木下勝俊 – Wikipedia

木下 勝俊(きのした かつとし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、歌人。 初め龍野城主で、次いで若狭小浜城[5](後瀬山城)主で、官位が従四位下式部大夫、左近衛権少将であったので、通称を、式部大輔、若狭少将または若狭宰相という。龍野城主時代には龍野侍従ともいった。一時期はキリシタンでもあって洗礼名は「ペテロ」(ペドロ[6])と伝わる。歌人としては長嘯(ちょうしょう)または長嘯子(ちょうしょうし)、あるいは挙白(きょはく)、天哉爺(てんかおう)など様々の称を用いた。一般には木下長嘯子の名が高名。 関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、敵前逃亡したと戦後に責められて改易された。次いで父家定の備中足守藩を継いで第2代藩主となったが、異母弟利房と遺領を争って公儀の沙汰で所領没収とされた。以後、京の東山に隠棲して文人となった。作風は近世初期における歌壇に新境地を開いたものとされ、その和歌は俳諧師松尾芭蕉にも影響を与えた。 出自と家族[編集] 永禄12年(1569年)、木下家定の長男として生まれる[8]。家定は豊臣秀吉の正室高台院(北政所、おね)の父である杉原定利の子であるため、勝俊は高台院の甥にあたる。木下姓を称するが、秀吉と血のつながりはない。母は某氏[1][8]。 異母弟に利房、延俊、小早川秀秋など[9]。 勝俊の正室は森可成の娘うめ(宝泉院)。子息は嫡庶含めて1男4女あり、女児はそれぞれ、徳川家康の五男武田信吉の妻、山崎家治の妻、権大納言阿野公業の妻[3]となった。 男児に関しては、関ヶ原の戦いの年(1600年)に庶子が誕生したが、後述の失態の連座を避けるために、死んだことにされ、匿われたことが『常光院過去帳』や『挙白集』の「きならし衣」などを通じた後年の研究で判明している。この人物は長じて堀尾吉晴に仕え、堀尾家断絶後は、親族の浅野幸長のもとを頼り、さらに細川家家老松井興長に仕えて橋本姓を名乗った勝信であるという[10]。この系譜は現在も八代市で継続しているので血統は続いているとも言えるが、勝俊は後に継嗣なしとして隠居したために、系譜そのものは断絶した。 秀吉の一門衆[編集] 幼少より豊臣秀吉に仕える。一門衆の1人として厚遇され、家老蜂須賀正勝の死後、その所領であった播磨国龍野城を、福島正則の次に代わって与えられた。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。 天正18年(1590年)、小田原征伐に参陣する。文禄の役では1,500名を率いて在陣衆の1人として名護屋城に滞在した。文禄3年(ないし2年)に若狭国後瀬山城8万1500石を与えられた。20歳代前半にあたる1590年代初め頃の時期から和歌に才能を発揮し、文禄の役の際に肥前国の陣中へ向かう旅路で記された文章や和歌は『九州道之記』として遺されている。 慶長5年(1600年)、会津征伐に赴く五大老筆頭徳川家康の命で、勝俊は特に伏見城に留め置かれ、松の丸[11]の守備を任された。しかし関ヶ原の戦いが始まると、東軍の鳥居元忠は信頼できる三河衆[12]を中心に城の守りを固めようと考え、寄せ手の西軍に弟の秀秋が含まれていると勝俊に疑いをかけて、退去しなければ攻め寄せると迫った。このために勝俊は退去して北政所のいる京都に向かった[13][14]。 勝俊が伏見城を退去した理由については諸説あるが、血はつながらないとは言え、従兄弟にあたる豊臣秀頼のためにも関東に味方するべきではないが、かといって石田三成の謀叛に荷担することもできず、城に残ると防戦の邪魔になると判断したためであるという[15]。その他の異説としては、風情を好む勝俊が太閤の築いた金吹の瓦の豪華絢爛な城が兵火に見舞われるの見るのが忍びなくなって、全てが疎ましくなって城を出て行った[16]とするものや、彼の歌道の師匠であった細川幽斎同様(田辺城の戦い)に、天皇をはじめとした朝廷による救出工作があって里村昌叱が勝俊を迎え入れたとする説がある[17]。一方で、勝俊を可愛がっていた北政所が西軍を支持していたためとする説もある[18]が、通説では北政所は反石田・淀殿の側であり、まず東軍・勝俊と西軍・小早川秀秋が兄弟であることを理由に仲裁して停戦させようとし、それが勝俊の退去で失敗した後は秀秋に伏見城へ入城させて東軍に加勢させようとしたことが知られる[19]。いずれにしてもこれらの理由ならば、結局、勝俊は独断で城を出たことになる。 妻のうめ(宝泉院)は大坂で人質となっていたが、勝俊の敵前逃亡を知って激怒し、これを理由に後に離縁した。戦後、元忠に追い出されたとはいえ、勝俊が与えられた任務を勝手に放棄した行為は許し難きことであったので、家康は伏見城退去を理由に勝俊を除封の処分とした[20]。 慶長13年(1608年)、父・家定の死去後、高台院(北政所)の周旋によって遺領(備中国足守2万5,000石)は安堵され、その裁量に任されることになった。この際、家康は遺領を勝俊と利房に分賜するとも定めていたが、高台院は寵愛する勝俊に遺領の全てを渡した[21]。すると、所領を得られなくなった弟・利房は抗議して家康に泣きつき、約半年間、双方の使者が京都と駿河を往復して争議となった。翌年9月、江戸幕府は分地の沙汰を犯して命に背いたという理由で、家定の遺領の全てを没収とした。これで再び勝俊は失領したが、利房も同じであり、代わりに遠縁にあたる浅野長晟が、足守藩を一時拝領して管理した。なお、利房は、大坂の陣で徳川方として参戦して軍功を挙げ、それによって晴れて父の遺領である足守藩の継承を認められている。 隠居後[編集] 勝俊は剃髪して京都東山に隠棲し、高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営んで、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣[22]があり、その2階には三十六歌仙図を掲げた[23]。 その後、長嘯子(勝俊)は挙白堂で1640年頃まで和歌を詠み続け、後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている。

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総需要 – Wikipedia

マクロ経済学において、総需要(英: Aggregate demand, AD)もしくは国内最終需要(英: Domestic final demand, DFD)はある与えられた時点におけるある経済における最終生産物に対する全体の需要である[1]。これは一国の国内総生産(GDP)に対する需要であるとも言える。一国の総需要はしばしば有効需要とも呼ばれるが、有効需要と総需要という用語自体は区別して使用されることが多い。 総需要曲線は、物価水準を縦軸に、実質生産量(Real output、実質GDP)を横軸に取った図において、右下がりの曲線として表される。総需要曲線が右下がりの曲線なのは実質残高効果、ケインズの利子率効果、マンデル・フレミングの為替効果の3つの効果によるものである[2]。実質残高効果は物価水準が上昇することで資産の実質価値が低下し、これによって消費支出が減少することで財・サービスに対する需要が減少するというものである。ケインズの利子率効果は、物価水準が上昇することで実質マネーサプライが減少し、マネーサプライの減少を補うため債券が債券市場で売られることで債券価格は下落、利子率が高くなることで、投資が減少し、財・サービスに対する需要が減少するというものである。 総需要曲線は生産量の数量に対する需要と一般物価水準の二つの要素の関係を表している。総需要は固定された水準の名目マネーサプライのもとに表される。総需要曲線をシフトさせる要因には様々なものが考えられる(参照:需要ショック)。マネーサプライの上昇や政府支出の上昇、独立投資の上昇、消費支出の上昇、減税政策が総需要曲線の右側シフトの原因として挙げられる。 AD–ASモデルによれば、総需要が増加したとき、総需要曲線は右側にシフトし、総供給曲線との新たな均衡物価水準は以前より高いものとなる[3]。 歴史的背景[編集] ジョン・メイナード・ケインズは「雇用・利子および貨幣の一般理論」において、世界恐慌期のシステミックショック(Systemic shock)の結果としての民間部門の生産量の損失(ウォール街大暴落 (1929年))は「政府によって救済されるべきである」と論じた。第一に、ケインズは抑制された有効需要、あるいは(大暴落によって抑制された)経済の総消費によって、(積極的な政府による介入がなければ)民間部門が長期的に低い水準での活動および非自発的失業を強いられる可能性を論じた。事業(Business)は資本を得る経路を失い、それによって労働者を解雇せざるを得なくなった。ケインズによれば、世界恐慌期のような負のスパイラルは外部からの介入によってのみ停止・修正可能なのである。第二に、所得の高い人々の限界消費性向(英語版)は低い。所得の低い人々は収入を直接的に家、食糧、交通手段などの購入に充てる傾向がある一方で、高い所得の人々はそのような広範な消費を行わない。高い所得の人々は消費の代わりに貯蓄を行い、これによって貨幣の流通速度(英語版)もしくは人から人への所得の還流が損なわれる。これが経済の成長率を損なう。このため、介入のための政府支出は、経済の成長率の回復・成長を早めるために十分に大きな規模の公共事業が求められるのである。 有効需要の原理[編集] ケインズの提唱した有効需要の原理によれば、価格メカニズムの働かない短期において経済の総供給と国民所得を決定するのは、その経済の総需要(有効需要)の大きさである。 これとは逆に、総供給が総需要と国民所得を決定するのだという新古典派経済学の理論をセイの法則という。 総需要曲線の構成について[編集]

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紀元前175年 – Wikipedia

紀元前175年頃の世界 紀元前175年(きげんぜん175ねん)は、ローマ暦の年である。 他の紀年法[編集] この節は、ウィキプロジェクト 紀年法のガイドラインに基づいて記述されています。この節に大きな変更を加える場合には、あらかじめ上記プロジェクトのノートで提案し、合意を形成してください。 凡例 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。 できごと[編集] セレウコス朝[編集] 芸術[編集] 注釈 出典 関連項目[編集]

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パンチ佐藤 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “パンチ佐藤” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年6月) パンチ佐藤(パンチさとう、1964年12月3日 – )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(外野手・内野手、右投左打)、タレント、野球解説者。 本名および野球選手としての旧登録名は佐藤 和弘(さとう かずひろ)。プロ野球選手時代の髪型だったパンチパーマがトレードマークであり、芸名の由来ともなっている。 愛称は「パンチ」で、1994年には登録名としても使用した。 プロ入り前[編集] 川崎市立西中原中学校[1]、武相高校[2]から亜細亜大学に進み、同野球部に入部、最終年にはキャプテンも務めた[3](阿波野秀幸は大学の同期、与田剛は1年後輩にあたる)。東都大学リーグ通算86試合出場、274打数82安打、打率.299、5本塁打、42打点。ベストナイン3回。 卒業後は社会人野球の熊谷組に入社。俊足かつ強打の選手として知られ、第60回都市対抗野球大会(1989年)では大会史上2人目のサイクル安打を記録している。また、1988年・1989年と2年続けて社会人ベストナイン(外野手部門)に選出されている。 1989年のドラフト1位でオリックス・ブレーブスに入団。

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中島美春 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “中島美春” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年2月) 中島 美春(なかじま みはる、1967年10月1日 – )は、日本の元アイドル。本名、市川 美春(いちかわ みはる)。旧姓、中島。愛称は、なかじ。 埼玉県出身。1985年におニャン子クラブの会員番号5番としてデビューした。 1986年3月、おニャン子クラブを卒業し、同時に芸能界も引退したが、おニャン子クラブの復活イベントにはひんぱんに顔を出し、近年その縁でとんねるずのマネージャーであるボブ市川(市川謙司)と結婚した。 1985年2月、高校2年時にフジテレビの深夜番組『オールナイトフジ女子高生スペシャル』に出演し、国生さゆりらとともに同年4月からの同局で始める新番組『夕やけニャンニャン』のおニャン子クラブの一員としてスカウトされる。そして『夕やけニャンニャン』放送開始と共におニャン子クラブの一員として芸能生活をスタートさせた。私生活では、地元の普通科高校の3年生に進級して二足のわらじを履く日々を送ることとなった。 顔が志村けんに似ている事を自ら進んでネタにするなど、大胆な発言や明るい性格で知られた。

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ランディ・ローズ – Wikipedia

ランディ・ローズ(Randy Rhoads、本名ランドール・ウィリアム・ローズ、男性、1956年12月6日 – 1982年3月19日)は、アメリカのギタリスト。クワイエット・ライオット及びオジー・オズボーンのバンドの初代ギタリストであったことで知られる。1982年3月19日、オジー・オズボーン・バンドの全米ツアー(Diary of a madman tour)中に遊覧飛行で乗った軽飛行機の墜落事故により、25歳で生涯を終えた。身長170cm。 ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」第85位、2011年の改訂版では第36位。2021年「ロックの殿堂」入り[1]。 生い立ち[編集] 1956年12月6日、カリフォルニア州・サンタモニカのセント・ジョーンズ病院で生まれる。1963年の誕生日に、祖父からギブソンのアコースティック・ギターをプレゼントされ、ギターを始める。ランディの当時の憧れは、エルヴィス・プレスリーであったという。 1965年、8歳の頃、ロックギターに目覚める。1969年から、母親の経営する音楽学校で講師をしていたスコット・シェリーからエレクトリック・ギターのレッスンを受け始める。1年過ぎた頃には、スコットから「僕が教えられることを彼は総て覚えている」と言われるほど上達していた。また、同時期に母親の勧めでピアノのレッスンも受けていた。こちらはあまり長続きはしなかったが、楽譜を読むことをマスターした。 1970年頃、兄ケル・ローズと共にヴァイオレット・フォックスを結成。バンド名の「ヴァイオレット」は、母のミドルネームから拝借されているが、バンドは5か月で解散している。後のクワイエット・ライオットに参加するまでの間は、ディープ・パープルのリッチー・ブラックモアをひたすらコピーし、腕を磨いたと言う。同時期、後にクワイエット・ライオットに参加するケリー・ガルニと出会ったのもこの頃であった。 1973~1975年頃、クワイエット・ライオットを結成するまでの間、幾つかのローカルバンドで活動する傍ら、母親の音楽学校でギターの講師を勤めることになる。ランディの生徒の中には、後にオジー・オズボーンバンドに加入するジョー・ホームズの姿もあった。ランディは、後に「生徒に教えることで逆に多くのことを学んだ」と、振り返っている。 クワイエット・ライオット時代[編集] 1975年、ランディを中心にクワイエット・ライオットが結成される。母ドロレスの回想によれば、オーディション参加したケヴィン・ダブロウはランディに自分の部屋でオーディションをするから部屋に来てくれと言い、オーディションを開始。ケヴィンはバンドに熱心だったようであり、ランディに「もし俺に気に入らないところがあれば言ってくれ!」と猛アピールしていたとのことである。 その後、ケヴィンの加入が決定したものの、ドラマーだけが中々決まらず、何人ものメンバーチェンジの末、ドリュー・フォーサイスの加入が決定。デビューライブには1,500人以上ものファンが押し寄せた。 1977年、デモテープを制作し、各国のレコード会社にテープを送ったものの、最終的にコンタクトが取れたのは日本のCBSソニー(現ソニー・ミュージックレコーズ)のみであり、これにより、本国アメリカではデビュー出来なかったものの、日本でのデビューを飾るところまでに扱ぎつけることとなった。 1978年3月、CBSソニーより『静かなる暴動 (QUIET

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ザ・ニュースキャスター – Wikipedia

『ザ・ニュースキャスター』(英称:The Newscaster)は、テレビ朝日系列で1993年4月5日から1994年9月30日まで平日昼に生放送されていた番組。 昼の報道・情報番組ともされ、報道色の濃い番組ではあったが、厳密にいうと報道の部分は『ANNニュース』のコーナーのみであり、大半は情報番組扱いであった。 司会はTBS『JNN報道特集』出身の蟹瀬誠一と元フジテレビアナウンサーだった田丸美寿々。その他、『ANNニュース』を含めたニュースコーナーを田丸と高井正憲アナウンサー(当時)が担当した。 この番組は、それまでのワイドショー番組から報道番組に転換して、事件や事故の他に列島中継、テレビ朝日ニューヨーク支局からの中継で内田忠男が出演し、『CNNヘッドライン』のキャスターだった小牧ユカがニューヨークリポーターを務めた。 「新進気鋭のジャーナリスト(蟹瀬)と、テレビ界を代表する女性キャスター(田丸)が日本の昼を変える。」というキャッチコピーを使い、同系『ニュースステーション』の昼版として登場した。番組スタイルの方針として、ワイドショー的な内容を一切やらない事にしていた。 ANNニュースの直前5分ほどがローカル枠となっていたが、テレビ朝日ではローカルニュースは放送せずにアメリカ『CNNプライムニュース』を報じていた。 1994年4月のリニューアルで報道色を更に濃くするリニューアルを実施したが効果はなく、前年に発生した「椿事件」におけるテレビ朝日の報道体質に対する各マスコミの批判も重なって、同年9月に打ち切られた。また田丸は本番組終了と同時に1986年10月から続けてきたテレビ朝日との専属契約を終了し、終了直後の1994年10月からはTBSと新たに専属契約を結び、『JNN報道特集』→『報道特集NEXT』→『報道特集』のメインキャスターを2010年9月まで16年間に渡って務めた。 テーマソング[編集] オープニングテーマはクライズラー&カンパニーが担当していたが、11:45からの「ANNニュースのテーマ」も同じテーマ曲が使われていた(ただし、ロゴは放送当時の他のANNニュースと同様)。ただし、11:30や12:00にかかり始める部分とは別の部分からの放送であり、主題が現れる頃にはアナウンサーがしゃべり始めておりBGMのようになっていたため、同種の別の曲だと勘違いした視聴者も多いと思われる。現在でも他局の番組でこの曲が流れることがある。エンディングテーマは、五十嵐浩晃が歌う「明日また あの場所で」だった。 司会 ニュースコーナー ニューヨーク中継 放送時間[編集] ネット局[編集] 系列は放送当時のもの。 ○…フルネット、△…11:45飛び乗り(一部ネット局を除き、『ANNニュース』を単独番組扱いで放送) ^ フルネット局では放送開始時は20局で放送されていたが、1993年10月の山口朝日放送開局から番組終了までは21局で、クロスネット局では放送開始時は福井放送・山口放送・テレビ大分・テレビ宮崎の4局で、1993年10月から番組終了までは福井放送・テレビ宮崎で放送された。

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ムーンライト山陽 – Wikipedia

ムーンライト山陽(ムーンライトさんよう)とは、ムーンライト (列車)シリーズの一つである。当列車は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が京都駅 – 下関駅間を東海道本線・山陽本線経由で運行していた臨時快速列車である。 1988年12月に新大阪駅 – 広島駅間で運転を開始し、翌1989年8月には京都駅 – 広島駅間に運転区間を拡大した。2001年3月にユニバーサル・スタジオ・ジャパン (USJ) が開業し、観光客輸送強化のために運転区間を広島駅 – 下関駅間へ拡大した。 一時期、年末年始のみ「ふるさとライナー山陽」の名称で運行していたが、2001年春から名称が他シーズンと同じ「ムーンライト山陽」に統一された[1]。 しかし、2005年6月に岡山駅改良工事のため運転を休止[2]し、以後は運転されなくなった。 列車名の由来[編集] JR各社が夜行快速列車名に採用している「ムーンライト」に、本列車が走行する山陽地方から採られたものである。 廃止当時の運行概況[編集] 主に、夏期や年末年始の多客時に運転されていた。 運行上の特徴として京都駅

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中部国際空港連絡道路 – Wikipedia

自動車専用道路(有料) E87 中部国際空港連絡道路 セントレアライン 路線延長 2.1 km 開通年 2005年(平成17年)1月30日 起点 愛知県常滑市セントレア3(セントレア東IC)[1] 終点 愛知県常滑市りんくう町2(りんくうIC) 接続する主な道路(記法) 知多横断道路 ■テンプレート(■ノート ■使い方) ■PJ道路 中部国際空港連絡道路(ちゅうぶこくさいくこうれんらくどうろ)は、愛知県常滑市セントレアから、りんくう町へ至る自動車専用道路。愛知道路コンセッションが管理[2]する一般有料道路である。愛知県道522号中部国際空港線の一部でもある。中部国際空港へのアクセス道路。 知多横断道路とあわせた総称はセントレアライン[3]。

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黄飯 – Wikipedia

黄飯(おうはん、きめし[1]、きいはん[2])は、クチナシの実の色素を用いて黄色く炊き上げた飯。大分県臼杵市の郷土料理である[3]。 愛知県名古屋市を中心とした地域にも同名の料理があるが、こちらは「きいはん」と読む[2]。黄色く炊き上げた飯の上に黒豆が乗っており、端午の節句にこれを食する[2]。静岡県東伊豆町稲取にも同様の黄色い飯があり、こちらは読みが「きめし」となっている。薄い塩味で、雛祭りの際に食べる。 以下、特に断りのない限りは大分の郷土料理について記述する。 目次 1 作り方 2 由来 3 脚注 4 外部リンク 黄飯に添えられる「かやく」 乾燥させたクチナシの実に刻み目を入れて水に浸け、黄色く染まった水で米を炊く。 黄飯には、ごぼうや大根などの根菜に、エソなどの白身魚や豆腐を加えて炒め煮にした「かやく」と呼ばれる料理が添えられる。転じて、このかやくのことも「黄飯」と呼ぶ場合がある[3]。 この節には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年1月) 言葉を濁した曖昧な記述になっています。(2021年1月) 江戸時代の稲葉氏治下の臼杵藩で、財政が困窮したために、赤飯の代わりに慶事に出す料理として生まれた と言われる[誰によって?]。

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