西沙諸島 – Wikipedia
西沙諸島(せいさしょとう、中:西沙群岛)、パラセル諸島(英:Paracel Islands)または、ホアンサ諸島[1](ベトナム語:Quần đảo Hoàng Sa / 群島黃沙)は、ベトナムの東約240キロメートル、中華人民共和国の海南島の南東約300キロメートルに位置し、50近いサンゴ礁の島と岩礁で構成されている[2]。全ての島嶼を中華人民共和国が実効支配しているが[3][4]、ベトナムと台湾(中華民国)も領有権を主張している[5]。 2016年7月12日、オランダ・ハーグの常設仲裁裁判所は、いわゆる九段線に囲まれた南シナ海の地域について中華人民共和国が主張してきた歴史的権利について、「国際法上の法的根拠がなく、国際法に違反する」とする判断を下した。 西沙諸島は、東北部のアンフィトリテ諸島(英語: Amphitrite Group、中国語: 宣德環礁)と西南部のクレスセント諸島(英語: Crescent Group、中国語: 永樂環礁)の2つに大きく分けられる[2]。 1907年に西沢吉治が東沙諸島に移住し、日本と清国に領土紛争が起こると、周辺の島嶼にも同様の累が及ぶことを恐れた両広総督の張人駿は、副将の呉敬栄をして西沙諸島の開発をさせることとし、1909年3月に西沙群島籌辦処を設置して、上陸調査を行っている[6]。この調査には数十人が派遣されたが、悪天候のため3日間で3島を調査するのみにとどまった。また、燐鉱等の資源についても有用な調査結果は得られず[7]、籌辦処は同年8月に廃止された[8]。その後、新たに成立した中華民国や、阮朝を保護国としたフランスが西沙諸島を領有する動きを見せたが、日本は1938年12月に西沙諸島の編入を閣議決定[8]。日本は敗戦までこの諸島を領有したが、1952年発効のサンフランシスコ講和条約により、日本は西沙諸島に関する権利、権原および請求権の放棄を国際社会に向けて明言し、その旨が中華民国との間で日華条約で承認された。 1954年の第一次インドシナ戦争の終結に伴い、旧宗主国のフランスが去って以後、1956年に中華人民共和国の中国人民解放軍は東のアンフィトリテ諸島を占領する[9]。また北緯17度以南に成立したベトナム共和国(南ベトナム)が西のクレスセント諸島の複数の島礁を占領する。そしてベトナム戦争(1965年 – 1975年)中の1974年1月、中国人民解放軍が西のクレスセント諸島に侵攻して南ベトナム軍を排除し、西沙諸島全体を占領した。この際、南ベトナムの護衛艦1隻が撃沈された(西沙諸島の戦い)。1974年1月19日に同軍によって占領され、その後南北ベトナムの統一がありベトナムに社会主義政権が成立したものの返還はされず、その後も同諸島は全て中華人民共和国の実効支配下にある。 小さな島々で構成され、民間人はほとんど居住していない。島そのものにほとんど価値はないが、中国が主張する領海や広大な排他的経済水域 (EEZ)
Continue reading
Recent Comments