山本達雄 (政治家) – Wikipedia
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “山本達雄” 政治家 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月) 勲一等旭日桐花大綬章を佩用した山本達雄 山本 達雄(やまもと たつお、安政3年3月3日(1856年4月7日) – 1947年(昭和22年)11月12日)は、明治後期から戦前昭和期の日本の銀行家・政治家。43歳で第5代日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した。政界の長老的存在[1] 。 位階は正二位。勲等は勲一等。爵位は男爵。号は竹渓。 豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。更に廃藩置県が追い討ちをかけることとなる。17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった[2]。そこで当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した[3]。卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として1年勤めたがここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から1883年(明治16年)に郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った[4]。そこで川田小一郎より才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任する。 1890年(明治23年)、当時総裁であった川田の要請によって35歳で日本銀行に入行する。1895年(明治28年)には、川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた。更に1896年(明治29年)4月には金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された。ところが、1898年(明治31年)10月に日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如日本に呼び戻されて第5代総裁に任じられたのである。日本銀行に入ってから8年目の43歳のことであった。 総裁に就任した山本は、当時の日本経済が過熱気味で正貨流出の危惧があり、また政府から日本銀行に対する融資要請が相次いだために、山本は金融の引締めと政府の赤字財政体質の改善を要求して政府の激しい反発を買った。政府は山本に圧力を加えたが、山本は「日本銀行の主体性」を唱えてこれを拒んだ。だが、私学出身で中途採用・入行8年目の山本総裁の誕生に対する日銀内部の反感は根強く、また山本自身も一徹者であったために就任からわずか4ヶ月目に幹部にあたる支店長・局長・理事の大半にあたる11名が辞表を提出して山本の失脚を企てた。だが、山本はすぐに辞表を受理して直ちに人事の刷新を図った。これには内外は騒然としたが、伊藤博文や山縣有朋らは山本の方針を認めたために、山本はそのまま任期切れを迎える1903年(明治36年)まで総裁を続投した[5]。日本銀行総裁退任後の1903年11月20日に貴族院勅選議員となり[6]、1909年(明治42年)には日本勧業銀行総裁に就任した。
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