Month: March 2022

女性向けアニメ – Wikipedia

女性向けアニメ(じょせいむけアニメ)とは女性のまなざしのアニメ作品[1]。 小学校就学前の女子児童を対象にした、それまでの魔法少女ものを含む女性向けアニメーションと異なり、その切り口は主人公の年齢や立場、同性愛など多種多様に及ぶとされる [1]。 若い女性を対象にした作品に関しては、「アニメーションノートNo11」(誠文堂新光社)において、「女子アニメ」という呼び名が提唱されており、「別冊spoon. 女子アニメ2010」(角川書店)においても踏襲されている。そのため、本項では主に女子アニメとされる作品群について記述する。なお、中学生以下の低年齢層の女児を主な対象にした作品は「女児向けアニメ」や「少女向けアニメ#幼児・小中学生向け作品」の項目で詳述する。 2005年より、フジテレビにおいて主に少女漫画を原作とした作品を放送することで、従来アニメを見ないと思われていたF1層を意識した展開を図るアニメ枠『ノイタミナ』が現在まで放映されている。また、2006年以降には同様の層を意識したアニメ放映枠が複数設けられている。 また、これら作品群の原作は『NANA』のようにアニメ化と平行して実写で映画やドラマになるパターンも多く、『ノイタミナ』では特に『のだめカンタービレ』においてはアニメとドラマのWメディアの展開を試みている。 また、原状では放映時間は深夜帯が大半であるが、『のだめカンタービレ』や『夏目友人帳』など(深夜帯で放映された)本放送の好評を受けるかたちで再放送時にキー局にて全日帯で放映(一部放送局では本放映も全日帯で行われている)される作品もある。 一方で1992年から1997年まで「女児向けアニメ」・「少女向けアニメ」として全日帯で放映された『美少女戦士セーラームーン』シリーズをリメイクした『美少女戦士セーラームーンCrystal』や、2001年に「少女向けアニメ」として全日帯で放映された『フルーツバスケット』が、2019年に別の制作会社によって再アニメ化されたときのように、「女児向けアニメ」・「少女向けアニメ」のリメイク作品が「女性向けアニメ」として深夜帯で放映される場合もある。 1970年代以降、少女漫画のテーマの拡散とともに、その作家がほぼ100パーセント女性になり、ほぼ20年遅れでその傾向がテレビアニメにも現れてきたとされる。このジャンルの盛況に関しては視聴者の傾向の他に、前述の少女漫画のテーマの拡散に関連する形でアニメーションの製作現場への女性スタッフの増加も一因として指摘され、それにより、女性向けのジャンルを無理なく描けるようになったとされる。[2] 中学生以上を主に対象にする作品に関しては1995年から現在もOVA等で続く『ふしぎ遊戯』シリーズが始祖とされ、1997年の『CLAMP学園探偵団』・『少女革命ウテナ』、1998年の『LEGEND OF BASARA』・『彼氏彼女の事情』もその年代の女性をメインターゲットに(ただし男性も対象に含めていた)した作品であるが、純粋な女性向けの作品は1999年の『KAIKANフレーズ』が初とされる。 『少女革命ウテナ』は『美少女戦士セーラームーン』[補足 1]の幾原邦彦監督率いるビーパパスがそのノウハウを活かして製作した作品であるが、『少女革命ウテナ』の制作スタッフは『桜蘭高校ホスト部』『のだめカンタービレ』などの作品で活躍している。また、『美少女戦士セーラームーン』シリーズに参加し、『わがまま☆フェアリー ミルモでポン!』[補足 2]シリーズの監督で知られる、カサヰケンイチは『ハチミツとクローバー』、『のだめカンタービレ』の監督も手がけており、広義の「女性向けアニメ」に含まれる「少女向けアニメ」のスタッフがこのジャンルに参加する事が多い。 OVAにおいては1988年の『妖精王』を筆頭に1993年まで『花とゆめ』原作の作品が連作されている。 高年齢化を逆に活かし、1997年に前述の『少女革命ウテナ』と『CLAMP学園探偵団』を皮切りに一部のアニメや前述のOVA作品と同じくビデオソフト(VHS、LD、DVD、BDなど)の販売や有料放送、ネット配信など映像商品の売上で制作費を捻出する方法でアニメ化される作品の数が年々多くなっている。DVDビデオ再生機器やレンタルDVDが普及した2005年頃から『NANA』や『ハチミツとクローバー』シリーズなど一般層の女性によく支持されても、男性やアニメオタクにあてはまる女性には人気が薄い作品もこの形式でアニメ化されていることが多い。 2000年代に入ると女性向けゲーム原作のアニメが登場した。これには『恋する天使アンジェリーク』『遙かなる時空の中で-八葉抄-』『金色のコルダ〜primo

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高見山酉之助 – Wikipedia

本来の表記は「髙見山酉之助」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 髙見山 酉之助(たかみやま とりのすけ、1873年10月25日 – 1924年1月11日)は、大相撲の力士。新治県海上郡(現在の千葉県銚子市)出身。最高位は関脇(1910年1月場所)。本名吉岡酉之助。現役時代の体格は身長173cm、体重139kg[1]。 高砂部屋に入門し1895年(明治28年)6月場所から番付に記載される。四股名は加増山(かぞうさん) 1907年(明治40年)1月場所新入幕、この時33歳であった。1910年(明治43年)1月場所関脇。巨体を生かして左四つに組み止め、ジワジワ寄る典型的な四つ相撲の取り口[1]だが「鈍州」と呼ばれるほど、勝ちみが遅いため速攻や技能派力士を苦手としていた。特に玉椿が大の苦手で割が組まれて「高見山には玉ァ・・・」の触れ太鼓を聞くや布団をかぶってガタガタ震え出て来なかったという。 國技館(当場所のみ大相撲常設館と書かれていた)完成の1909年(明治42年)6月場所には新大関太刀山に勝って7勝3分、この場所から始まった最優秀成績力士(優勝額)掲額の第1号の力士となった[1][注釈 1]。なお、平幕優勝力士としても第1号である。また、この場所から導入された東西対抗の優勝制度のなかで、彼が属した側が優勝し、関脇以下の最優秀成績でもあったために、優勝旗手の栄誉も得た。最終場所は1913年(大正2年)5月場所。引退後は協会に残らず郷里に帰り飲食店を営んだ。 主な成績[編集] 幕内在位:14場所(うち関脇1場所、小結2場所) 幕内通算成績:43勝29敗13分55休 勝率.597 幕内最高優勝:1回[1] 優勝旗手:1回[1] 注釈[編集] ^ なお、この場所の最多勝は太刀山の8勝2敗であったが、分を勝ち点0.5としたため、0.5点差で高見山の優勝となった[2]。 出典[編集] ^

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将棋日本シリーズ – Wikipedia

将棋日本シリーズ(しょうぎにっぽんシリーズ)は、日本将棋連盟と開催地新聞社[1]が共催、日本たばこ産業(JT)特別協賛の将棋の大会であり棋戦。1980年創設。毎年6月から11月にかけて、全11局が全国各地の都市において公開対局で1局ずつ行われる。双方の持ち時間が少ない早指しの棋戦である。2011年度までの大会名はJT将棋日本シリーズ(ジェイティーしょうぎにっぽんシリーズ)。伝統的に準決勝は大阪と名古屋、決勝は東京(2016年まで東京ビッグサイト、2017年より幕張メッセ)で開催される。 各々の大会ではこども大会も実施される。現在では、プロの公式戦だけでなく、こども大会も含めて「日本シリーズ」と称される。2012年度よりグループ会社のテーブルマークも協賛することになったことから、「JT将棋日本シリーズ」から「将棋日本シリーズ」に、そして2つの大会が「JTプロ公式戦」「テーブルマークこども大会」とそれぞれ変更されている。 プロ公式戦[編集] 以下の順に従って選抜された12人の棋士がトーナメントで対局する。12名のうち出場順位上位4名が2回戦シードとなる[2]。 前回優勝者 当年2月末日時点でのタイトル保持者 獲得賞金ランキング上位者 持ち時間は10分で、切れたら1分単位で合計5回の考慮時間が与えられる。考慮時間を使い切ったら1手30秒未満。この他観客向けに「次の一手」クイズを行うため、対局途中で解説者の要請により封じ手を行い休憩(10分間)が挟まれる[2]。千日手や持将棋になった場合、考慮時間が残っていても両者共に持ち時間、考慮時間なし1手30秒未満での指し直しとなる。[3] 2015年現在は優勝賞金500万円、準優勝賞金150万円[2]。また副賞として、トーナメントで1勝する毎に勝者にJTグループの製品1年分(2014年まではジェイティ飲料の飲料類[4]、2015年以降はテーブルマークのインスタントライス[5])が贈られる。また各対局の終了後、勝利棋士が会場出口で見送りに立ち、来場者と握手をするのが恒例になっている[2]。 2021年度から抽選によって選出された一般の来場者が振り駒を行うファンサービスが開始されている。 インターネット配信に関しては、連盟公式アプリ及びAbemaTV(第38回、第40回~)で行われているが、全て無料での閲覧が可能とされており、AbemaTV作成の動画が後日youtubeのJT公式アカウントにて公開される。 こども大会[編集] 2001年度から創設された大会で、大会は未就学児を含む小学校3年生までの低学年の部と小学校4年生~6年生対象の高学年の部の2つに分かれている。 まずブロック対局を行い、ブロックを勝ち抜いた選手によるトーナメントによって、各部門2名の代表を決定する。ブロック対局で敗れた選手も予選終了後に自由対局(練習試合)を指すことができ、参加者のレベルに応じた対局、あるいはプロや奨励会員との指導対局など、将棋を思う存分楽しみ、また成長できる環境が提供されている。 トーナメントを勝ち上がった各部門2名ずつが、プロ公式戦の前座試合として、プロと同じ対局会場・盤駒を使い、それぞれのクラスの優勝をかけて対局する。プロ同様に棋譜読み上げや記録係、大盤解説が付き、また和服(男子は紋付はかま、女子は振袖着物)が貸し出されるなど、プロの雰囲気をそのまま体験できるようになっている。 1981年(昭和56年、第1回) – 大山康晴の発案で創設(この回のみ年初頭に行われたため1980年度の開催となる)。タイトル保持者であった、中原誠名人、加藤一二三十段、大山康晴王将、米長邦雄棋聖(肩書きは大会開始時点のもの)の4人によるトーナメントだった。 1981年(昭和56年、第2回) –

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ドイツの歴史 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ドイツの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2010年5月) ドイツの歴史(ドイツのれきし)では、ドイツの歴史を述べる。 先史時代[編集] 旧石器時代にはネアンデルタール人、後にクロマニョン人(ハプログループI2a (Y染色体)[1])が居住した。 新石器時代にはハプログループG2a (Y染色体)によって農耕がもたらされたと考えられる[2][3]。 青銅器時代になると、ビーカー文化等が起こり、インド・ヨーロッパ語族に属すゲルマン祖語を話す人々が到達したと考えられる。彼らは現在のドイツ人の多数派を占めるハプログループR1b (Y染色体)に属していた[4]。 ドイツの歴史における古代は、先史時代から、ゲルマン民族の大移動が始まるまでの長期におよぶ。現在のドイツ南部では、およそ紀元前1300年から紀元前200年にかけて、ケルト人とイリュリア人の前期鉄器文化であるハルシュタット文化(紀元前1300年から紀元前400年)が栄え、のちに西部では地中海地方の文化的影響をより強く受けたケルト人のラ・テーヌ文化(紀元前500年から紀元前200年)に発展していた。ラ・テーヌ文化と同時期、ドイツ北部地域には鉄器文化のヤストルフ文化が形成され、紀元前5世紀ごろよりゲルマン語派が発生した。一方その東方ではイリュリア人と(さらに東方のチェルノレス文化の)元スラヴ人の混交により前期鉄器文化のポメラニア文化が発生し、これはのちによりスラヴ的なプシェヴォルスク文化に発展した。しかし、紀元前3世紀頃からゲルマン語派の人々はその範囲を少しずつを拡大し始め、北はスカンジナヴィア半島南部、東はバルト海南岸のポメラニア地方の細い地域を伝ってヴィスワ川河口域に達した。西や南では紀元前後の頃にはライン川・ドナウ川流域で古代ローマ世界と接触するようになった。ローマ帝国とゲルマニアの戦いは、キンブリ・テウトニ戦争(紀元前113年-紀元前101年)、ガリア戦争(紀元前58年-紀元前51年)、トイトブルク森の戦い(9年)、マルコマンニ戦争(162年-180年)が知られている。 その後、しばらくはライン川とドナウ川がローマ帝国とゲルマニアの境界線となっていた。357年、クノドマル(英語版)王率いるアレマンニ族がローマ帝国領ガリアのアルゲントラトゥム(現ストラスブール)に侵攻したが、撃退された(アルゲントラトゥムの戦い)。 4世紀後半にゲルマン民族の大移動が始まると、ゲルマン語派か否かに関わらず「ゲルマン人」と総称された諸部族(大衆語がゲルマン語派の部族のほか、ブルグント人のような、大衆語がケルト語派と思われる部族や、ヴァンダル人のような、大衆語がスラヴ語派と思われる部族、の3種類がいた)が南ヨーロッパでそれぞれの部族国家を築き上げた。451年、アッティラ率いるフン族がガリアに侵攻した(カタラウヌムの戦い)。被害を受けて勢力が弱まった西ローマ帝国は、フランク族(ゲルマン人の部族)の侵入を許すことになった。

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現代の音楽 (NHK) – Wikipedia

現代の音楽(げんだいのおんがく)は、NHK-FMで長年放送されている日本国内唯一の現代音楽のラジオ番組である。 戦後間もない1946年のラジオ番組「日本の音楽」などを前身として、1957年より現在の番組名としてラジオ第2で放送が始まり、その後FMに移設された。2007年11月25日には、放送50周年記念として4時間50分にわたり日本の現代音楽作曲家の歴史を振り返る内容の特別番組を、西村と白石の二人で放送した。 これまで柴田南雄、上浪渡、白石美雪、西村朗、猿谷紀郎などが歴代の解説を務め、2015年4月からは西村が再び解説を担当している[1]。近年では前衛の古典、すでに亡くなった日本の大家と考えられる作品のオンエアも増えている。 現在の体制は日本における現代音楽のライヴ演奏から抽出することが主になっているが、以前には現音作曲新人賞の本選会[2]のオンエア、ニューディスクの紹介、果てはロシアやインドネシアの作曲家の紹介などもあった。2016年の放送では作曲家を招いてインタビューを行い、その後に音源を放送する形式をとることもある。 現在は放送時間が50分で、音源が放送されている時間は40分ほどに制作されることが多い。局の方針として、武満徹作曲賞の全ファイナリストの楽曲はすべてノーカットで放送されている。ただし、白石美雪単独司会時代に行われたUNESCO国際作曲家会議の音源をすべてかけるということは2016年現在はやっていない。 放送リスト[編集] 2020年[編集] 放送日 内容 備考 1月5日(日) 選▽サクソフォーン奏者 須川展也を迎えて(1) 1月12日(日) 選▽サクソフォーン奏者 須川展也を迎えて(2) 1月19日(日) 最近の公演から▽「ペガサス・コンサート・シリーズ」山田岳(1) 1月26日(日) 最近の公演から▽「ペガサス・コンサート・シリーズ」山田岳(2)

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ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2021年12月) ファビアン・フォン・シュラーブレンドルフ(Fabian von Schlabrendorff, 1907年7月1日 – 1980年9月3日)は、ドイツの法律家、ドイツ国防軍中尉、反ナチ運動家。ヘニング・フォン・トレスコウ陸軍少将の副官だった。ヒトラー暗殺計画のメンバーで戦後まで生き延びた数少ない人々のうちの一人。 ハレ・アン・デア・ザーレに生まれる。大学で法学博士号を取得後、プロイセン州内務次官ヘルベルト・フォン・ビスマルク(de:Herbert von Bismarck (1884–1955))の助手として働いた。ビスマルクもシュラーブレンドルフも共に、早くからナチスに対する反感を持っていた。シュラーブレンドルフは弁護士資格を持ち、陸軍予備役中尉だった。 第二次世界大戦中の1942年以降、東部戦線でトレスコウ少将の副官として、反ヒトラー派のルートヴィヒ・ベック、カール・ゲルデラー、ハンス・オスター

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北海道道22号留萌港線 – Wikipedia

主要地方道 北海道道22号 留萌港線主要地方道 留萌港線 地図 総延長 1.339 km 実延長 1.330 km 制定年 1954年(昭和29年) 起点 北海道留萌市大町1丁目 終点 北海道留萌市本町3丁目 接続する主な道路(記法) 国道231号 ■テンプレート(■ノート

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利尻郡 – Wikipedia

北海道利尻郡の位置(1.利尻町 2.利尻富士町) 利尻郡(りしりぐん)は、北海道(北見国)宗谷総合振興局の郡。 人口4,248人、面積182.12km²、人口密度23.3人/km²。(2022年2月28日、住民基本台帳人口) 以下の2町を含む。 郡域 1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記2町のまま変更されていない。 歴史 郡発足までの沿革 利尻はもと「りいしり」と読んだ。江戸時代の利尻郡域は西蝦夷地に属し、松前藩によってリイシリ場所が開かれていた。江戸時代中期の享保年間北見冨士神社が創建されている。 江戸時代後期になると文化4年にはロシアによる利尻島襲撃事件(文化露寇、フヴォストフ事件)が発生し船が焼き払われ島民が拉致されるなどの被害が出ている。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え文化4年利尻郡域は天領とされこの時は藩士ら252名を派遣し会津藩が警固をおこなった。文政4年には一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり今度は秋田藩が警固をおこない、同6年の6藩分領後は秋田藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年8月15日、大宝律令の国郡里制を踏襲して利尻郡が置かれた。 郡発足以降の沿革 北海道一・二級町村制施行時の利尻郡の町村(4.鬼脇村 5.仙法志村 6.鴛泊村 7.沓形村 赤:利尻町 桃:利尻富士町) 明治2年 明治4年8月20日(1871年10月4日)

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玉葉 – Wikipedia

この項目では、九条兼実の日記について説明しています。鎌倉時代の勅撰和歌集については「玉葉和歌集」をご覧ください。 『玉葉』(ぎょくよう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、日本の公家九条兼実の日記[1]。 『玉葉』は兼実の公私にわたる記録であり、その記述は1164年(長寛2年)から1200年(正治2年)に及ぶ。この時期は院政から武家政治へと政治体制が変動した時期と重なり、源平の争乱についても多数の記述がある。このことから、平安時代末期から鎌倉時代初期の研究を行う上での基礎史料と位置付けられている。 なお、同時期の史料には『吾妻鏡』もあるが、これは鎌倉幕府とりわけ北条氏の立場で編纂された正史に近いものである。一方、九条兼実は関白や太政大臣を歴任した朝廷側の大物であり、『玉葉』は朝廷側の史料と言える。そのことから『玉葉』と『吾妻鏡』は相補的に用いられることが多い。 また当時の公家の日記は、宮中行事を遂行するための所作など(=有職故実)を後世に伝える目的も帯びていた。『玉葉』も例外ではなく、宮中における儀式の次第が詳細に記されている。 兼実の孫・九条道家の没後、元本は一条家に伝えられた。九条家に伝わるものは写本である。 別名[編集] 『玉葉』は『玉海』『月輪兼実公記』などと呼ばれることがある。このうち『玉海』については、同じ五摂家の二条家が『玉葉』という名称を用いず『玉海』と呼んだのが始まりとされる。 二条家は九条家・一条家とともに兼実の子孫であるが、初代の二条良実は実父の九条道家(兼実の孫)より義絶されているために『玉葉』を含む父祖の文書を受け継がなかった。しかし、二条良基が実子の経嗣を養子にすることに成功して『玉葉』などの一条家に伝わる文書の写本を得ることが出来たと言われているため、『玉海』の呼称は良基が始まりとする説もある[2]。 江戸時代、二条家系の写本が紅葉山文庫に収められたこともあり、水戸藩が大日本史を編纂する時は『玉海』の名で記載された(江戸幕府に要請して紅葉山文庫から貸し出しを受けた)[2]。 影響と価値[編集] 公家の日記である『玉葉』がどんな経緯で他人の目に触れるようになったかは定かでないが、鎌倉時代初期から多くの人に読まれてきたものと推測されており、『吾妻鏡』の編纂にも影響を与えている可能性がある。 本書の価値は兼実の識見の高さでしかも表現の明快熟達にあり、さらに記事の随所にある人物評や世相の動向を巧みにとらえて活写している事にある[3]。 『玉葉』全3冊(国書刊行会、1906年 – 1907年) – 九条家旧蔵本を底本とする。すみや書房(1966年)、名著刊行会(1971年)などから復刻版が出されている。 宮内庁書陵部編『九条家本玉葉』全14巻(明治書院〈図書寮叢刊〉、1994年 –

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カンダハール – Wikipedia

この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。 カンダハール カンダハル カンダハールのババ・ワリ廟 カンダハール(ダリー語: قندهار‎, ラテン文字転写:Qandahār, 英: Kandahar)は、アフガニスタンの都市。アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主要都市でカンダハール州の州都。人口は450,300人 (2006年の公式推計[1])で、カーブルに次いでアフガニスタン第2の都市である。標高は海抜1,005 m、31°37′N 65°43′E。 アフガニスタンの最大民族パシュトゥーン人の居住地域にあり、パキスタンのペシャーワルと並ぶパシュトゥーン人の主要都市。アジアハイウェイの路線上にあり、北はウルーズガーン州のタリンコート、東はガズニーを経てカーブルに通じ、西はヘラート・ファラーを経てイランのホラーサーン地方および中央アジアに至る。南に進めば国境を越えてパキスタン領バローチスタンのクエッタに至り、インダス川下流域の大平原からインド亜大陸へと通ずる交通の要衝で、国際空港もある。 羊、羊毛、綿花、絹、フェルト、穀物、果物、ドライフルーツ、タバコの主要な交易センターである。周辺地域はザクロとブドウをはじめ質の良い果物を産出し、市内には多くの果物加工工場が稼働している。 カンダハールの名前は、前4世紀の征服者アレクサンドロス(Alexandoros)の「xandoros」の部分が転訛したとの説があるが[1]、カンダハールの東方、カーブルのさらに東にある仏教文化の本場ガンダーラの転訛とする説もある[2]。1748年にアフマド・シャー・ドゥッラーニーが建国したドゥッラーニー朝の首都であった[3]。カンダハル[4]とも表記される。 カンダハールの地には先史時代から多くの人々が住みつき、インド・イラン・中央アジアをつなぐ交易の拠点となっていたことが知られる[5]。 紀元前6世紀頃にはアケメネス朝の支配下に入り、ペルシア帝国の属州アラコシア(英語版)となった[6]。 現在に繋がるカンダハールの町は、紀元前4世紀、アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国のアレクサンドロス大王がギリシャ語でアラコシア地方[7]と呼ばれたこの地域の主邑として、既に数千年前からの集落があったカンダハールの地に築いたギリシャ都市アレクサンドリア・アラコシアに遡る[8]。同じ世紀の末(紀元前305年)にはアレクサンドロスの帝国を引き継いだセレウコス朝からマウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲され、孫のアショーカ王(在位紀元前268〜前232年)はこの地に法勅碑文を刻ませた。丘陵の岩壁にギリシア語とアラム語で刻まれており、小磨崖法勅と呼ばれるカンダハール第一法勅である。第二法勅(ギリシア語碑文)、第三法勅(アラム語碑文)も1963年に発見されている。 インドの王国の支配下に入ってインド文明の影響を受け、仏教が信仰されるようになった。その後もクシャーナ朝やサーサーン朝の統治のもとで仏教文化が栄えたが、7世紀にアラブ人による征服を受け、ムスリム(イスラム教徒)の支配下に入った。 9世紀から12世紀にかけて、カンダハールはサッファール朝、ガズナ朝、ゴール朝などのイラン・アフガニスタン方面に勃興したイスラム王朝の支配を相次いで受け、イスラム都市となっていった。ゴール朝の滅亡後まもない1222年にはチンギス・ハーンによって征服され、モンゴル帝国の版図に加えられる。1383年には今度はティムールの征服を受け、アフガニスタン南部からバローチスターン北部(クエッタ周辺)を支配するティムール朝の地方政権が栄えた。

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