板橋宿 – Wikipedia
この項目では、武蔵国の板橋宿について説明しています。下野国の板橋宿については「板橋宿 (日光例幣使街道)」をご覧ください。 『木曾街道 板橋之驛』[注釈 1]天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉筆。画面の左端、道の中央に「是從板橋(これより いたばし)」と記されているであろう傍示杭[注釈 2]が建っている。中央より若干左手に見える姿のよい旅人は武家の夫婦で、1人の使用人が後に続く。その使用人は、乗っていくよう武家夫婦に声掛けすべく出茶屋から飛び出してきた駕籠かきを、巧みに遮っている。使用人の体の向きから察するに、おそらく3人は茶屋で一服していたのであろう。休憩後の出ばなの誘いを駕籠かきは振り切られてしまったように見える。しかし、武士の妻は声に応えてか頭の向きを変えている。駕籠かきが客をのがしたかどうかはまだ分からない。茶屋の中には客の町人2人がいて、榎(えのき)の陰に隠れて見えないが、飲み食いしているはずである。また、店先では馬子が馬のための草鞋を取り替えている。 板橋宿(いたばししゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。 中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場[注釈 3](武蔵国のうち、第1の宿[注釈 4])。 同時に、川越街道(川越児玉往還)の起点でもある。 所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村[注釈 5]。 現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。 板橋宿の特徴[編集] 江戸四宿の一つ[編集] 江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿とならび、江戸四宿の一つとして栄えた。 江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた[2]。
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