テリー・レイ – Wikipedia

テレンス・リチャード・レイ(Terrence Richard Ley , 1947年2月21日 – )は、アメリカ合衆国オレゴン州出身の元プロ野球選手(投手)。1974年~1975年に日本ハムファイターズに所属した。 来歴・人物[編集] 1967年の二次ドラフト3巡目でニューヨーク・ヤンキースに入団。メジャーでの出場は1971年のみ。 1974年のシーズン後期[1]、この年から業務提携していた日本ハムファイターズからの要請を受け、補強要員として入団する。同時に獲得した選手がマイク・ケキッチである。 入団時の背番号は3だが、これは開幕前時点でつけていた大杉勝男が前年不調で「原点に帰る」との理由でプロ入り時の51に戻し結果空き番号となったためやむなくつけた結果である。ケキッチと共に即戦力投手として期待されたが1試合+1イニング3ボーク(当時の日本ワースト記録)を犯すなど力を発揮しきれず、たちまち「だめ外人」のレッテルを貼られる。しかしこの年は13試合に登板して3勝2敗、防御率3.35と悪くはなかったため「貴重な外国人投手」として残留し翌1975年もプレー。長身から高め速球、スライダー、低めへカーブというコンビネーションを武器とする。投手らしい背番号(17)をもらうが、11試合に登板して2勝3敗、防御率4.75と成績が下降し前期限りで解雇された。南海・野村克也はこのレイから通算600号本塁打を放ち、試合後に「俺は月見草」とコメントした。なお帰国後、アメリカ球界に復帰したという情報はない。 詳細情報[編集] 年度別投手成績[編集] 記録[編集] NPB 初登板・初先発:1974年7月17日、対近鉄バファローズ後期1回戦(日生球場)、1回2/3を4失点で敗戦投手 初奪三振:同上、1回裏にクラレンス・ジョーンズから 初勝利・初先発勝利:1974年9月16日、対太平洋クラブライオンズ後期9回戦(平和台野球場)、7回1/3を1失点 初完投勝利:1974年9月20日、対近鉄バファローズ後期12回戦(日生球場)、9回2失点 1イニング3ボーク:1974年7月17日、対近鉄バファローズ後期1回戦(日生球場)、1回裏に記録 ※史上初

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アセリノ・フレイタス – Wikipedia

アセリノ・”ポポ”・フレイタス(Acelino “Popo” Freitas、1975年9月21日 – )は、ブラジルの元プロボクサー。元WBA・WBO世界スーパーフェザー級スーパー王者。元WBO世界ライト級王者。 母親が赤ん坊時代に付けた「ポポ」が愛称。「ブラジリアン・ボンバー(ブラジルの爆弾)」の異名を持つ。デビュー以来29連続KO勝利という記録を持つ。 1975年にブラジルの貧しい家庭に生まれ、バンタム級・フェザー級世界チャンピオンのエデル・ジョフレに憧れてボクシングを始めた。 1992年、バルセロナオリンピックのボクシング・フライ級代表となるが、2回戦で敗退した。1995年3月、アルゼンチンで開催された第12回パンアメリカン競技大会ではライト級で銀メダルを獲得した。 1995年7月14日にプロデビュー。 1996年8月16日にWBCムンドヒスパノライト級王座を獲得した。 1997年4月22日にIBFラテンアメリカライト級王座を獲得した。 1998年5月29日にブラジルライト級王座を獲得。 1998年10月16日にはNABO北米スーパーフェザー級王座を獲得した。 1999年8月7日、フランスでWBO世界スーパーフェザー級王者アナトリー・アレクサンドルフを1回KOで倒し王座を獲得した。 2002年1月12日、アメリカのラスベガスでWBA世界スーパーフェザー級王者のホエール・カサマヨールと級王座統一戦を行い、12回判定で勝利し無敗の相手に初黒星をつけ、王座統一に成功、スーパーフェザー級統一王者となったフレイタスはWBAよりスーパー王座に認定された。 WBA・WBO王座を3度防衛した後、階級をライト級に上げて2004年1月3日にアメリカコネチカット州でWBO世界ライト級王座を17度防衛中で無敗のアルツール・グレゴリアンと対戦し、4度のダウンを奪い3-0の判定勝ちで王座を奪取し、無敗の相手に初黒星をつけた。 2004年8月7日、アメリカコネチカット州でディエゴ・コラレスと初防衛戦で対戦。10回にダウンを喫すると、そのまま試合を放棄し、10回1分24秒TKO負けとなり防衛に失敗、これが初敗戦となった。 2006年4月29日、アメリカコネチカット州でWBO世界ライト級王座決定戦をザヒール・ラヒームと行い、12回判定で破り王座に返り咲いた。 同王座は防衛戦を行うことなく、同年10月4日に現役引退を発表し、王座返上した[1]。 しかし、すぐに引退を撤回し、WBA世界ライト級王者ファン・ディアスとの対戦を発表した。WBOはフレイタスの王座保持を認めるとともに、王座統一戦も許可した。その代わりに2007年2月17日にWBO世界ライト級暫定王座が設けられた。前の試合(ラヒーム戦)から1年ぶりとなる2007年4月28日にアメリカコネチカット州でディアスと対戦したフレイタスは、8回終了時棄権により王座統一に失敗、WBO王座から陥落した。その後、ブラジルのテレビ番組で再び引退を表明した。

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関光博 – Wikipedia

関 光博(せき みつひろ、1982年5月8日 – )は、東京都出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー、右サイドバック。 中学生時代までは、出身地である町田市の地元クラブである町田JFCジュニアユースでプレー。その後國學院久我山高等学校、駒澤大学を経て、2005年ロッソ熊本に入団した。加入初年度にクラブのJFL参入を経験し、3年目の2007年にはJリーグ参入を経験した。 2008年3月8日に愛媛県のニンジニアスタジアムにて開催されたJ2リーグ開幕節愛媛FC戦にてJリーグ公式戦に初出場した[4]が、その後は出場機会に恵まれず、3試合出場という成績で同年度シーズンを終えた。11月29日には、契約を更新しない旨が発表され[5]熊本を退団した。 2009年に当時JFL所属であったニューウェーブ北九州へ入団。22試合に出場して4得点を挙げ、クラブのJリーグ参入を経験した。翌2010年3月21日に北九州市立本城陸上競技場にて開催されたJ2リーグ第3節東京ヴェルディ戦で10分に先制点を挙げた[6]が、これがJリーグにおける初得点となった。2012年シーズン限りで契約満了により退団[7]。 2013年3月、東京ヴェルディへ移籍[8]。2014年1月、契約満了により退団[9]。 2014年はシーズンに入ってからも所属チームがなかったが、9月に鹿児島ユナイテッドFCに加入した[10]。 2018年1月、藤枝MYFCへの完全移籍が発表された[11]。同年12月、契約満了により藤枝を退団した[12]。 1年間無所属であったが、2020年1月30日、タイ・リーグ3のトランFCと契約[13]。 所属クラブ[編集] 個人成績[編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦

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波多野勤子 – Wikipedia

波多野 勤子(はたの いそこ、1905年12月26日 – 1978年9月15日[1])は、日本の心理学者。東京出身。父は畠山健[2]。 1927年(昭和2年)日本女子大学英文学部を卒業[1]、女子経済専門学校の英語教師となる。 1928年(昭和3年)日本女子大学児童研究所の開設で所員になる。1930年(昭和5年)波多野完治と結婚。 1936年(昭和11年)東京文理科大学心理学科選科を卒業[1]。 1937年(昭和12年)日本女子大学児童研究所を辞して東京文理科大学教育相談員兼心理学科副手となる。1948年(昭和23年)日本大学の大学院に入学する一方、恩賜財団愛育会愛育研究所[1]教育部員となる(1957年まで)。 1950年(昭和25年)に出版した『少年期―母と子の四年間の記録』がベストセラーとなり、脚光を浴びる[1]。 1953年(昭和28年)東洋大学助教授。1956年(昭和31年)日本大学文学博士。1960年(昭和35年)日本児童研究所を創設、所長に就任。 1963年(昭和38年)国立音楽大学大学教授(1971年まで)。同年、財団法人母親乃学園を創設して理事長になる(1966年に「波多野ファミリースクール」と改称)[3]。1964年(昭和39年)社会福祉法人日本家庭福祉協会を設立して理事長となる。 1966年(昭和41年)、文学博士の学位を取得(女性としては3人目、心理学専攻では日本初)[1]。 1978年(昭和53年)9月15日 、癌性腹膜炎で逝去。享年72。[4] 1967年に森田たまに伴われた波多野の訪問を受けた佐藤栄作首相は、「立派な夫人で、もっとゆっくり話して見渡い」と日記に綴っている[5]。 『波多野勤子著作集』全8巻 小学館 1982年 –

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野末陳平のオール電話リクエスト – Wikipedia

野末陳平のオール電話リクエスト(のずえちんぺいのオールでんわリクエスト)は、かつてニッポン放送の土曜日朝の時間帯で放送されていたラジオ番組。パーソナリティは野末陳平。放送期間は1971年11月6日から1980年9月27日まで。 目次 1 放送時間 2 出演者 3 概要 4 内包番組 放送時間[編集] 毎週土曜日 9:00~11:00 パーソナリティ:野末陳平 番組開始当初のタイトルは「野末陳平のオールリクエスト」であったが、1975年途中より「野末陳平のオール電話リクエスト」にタイトルが変更された。 ニッポン放送で平日の番組編成から独立し、土曜日編成がスタートした1971年11月6日に放送開始。当初は9時から12時までのワイド番組『土曜スタジオ1240』の9時から11時までの構成番組として放送され(11時から12時までは演出家・放送作家の塚田茂をメインパーソナリティとした『電話でオピニオン』を放送)、1973年4月からは『土曜スタジオ1240』の終了に伴い単独番組となって放送が継続された。リクエスト、リスナーからのお便りの他、野末得意の税金の話を挟みながらの番組進行となっていた。 番組終了後は野末陳平に代わり、芸能リポーターの梨元勝をメインパーソナリティとした『梨元勝のオール電話リクエスト』が1980年10月4日よりスタートしたが、1981年4月25日の終了後には『チエちゃん・陳平の歌謡ビッグサタデー』が10時から14時30分までのワイド番組として1981年5月2日から新たにスタート。野末が土曜のワイド番組担当として再び登場することになり、元ニッポン放送アナウンサーの西村知江子と共にメインパーソナリティを務めた。 内包番組[編集] ニュース 交通情報 メタメタプレゼント

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セメイ – Wikipedia

座標: 北緯50度24分20秒 東経80度13分45秒 / 北緯50.405454度 東経80.229034度 / 50.405454; 80.229034 セメイ(カザフ語:Семей、ラテン文字転写:Semey)は、カザフスタン北東部の東カザフスタン州の都市。 かつてはセミパラチンスク (Семипалатинск) と称された。 1999年の統計で人口は269,600人。 セメイは、1939年からセミパラチンスク州の州都であったが、1997年に同州が東カザフスタン州と合併したため、現在の州都はオスケメンとなっている。 1718年に、ロシア人がイルティシュ川沿岸に城砦を築き、初めての入植を行った。城砦の原型となった仏教寺院跡の7つの建物から、城砦は「7つの部屋の町」を意味するセミパラチンスクと名付けられた。 城砦はイルティシュ川の氾濫に苦しめられたため、1778年に18km上流の現在の位置に移設された。 城砦の周囲には、カザフ人遊牧民とロシアとの間の河川交易に携わる住民が居住し、小規模な都市が形成された。 1910年代末にトルキスタン・シベリア鉄道がセメイまで敷設されると、中央アジアとシベリアの中間にある交通の要所として繁栄した。 作家のドストエフスキーがシベリア流刑後の兵役期間(1854年から1859年)中に当地の守備大隊に配属され、知り合った女性と最初の結婚をしている。カザフ国民文学の祖とされるアバイ・クナンバイウルが学生時代を過ごしたことでも知られる。

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エーオン – Wikipedia

エーオン・コーポレーション(Aon Corporation)はアメリカ合衆国・シカゴに本社を置く保険関連企業。ニューヨーク証券取引所(ティッカーシンボル:AON)に上場している。 エーオンはリスクマネジメント、保険、再保険ブローカー、人事および経営のコンサルティング、特殊な保険のアンダーライティングの分野のリーディングカンパニーである。1982年にライアン保険グループ(Ryan Insurance Group)がコンバインド・インターナショナル・コーポレーション(Combined International Corporation)と合併して発足した。コンバインド・インターナショナル・コーポレーションは1919年にW・クレメント・ストーン(英語版)が、ライアン保険グループは1960年代にパット・ライアンが、それぞれ作った保険会社だった。新社名「Aon」はゲール語で「ひとつ」を意味する。現在、本社機能はシカゴのAONセンターにある。 エーオンは120以上の国で活動し、500箇所以上の事業所で、約43,000人を雇用している。エーオンは世界最大の再保険ブローカーであり、世界最大のキャプティブ保険会社(リスクを保有する子会社)の運営者であり、世界最大の純保険ブローカーであり、世界第3位の従業員福利厚生・共済制度コンサルタントである。また電化製品などの保証期間延長(ワランティー・エクステンション)サービスも行っている。アルゼンチンでは、エーオンは修理店のネットワークも保有している。 2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件のとき、エーオンのニューヨーク支店はワールドトレードセンター南棟の92階と98階~105階を占めていた。このため170人以上の従業員が犠牲となった。2010年6月から、AIGに代わり、マンチェスター・ユナイテッドFCのメインスポンサーとなる。契約は2014年までで、以降はゼネラルモーターズのブランド「シボレー」に変更された。 関連項目[編集] 同業他社 外部リンク[編集]

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厲王 – Wikipedia

この項目では、紀元前9世紀の周王について説明しています。紀元前8世紀の楚王については「蚡冒」をご覧ください。 厲王(れいおう)は、西周時代の周の第10代王。 周の夷王の子として生まれた。夷王が死去すると、厲王が周王として即位した。厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、民衆は物事を口にするのを憚り、視線によりその意図を伝え合ったとされる。これにより周の国勢は凋落し、朝政は腐敗を極めた[1]。 金文によれば、厲王は南国の服子を討伐したり[2]、晋の献侯とともに夙夷を征伐したり[3]と、親征を繰り返した[4]。 民衆の不満が募り、紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。事件に際して厲王は、鎬京を脱出して黄河を越え、彘(現在の山西省霍州市)に逃れた。そのため、『史記』によれば周公と召公が代わって朝政を見る共和の体制となった[1]。一方『竹書紀年』によれば、この時期に共伯和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされる。 紀元前828年(共和14年)に厲王は死去し、周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。 また、宣王の時代に厲王の末子である姫友は鄭に封じられ、鄭の桓公となった。 参考文献[編集]

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勝谷ケンシ – Wikipedia

勝谷 ケンシ(かつや けんし、1960年 – )kenlegendは、日本のCMディレクター、映像作家、演出家、シンガーソングライター、コンポーザー。 熊本県生まれ大阪府育ち。大阪芸術大学放送学科卒業後、CM製作会社ESPAにてCMの制作、企画演出に携わる。1987年フリーランスとして独立。以降、CMにかかわらず、あらゆる分野の映像の企画演出を手掛る。 また、音楽コンポーザーとしても活動。CMなどの映像コンテンツを企画段階から音楽も含めてトータルでクリエイトすることを心情としている。 勝谷ブラザーズの長兄。 次男ヒロシはベーシスト、三男はキーボーディストで、Mr.Childrenをはじめ様々なアーティストのサポートメンバー、プロデューサーとして活躍中のSunny。 2021.10 はくばく社歌をプロデュース。 作曲:宮沢和史 編曲プロデュース:kenlegend 唄:清水雷電 仲田霞 2021.10 MindfulMine名義にて3曲入りミニアルバム「Let’s Maobics」をリリース。 配信サイトリンク 2020.8 3曲入りミニアルバム「kokoro no kakera/心のかけら」リリース。

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唄子・啓助のおもろい夫婦 – Wikipedia

『唄子・啓助のおもろい夫婦』(うたこ・けいすけのおもろいふうふ)は、フジテレビ系列局で放送されていたフジテレビ製作のトーク番組である。製作局のフジテレビでは1969年4月6日から1985年3月27日まで放送。 視聴者参加型の公開番組で、収録は東京都内のサテライトスタジオ → 山野ホールで行われていた。 番組は毎回2組の熟年夫婦を招き、司会の京唄子と鳳啓助が彼らに馴れ初めから結婚に至るまでのエピソードや夫婦の悩み事などを面白おかしくインタビューしていた。苦労話に対しては、唄子が目から大粒の涙をこぼすこともしばしばあった。籍を入れたのが戦中・戦後であったなどの事情により、結婚式を挙げられなかった夫婦を多数招いての「合同結婚式」企画を行ったこともある。 出場夫婦には、トークの終了後にプレゼントがあった。一方の夫婦には、東亜国内航空(日本エアシステムを経て現・日本航空)で行く国内旅行を、もう一方の夫婦には、ナショナル(現・パナソニック)のホームビデオに本番組出演テープを添えて贈呈していた。 エンディングでは、農村の未舗装の道で夫が引く荷車の荷台に妻が乗り、赤ん坊に授乳するフィルム映像を流していた。そして啓助が作った以下の詩をテロップで流していた。 夫婦、不思議な縁(えにし)で結ばれし男と女。もつれ合い、化かし合い、許し合う、狐と狸。夫婦、おもろきかな、おもろきかな。この長き旅の道連れに幸せあれ…。 番組は1985年3月いっぱいで終了し、16年間の歴史に幕を降ろした。 いずれも日本標準時。 日曜 22:15 – 23:00 (1969年4月6日 – 1970年9月) 日曜 22:15 –

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