太田正孝 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “太田正孝” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年12月) 横浜市議会議員を務めた人物については「太田正孝 (市議会議員)」をご覧ください。 代議士初当選時における太田正孝の肖像写真 太田 正孝(おおた まさたか、1886年(明治19年)11月13日 – 1982年(昭和57年)7月10日[1])は、日本の大蔵官僚、政治家。衆議院議員に7回、参議院議員に1回当選した。静岡県出身。 目次 1 略歴

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ルール占領 – Wikipedia

戦間期におけるルール占領(ルールせんりょう)とは、1923年に発生したフランスおよびベルギーが、ドイツのルール地方に進駐、占領した事件。当時の同地方はドイツが生産する石炭の73%、鉄鋼の83%を産出する経済の心臓部であった。 第一次世界大戦のドイツ帝国軍侵攻により、フランスおよびベルギーの炭鉱地帯は大きな損害を受けた。戦後処理を討議したパリ講和会議等でフランスはドイツに対して多額の賠償金と、自国およびベルギーに対する石炭の現物支給を要求し、ヴェルサイユ条約などで賠償支払いおよび石炭の無償供給が定められるとともに、ルール地方を含むラインラントの非武装地帯化が定められた。しかしドイツの採炭能力も極度に低下しており、決定された量の半分以下しか供給することができなかった。フランスのアレクサンドル・ミルラン首相は、1920年2月のロンドン会議においてドイツの条約不履行を責め、連合国がドイツ最大の工業地帯にして炭鉱地帯であるルール地方を保障占領するべきだと主張した。イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相はドイツの不履行は不可抗力によるもので、自発的な不履行でない限りそのような強硬手段に出るべきではないと反論し、ミルランも折れた。しかし石炭供給状況はいっこうに改善されず、フランスはその後もルール地方の占領を主張し続けた。 1920年3月13日にはカップ一揆が発生、ドイツ政府はこれに労働者にゼネストをよびかけることで対抗し、鎮圧した。しかしルール地方のゼネストはその後も鎮静化せず、復帰した政府に様々な要求を突きつけるなど混乱していた。カップ政府をふくむドイツ政府はルール地方への出兵を検討し、連合国側に打診していたが、フランスはこれもドイツの条約不履行姿勢であると批判し、連合国による占領を重ねて主張した。一方イギリスはヴェルサイユ条約を緩和しても共和政政府を助けるべきであると考えており、フランスの強硬姿勢にはあくまで反対であった。フランスはドイツと直接交渉を行い、イギリス政府関係者を激怒させた。4月3日、ドイツは連合国の許可を得ないままルール地方に派兵した。フランスはこれに対抗してイギリスの反対を押し切って派兵し、フランクフルト・アム・マイン、ダルムシュタット、ハーナウ、ホンブルク、ディーブルクの五都市を占領した。ベルギーはフランスの行動を支持したが、イギリスはフランスの行動に激怒し、両国関係は英仏協商締結以来、最悪の状態となった。フランスはイギリスの撤兵要求に対して、ドイツが撤兵するまで占領を続けると回答し、ドイツ軍が撤兵した後の5月17日まで占領を続けた。 賠償金支払いの開始[編集] 1921年1月からパリで賠償金総額を確定する会議が開催された。会議の結果、ドイツは総額2260億金マルクを42年間にわたって支払うことが求められた。ドイツは賠償総額の削減を求めたが、3月1日から開催されたロンドン会議においてその要求は拒否され、8日からはデュッセルドルフなどが一時占領された。5月5日、連合国は賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルクと輸出額の26%を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドン最後通牒)を行った。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ社会民主党、独立社会民主党、中央党、そしてドイツ民主党の大半の議員が要求受諾を受け入れ、220対172で可決された。ヴィルトは賠償金支払いの「履行政策」を掲げ、5月31日に10億マルクの支払いを開始した。 しかし1921年度分の賠償を支払うことはできたものの、翌年分の支払いは困難となった。12月14日にドイツは賠償委員会に対して翌1922年1月と2月の賠償支払い延期を要請した。委員会は延期を認めたものの、支払計画の提出と、一部の賠償支払いを要求した。この間にフランスでも政変が起こり、対独強硬派のレイモン・ポアンカレが首相となった。ヴィルト内閣は税制改革や強制公債発行などを主軸とする支払計画を作成したが、強制公債に対してはドイツ国内でも強い反発があった。しかしインフレーションの進行により、公債による賠償資金調達は失敗に終わった。ドイツはジェノア会議において賠償金問題を取り上げるよう要請したが、フランスの反対により取り上げられなかった。1922年後半にはインフレがさらに進行し、マルクの対ドルレートは、7月に1919年時点の117.5倍、12月には1807.8倍に達していた。ドイツはこの状況では支払は不可能であるとし、残りの1922年分と1923年、1924年分の支払免除を求めた。8月の連合国会議は支払い猶予については決定を延期するとしながらも、政府公債による支払を認めるなど、1922年中については事実上支払を免除した。11月14日、ヴィルト内閣は総辞職したが、それとともに「賠償金・現物払いの3-4年免除」を求める覚書を提出し、ヴィルヘルム・クーノ内閣もその見解を継承し、改めて連合国に支払の2年猶予を求めた。しかし12月19日からのロンドン首脳会議においてポアンカレは、ドイツに対して「生産的担保」を求め、ドイツ案は不十分であるとした。フランスも対英米の債務に苦しんでおり、賠償金支払いは不可欠であった。 占領開始[編集] 葬儀の後、クルップの工場から墓地へ向かう犠牲者の棺(1923年4月10日) フランス軍の命令に従わなかったとして行われた鉄道労働者の大量追放により、ルール地方を離れる家族(1923年4月) 12月26日、連合国賠償委員会はドイツによる木材の現物賠償による引き渡し量の不足は、ドイツ政府の故意によるものであると認定した。この認定にはイギリスは反対し、1923年1月に開催されたパリ会議では賠償総額を500億マルクに減額するなど、支払の緩和政策を主張した。しかしフランスはこれを拒絶し、会議は物別れとなった。さらに1月9日の賠償委員会では石炭供与についても不履行があると認定した。グスタフ・シュトレーゼマンは、フランスが1922年に受け取れる現物賠償を、国内産業への配慮から故意に受領しなかったとして批判している 1月4日、ポアンカレはルール占領を声明し、1月11日からフランス5個師団、ベルギー2個師団がルール地方の占領を開始した。占領の公式な名目はルール地方の工業および鉱山の監視する連合国監視団の保護であったが、実際にはルール地方の物流を差し押さえることによって賠償を確保するとともに、ドイツに圧力を加えるためのものであった。 受動的抵抗[編集] この節の加筆が望まれています。 ドイツは駐仏大使を召還し、さらに占領に対して受動的な抵抗運動を呼びかけた。炭坑や工場、鉄道、行政は全面的に不服従やストライキを行い、占領に抵抗した。ストライキに参加した労働者の給料は、政府が保証した。また、当時連合国軍の占領下にあったラインラントでも占領軍に対するテロが発生するようになり、これらの地域の情勢は極度に悪化した。イギリスはロイド・ジョージが「非武装の国に対する軍事侵略であり、正当化されず、無益であることがいずれ判明するべきものであった」と批判し、労働党などの左派もこれを批判した。フランス国内では社会党など左派は占領に反対していたが、右派やフランス国内の新聞はさらに強硬な対応を取るよう主張していた。5月2日、ドイツは連合国に対して賠償総額300億金マルクに確定するよう求めたが、フランスとベルギーはこの要求を拒否した。 5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した。5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した。抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした。 この間にも給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で紙幣が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションへと陥った。1923年1月には1ドル=1万7792マルクのレートであったが、7月には1ドル=35万3410マルク、8月には1ドル=462万455マルク、9月には1ドル=9886万マルク、10月には1ドル=252億6020万3000マルク、11月には4兆2000億マルクに達した。 占領の解除も行われず、経済情勢も不穏となったドイツは混乱をきたした。6月6日にはザクセン、7月20日にはブレスラウ、7月23日にはフランクフルトなどで争乱事件が起きた。6月7日、ドイツ政府は連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求めた。イギリスとイタリアは妥協的であったものの、フランスとベルギーはあらゆる抵抗の中止が交渉の前提であると拒絶した。イギリスのジョージ・カーゾン外相は6月11日、フランスとベルギーの占領はヴェルサイユ条約違反であるとフランス政府に通告した。カーゾンはさらに7月20日、現状の賠償プランが実行不可能であるとし、アメリカの仲介による中立的な査定機関を設立するべきであるという書簡をフランス政府に送付した。ポアンカレは現状のドイツ経済の混乱はすべてドイツ政府の愚かな行動が原因であるとし、賠償金の減額には一切応じない姿勢を強調した。 8月11日には社会民主党がクーノ内閣に不信任を突きつけ、クーノ内閣は退陣へと追い込まれた。社会民主党、中央党、民主党、ドイツ人民党は大連立内閣を組織し、グスタフ・シュトレーゼマンが首相となった。財務相となったルドルフ・ヒルファーディングは今後4週間の支出400兆マルクのうち、ルール闘争支援費用が240兆マルクに達すると試算しており、ルール闘争支援はすでに限界に来ていた。シュトレーゼマンは表面上闘争の継続を掲げていたが、冬が始まるまでの継続は不可能であると見ていた。政府の一部にはなおも抵抗継続を主張する声もあったが、9月26日、シュトレーゼマンは国会外交委員会において抵抗運動の終了を宣言することとなった。政府与党はこの表明を支持したが、ドイツ共産党とドイツ国家人民党は反対した。 受動的抵抗の中止声明は、ドイツ国内に激しい衝撃を与え、さらに政局は混乱した。9月26日にはフリードリヒ・エーベルト大統領が戒厳令を発し、指揮権を国防相に与えた。バイエルン州では右派のグスタフ・フォン・カールが政権を掌握し、共和国保護法を停止するなど、反中央政府的な動きを見せた。これらの動きは11月のミュンヘン一揆につながることになる。しかし一方で11月15日にはレンテンマルクの発行によるデノミネーションを実施し、インフレを沈静化させるのに成功した。11月23日、シュトレーゼマン内閣はバイエルン州問題に対する対応などをきっかけに社会民主党が連立離脱したために総辞職している。 占領の終わり[編集]

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ブレシア県 – Wikipedia

ブレシア県 Provincia di Brescia ブレシア県(ブレシアけん、イタリア語: Provincia di Brescia)は、イタリア共和国ロンバルディア州に属する県の一つ。県都はブレシア。 位置・広がり[編集] ロンバルディア州の東部に所在する県で、東にヴェネト州およびトレンティーノ=アルト・アディジェ州と境界を接する。県都ブレシアは、ベルガモの東南東約46km、クレモナの北北東約48km、ヴェローナの西北西約61km、州都ミラノの東約81kmに位置する。 県内の地域と主要な都市[編集] 2001年の国勢調査に基づく居住地区(Località abitata)別人口統計[3]によれば、人口1万2000人以上の都市は以下の通り。 ブレシア県北部、オーリオ川上流の山岳部はヴァル・カモニカと呼ばれる。主要都市としてはダルフォ・ボアーリオ・テルメがある。 ブレシアの北側地域は、ヴァル・トロンピア (it:Val Trompia) と呼ばれ、ルメッツァーネなどの都市がある。 ヴァッレ・トロンピアの東側には、ヴァッレ・サッビアおよびイドロ湖地方が広がる。 ブレシア県東部はガルダ湖に面しており、主要都市しては、デゼンツァーノ・デル・ガルダ、サロなどがある。 ブレシア県西部にはイゼオ湖がある。イゼオ湖の南にはフランチャコルタ地方が広がる。フランチャコルタ地方の都市としては、パラッツォーロ・スッローリオ。 デゼンツァーノ・デル・ガルダ

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元気満タン秋田だwin2 – Wikipedia

元気満タン秋田だwin2 愛称 Win ジャンル 情報番組 制作 秋田放送 パーソナリティ 伊藤綾子、松井梨絵子ほか テンプレートを表示 元気満タン秋田だwin2(げんきまんたんあきただういんず)は、秋田放送ラジオの、月曜 – 金曜日の12:20~15:25に放送された昼ワイド番組である。中継車ラジPALによる街頭中継も行われていた。  「120万人のいつでもラジオ」、「これはkikiますビタミンラジオ」などの昼ワイド番組の時間帯を継いできた。2004年11月放送分より、「元気満タン秋田だwin」からタイトル変更。2006年3月31日で放送が終了し、4月3日からごごはWIN’Sがスタートした。 メインパーソナリティーは、 ラジPAL(中継車)リポーター 歴代出演者 (元気満タン秋田だwin時代からも含む)[編集] 高橋美樹、遠藤里沙、松浦大悟、上野泰夫、松本龍、小林美紀、鍋倉美保、宇奈月満(リポーター)、物袋綾子(リポーター) コーナー[編集]

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竪狗 – Wikipedia

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 ナビゲーションに移動 検索に移動 竪狗(しゅく)は、将棋の駒の一つ。本将棋にはなく、大局将棋に存在する。 成ると豹王。 駒の動き[編集] 元の駒 動き 成駒 動き 竪狗(しゅく) ■   │   ■     │

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松ノ馬場駅 – Wikipedia

松ノ馬場駅(まつのばんばえき)は、滋賀県大津市坂本二丁目にある、京阪電気鉄道石山坂本線の駅。駅番号はOT20。 1927年 5月15日 – 琵琶湖鉄道汽船山上(現在は廃止) -松ノ馬場間開通時に開業。駅名は隣を通る松ノ馬場通りに由来すると思われる [※ 1]。 8月13日 – 当駅から坂本(現、坂本比叡山口)まで路線延伸。途中駅となる。 1929年4月11日 – 会社合併により京阪電気鉄道石山坂本線の駅となる。 1943年10月1日 – 戦時会社合併により京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の駅となる。 1945年 3月31日 –

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フェリペ4世 (スペイン王) – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “フェリペ4世” スペイン王 – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年9月) フェリペ4世(Felipe IV, 1605年4月8日 – 1665年9月17日[1])は、スペイン、ナポリ・シチリアの王(在位:1621年 – 1665年)[2]、ポルトガルの王(在位:1621年 – 1640年)。ポルトガル王としてはフィリペ3世。フェリペ3世と王妃マルガリータの息子。 若年で即位したこともあって、その治世の前半は国政のほとんどを寵臣オリバーレス公伯爵に一任していた[3]。ただし残された公文書を見ると、1630年代(このときフェリペは20代後半~30代)以降はオリバーレス公伯爵の言うがままというわけでもなかったようである。1643年にオリバーレス公伯爵を更迭した後は、その甥ルイス・メンデス・デ・アロを首席大臣に起用した。 フェリペ4世の治世のスペインは、なおヨーロッパの強国としての地位を保ってはいたし、文化面でも絵画のディエゴ・ベラスケス、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンゾ・カーノ、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、ホセ・デ・リベーラ、あるいはスペイン領ネーデルラントの宮廷に仕えたルーベンスら、文芸ではロペ・デ・ベガ、ペドロ・カルデロン・デ・ラ・バルカ、ゴンゴラ、フランシスコ・デ・ケベードら、他国を圧する才能を輩出していた。

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ニコライ・レザノフ – Wikipedia

ニコライ・レザノフ ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 露:ニコラーィ・ペトローヴィチ・レザーノフ, ロシア語: Никола́й Петро́вич Реза́нов, 1764年4月8日(ユリウス暦3月28日) – 1807年3月13日)は、ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。 露米会社(ロシア領アメリカ毛皮会社)を設立したほか、クルーゼンシュテルンによるロシア初の世界一周航海(1803年)を後援し、自ら隊長として日本まで同行した。この日本来航(1804年、文化元年)はアダム・ラクスマンに続く第2次遣日使節としてのものである。露日辞書のほか多くの著書は、自身も会員だったサンクトペテルブルクのロシア科学アカデミーの図書館に保存されている。彼は40代で死んだが、その早い死はロシアおよびアメリカ大陸の運命に大きな影響を与えた。 生涯および事績[編集] 露米会社[編集] サンクトペテルブルクに生まれる。14歳のころには既に5か国語をマスターしていたといわれる。1778年、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊。1782年には退役して地方裁判所の判事となり、1787年にはサンクトペテルブルク裁判所勤務、のち海軍省次官秘書などを務めた。 1791年にはデルジャーヴィン配下の官房長となる。女帝エカチェリーナ2世晩年の最寵臣プラトン・ズーボフはレザノフに関心を持ち、レザノフはズーボフのために部下として働くことになった[1]。ズーボフはこの時期に毛皮交易に関心を寄せており、東シベリアのイルクーツクにいる毛皮商人のグリゴリー・シェリホフと連絡をとっていた。シェリホフはイヴァン・ゴリコフとともに「シェリホフ=ゴリコフ毛皮会社」(Shelikhov-Golikov Fur Company)を設立し、アラスカ・北太平洋方面への植民や交易活動を行っていた。 1793年冬、レザノフはズーボフの代理としてイルクーツクのシェリホフの事業を視察するため、シベリア横断の旅に出た[2]。1794年夏にレザノフはイルクーツクに着いた。イルクーツクはレザノフの父も数十年前に官吏として赴任していたことがある街であった[3]。シェリホフが年に一度清国との国境の町キャフタで行う交易にもレザノフは同行した[4]。レザノフは、イギリスが海路を使って広州で行う交易に比べると、陸路による清露間のキャフタ交易が非効率かつ旧態依然であることを考えざるをえなかった[4]。1795年1月、レザノフはシェリホフの14歳の娘アンナと結婚し、新婦の持参金としてシェリホフの会社の持分が手に入った[5]。アンナは7年後に産褥死したが[4]、その間にレザノフは共同経営者として会社と事業の拡大を進めた。1795年にシェリホフが死ぬと彼は会社の指導者となった。しかし会社の所有権はシェリホフの妻ナターリアのものであり、ゴリコフの離脱にともない「アメリカ会社」と改名された[6]会社の経営からレザノフは次第に疎外されてゆく[7]。

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志比堺駅 – Wikipedia

志比堺駅(しいざかいえき)は、福井県吉田郡永平寺町松岡志比堺にある、えちぜん鉄道勝山永平寺線の駅である。駅番号はE11。駅舎本屋は国の登録有形文化財に登録されている[3]。 なお、駅所在地のかな表記は「しひざかい」であるが[4]、駅名は「しいざかい」となっている[1]。 単式ホーム1面1線[11]を有する地上駅で無人駅である[1]。かつては相対式ホーム2面2線で列車交換が可能となっていたが、現在は廃止され線路南側にホーム跡が残っている[1]。また、当駅は高台にあるため、駅舎と下の集落を結ぶ長い階段がある[1][12]。 階段から駅舎を見上げる 利用状況[編集] 1日の平均乗降人員は以下のとおりである[13]。 乗降人員推移 年度 1日平均人数 2011年 57 2012年 53 2013年 46 2014年 41 2015年 38 2016年

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