Month: March 2022

三愛石油 – Wikipedia

三愛石油株式会社(さんあいせきゆ、英文社名:SAN-AI OIL CO.,LTD)は、石油製品・液化石油ガスなどの販売、航空燃料の給油などを行っているリコー三愛グループの企業である。 特色として羽田空港の給油業務を独占して行っており、中部国際空港などにも運営社員を置いている。グループ企業には、自社ブランド「Obbli(オブリ)」、出光興産(旧昭和シェル石油)、ENEOSの特約店(ガソリンスタンド)などがある。ENEOS等の主な元売系の特約代理店(元売系ディーラー)の老舗でもある。傘下にキグナス石油がある。 主力製品・事業[編集] 石油製品の販売 LPガスの販売・天然ガスの供給 化学品の研究開発、製造販売 航空機への給油・給油施設の運営管理 不動産の賃貸 主要事業所[編集] 主要関係会社[編集] 国内グループ企業[編集] 石油製品販売・受発注 LPガス販売 三愛オブリガス東日本 三愛オブリガス中国 三愛オブリガス九州 三愛オブリガス三神 三愛オブリガス播州

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外崎由希子 – Wikipedia

この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典が不足しています。存命人物の記事は特に、検証可能性を満たしている必要があります。(2016年8月) 人物の特筆性の基準を満たしていないおそれがあります。(2016年8月)出典検索?: “外崎由希子” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL とのさき ゆきこ 外崎 由希子 プロフィール 出身地 日本 青森県五所川原市 血液型

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西春江ハートピア駅 – Wikipedia

西春江ハートピア駅(にしはるえハートピアえき)は、福井県坂井市春江町本堂にある、えちぜん鉄道三国芦原線の駅。駅番号はE34。 相対式ホーム2面2線の地上駅。 出入口は東側の1番ホームにあり、2番ホームとは構内踏切で連絡している。 駅構内[編集] 駅員終日無配置。 利用状況[編集] 「平成30年坂井市統計年報」によると、1日平均の乗車人員は以下のとおりである[3]。 乗車人員推移 年度 1日平均人数 2007年 116 2008年 123 2009年 115 2010年 118 2011年 119

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原虫 – Wikipedia

原虫(げんちゅう)とは、真核単細胞の微生物であって動物的なものを指す語。もともと原生動物と同義であったが、現在では寄生性で特に病原性のあるものについて言うことが多い。これは寄生虫学において単細胞の寄生虫を原虫として区分していることによる。また病理学方向からは、病原体の大部分は細菌類なので、そうでないものをこう呼ぶ。 すなわち、ある病気があって、その病原体を探したときに、発見された生物が単細胞生物的で、真核細胞であり、すなわち細菌類ではなく、菌糸のような構造を持たず、つまり菌類とは思われない場合に、これにこの名を付ける。基本的に運動性があればこの名を与える。 先進諸国では衛生状態が良いため、原虫による病気は過去のものとされているが、近年、日本国内においても水道水中からクリプトスポリジウムが発見されるなど、目に見えていないだけで汚染は深刻であるという意見もある。 原虫による寄生虫病[編集] マラリア リーシュマニア症 クリプトスポリジウム症 トリパノソーマ症 アフリカ睡眠病 シャーガス病 ナガナ病 トリコモナス症 トキソプラズマ症 バベシア症 アメーバ赤痢 腸ジアルジア症 原虫による動物の病気[編集] 馬原虫性脊髄脳炎 ピロプラズマ症 アルゼンチナ病

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松岡ミユキ – Wikipedia

この項目では、声優の松岡ミユキについて説明しています。フリーアナウンサーの松岡みゆきについては「松岡みゆき」をご覧ください。 松岡 ミユキ(まつおか ミユキ、1963年3月4日 – )は、日本の女優、声優。劇団四季を経て、1982年に劇団青年座に入団。東京都立川市出身。以前は、松岡 美幸や松岡 みゆきの名前で活動していた。現在、声優業は引退している。 初井言榮に付き、演劇の現場での基礎を学んだ。 松岡の引退後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。 テレビアニメ[編集] 1985年 1986年 1987年 1989年 1990年 1991年 1992年 OVA[編集] 1988年

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岡部元信 – Wikipedia

岡部 元信(おかべ もとのぶ)は、戦国時代の武将。今川家の家臣。後に甲斐武田家の家臣。 通称は五郎兵衛、受領名は丹波守。名(諱)は元信のほか、よく知られるものには長教(ながのり)があり[注釈 1]、そのほか真幸(さねゆき)・元綱(もとつな)も、元信の別名であると推測されている。このうち、元信・元綱の「元」の字は、今川氏の家臣だった間に主君の今川義元から偏諱を与えられたものであり、真幸も、義元の子・氏真から重ねて偏諱(「真」の字)を賜う形で名乗ったものである。 岡部家の本貫は駿河志太郡岡部(現在の静岡県藤枝市岡部町)で、朝比奈信置や孕石元泰と並ぶ駿河先方衆の1人であった。父は岡部親綱(玄忠)である。また弟が少なくとも2名以上いたことが分かっている[3]。系図類などでは岡部久綱(信綱)の子である岡部正綱の弟とされることが多いが、元信(小次郎元綱)の初見は天文11年(1542年)であり、これは正綱の生年と同じである。また父親が明らかに別人であり、実際の所は不明である。 今川家の時代[編集] 父の岡部親綱は今川氏の重臣であり、今川義元の家督相続に重要な役割を果たした。元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人。天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に猪の立物をつけて力戦し、今川軍の勝利に貢献した。天文18年(1549年)の安祥城の戦いでも戦功を挙げる。 時期は不明だが、一時的に知行を没収され甲斐の武田信玄の元に身を寄せており、この際に信玄から「信」の偏諱を受けたとされる。通常武田氏の偏諱による「信」は上に置かれる例がほとんどであるが、当時元信は今川家臣であったから義元から下賜された「元」の字を優先したと深沢修平は述べている[4]。深沢は桶狭間の戦い直後に出された元信宛の武田信玄書状から、元信が今川家臣時代から武田氏と深く関わりを持っていたことを指摘している[4]。 永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは織田信長との最前線である鳴海城を拠点に、織田勢と戦いを繰り広げた。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も抵抗し続け、信長が差し向けた部隊をことごとく撃退し、主君・義元の首と引き換えに開城を申し入れ、信長はその忠義に感動して義元の首級を丁重に棺に納めた上で送り届けたと伝わる。元信は義元の棺を輿に乗せて先頭に立て、ゆうゆうと鳴海城を引き払った。そして駿府へ帰還する途次、戦功の無いまま帰るを良しとせず刈谷城を100余の手勢で攻撃し、水野信近を討ち取り、城を焼き払った。この元信の奮戦を氏真は喜び、6月8日付で元信に対し感状を与えている。この際に以前没収された知行を還付されたが、旧領の相続を巡って弟二人と訴訟問題となったらしい[4]。 義元の没後も元信は引き続き今川氏に仕えたが、永禄11年(1568年)12月、武田信玄の駿河侵攻によって氏真が駿府を追われる。元信は当初氏真と行動を共にし後北条氏の元に身を寄せたが、後に武田氏に降伏した[4]。 甲斐武田家の時代[編集] 武田氏に降伏後は駿河先方衆として仕えたが、元信は以前弟らと所領問題で争った経緯もあったせいか一族の統率が十分取れていなかったらしい。実際に『甲陽軍鑑』の「信玄公御代惣人数之事」では、同じ駿河先方衆の筆頭的立場である朝比奈信置は150騎、同族で元信より先に武田氏に降伏した岡部正綱は50騎を動員しているのに対し、元信は10騎のみであり駿河先方衆の中で最も少ない。このように元信の基盤は脆弱なものであったが、今川氏時代から信玄と個人的な関係があったこと、岡部氏が海賊衆の統率に深く関わっていたことから岡部氏惣領として認められ、武田氏に重用されるようになる。実際に元亀4年(1573年)の信玄死後、跡を継いだ武田勝頼によって義元隠居屋敷への居住を許可され、子息を甲府に旗本として出仕させるなど露骨な優遇策がとられるようになる[4]。 武田氏は信玄の晩年とその後の勝頼の代になると徳川領である三河・遠江方面に攻勢をかけ、天正2年(1574年)6月に勝頼が遠江高天神城を落とす(第一次高天神城の戦い)。しかし、天正3年(1575年)5月、織田信長・徳川家康連合軍の前に武田勝頼が長篠の戦いで大敗すると、徳川軍による遠江方面の反攻が開始され、二俣城・犬居城・諏訪原城などが攻略される。元信はこの際に駿遠国境に近い小山城に在番しており、8月26日より徳川軍の攻撃を受けるが、猛攻を耐え凌ぎ翌9月7日に勝頼が後詰を率いて着陣するまで城を守り通した[6]。 その後も家康の遠江侵攻何度も阻み、天正2年(1574年)時点で528貫であった知行が同5年(1577年)時点では総計2215貫に増加する。また、海賊衆を統括する立場であった土屋貞綱の戦死後、後継の土屋昌恒が甲府に勝頼側近として出仕していたため、昌恒の代わりに海賊衆を統括する立場として元信があたった。元信の娘が土屋昌恒と婚姻する背景にはこのような事情があったと考えられている[4]。こうした武功と駿河・遠江の海賊衆の統括の立場から天正7年(1579年)に高天神城の城将に抜擢され、遠江方面の軍事指揮権を一任される。武田家中において譜代以外で一方面の軍事指揮権を保持するのは他に真田氏のみである[7]。 家康は正攻法で高天神城を落とすのは難しいと考え、天正8年(1580年)10月から高天神城の周囲に多くの付城や砦を築き、刈田を行なって兵糧攻めに持ち込んだ(第二次高天神城の戦い)。元信は勝頼に後詰を求めたが、勝頼は北条氏政と対峙していた上に織田・徳川軍と正面衝突する事を恐れて後詰を送れなかった。そのため天正9年(1581年)3月になると高天神城の兵糧は底を尽き、城兵は草木をかじって飢えを凌いだ。元信は覚悟を決めて残った諸将を集めて軍議を開き、「この城に入った時から生きて帰ろうとは考えていない。信玄公・勝頼公の恩義に報いるために打って出る」と覚悟を表明した。そしてその日の夜、元信は城兵に酒を与えて最後の訣別の宴を開いた。 3月22日夜10時過ぎ、元信は残った城兵を率いて、徳川軍の最も手薄と見られた石川康通の陣に突撃を敢行した。これに対し、大久保忠世や大須賀康高らが迎え撃った。城方の先頭の将を迎撃したのは忠世の実弟の忠教で、忠教はまさか元信が先頭に立って突撃して来たとは思っていなかったため、最初の太刀をつけると後は家臣の本多主水に任せて他の敵の追討に向かった。主水は元信に組討ち勝負を挑み、元信は果敢に応戦したが、急坂を転げ落ちたところを討ち取られた。享年に関しては70歳に近かったと推測されている。 主水は討ち取った時はまさか敵の総大将とは思っておらず、首実検で元信と分かって驚愕したという。また大久保忠教は「城の大将にて有ける岡部丹波をば、平助が太刀づけて、寄子の本多主水に打たせけり。丹波と名のりたらば、寄り子に打たせましけれども、名のらぬうへなり」と『三河物語』で大敵を逸した悔しさを述べている。 元信と共に玉砕した城兵は730余に及んだ[10]。家康は自らを何度も苦しめた元信を討ち取ったことを喜び、その首級を安土城の信長の許に送り届けたという。 注釈[編集]

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尻別川 – Wikipedia

尻別川 尻別川(蘭越町) 湯山別橋より上流を望む右側遠望は昆布岳 水系 一級水系 尻別川 種別 一級河川 延長 126 km 平均流量 72.56 m³/s(名駒観測所 2000年) 流域面積 1,640 km² 水源 フレ岳付近 水源の標高

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熱工学 – Wikipedia

表 話 編 歴 工学・エンジニアリング分野 土木工学 測量学 リモートセンシング(GIS、GPS) 建築工学 建設工学 耐震工学 地震工学 地盤工学(土質力学) 基礎工学 振動環境工学 岩盤工学 土壌汚染学、地下水汚染学 河海工学 河川工学 海岸工学

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ドリフのビバノン音頭 – Wikipedia

「ドリフのビバノン音頭」(どりふのびばのんおんど)は、ザ・ドリフターズ(以下ドリフ)が代表曲「いい湯だな」をTBS系『8時だョ!全員集合』のエンディングテーマとして上野玲児と松原雅彦の作詞による替え歌、たかしまあきひこの編曲アレンジで歌ったものである。 1973年6月10日に『チョットだけョ!全員集合〜タブー』との両A面でシングルレコード(東芝レコード TP-2875)として発売。 1977年からはフジテレビ系『ドリフ大爆笑』でも本楽曲のアレンジ版「さよならするのはつらいけど」がエンディングテーマに採用されている。 『8時だョ!全員集合』では放送の残り時間に合わせて演奏ペースが違ったが、概して元歌よりも演奏ペースが速かった(ただしレコード版には元歌と同じ演奏ペースのバージョンが収録されている)。また、最後の後奏の合唱部分には加藤茶のセリフ(「宿題やれよ!」「夜更かしすんなよ!」「歯磨けよ!」「また来週!」など)が入る。 『ドリフ大爆笑』でも「さよならするのはつらいけど」と改題・編曲アレンジの上、毎回エンディングにドリフのメンバーが唄い踊る映像が流された。当初はコントの衣装のままで披露されたが、途中からバンクとなり、以後1~2年おきに映像が(年によっては曲も)録り直された。ただし1983年に収録されたバージョンは長命で、いかりや長介が死去する直前の2003年に録り直されるまで20年間使用された。 2001年の『第52回NHK紅白歌合戦』にドリフが正式な出場歌手としては最初で最後の紅白出場を果たした際には、「ドリフのほんとにほんとにご苦労さんスペシャル」というメドレーの中で本楽曲が歌唱された。 1991年に嘉門タツオが「替え唄メドレー2」に本楽曲の替え歌を収録しているが、同年に発生した明治大学替え玉受験事件を反映した箇所もあり[1]、とても受験生には聞かせられない内容となっている。 1997年にドリフのメンバーが出演した日本石油(後の新日本石油)「日石プリカコレカード」CMソングとして、ドリフ自身による替え歌が使用され、2000年11月16日発売のアルバム『ドリフだョ!全員集合(青盤)』に「日石コレカードCM曲」のタイトルで収録された。 2007年には岡田准一出演の江崎グリコ「ポスカム」のCM「ささやき篇」で、本楽曲をモチーフにしたものが放送された。2012年には味の素「クノールカップスープ」のCM「つけパン篇」でも、本楽曲をモチーフにした替え歌が放送された。 2013年のAAAイベント『昭和八十八年度! 第二回ひとり紅白歌合戦』ではサザンオールスターズによってカバーされた。 なお、レコード版では間奏部分にドリフによるミニコントが入っている。 『いい湯だな』のオリジナルであるデューク・エイセスが2010年12月31日、テレビ東京『にっぽんの歌』でデューク・エイセスと加藤茶が共演し、『いい湯だな』オリジナルの後に『ドリフのビバノン音頭』を一緒に歌った。[2]

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高仙芝 – Wikipedia

高 仙芝(こう せんし、고선지、Gao Xianzhi、? – 天宝14載12月21日(756年1月27日))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。 西域での奇功[編集] 高句麗の出身で、父の名は舎鶏といった。容貌が美しく、騎射に長け、勇敢で決断力があったが、父からは柔弱なところがある性質を心配されていたという。父が河西軍に従軍して功績があったので、安西軍に入って、20歳余で游撃将軍を拝した。安西節度使の田仁琬・蓋嘉運だったころには名は知られていなかったが、後任河西節度使(中国語版)の夫蒙霊詧に重用された。 開元29年(741年)、達奚部落が唐に反し、北上し、碎葉城に向かって移動していた。都知兵馬使となっていた高仙芝は、夫蒙霊詧の命令で2千騎で討伐に赴き、追いつき、疲れを見せていた達奚部落を皆殺しにした。同年に、安西副都護・四鎮都知兵馬使に任命された。 小勃律(ギルギット)国が唐に反して吐蕃(チベット)につき、付近20数カ国が吐蕃に与していたおり、田仁琬の頃から三回も討伐軍を出していたが、いずれも失敗に終わっていた。天宝6載(747年)、高仙芝は配下の封常清・李嗣業・監軍の辺令誠ら歩騎一万を率いて討伐に出た。歩兵も全て馬を持ち、安西(クチャ)を出発し、カシュガルを通り、パミール高原に入り、五識匿国(シュグニー(英語版)地方)に着いた。 その後、軍を三分して、趙崇玼と賈崇瓘に別働隊を率いさせ、本隊は護密国を通って、後に合流することにした。高仙芝たちはパミール高原を越え、合流に成功し、急流のパンジ川の渡河にも成功する。この地で吐蕃軍が守る連雲堡(現在のアフガニスタンのサルハッド(英語版)付近にあった)を落とし、5千人を殺し、千人を捕らえた。ここで、進軍に同意しなかった辺令誠と3千人の兵を守備において、さらに行軍した。 峻険な20kmもほぼ垂直な状態が続くと伝えられるダルコット峠(英語版)(4703メートル)を下り、将軍の席元慶に千人をつけ、「大勃律(バルチスタン)へ行くために道を借りるだけだ」と呼ばわらせた。自身の小勃律の本拠地の阿弩越(英語版)城への到着後、吐蕃派の大臣を斬り、小勃律王を捕らえ、パンジ川にかかった吐蕃へ通じる藤橋を切った。その後、小勃律王とその后である吐蕃王の娘を連れ、帰還する。西域72国は唐に降伏し、その威が西アジアにまで及んだ。 タラス河畔の戦い[編集] 途上に都の長安に直接、判官の王庭芬を使わして戦勝報告を行った。そのため、無視された夫蒙霊詧の怒りを買ったが、辺令誠が玄宗に彼をかばう上奏をしたため、夫蒙霊詧は都に呼び返され、高仙芝が代わりに安西四鎮節度使に任命され、鴻臚卿・御史中丞に任じられた。その後も、高仙芝が夫蒙霊詧に謹直な態度をとったために、夫蒙霊詧は恥じいったという。副都護の程千里・衙将の畢思琛たちは夫蒙霊詧に高仙芝を讒言していたが、各々、一言ずつ侮辱しただけで「もう恨みはしない」と断言したため、軍は安んじたという。 天宝8載(749年)には左金吾衛大将軍の官位を加えられ、天宝9載(750年)にはトハラ(吐火羅)国からの要請に応じ、吐蕃と結んだといわれる朅師(チトラル)国を攻め、王を捕らえ、別王を立てている。また、西トルキスタンのタシュケント(石国)に、偽って和睦を結んで攻撃し王を捕らえ、その財宝を略奪した。天宝10載(751年)長安に入朝した後、タシュケント王を献上してから殺し、開府儀同三司を加えられた。 タシュケント王子が逃亡し、各地の王に唐の横暴を説いて回った。当時、勃興したばかりのイスラム帝国・アッバース朝の勢力が西トルキスタンに及び始めており、諸国の訴えを聞いたホラーサーン総督アブー・ムスリムがイスラム軍総計10万人を派遣。高仙芝は李嗣業・段秀実ら3万人を率いて、長躯してタラス城に着き、イスラム軍と対峙したが、カルルク部族が造反し挟撃され、大敗した。高仙芝は李嗣業の意見に従い、退却した。高仙芝は長安に戻り、右羽林大将軍・密雲郡公に任じられた。 その最期[編集] 天宝14載(755年)、安禄山が反乱を起こし安史の乱が勃発。栄王李琬(中国語版)(玄宗の皇子)が討伐軍の元帥に、高仙芝が副元帥に任じられた。高仙芝は飛騎、彍騎などの軍に募兵を加えた、総勢数十万といわれる天武軍を率い、すでに討伐軍の将に任じられていた封常清に続くことになった。陝郡まで来たところで、安禄山側に洛陽を奪われて敗走してきた封常清と会う。そこで、封常清の進言に従い、函谷関の西の潼関まで退くことを決める。太原倉を開いて全て兵士に渡し、残りを焼いて退却した。その時、安禄山軍に攻められて、唐軍は多くの兵が逃げて、踏みにじりあって死に、大量の武器、鎧、兵糧が放棄された。しかし、潼関への退却は成功し、安禄山軍は撤退した。 しかし、再び監軍となっていた辺令誠が口出しするのを無視したため、封常清とともに、玄宗に対する讒言を受けてしまったと言われる。玄宗は両名に対する処刑命令を辺令誠に下した。まず、封常清が処刑され、高仙芝も戻ってきたところを捕らえられた。高仙芝は「退却したのが罪なら、死も辞さないが、資財・兵糧を盗んだというならば冤罪だ」と言い、配下に向かって「私に罪があるなら、うち明けるがよい。そうでなければ『枉』(冤罪)と叫べ」と呼びかけると、軍中からの「枉!」という叫びが大地を揺るがした。封常清の死体に「君は私が抜擢し、私に代わって節度となった。今度は君と同じ所で死ぬ。天命なのだな!」と語り、処刑された。 将軍の李承光が代わりに指揮したが、新たに副元帥に任じられた哥舒翰は潼関の守備に失敗し、玄宗は長安を出奔する結果となった。

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