演番組・活動 出演中

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フランク・スタージス – Wikipedia

フランク・スタージス フランク・アンソニー・スタージス(Frank Anthony Sturgis、フランク・フィオニ、Frank Angelo Fioniとして知られる、1924年12月9日 – 1993年12月4日)は、元アメリカ軍兵士でウォーターゲート事件での侵入犯のうちの1人。 プロフィール[編集] バージニア州ノーフォーク生まれ。第二次世界大戦中の1942年に海兵隊予備役に入隊、1945年の終戦後に名誉除隊。1948年に海軍予備役。1950年に陸軍に入隊し西ドイツ駐在。1952年9月23日に「フランク・スタージス」と改名。 1958年に、フルヘンシオ・バティスタ政権下のキューバ軍の諜報部勤務。1959年のキューバ革命後に反カストロのビラをまく。1961年の「ピッグス湾事件」でCIAエージェント、サム・ジェニスと接触。CIAのメモによれば、キューバにおけるビラの配布にスタージスの関与があったとされる。1972年に、「スタージスがマイアミで、(親カストロ派で、ジョン・F・ケネディ大統領の暗殺犯とされる)リー・ハーヴェイ・オズワルドと殴り合った」というFBIの報告書が提出された。 同年に、バーナード・バーカーによって、その後ウォーターゲート事件で有罪判決を受けたリチャード・ニクソン大統領再選委員会職員のエドワード・ハワード・ハントに紹介される。ウォーターゲート事件への関与はその項を参照。 1977年5月7日に、「サンフランシスコ・クロニクル」紙とのインタビューで「ウォーターゲートビルへの侵入目的は、ハワード・ヒューズが民主党全国委員会の資金調達に関係していたかを探る調査のためだった」と主張した。 関連項目[編集] キューバ革命 典拠管理 FAST: 1929345 LCCN: no2010084400

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いつものところ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “いつものところ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年10月) この記事の主題はウィキペディアにおける独立記事作成の目安を満たしていないおそれがあります。目安に適合することを証明するために、記事の主題についての信頼できる二次資料を求めています。なお、適合することが証明できない場合には、記事は統合されるか、リダイレクトに置き換えられるか、さもなくば削除される可能性があります。出典検索?: “いつものところ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年4月) いつものところは同人ゲームサークル。ゲームデザイナー/シナリオライターの柊★たくみ(ひいらぎ・ぼし・たくみ)とイラストレーターの宝城芯哉(ほうじょう・しんや)によるユニット。 2001年に『サユリの誤』を発表してからはテーブルゲームに力を入れるようになったが、2004年4月に発表した『D・クレイジー!』以降は再びアドベンチャーゲーム路線に戻している。

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膀胱鏡検査 (非細菌性慢性膀胱炎) – Wikipedia

膀胱鏡検査(ぼうこうきょうけんさ)は、非細菌性慢性膀胱炎の診断のための検査。 膀胱鏡検査以外に信頼性の高い診断結果を得られる検査はないが、行わない泌尿器科医が少なくないため問題となっている。 検査前処置として、キシロカンゼリーという粘膜麻酔剤を尿道から注入する。 非細菌性慢性膀胱炎では次のような膀胱の所見が得られる。 膀胱粘膜濾胞状変性[編集] 女性ホルモン低下によって起きる膀胱粘膜の変性で一番多いのが濾胞(ろほう)状変性である。 膀胱粘膜、特に膀胱三角部の粘膜が写真で示すように、小さな水泡(濾胞)が付着しているように観察できる。 膀胱粘膜ビロード状変性[編集] 若い女性で一番、目にするのが、このビロード状粘膜変性である。 膀胱三角部の粘膜表面が、細かい顆粒状変性として観察できる。 膀胱粘膜白苔変性[編集] 膀胱粘膜に白いコケ(白苔:はくたい)のように見えるのが粘膜白苔変性である。この写真はそれぞれ別の女性の写真である。 過去には、膀胱の白斑症、ロイコプラキーLeucoplackyと称し、膀胱腫瘍の前癌状態として内視鏡手術を行っていたこともある。 膀胱出口ポリープ[編集] 非細菌性慢性膀胱炎では、膀胱粘膜の所見ばかり目が行くが、膀胱の出口すなわち膀胱尿道移行部に炎症性ポリープなるものが多数出現する。

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エフゲニー・ムラヴィンスキー – Wikipedia

出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2019年11月) エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキー(エヴゲーニイ・アレクサーンドロヴィチ・ムラヴィーンスキイ;ロシア語:Евгений Александрович Мравинский, イヴギェーニイ・アリクサーンダラヴィチュ・ムラヴィーンスキイ;ラテン文字転写の例:Evgeny Aleksandrovich Mravinsky、1903年6月4日[注釈 1] – 1988年1月19日)は、ロシアの指揮者。20世紀におけるソ連・ロシア・東側諸国指揮界の第一人者であり、世界でも有数の指揮者の一人に挙げられる。 人物・来歴[編集] 伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。人物の伝記は流れのあるまとまった文章で記述し、年譜は補助的な使用にとどめてください。(2019年11月) レニングラード・フィルの常任指揮者として[編集] この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “エフゲニー・ムラヴィンスキー” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp ·

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火曜会 – Wikipedia

火曜会(かようかい)は、戦前の貴族院における院内会派。公爵及び侯爵議員の親睦を目的として結成され、徳川家達・近衛文麿・徳川圀順・徳川家正の計4名の貴族院議長を輩出した。 1927年11月12日に研究会の統制主義的な運営に不満を抱いた近衛文麿ら6人の公爵・侯爵が離脱、11月29日に無所属の徳川家達・細川護立・木戸幸一らを加えて計21人の公爵・侯爵による親睦団体として結成される。翌1928年3月14日に更に5人の侯爵を加えて院内交渉団体(25名以上)としての資格を得た。政党の党議拘束以上とまでいわれた厳格な統制を行った研究会のありかたに対する反省から「是々非々」「政見不拘束」「一人一党」を掲げたが、 公武合体の如く旧武家と公家の最高位の名門である徳川家・近衛家の両当主を擁していたために結束力が固く、最大で46議席(全ての公爵・侯爵の8割に相当)を得て第3会派となった。その一方で、公爵・侯爵以外の議員の加入を認めなかったために、それ以外の議員からは反感を買ったという。 田中義一内閣批判や、1920年代後半から1930年代にかけて論じられた貴族院改革の提唱などで活躍し、上記の貴族院議長4人を輩出したほか近衛が3度にわたり内閣総理大臣に就任したが、1947年5月2日の日本国憲法公布に伴う貴族院の廃止で解散した。 関連項目[編集]

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ヴォルプスヴェーデ – Wikipedia

ヴォルプスヴェーデ (ドイツ語: Worpswede, ドイツ語発音: [vɔrpsˈveːdə][2], 低地ドイツ語: Worpsweed) は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州オスターホルツ郡に属す町村である。この町は、ブレーメンの北東、ハンメ川(ドイツ語版、英語版)に面しており、トイフェルスモーア(泥湿地)の中に位置している。この町は州の保養地に指定されている。町は平地に囲まれた高さ 54.4 m の丘陵ヴァイヤーベルク沿いに位置する。最初の入植は青銅器時代にまで遡る。 この町は芸術家の生活・創作共同体としてのヴォルプスヴェーデ芸術家コロニー(ドイツ語版)で知れられている。ヴォルプスヴェーデ芸術家の家奨学金機構は、2009年までドイツ最大級の奨学金団体の1つであった。ヴォルプスヴェーデには数多くの文化施設やギャラリーがある。 自治体の構成と町村合併[編集] 現在の自治体ヴォルプスヴェーデの町域には、元々23の村落があり、それぞれが独立した自治体を形成していた。1920年代と1936年に多くの自治体が合併し、自治体の数は8町村にまで減少した。1974年3月1日に他の7つの町村がヴォルプスヴェーデに合併した[3]。この8つの旧町村は現在ヴォルプスヴェーデのオルトシャフト(地区)を形成している[4]。 ヴォルプスヴェーデ(ベルゲドルフ、ノルトヴェーデ、ジュートヴェーデ、ヴァイヤーデーレン、ヴァイヤーモーア、ヴェルペダール、ヴォルプハイムを含む) ヒュッテンブッシュ(フュンフハウゼン、ホイドルフ、ヒュッテンドルフを含む) メーヴェンシュテット ノイ・ザンクト・ユルゲン オスターゾーデ(マイナースハーゲン、ノルトゾーデを含む) シュルースドルフ ユーバーハム

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下深谷駅 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “下深谷駅” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年2月) 下深谷駅(しもふかやえき)は、三重県桑名市大字下深谷部にある、養老鉄道養老線の駅である。 構内を大垣方から見る 島式ホーム1面2線を有する地上駅。駅舎は大垣寄り東側にあり、ホームへは構内踏切で連絡している。 有人駅で、各種乗車券類を発売する出札窓口がある。 下深谷駅プラットホーム ホーム 路線 行先 (駅舎側) ■養老線(上り) 桑名方面

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エレフテリオス・ヴェニゼロス – Wikipedia

エレフテリオス・ヴェニゼロス(Ελευθέριος Βενιζέλος, 1864年8月23日 – 1936年3月18日)は、ギリシャの政治家。20世紀前半のギリシャを代表する政治家のひとりで、9期、12年に渡って断続的に長期間首相を務めた。ヴェニゼロスはヨーロッパの政治の舞台で活躍した数少ないギリシャ人政治家であり、イギリスの外交官ハロルド・ニコルソンは「ヴェニゼロスとレーニンだけがヨーロッパにおける偉大な政治家である」と評した[1]。また、ギリシャがバルカン半島の政治における主導的勢力となったのもヴェニゼロスの手腕に依るところが大きい[2]。 幼年時代[編集] 父キリアコス(左)母スティリアニ(右) 1864年、当時、オスマン帝国領クレタ島のハニアで雑貨商の父キリアコス、母スティリアニの五番目の子として生まれた[# 1]。1866年から1872年にかけてギリシャ領のシロス島で暮らしたが、この時期にギリシャ国籍を取得したと言われる[4]。 ヴェニゼロスはアテネとシロス島のギムナジウムで学んだ後、父の意向にしたがってクレタ島に戻り商売の修行を積んだが[# 2]、父キリアコスの友人でギリシャの在クレタ総領事であったゲオルギオス・ジコマラス(el)はヴェニゼロスの聡明さに気づいており、父キリアコスを説得、アテネ大学法学部で学ぶことになった[5]。 ヴェニゼロスの生家 1883年父キリアコスが死去するとアテネとクレタを往復して商売を続けながら家庭の面倒を見ていたが、1885年に経済状況が安定するとアテネに戻り、学業に専念した。1886年にイギリスの政治家ジョゼフ・チェンバレンがアテネに立ち寄った際、イスタンブルのある著名なギリシャ人によるとクレタ島の人々がオスマン帝国からの離脱こそ望んでいるがギリシャへの統合は望んでいないと語っていたという話をアテネの新聞に述べた。これを聞いたクレタ島出身のアテネ大学学生ら5人がチェンバレンに意見するために面会を申し出たが、その中の代表がヴェニゼロスであったという。ヴェニゼロスはチェンバレンにクレタ島の人々がギリシャへの統合を望んでいることを雄弁に語り、チェンバレンはこれに感心したと言われている[# 3]。1887年には大学を卒業、クレタ島で弁護士を開業するとともに新聞「レフカ・オリ(el)」の編集、発行も行い、クレタ島の人々がまず団結して平和的状況をつくりそののちにギリシャへ統合すべきと説いた[7]。 地方政界へ[編集] クレタ蜂起に参加したアクロティリにおけるヴェニゼロス(1897年) 1889年にヴェニゼロスはクレタ議会の議員に選出された。ヴェニゼロスはクレタ島をギリシャに統合するにはあまりにもギリシャ軍の近代化が進んでいないため、まだその時期にあらず、ヨーロッパ列強の助言を受けた上でチャンスを掴んで上手く行動すればクレタ島はギリシャに統合されると考えていた。ただ、これはクレタ島の統合に慎重なわけではなく1896年に発生したクレタ蜂起(el)の際にヴェニゼロスは指導者の一員として参加していた。ただし、この蜂起でクレタ島が即ギリシャに統合されるという夢物語は考えておらず、あくまでもこの蜂起を外交的に利用できると見抜いてのものであった。現にヨーロッパ列強がクレタ蜂起参加者が掲げていたギリシャの国旗に砲撃を加えた時、同じキリスト教を信仰するものがイスラムからの解放を目指すキリスト教徒を攻撃したとして欧米に大きな衝撃を与えた。その結果、クレタ島のギリシャ正教徒らは交渉相手として認められ、ヴェニゼロスも交渉団の一員として参加したが、これは1897年4月に希土戦争が発生すると打ち切られた[8]。 エレフテリオス・ヴェニゼロス(1903年) クレタ島に帰った後、1897年に起こったオスマン帝国に対する反乱運動に参加した。この結果クレタ島への自治付与に帰結すると、クレタ島にはギリシャ王国のゲオルギオス王子が総督に任命され、ヴェニゼロスはその下でクレタ島高等弁務官の参事官として働いた[9]。 しかし、ゲオルギオス王子の統治は小心翼翼に見えたことからヴェニゼロスは「エノシス」を呼びかけ、臨時国民議会を招集、その結果、ゲオルギオスは総督を辞任し、元首相のアレクサンドロス・ザイミス(el)が後任となった。ヴェニゼロスはこのとき、クレタ島統合のための政府首班に任命され、1908年10月、オーストリア=ハンガリー帝国がボスニア=ヘルツェゴビナを併合するとクレタ島議会は「エノシス」を宣言、5人からなる統治委員会、五人委員会が結成され、ギリシャ国王ゲオルギオス1世の名のもとに統治を開始した[10][11]。

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