ベーシスト – Wikipedia

 ブーツィ・コリンズin Germany, 1998 ベーシスト(Bassist)またはベースプレイヤー(Bass player)は、ベースを演奏するミュージシャンである。ベースにはダブルベース(コントラバス)やエレクトリックベースなど様々な種類があるが、奏者は一様にベーシストと呼ばれる。ベーシストはロック、ファンク、R&B、レゲエ、ジャズなど、多くの音楽ジャンルで演奏を行う。またベーシストは、ドラマーとともにリズム隊としてビートを支える役割を担っている。 エレクトリックベースは1940年代後半に開発され、その後ファンク、R&B、ソウルミュージック、ロック、レゲエ、ジャズ/クロスオーバー、フュージョン、ハードロック/ヘヴィメタル、ポップ・ミュージックのリズム楽器として使用されるようになった。またアコースティック楽器であるダブルベース(ウッドベース)は、ジャズ、クラシック音楽、フォーク、ブルーグラス、ロカビリー、ネオロカビリー、カントリーのリズム楽器だった。チューバやスーザフォンなどの低音金管楽器は、ディキシーランド・ジャズやニューオーリンズ・ジャズのバンドのベースとして機能した。 ブーツィー・コリンズ[2]、ラリー・グラハム[3]、フレッド・トーマス[4]、ロバート・クール・ベル[5]、マーシャル”ロック”ジョーンズ[6]、バーナード・エドワーズ[7]、アンディ・フレイザー[8]、メル・サッチャー[9][10]、ビル・ワイマン、ポール・マッカートニーらはエレクトリックベース・ギターを使用した。ストレイ・キャッツのリー・ロッカーら、ネオロカビリー・バンドのベーシストは、ダブルベース(コントラバス)を使用した。 著名なベーシスト[編集] 関連項目[編集] ウィキメディア・コモンズには、ベーシストに関連するカテゴリがあります。 ^ http://noisey.vice.com/en_uk/blog/jaco-pastorius-is-the-most-important-musician-youve-never-heard-of ^ ジェームス・ブラウン、パーラメント、ファンカデリックなどのベースを担当した ^ スライ&ザ・ファミリー・ストーン、グラハム・セントラル・ステーションのベーシスト ^ liner-notes by Alan

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伊倉一恵 – Wikipedia

伊倉 一恵(いくら かずえ、1959年3月23日[5] – )は、日本の女優、声優、ナレーター[6]。長野県上田市出身[2][3]。青二プロダクション所属[2]。 東京俳優生活協同組合、ぷろだくしょんバオバブ、なべやを経て、青二プロダクションに所属[7]。愛称は「カズさん」。 1991年4月から1995年2月まで、伊倉 一寿(いくら かず)の芸名で活動していた[7]。 身長155cm[5]、体重50kg(いずれも公称)、血液型はO型[4]。趣味はスキューバダイビング、水泳、スキー[2]、テニス[8]。 長野県上田市で生まれ育つ。母親の薦めで上京し、俳協付属養成所に入所。養成所7期生。2年後に東京俳優生活協同組合に所属。初仕事はニッポン放送のスラップスティックのラジオ番組『ウルトラアニメ』。1979年に『まんが猿飛佐助』の女忍者役で声優デビュー[7][9]。 養成所の卒業公演から舞台を志向し始め、1980年から手塚敏夫が主宰する劇団「-劇舎(SHIBAIYA)-燐」に所属し、多い年には年に6度のペースで公演に参加。当初は舞台活動を中心にし、拘束時間が少ない声優業をアルバイトとして行っていた[7]。 1981年放送の『まんが 水戸黄門』のお琴が初のレギュラー作品[9]。これをデビュー作とすることもある[5]。 1985年に「-劇舎(SHIBAIYA)-燐」を退団し、25歳頃より本格的に声優業を始める、1987年に『シティーハンター』の槇村香役を獲得し、これが出世作となる[7][10]。 1988年には『魔神英雄伝ワタル』で虎王(翔龍子)を演じ、主人公の戦部ワタル役の田中真弓との出会いを得て、一時は田中とともに渡辺正行の芸能事務所なべやに所属。田中からの刺激で再び舞台活動をしようと、1993年に『魔神英雄伝ワタル』の監督井内秀治を座付き作家に迎えた劇団「アトリエいっぽんの木」を旗揚げした[7]。 1989年には声優仲間の神代知衣、坂本千夏とコーラスグループの「GALLOP」を結成[5][11]。 1990年7月から放送の『ロビンフッドの大冒険』ではロビンフッド役でテレビアニメ初主演を果たし、続けて10月からは『三つ目がとおる』では写楽保介役と立て続けに主役を演じた。ゲームでは、1992年発売のRPG『天外魔境II 卍MARU』の戦国卍丸役で主演した。 『サクラ大戦シリーズ』ではレニ・ミルヒシュトラーセ役で出演しているほか、『サクラ大戦歌謡ショウ』を始め一部の楽曲でコーラス・アカペラの編成・編曲もしており、アカペラの編成をする際は選曲や全パート分の仮歌なども担当していた[12]。ピアノやアコースティックギターなど楽器の演奏も披露している。

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鷲 (トールキン) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “鷲” トールキン – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年11月) この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2017年1月) 鷲(わし、Eagles)は、J・R・R・トールキンの小説、『シルマリルの物語』、『ホビットの冒険』、『指輪物語』に登場する生物で、ヴァラールの一人マンウェの思いによって創られた高貴で強力な生き物である。[1]映像作品では一切表現されていないが、自由の民の言語を話すこともできる。イスタリのガンダルフとは共にマンウェに仕える者としても共通しており、度々協力をする場面がみられた。 火を噴くことはないがその力は竜に匹敵したと言われ、眼光は冥王モルゴスの生み出す漆黒の闇以外のすべてを射抜くとも言われた。上古の時代の鷲の王ソロンドールは翼幅が約54.86m(180フィート)にも達したといわれ、モルゴスの顔を傷つけ「怒りの戦い」を生き延びるなど類いまれなる猛者でもあった。第一紀において顕著な活躍がところどころで見られ、トゥアゴンなどエルフの友としてあり続け、伝聞役やスパイとして機能した。彼らのおかげで、オークなどはゴンドリンに近づけなかった。[2]ソロンドールを始めとする上古の者たちは超絶な大戦「怒りの戦い」の後に不死の国に渡ったとされる。第二紀では、二羽の大鷲たちがヌメノールの監視役として置かれ、ヴァラールへの謀反までその役を続けた。「Three Prayers」の祭りの最中にも、その上空を舞い続けたという。[3]また同時に、メネルタルマの山頂の巡視も務めていたとされ、誰かしら山頂に至るとすぐさま三羽の大鷲たちが現れたという。なお、滅び行くヌメノールの行き着く先と運命、ヌメノールの民の態度を警告するため、ヴァラールが大鷲の形状をした嵐雲を送ったこともあった。[4] 第三紀の折、『ホビットの冒険』では「鳥の王」とその一族が、『指輪物語』の時代では風早彦グワイヒアが鷲達の長、その弟のランドローヴァルと部下のメネルドールなどが隊のメンバーなどとして登場する。グワイヒアは第三紀では最大の個体の一であったにもかかわらず、上古の時代の鷲たちのうち最も小さい者よりもさらに小さかったが、それでもたやすく人を乗せて何リーグも飛べるほどの大きさであった。かれおよびかれの兄弟・仲間達は指輪戦争の折、援軍として駆けつけている。 ^ しかしクウェンタ・シルマリルリオン第一章には『鷹や鷲の姿をとった精霊たちが、絶えずかれ(マンウェ)の宮居に飛び来り飛び去っていった。』とあり、彼らがマイアールであるかのような描写もある。大鷲の出自はトールキン自身も決め兼ねていたと思しい。 ^ J.R.R. トールキン, クリストファー・トールキン,

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浅井企画 – Wikipedia

株式会社浅井企画(あさいきかく)は、日本の芸能事務所。所在地は東京都品川区東五反田。 1968年9月、中川プロダクションで三木のり平や八波むと志のマネージャーを務めていた浅井良二が、当時無名だった萩本欽一と坂上二郎の才能を見抜き、彼らをマネジメントするために設立した会社である。萩本と坂上がコンビを組んだコント55号は爆発的な人気を呼び、日本の芸能史において一時代を築くとともに、同社も一躍業界の注目を集める存在となっていった。しかし1978年、当時浅井企画にとってイチ押しの美形アイドルであった木之内みどりがドラマ、および本業である歌手としての目が出て[1]まさに人気絶頂の時に、歌手キラーと称されたベーシストで妻帯者の後藤次利のいるニューヨークへと逃避行する大事件が発生。世間はもちろん、歌謡界並びにアイドル界にもここまでの前例がなかったことから衝撃を与えた。帰国後直ぐに引退したため浅井企画は多額の違約金を抱え倒産の危機を迎えたが、萩本欽一が新たに仕事を引き受けることによって立て直しを図る。同社はその後、小堺一機や関根勤、キャイ〜ンなど数多くの人気芸人を育て上げ、「人間味あふれるお笑いのプロ集団」として成長した結果、関根麻里、ずん、イワイガワ、流れ星、どぶろっく、ANZEN漫才らの人気が定着[2][3]。また、お笑いタレントのみならず、俳優・文化人・構成作家などもマネジメントし、番組・舞台・映画の企画製作やキャスティングも行なっている。 2018年9月に同社は創業50周年を迎えたが、同年10月、創業者で代表取締役を務めてきた浅井良二が死去[4]、代わって子息の浅井良一常務[5]が代表取締役に就任した。 所属タレント[編集] 過去の所属タレント/ユニット(故人を含む)[編集] 映画製作作品[編集] キャスティング・企画協力作品[編集] 舞台公演[編集] 定期ライブ[編集] 55☆NEXT!!(新宿バティオス、基本毎月第1金曜日開催[6]) 54☆FIGHT!!(新宿バティオス、基本毎月第1金曜日開催[7]) 53☆DASH!!(新宿バティオス、基本毎月第1金曜日開催) 20☆YOUNG!!(新宿バティオス、基本毎月第1木曜日開催) お笑いダイナマイトショー(年1回開催) 関連項目[編集] 浅井音楽出版 欽ちゃん劇団 萩本企画 佐藤企画(同社元マネージャー・佐藤宏榮により設立、業務提携) 山中企画(同社元所属構成作家・山中伊知郎により設立、業務提携)

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笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ – Wikipedia

『鹿島Presents 笑福亭鶴瓶 日曜日のそれ』(かじまプレゼンツ しょうふくていつるべ にちようびのそれ)は、2003年4月6日からニッポン放送で放送されているラジオ番組。 パーソナリティは落語家の笑福亭鶴瓶。 かつてニッポン放送では兄弟子の笑福亭鶴光が『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』や『鶴光の噂のゴールデンアワー』を担当しており、その間の出演は一切なく、鶴瓶にとって初めてのニッポン放送レギュラー番組である。 放送時間[編集] 毎週日曜日 16:00~17:30 2011年4月10日から2012年9月30日までは17:20まで放送。 番組内では70年代のフォークソングを中心に幅広いジャンルの音楽を流している。 「社長さんのそれ」のコーナーでは電話した相手に対し、芸名ではなく本名の「駿河」を名乗る。 番組スポンサーは開始後1年はNTTコムウェア一社提供だったが、2004年4月4日放送から鹿島建設(提供クレジットは「鹿島」)の一社提供に変更となった。 基本的に録音放送であるが、2020年春頃から生放送の頻度が高くなっている。生放送の場合は、有楽町のスタジオで上柳と進行することもあるが、ほとんどの場合、鶴瓶は大阪市北区のニッポン放送関西支社会議室にその都度設営される臨時のブースからリモート出演し、有楽町のスタジオにいる上柳と進行する。 16時台終盤[1] に約5分間ニッポン放送ニュース・天気予報・交通情報が挿入(2021年10月時点で内田雄基が担当)。 番組ディレクターは、元ニッポン放送アナウンサー・ディレクターのくり万太郎(高橋良一)[2]。 2015年頃からは上柳昌彦(元ニッポン放送アナウンサー[3])が鶴瓶のアシスタント的役割で頻繁に出演している。 同じくアシスタント的役割でニッポン放送の女性アナウンサー(東島衣里、箱崎みどり等)が出演することもある。 アナウンサーの都合がつかない場合は、くり万太郎がアシスタント的役割で出演することがある。

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金英大 – Wikipedia

北朝鮮の政治家 金英大 김영대 生年月日 (1937-12-12) 1937年12月12日(84歳) 出生地 日本統治下朝鮮 咸鏡南道 出身校 金日成総合大学 所属政党 朝鮮社会民主党 称号 金正日勲章 最高人民会議代議員 当選回数 6回 在任期間 1990年4月

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農具 – Wikipedia

農具(のうぐ、英: farm tool(s)) は、農機具のうち農業用の道具類の総称[1]。 農業生産での労働の技術的補助手段を総称して農機具という[1]。農機具は広義の農具と農業用の機械とに大別される[1]。広義の農具には金槌や鋸のように必ずしも用途が農業に限定されない一般道具と鍬や鎌のように主な用途が農業目的の農用道具(狭義の農具)がある[1]。 農具は土を掘り返したり、農作物を収穫したり、脱穀するときなどに使われる。農具には人力で用いるもの(つまり人が手や脚で使うもの)と、畜力を用いるもの(つまり使役動物、たとえば牛・ロバ・馬等に引かせるもの)がある。 先進国では内燃機関などを用いた様々な農業機械が作られるようになりそれが農作業の主要な手段となっているが、それ以外の多くの国々(=開発途上国)では現在でも主として人力や畜力の農具に依存して農作業が行われている。 農具の歴史[編集] 焼き畑農業のような最も原始的な農業でも、棒きれのようなものが農具として使われ、土を掘り返すのに使われた。これは、タロットにも登場し、「ワンド」と呼ばれる。タロットがトランプに発展してからは、これは「クラブ」になった。もはや、直接農具を表示していないが、クラブは農民の意味で用いられる。 フランス革命前夜の『百科全書』では、大項目主義の他に、新しい技術の革新やそのしくみの図解などが多数取り入れられたが、新しい農機具もその中に含まれている。 主要な農具[編集] 鋤。spade スペード。 耕うん・整地 鋤(すき) 犂(からすき) 踏み鋤 鍬(くわ) 掘り棒(原始的な農具。まだ犂や鍬を持たない段階で、かろうじて浅く耕すことを可能にした道具。踏み鋤以前の道具。) 耕耘機

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葛西臨海水族園 – Wikipedia

葛西臨海水族園(かさいりんかいすいぞくえん、英: Tokyo Sea Life Park)は、東京都江戸川区臨海町の葛西臨海公園内にある水族館[1]。1989年10月10日に開園した。設計は谷口吉生。園長は田畑直樹(2014年4月から)。東京都建設局が所管していたが、指定管理者制度により公益財団法人東京動物園協会に運営が引き継がれた。 東京都江戸川区の葛西臨海公園内に位置し、公園内には葛西臨海鳥類園も併設されている。ドーナツ型の大型水槽を回遊するマグロ類をはじめ、47の水槽に約650種の生物が飼育されている。 開園当初は日本で最も人気のある水族館で、開園初年度の年間入場者数355万人は、当時の日本記録(神戸市立須磨海浜水族園の240万人:1987年)を大きく超えた。 世界で初めてナーサリーフィッシュ(コモリウオ)の展示に成功している。また、展示生物たちは直接、飼育展示課調査係により現地採集されるものが多く、特に極地の水槽では珍しい生物が見られる。ただし、一般的な生物は業者からの購入に頼っている。 飼育されているフンボルトペンギン 飼育用の海水は、八丈島沖の海水を船とトラックで輸送している。海水を運ぶ船は専用のものではなく、青ヶ島や御蔵島向けの貨物航路の船で、その帰りに空になったスペースを有効活用する形(バラスト水)で運ばれている。1ヶ月に使用する海水は約3,000tにもなり、ほとんどがサメの水槽やマグロの水槽など大型水槽に使われる。ただし、海鳥やペンギンの水と濾過槽の逆洗用の水は水族園前の東京湾の水を濾過して使用しており、海水ではなく汽水である。 飼育の担当職員は、環境班と繁殖班に分かれている。環境班はさらに東京の海チームとペンギン・海鳥チームに、繁殖班はマグロ・深海チームと世界の海チームに分かれている。また水族館裏には搬入生物のストックや飼育実験用に繁殖センターと呼ばれる施設があり、職員は展示担当と繁殖センター担当に別れて作業を行なう。獣医師は配置されておらず、恩賜上野動物園の獣医師が往診に来ている。教育普及係では東京シーライフボランティアーズに所属するボランティアの活動支援や、研修生の受け入れなどの業務を行なっている。 園で使用する餌はオキアミ、サクラエビ、ゴカイ、アジ、イカ、剥きアサリが基本で、生物の口の大きさに合わせて臨時職員が調餌している。生き餌しか食べない生物(ナーサリーフィッシュ、シードラゴン、タツノオトシゴ類など)には、活スジエビや活イサザアミが給餌されている。 1991年2月 – 来園者数が500万人到達[2]。 1992年6月 – 来園者数が1000万人到達[2]。 1996年5月 –

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ローマの休日 – Wikipedia

『ローマの休日』(ローマのきゅうじつ、原題:Roman Holiday)は、1953年製作のアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン。ウィリアム・ワイラーが製作・監督した。 イタリアのローマを表敬訪問した某国の王女と、彼女が滞在先から飛び出して一人でローマ市内に出たときに知り合った新聞記者との1日の恋を描いている。トレヴィの泉や真実の口などローマの名だたる観光スポットが登場する。 新聞記者をグレゴリー・ペック、王女をオードリー・ヘプバーンが演じている。当時新人だったヘプバーンは、本作により1953年のアカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞した。このほかイーディス・ヘッドが「最優秀衣裳デザイン賞」を、イアン・マクレラン・ハンターが「最優秀原案賞」をそれぞれ受賞している。 ただし、本作の原案(ストーリー)は実際にはダルトン・トランボが執筆したものだった。当時のマッカーシー旋風による赤狩りでトランボはハリウッドを追われていたため、名義を借用したのである。アカデミー賞選考委員会は、1993年にトランボへ改めて「1953年最優秀原案賞」を贈呈している[3]。 ストーリー[編集] ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王位継承者であるアン王女は、ヨーロッパ各国を表敬訪問中であった。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついに王女はヒステリーを起こしてしまう。 その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで、無防備にも路傍のベンチでうとうとし始める。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう[4]。眠くて仕方のない王女は、詩を朗読して寝てしまう[5]。 翌日の昼になって、王女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをものにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。 王女は、市場での散策を楽しむ。まずサンダルを買い、美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べる。その後ジョーとベスパに2人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加する。その様子をアーヴィングが次々とスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都ローマで、自由を満喫するアン王女と新聞記者のジョーの気持ちは、次第に近づいていくのであった。 キャスト[編集] 製作決定[編集] ダルトン・トランボが『ローマの休日』の原案(ストーリー)を書き、イアン・マクレラン・ハンターと共同で脚本を執筆したのは1940年代半ばごろで、元々フランク・キャプラが映画製作会社リバティ・フィルム社のために書かせたものである[6][7][8][9]。1948年にリバティ・フィルムがパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることに決まっていた[8]。この時、エリザベス・テイラーとケーリー・グラントに出演交渉されたが、パラマウントの予算が150万ドルと少なかったためキャプラは妥協できず、『ローマの休日』を放棄した[8][7][10]。 その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーがこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった[6][8]。 製作時にアメリカ本国では、ジョセフ・マッカーシー上院議員らによる「赤狩り」と呼ばれるマッカーシズムが吹き荒れ、非米活動調査委員会による共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でも「ハリウッド・テン」と呼ばれた人物たちがパージされた。本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが、本作の原案と脚本にその名前をクレジットした。 ウィリアム・ワイラー監督はこの映画の撮影はローマでロケをすると主張し、パラマウントも反対しなかった[7]。制作費を節約するために、パラマウント映画がイタリアで稼いだリラ(国外には持ち出せない)を制作費に充てられる、というのがその理由であった[6]。 オードリー・ヘプバーンの起用[編集] 衣装テスト中のオードリー・ヘプバーン。 この作品で最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラーであった[6][8][7]。その後監督がフランク・キャプラからウィリアム・ワイラーに変わり、ヒロイン候補にはジーン・シモンズの名前が挙がった[8]。しかしジーン・シモンズと専属契約をしているハワード・ヒューズが貸し出しを拒否した[6][7]。グレゴリー・ペックも最初は出演を渋ったがワイラーが説得、出演を承諾した[7][9]。しかし予算の問題もあり、大スターを2人使うことは問題外であった[10]。インタビューでワイラーは「主役にグレゴリー・ペックを使えると決まって急に具体化しました。相手の王女役に大スターを使う必要がなくなったからです。そこで私は無名であっても王女の役にふさわしい娘さんを捜しにかかりました。」と答えている[11]。 パラマウントの各海外拠点が何人か王女役を提案してきたが、シュザンヌ・クルーティエ

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