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December 2020 – Page 3 – Enzyklopädie

Month: December 2020

渡辺信平 – Wikipedia

この存命人物の記事には、出典が全くありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。出典検索?: “渡辺信平” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年6月) 渡辺 信平(わたなべ しんぺい、1959年8月26日 – )は、日本の元シンガーソングライター、作曲家。東京都出身。 目次 1 経歴 2 ディスコグラフィ 2.1

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田部正壮 – Wikipedia

田部正壮 田部 正壮(たなべ まさたけ[1]、1849年12月21日(嘉永2年11月7日)[2] – 1939年(昭和14年)9月21日[3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[4]。第12代広島市長[1]。維新後の族籍は広島県士族[2][4]。 目次 1 経歴 2 人物 3 栄典・授章・授賞 4 家族・親族 5 脚注 6 参考文献 安芸国(現広島県)出身。田部友蔵の長男[2]。1872年(明治5年)、陸軍歩兵少尉心得に任ぜられる。西南戦争では教導団の引率をつとめた[5]。近衛歩兵第4連隊第1大隊長、近衛副官を経て[6]、日清戦争時には近衛師団兵站官を務め[7]、後に台湾総督府副官に転じた[8]。

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オックスフォードミステリー ルイス警部 – Wikipedia

『オックスフォードミステリー ルイス警部』(オックスフォードミステリー ルイスけいぶ 原題:Lewis)はコリン・デクスター原作の小説『モース警部』シリーズを元にしたITVのドラマ『主任警部モース』シリーズのスピンオフドラマである。 このドラマでは、前述の小説『モース警部』やドラマ『主任警部モース』と同じようにイギリスオックスフォードを舞台に、警部へと昇格したモース主任警部の右腕ロバート・ルイスが、その右腕ジェームズ・ハサウェイ部長刑事(巡査部長)とともに事件解決に挑む。 キャスト[編集] ロバート・ルイス警部(ケヴィン・ウェイトリー) ジェームズ・ハサウェイ部長刑事(ローレンス・フォックス) ローラ・ホブソン博士(クレア・ホールマン) ジーン・イノセント主任警視(レベッカ・フロント) エリザベス・マドックス部長刑事(アンゲラ・グリフィン) ジョセフ・ムーディ主任警視(スティーヴ・トウセイント) 日本での放送[編集] 日本では2010年秋からのチャンネル銀河での放送(第1シリーズ~第5シリーズ)を経て、2016年までに全シリーズがAXNミステリーで放送された。また2021年にはBS11での放送もなされる予定である[1]。いずれも吹き替え版は製作されていないため字幕版での放送である。 エピソード[編集] DVD[編集] 2021年9月現在、全話収録しているものは英国と米国で1セットずつ販売されている。日本語版は同年秋冬に2セットとして発売される予定。 英国(リージョン2、PAL):英語音声・英語字幕、ITV Studios Home

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若十勝正雄 – Wikipedia

若十勝 正雄(わかとかち まさお、1938年10月20日 – )は、花籠部屋に所属した元力士。本名は高島 正雄(たかしま まさお)。北海道河西郡芽室町出身。177cm、83kg。最高位は東十両10枚目。得意技は右四つ、寄り[1]。 1954年9月場所に初土俵、1959年9月場所に十両昇進。新十両の場所から3場所連続で勝ち越したが、その後2場所連続で大きく負け越して1960年7月場所に幕下に陥落。幕下陥落以降は徐々に番付を下げていき、幕下下位で負け越した1962年1月場所に23歳で廃業した。息子も「若十勝」の四股名で三段目まで上がっている[2]。 主な成績[編集] 通算成績:169勝152敗8休 勝率.526 十両成績:34勝41敗 勝率.453 現役在位:39場所 十両在位:5場所 場所別成績[編集] 若十勝 正雄 一月場所初場所(東京) 三月場所春場所(大阪)

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ミーシカ・コソラープィ – Wikipedia

ミーシカ・コソラープィ(露: Мишка Косолапый, 英: Mishka Kosolapy)は、ロシアの製菓メーカー、クラスヌィ・オクチャブリ(英語版、ロシア語版)が製造しているチョコレート菓子のブランドである[1][2][3][4][5][6]。ミーシカ・コソラープイ[7]、ミーシカ・コソラプイ[6]、ミーシュカ・カサラープィ[8]などとも表記される。 販売会社は、ユナイテッド・コンフェクショナーズ(英語版、ロシア語版)の小売店チェーン、ユナイテッド・コンフェクショナーズ・ネットワーク (ООО «Объединённая кондитерская сеть») である[9][10]。「ミーシカ・コソラープィ」の商標は、クラスヌィ・オクチャブリが保有している[11]。 クラスヌィ・オクチャブリの工場 アーモンドを用いたプラリネを2枚のウエハースで挟み、全体をビターチョコレートでコーティングした菓子である[1][12][4][8][6]。「ミーシカ・コソラープィ」は、ロシア語で「不器用なクマ」もしくは「内またのクマ」といった意味をもつ[13][14]。2001年11月4日付けのアガニョーク誌の記事によると、1902年以降の生産量はおよそ45億個にのぼる[15]。1958年に開催されたブリュッセル万国博覧会においてグランプリを受賞している[16]。 ミーシカ・コソラープィは、プラリネ・キャンディ「取ってごらん(ロシア語版)」などとともに、製菓メーカーのエイネム(ロシア語版)によって開発されたものであるが、 それがいつであるのかははっきりとしていない[1][8][17]。19世紀の終わり頃には、エイネムで試作品がつくられていたという説もある[1]。レシピは、販売開始以降ほとんど変わっていないとされる[18][19]。 パッケージ[編集] イヴァン・シーシキンおよびコンスタンチン・サヴィツキー(英語版、ロシア語版)が手がけた絵画『松林の朝』の複製画をもとにパッケージのデザイン画を描くことを、エイネムがアーティストのエマヌイル・アンドレーエフ(ロシア語版)に命じ、出来上がったデザインが1913年にパッケージに使用された[1][8][20][18][19][21]。背景色にはターコイズブルーが選ばれた[18][22]。アンドレーエフによるデザインは、現在に至るまでほとんど変わっていない[19]。当時のパッケージにはベツレヘムの星も描かれていた[23]。 かつてはロシア帝国の紋章(ロシア語版)が入ったパッケージも存在しており、これは、1896年にニジニ・ノヴゴロドで開催された全ロシア博覧会(英語版、ロシア語版)に出品され、優秀な成績を収めたことを示すものとされる[22][18][19][3]。1920年代初め頃のパッケージには、「ミーシカ・コソラープィを食べたいなら、預金口座を開設しましょう」との旨の惹句が印刷されている。当時は高価な嗜好品であった[6]。 参考文献[編集]

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トルコ行進曲 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “トルコ行進曲” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年10月) ポータル クラシック音楽 トルコ行進曲(トルコこうしんきょく、英語:Turkish March)は、西欧の作曲家が、西欧人がトルコと呼んだオスマン帝国の軍楽隊の音楽(メフテル、またはトルコ音楽を参照のこと)に刺激を受けて作曲した行進曲である。以下の2曲が有名。 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトのピアノソナタ第11番第3楽章(イタリア語:Rondò alla turca) ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの劇付随音楽『アテネの廃墟』の行進曲(イタリア語:Marcia alla turca) 目次 1

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幕間 (雑誌) – Wikipedia

『幕間』(まくあい)は、1946年(昭和21年)から1961年(昭和36年)まで刊行されていた歌舞伎雑誌。現在も刊行されている『演劇界』と並び、「戦後の歌舞伎雑誌の代表」[1]として知られている。 太平洋戦争の終結直後に発刊された雑誌で、『観照』、『舞台展望』や『劇評』といった同時期に出発した雑誌が数年で廃刊となった中、『幕間』の刊行は16年続き、通巻にして197号[2][3][注釈 1]を数えた。森西真弓は[4]、その掲載内容として「劇評や評論のほかに座談会など真面目な読み物頁の一方で、グラビアで俳優の家庭訪問や楽屋スナップを載せて、俳優やその子弟の素顔を紹介している」とまとめながら、競合誌であった『演劇界』と比べると「大衆性、娯楽性の色合い」が濃く、「よりファン雑誌としての傾向が強い」雑誌であったとしている。 判型はB5判で[4]、表紙絵はそのほとんどを高木四郎が担当した[5]。また三宅周太郎が積極的に寄稿しながら雑誌の後援をし[6]、十三代目片岡仁左衛門や八代目坂東三津五郎といった役者らも力を貸したほか[3]、若き日の戸部銀作とその妻玲子も『幕間』の業務に関係していた[6]。 1946年5月、当時25歳だった関逸雄が編集発行人となって、自身で立ち上げた和敬書店から発刊した[4]。関はもともと室町の老舗繊維問屋「関米」の息子だった[7]。このため、『幕間』の創刊については、芝居好きの若旦那が嫌いな商売を弟に譲った上で道楽で始めたなどと語られていたという[6][7]。実際、関には若旦那然としたところがあったようで、権藤芳一は「颯爽たる若社長というよりは、やはり人なつっこい坊々」[8]と記している。 井上甚之助の回顧によれば[9]、創刊に際して関から相談を受けた井上が仲立ちとなって、関を当時京都松ヶ崎に疎開していた三宅周太郎へ紹介、刊行開始前から三宅が雑誌に関与するようになった。加えて、雑誌の名前も当初は「花道」とされる予定であったが、久米正雄が「幕間」とする案を考え出し、「まくあい」という正しい訓みを普及させるきっかけになるということで「幕間」と命名されたという。 こうして発売された創刊号の巻頭に掲載された関の「発刊の辞にかえて」には、「かねがね同好の士を語らい芝居の雑誌を出してみたいと考えていました(中略)所謂芝居好きが観劇の合間に、芝居について語り合うような気軽な趣味の雑誌、字面だけむずかしい、理屈っぽい論議は御免蒙って、何はさて、芝居への正しい愛情と良識に溢れた香りの高いものにしたいと思います」[10]と書かれ、ファン雑誌としての将来像が示されていた。このほか創刊号には井上の連載「三津五郎藝談」、三宅周太郎や山口広一の五月諸公演の観劇の手引きのような記事が載った。 戦後すぐの用紙不足、及び用紙割当委員会による統制の下、わずか12ページで始まった「幕間」は、8号目には地方紙として許されていた上限の32ページに到達[3]、以降も徐々にページ数を増やして行き、内容を充実させていった[4]。またこの時期、中村梅玉、松本幸四郎、尾上菊五郎、実川延若といった戦前からの名優が相次いで死去したが、その都度別冊として追悼号を編集・刊行したため、雑誌の名物となった[6]。 1953年11月には通巻100号記念号を刊行、1955年には和敬書店の10周年記念として「幕間舞踊鑑賞会」を祇園甲部歌舞練場で開催[11]するほどに至ったが、その一方で関西の歌舞伎界の弱体化が急速に進んでいた。まず1954年に坂東鶴之助が松竹を脱退、さらに阪東壽三郎が死去。翌1955年には中村鴈治郎が息子扇雀同様に松竹から離れることとなった。結果、以前からの観客数の減少傾向に拍車がかかり、関西での歌舞伎興行自体も減っていった[12]。 『幕間』誌上では、こうした状況に呼応するように、歌舞伎の代わりに舞踊の記事の割合が増えていきながら刊行が続けられたが[13]、1962年には関が「上方歌舞伎最後の新芽」[14]と呼んだ林与一が東宝に移籍する事件が起きた。6月号の巻頭言でこの事件を「上方歌舞伎延続の最後の望みの綱の切断」とし、「関西の歌舞伎復興は、所詮は叶えられない、はかない夢に過ぎないのだろうか」[14]と書いてから4ヶ月後、『幕間』は10月号で廃刊することとなった。 関は10月号に掲載された「終刊のことば」において、雑誌の赤字に言及するとともに、「終刊の理由は改めて説明するまでもない。歌舞伎、特に関西における歌舞伎の完全な窒息状態は、本来関西の歌舞伎を中心対象とし、これを最大の拠りどころとしてきた「幕間」には、その存在の意義を奪う致命的な事態であるからである。関西の歌舞伎が事実上消失した現在、われわれは「幕間」の使命がすでに終ったことを自認せざるを得ないからである。」[15]と記した。最終号では『幕間』に代わる「もっと現代に即した新しい形の一般芸能雑誌」[16]の発刊が予告されていたが、実現することがないまま、廃刊から3年後の1964年12月、関逸雄は事故死した[6][17]。 刊行中から「東に演劇界、西に幕間あり」[18]と言われ、戦後の二大演劇雑誌の内の1つとして目されていた。毎年年末から新年にかけて行われていた読者による俳優の人気投票企画[19]など、ファン雑誌としての性質が強かったとされるものの、昭和20年代に別冊としてまとめられた名優の追悼号などは特に資料として高く評価されている[4][20]。また、権藤芳一は関西の演劇雑誌として唯一長期間に渡って刊行が継続された『幕間』は、「まさに関西歌舞伎とその盛衰を共にした雑誌」[11]であり、そのものが「関西歌舞伎史の証言」[17]であるとしている。 この他、読者を対象とした「友の会」を催し、読者の投稿を積極的に採用するなど、より知識のある歌舞伎の観客及び劇評家を育てたことも雑誌としての功績と考えられており[4][19]、そうしたかつての読者として権藤芳一、藤井康雄、北川忠彦、小山昭元、杉本嘉代子、如月青子らがいた[6]。 注釈[編集] ^ 森西真弓は『幕間』の通巻を186号としている。「観客の視点(二)——演劇雑誌」『第4巻 歌舞伎文化の諸相』岩波書店〈岩波講座 歌舞伎・文楽〉、1998年、102頁 出典[編集] ^

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新井町 (横浜市) – Wikipedia

新井町(あらいちょう)は、神奈川県横浜市保土ケ谷区の町名。「丁目」のない単独行政地名。住居表示未実施区域[5]。 横浜市保土ケ谷区北部に位置し、面積は0.785km2[1]。字に東大丸通、千貫丸通、稲荷通[1]。南西に新井川が流れる。かつては港北区に属し、保土ケ谷区と同区から分区された旭区、港北区から分区された緑区の区境付近に位置する。 町内の千丸台(せんまるだい)地区は、横浜市内に多く存在する谷戸[7]に位置する[8]。 かつての都筑郡新井新田で、神奈川宿在住の代官・新井忠兵衛が宝暦年間に新田開発の許可を得て、幕府領であった御林・山野を買い取り開墾し、明和7年(1770年)に完成させた[8]。新井新田の完成に伴い、豊作を願う鎮守として稲荷神社が建立され、神社の前の道路は「稲荷通り」と呼ばれた[8]。字名やバス停留所名「稲荷通」としても残る[8]。 1874年(明治7年)、伊勢四日市の黒崎平七が新井新田で茶の栽培を始め、後に鈴木政右衛門が新井新田を買い取り茶畑を作ったと伝えられる[8]。茶の生産は1937年(昭和12年)頃まで続いたが、太平洋戦争の激化に伴う食糧事情の悪化からサツマイモや麦に変わり、戦後の都市化により茶畑は姿を消した[8]。横浜市立新井小学校(現:上菅田町1574-1)の校章は、かつて新井新田に存在した茶畑にちなみ茶の葉と花を図案化している[8]。 戦後は団地建設が進み、1963年(昭和38年)より県営千丸台団地が入居開始[8]。翌1964年には横浜駅西口と千丸台団地を結ぶバス路線(62系統)が開業した。宅地化の進展により1960年代後半には店舗も急増し商店街が形成された[8]。同時期には近隣地区でも、県営笹山団地(上菅田町)、公社竹山団地(緑区竹山)と、大規模団地が相次いで造成されている。県営千丸台団地では住民の高齢化が進んでいるが[9]、近年は町内にマンションも新築され子育て世代の流入もある[8]。 年表[編集] 世帯数と人口[編集] 2021年(令和3年)7月31日現在(横浜市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。 人口の変遷[編集] 国勢調査による人口の推移。 世帯数の変遷[編集] 国勢調査による世帯数の推移。 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2021年8月時点)[16]。 2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[17]。 町丁 事業所数 従業員数 新井町 136事業所

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三吉正一 – Wikipedia

三吉 正一(みよし しょういち 1853年12月(嘉永6年11月) – 1906年(明治39年)3月24日)は明治中期の日本の技術者。日本初の電気機器製造会社である三吉電機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。 三吉工場(三吉電機工場)の設立[編集] 三吉正一は周防国岩国に生まれた。家は岩国領主吉川氏に仕え、祖父は佐久間象山や勝海舟とも親交があったという。1871年(明治4年)に大阪の開城学校に入学、翌年には上京して同郷先輩宅に寄宿していたが1875年(明治8年)上州富岡製糸場の伝習生となりその技術を学ぶことになった。やがて工部省が学校を創立し、学生を募集することを知り上京して勝海舟と面会して入学の希望を伝えた。そして東京電信修技校に入学することとなり通信術を学んだ[1]。 1877年(明治10年)工部省電信寮製機科に入り技手[2]となる[3]。同年の内国勧業博覧会には踏転繰糸機 [4]を出品し褒状を受ける[5]。 1883年(明治16年)三吉に神戸電信局転勤の辞令がおりる、しかし三吉は東京で電気技術を学びたかったため転勤を拒否したところ、懲戒免官となってしまう。そこで芝区南佐久間町(現在の港区西新橋)の自宅に工場を設え電信、電話機、電鈴等の製造販売をはじめる。これが日本初の電機製造会社三吉工場(のち三吉電機工場)の誕生であった。 転機は同郷の岩国出身である工部大学校の藤岡市助の協力を得られたことであった。三吉の電信局技手時代に勤務の傍らしていた電気機械の製作に関して藤岡から教授を受けることが多く、私的にも藤岡夫妻の媒酌人をつとめる関係であった[6]。あるとき藤岡が設計製作した狐光燈(アーク灯)用直流直巻発電機模型を工部大学校より持ち出し、これの試作を命じられたので苦心惨憺して完成させ、次に鉱山用手回発電機(雷管爆発用)を製作した。これにより紡績工場や鉱山より小型直流発電機の注文を受けるようになった。藤岡の自宅と工場の距離は30間ほどで藤岡は学校からの帰途工場に立寄り指導をしていった。こうして藤岡が考案設計し三吉が製作するという二人三脚のもと発電機、電球等電気機器の国産化をすすめていくようになる。1886年(明治19年)藤岡は東京電燈の技師長となり営業が開始されると、三吉は東京電燈の機器の製造修理を請負うことになった。業務拡大により1887年(明治20年)芝区三田四国町(現在の港区芝五丁目)に工場を移転し三吉電機工場[7]に改称する[8]。 発電機[編集] 東京電燈が開業すると各地から電燈会社設立や事業所の発電所建設の相談が殺到した。藤岡が指導、設計をし、東京電燈が工事を請け負いほとんどの工事と機器製造を三吉へ委託した。1892年(明治25年)末には事業者数が11を数えた[9]。またこれまでは火力発電であったが蹴上発電所の好成績もあり水力発電所も建設されるようになる[10][11]。1895年(明治28年)末の電燈会社数は火力24社、水力7社、火力水力併用3社であった[12]。各地の電燈会社で交流式発電機が使用されるようになると三吉電機工場も1892年(明治25年)日光電燈、1893年(明治26年)に浜松電燈、豊橋電燈用に製作している[13]。「明治年間内地製造発電用汽機一覧表」[14] また関東地方初の水力発電所である箱根電燈発電所(1892年(明治25年)湯本湯端発電所で運転開始。発電機は三吉電機製)は一時三吉の個人所有であった。1900年(明治33年)小田原電気鉄道が買収[15][16]。 白熱電球[編集] 藤岡はトーマス・エジソンから工部大学校へ寄贈を受けた白熱電球30個の見本をもとに研究を続け、三吉とともに白熱電燈用発電機を完成させた。1885年(明治18年)に東京銀行集会所の開所式でその発電機を使用して白熱電燈を点灯させその宣伝につとめた。その後東京電燈の技師長として社用で渡英した際、エジソン・スワン社より電球製造機械を購入した。そして白熱電球の国産化の為に矢島社長と掛け合い電球製造事業を独立することにした。そして藤岡は三吉に協力を求め1890年(明治23年)4月合資会社白熱舎(東芝の電灯部門の前身)を設立した。やがて8月に初の国産白熱電球の試作に成功した。その後も研究を続け、電球の生産量をふやしていった。しだいに各地に電燈会社が設立されていき、また日清戦争後の好景気にのって1896年(明治29年)東京白熱電燈球製造株式会社(社長三吉正一)を設立[17]、1898年(明治31年)新工場を三田四国町に完成させた[18]。しかしこの年三吉は三吉電機工場を閉鎖し東京白熱電燈球製造の社長も降りてしまう。 電気鉄道[編集] 電気鉄道との関わりは、藤岡がアメリカより路面電車を持ち帰ったことから始まる。この電車は三吉電機工場で組み立てられ、1890年(明治23年)上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会の会場で運転された(東京電燈スプレーグ式電車)[19]。終了後は工場で保管されたが1893年(明治26年)4月浅草寺の開扉の際100日間限りの運転を願い出たが許可されなかった[20]。1899年(明治32年)大師電気鉄道の開業直後からこの車両が使用された。三吉は短期間であるが取締役をつとめていた[21][22] また1892年(明治25年)に開業した京都電気鉄道の建設工事を請負っている。電車の電動機も製造し使用された[23]。

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大串桃香 – Wikipedia

大串 桃香(おおぐし ももか、1997年9月19日 – )は、佐賀県出身の元女子プロ野球選手。福知山成美高等学校卒。ポジションは投手。 2015年女子プロ野球入団テストを受けレイアに入団。 2018年埼玉アストライアに移籍。 2019年京都フローラへ移籍。 同年11月1日、今季限りで女子プロ野球リーグを退団することが発表された[1]。 現在は846(YAJIRO)京都二条店に勤務している[2]。 女子プロ野球にはいない変則投法。球速は112㎞と紹介されている[3]。 プロ4年間では制球に苦しむ試合が多く27回1/3で四死球が34だった。奪三振は対戦打者150で2個しか奪えなかった(2018年8月5日の青木悠華、2019年3月24日のみなみ)。 詳細情報[編集] 年度別投手成績[編集] 2019年度シーズン終了時。 年度別打撃成績[編集] 年 度 チ |

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