Month: March 2022

コルヒチン – Wikipedia

コルヒチン(英: colchicine)とはイヌサフラン科のイヌサフラン(Colchicum autumnale)の種子や球根に含まれるアルカロイドである。化学式はC22H25NO6。リウマチや痛風の治療に用いられてきたが、毒性も強く下痢や嘔吐などの副作用を伴う。また種なしスイカなどの倍数体植物種の生産や品種改良の[1]作出にも用いられる。 イヌサフランはシチリア出身のローマ帝国の医者ペダニウス・ディオスコリデスの『デ・マテリア・メディカ』(『薬物誌』)において痛風に効くと記載されている。その有効成分であるコルヒチンは1820年にフランスの化学者ピエール=ジョセフ・ペルティエとジョセフ・カヴェントゥによって初めて分離され[2]、のちにアルカロイドとしての構造が明らかにされた。 生物作用[編集] 微小管の主要蛋白質であるチューブリンに結合して重合を阻害し微小管の形成を妨げる。細胞分裂を阻害するほかに、好中球の活動を阻害し抗炎症作用をもたらす。痛風における疼痛抑制と抗炎症効果はこれによると考えられている。 医薬品としての利用[編集] 日本での厚生労働省認可の適応は「痛風発作の緩解および予防」、「家族性地中海熱」である。痛風発作の発現後、服用開始が早いほど効果的である。予防投与では、発作が予感されるかなりの初期でないと効き目が少ないのが特徴であり、痛風発作以外への鎮痛・消炎作用はほとんど認められない。長期にわたる(予防投与も含めて)服用は副作用発現の可能性が高くなるので、医師(できれば専門医)に受診しながらの服用が重要である。副作用には胃腸の不快感や好中球減少症等があり。投与量過多により骨髄抑制、貧血を起こすことがある。2016年、高田製薬が家族性地中海熱に対し公知申請し、承認された[3]。他に適応外で心膜炎、アミロイドーシス、強皮症、ベーチェット病等に用いられる。 中毒症状はヒ素中毒に類似する。服用後2–5時間で口腔・咽頭灼熱感、発熱、嘔吐、下痢、背部疼痛、腎不全などの症状が発現する。呼吸不全により死亡することもある。解毒剤はない。致死量は種子の場合、数グラムである。 その他の応用[編集] コルヒチンは植物の細胞分裂時に染色体の倍加(染色体異常)を誘発する作用がある。これを利用して種なしスイカ、あるいはその他の育種のための四倍体や倍化半数体の作出にも用いられる。また、細胞分裂を阻害し、細胞分裂中期で分裂を停止させる性質を利用して核型の診断にも用いる。 コルヒチンが含まれる植物[編集] イヌサフラン(コルチカム)のほか、グロリオサの球根(ヤマイモの球根に相似)にも含まれており、誤食による死亡事故が起こっている。グロリオサには、コルヒチンのアセトアミド基がホルムアミド基に置き換わったグロリオシンも含まれている[4]。 ^ 鈴木勉、田中真知『学研雑学百科 毒学教室 毒のしくみから世界の毒事件ま簿まで 毒のすべてをわかりやすく解説』株式会社学研マーティング、2011年、40ページ、ISBN 978-4-05-404832-4 ^

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東急目蒲線 – Wikipedia

2000年8月6日に目蒲線から分割された目黒線については「東急目黒線」を、おなじく東急多摩川線については「東急多摩川線」をご覧ください。 停車場・施設・接続路線(2000年8月5日現在) 目蒲線(めかません)は、かつて東京都品川区の目黒駅と大田区の蒲田駅との間を結んでいた東京急行電鉄(東急[1])の鉄道路線である。 東京急行電鉄の母体でもある目黒蒲田電鉄が最初に開業させた路線である。2000年8月6日に多摩川駅(同日、多摩川園駅から改称)を境に以下の路線に分割され、「目蒲線」という名称は消滅した。 系統名としての分割 路線名としての分割 目黒駅 – 田園調布駅:目黒線 田園調布駅 – 多摩川駅:従来この区間で重複(並走)していた東横線の複々線の内の2本という扱いに変更 多摩川駅 – 蒲田駅:東急多摩川線 路線データ[編集] 路線の分割直前のもの。 路線距離:12.9km 軌間:1067mm 駅数:15駅(起終点含む)

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朝日野駅 – Wikipedia

現ホーム(右)と旧ホーム跡(左) 朝日野駅(あさひのえき)は、滋賀県東近江市鋳物師町にある近江鉄道本線の駅である。駅番号はOR31。 ホームは蒲生郡日野町大字石原に跨っている。 1面1線の無人駅である。トイレはない。 かつては2面2線であり、使われていないホーム跡がある。 利用状況[編集] 近年の一日平均乗車人員の推移は下記のとおり。(東近江市統計書より) 年度 一日平均乗車人員 2002年 38 2003年 37 2004年 31 2005年 29 2006年 35 2007年

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ブライアン・シコースキー – Wikipedia

ブライアン・パトリック・シコースキー(Brian Patrick Sikorski, 1974年7月27日 – )は、アメリカ合衆国ミシガン州出身の元プロ野球選手(投手)。2019年12月からマイアミ・マーリンズのスカウトを務める。 プロ入り前[編集] ミシガン州デトロイトにスロバキアから移住した東欧ユダヤ系とアイルランド系の家庭に生まれる。 プロ入りとアストロズ傘下時代[編集] 西ミシガン大学から1995年のMLBドラフト4巡目(全体109位)でヒューストン・アストロズに指名され契約。 レンジャーズ時代[編集] 1999年のシーズン中にウェイバー公示され、テキサス・レンジャーズに移籍。2000年にメジャー初昇格し、10試合(うち先発が5試合)に登板した。 ロッテ時代[編集] 2001年シーズン途中の6月29日に千葉ロッテマリーンズに入団[1]。1年目の成績は振るわなかったが、150km/hを超える速球やナチュラルシュートを高く評価されて翌年の残留契約を勝ち取る。 2002年は47試合に登板し、防御率3.44と活躍した。主に中継ぎで登板しながらも100を超える奪三振数を記録した。 2003年も中継ぎ・セットアッパーとして2年連続で47試合・80イニング近く投げぬき、防御率も3点台前半と健闘。同時期に台頭した小林雅英、川井貴志、小林宏之らと共に鉄腕リリーフ陣の一角としてチームに貢献した。しかし、オフにボビー・バレンタインが監督に就任し外国人選手の刷新を図ったため、10月30日に戦力外通告を受けロッテを退団。 巨人時代[編集] 2003年12月22日にリリーフ陣の駒不足に悩む巨人が獲得した。 2004年に7月度のJA全農Go・Go賞(救援賞)を初めて獲得。同年は抑えで登板することもあったが、抑えでは打ちこまれることが多く、この年の巨人は前年同様抑えを固定できず優勝を逃す一因となった。だがセットアッパーとしては活躍し、崩壊状態だったリリーフ陣を岡島秀樹らと共に支えた。この年は62試合に登板し、5勝3敗5セーブ、防御率2.67と安定感を保った。 2005年は70試合に登板し、7勝1敗14ホールド、防御率3.29と活躍。チームの外国人投手としては2人目となる7連勝を記録する[2]。なお、唯一の1敗は開幕第3戦の広島戦で、新井貴浩に逆転2ラン本塁打を打たれたことによるものだった。また打撃では9月3日の対広島戦(広島市民球場)で、7回表に長谷川昌幸から2点タイムリー二塁打を放ち、来日5年目で初安打も記録した。しかし、シーズン終了後の11月7日に翌年の戦力構想から外れ退団。本人が日本でのプレー続行を希望したため球団がウェイバー公示申請を行った。

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野中直子 – Wikipedia

野中 直子(のなか なおこ、1951年5月21日 – )は、元文化放送アナウンサー。1974年4月入社。同期には吉田照美、松田啓子がいる。東京都出身。 慶應義塾大学文学部卒業。東京都立新宿高等学校出身で、同級生には作曲家の坂本龍一、自民党衆議院議員(元厚生労働大臣・元官房長官)の塩崎恭久、ニッポン放送アナウンサーの那須恵理子、写真家の馬場憲治がいる[1]。血液型B型。 2011年4月3日付けで、定年退職をした。 過去の担当番組[編集] 林家正蔵のサンデーユニバーシティ 文化放送ニュース、天気予報(土曜・日曜) SATURDAY HUMAN SQUARE 高木美保 close to you みのりの箱 クリーンライフメモ(月〜金 12:30頃)

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マデレーン (スウェーデン王女) – Wikipedia

マデレーン王女(Prinsessan Madeleine, Madeleine Thérèse Amelie Josephine Bernadotte, 1982年6月10日 – )は、スウェーデン(ベルナドッテ王朝)現国王カール16世グスタフとシルヴィア王妃の末子。スウェーデン王位継承順位6番目。公式の称号は Hennes Kunglig Höghet Madeleine, Sveriges Prinsessa, Hertiginna av Hälsingland och

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地鉄ビル前停留場 – Wikipedia

地鉄ビル前停留場(ちてつビルまえていりゅうじょう)は、富山県富山市桜橋通りにある、富山地方鉄道富山軌道線本線の停留場。駅番号はC13。 富山県道22号富山停車場線上の併用軌道に設置されている。軌道は当停留場付近で大きくカーブしている。 1934年頃のルート変更に伴って設置された当初は「桜町停留場」と名乗っていた(旧ルート上にも同名の停留場が存在した)[2]。当停留場が所在する交差点(中央郵便局前交差点)の北東角(現・富山地鉄ゴールデンボウル所在地)には軌道線の桜町車庫があり、車両基地として機能を有していた。この車庫は1951年(昭和26年)10月10日に千歳町へ機能が移転されて廃止された[3]。その後1964年(昭和39年)、東部線の線形改良に伴う付け替えにより交差点を西へ直進する線路が敷設され、分岐停留場となった[3]。しかし東部線は1972年(昭和47年)に廃止され、分岐停留場としての役目はわずか8年で終了することとなった[4]。2009年(平成21年)に富山都心線「セントラム」が開業し、当停留場も環状系統(3系統)の停留場に含まれることとなったが、環状系統は反時計回り一方通行の運用であるため、「セントラム」が停車するのは内回りの中央郵便局西側のホームのみとなっている。 年表[編集] 周辺の主な施設・店舗[編集] 富山地方鉄道本社が入る地鉄ビル。路上右端に地鉄ビル前電停が見える(2009年撮影) 隣の停留場[編集] 富山地方鉄道 富山軌道線(本線) 電気ビル前停留場 (C12) – 地鉄ビル前停留場 (C13) – 電鉄富山駅・エスタ前停留場 (C14) 富山軌道線(東部線)(1972年廃止) 東田地方停留場 –

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監護 – Wikipedia

この記事は特に記述がない限り、日本国内の法令について解説しています。また最新の法令改正を反映していない場合があります。ご自身が現実に遭遇した事件については法律関連の専門家にご相談ください。免責事項もお読みください。 監護(かんご)(英:custody、独:Betreuung) とは、ある程度の期間にわたって継続的に、保護が必要な者(本人)がその福祉(最善の利益 best interest ともいう。)に適う日常生活を送れるよう配慮する責任をいう。意味の似た言葉に「看護 nursing」や「介護 care」があるが、「看護」や「介護」は病気やけがを患った者の身体動作を物理的に補助することを意味する(そのうち未治癒の患者を一時的に補助することを「看護」と、症状が固定した患者を継続的に補助することを「介護」と呼び分けることが多い。)のに対して、「監護」は法的責任を意味する[1]ので、本人を物理的に補助しなくても「監護」をしたことになる場合はある。 監護をする者(監護者)は、「保護者 protector」(未成年者 minor を監護する者)、「後見人 custodian」(無能力者 incompetent person を世話する者)などと呼び分けられる。未成年者の監護と無能力者の監護とでは、目的が異なる。成人である無能力者の最善の利益とは、本人が自らの意思決定に沿った日常生活を送れることであるから、無能力者に対する監護は、本人が自らの意思決定に沿った日常生活を送れるように、意思決定を支援するとともに、意思決定に沿った日常生活を阻害する要因に対する合理的配慮をすること(ノーマライゼーション normalization)が目的となる[2]。これに対して、未成年者の最善の利益とは、健全な社会人として成長することであるから[3]、本人の意思決定を支援することだけでなく、本人を教育、指導、監督することも未成年者の監護の目的に含まれる。 未成年者の監護[編集] 未成年の子に対しては、原則として親が監護権を有する(民法820条)。監護権は親権を構成する権利(義務)のひとつであり、「財産管理権」と対比させて「身上監護権」ともいう。両親が離婚した場合は、両親のいずれかにこれを帰属させなければならない。この場合、「財産管理権」を有する法定代理人と「身上監護権」を有する監護者が異なる場合がありうる(民法第797条など参照)。 児童福祉法では、児童相談所や児童福祉施設の長は、一定の場合に、児童に対して監護に関し必要な措置(監護措置)をとることができる(児童福祉法32条の2第2項、47条3項)。

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ウジュン・クロン国立公園 – Wikipedia

ウジュン・クロン国立公園(ウジュン・クロンこくりつこうえん)はインドネシアにある国立公園の一つ。1991年、クラカタウ諸島自然保護区とともにユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。 ウジュン・クロン国立公園はインドネシア初の国立公園である。気候としては、低地熱帯雨林帯に属し、熱帯性植物が生い茂っている。 公園内には100台近いカメラが設置されている。[1] また、開発の進むジャワ島において貴重な生物の棲息地帯でもある。絶滅が危惧されているジャワサイやバンテン(野生牛)、カニクイザル、インドクジャクなどの生息地である。 しかし、ウジュン・クロン国立公園は活火山であるクラカタウ山の危険区域に位置するため、インドネシア政府は同公園からジャワサイを移動させるため、ジャワ島とスマトラ島の他の地域の調査を進めている。[1] 登録基準[編集] この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。 (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。 (10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。 座標: 南緯6度44分48秒 東経105度20分1秒 / 南緯6.74667度 東経105.33361度 / -6.74667; 105.33361

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ブロンソン・アローヨ – Wikipedia

ブロンソン・アンソニー・アローヨ(Bronson Anthony Arroyo, 1977年2月24日 – )は、アメリカ合衆国フロリダ州キーウェスト出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 プロ入り前[編集] 1977年2月24日、キューバ人の父とアメリカ人の母の間に生まれる。父が「チャールズ・ブロンソンのようなタフガイになってほしい」と願ったことから “ブロンソン” と名付けられた、という[2]。その後野球を始め、高校時代まで遊撃手や投手として活躍する。子供の頃のヒーローは、同じ遊撃手のオジー・スミスだった[2]。 プロ入りとパイレーツ時代[編集] 1995年のMLBドラフト3巡目(全体69位)でピッツバーグ・パイレーツから投手として指名を受け、プロ入り。投手専門になる。 2000年6月12日のアトランタ・ブレーブス戦で、先発としてメジャーデビューし、5回5失点で勝敗はつかなかった。0勝3敗で迎えた6試合目の登板で初勝利を挙げた。その後、主に先発や中継ぎとして2年間で44試合に登板する。しかし3年目は9試合のみの登板にとどまった。 レッドソックス時代[編集] 2003年2月にウェイバー公示を経て、ボストン・レッドソックスへ移籍した。 AAA級ポータケット・レッドソックスでプレーしていた2003年8月10日、AAA級のインターナショナルリーグにおいて、2000年の大家友和以来、史上4人目となる完全試合(9イニング)を達成した[3]。この年、インターナショナルリーグ最優秀投手に選出された。[4]。 2004年にメジャーで先発ローテーションに定着し、自身初の2桁勝利(10勝)を挙げた。7月24日に投球をアレックス・ロドリゲスに当てて乱闘騒ぎになるなど、この年は両リーグ最多の20個の死球を与えてしまった。この因縁もあって、10月19日のリーグチャンピオンシップシリーズ第6戦、ロドリゲスが打った投手ゴロでアローヨがロドリゲスにタッチしようとすると、ロドリゲスはそのグラブを手で払いのけ、ボールが転々とする間に三塁ランナーのデレク・ジーターがホームインしたように思えたが、直後に守備妨害が宣告され、ロドリゲスはアウトになった。第3戦ではアローヨから場外ホームランを打っていたロドリゲスがイライラして起こしたプレーだと思われる。その後のレッドソックスにとって86年ぶりとなるワールドシリーズ優勝にも貢献した。 2005年には自己最高となる14勝を挙げた。 2006年1月には代理人から安すぎると反対されるも3年総額1125万ドルで契約延長した[5]。 レッズ時代[編集]

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