Month: December 2020

田中信義 (政治家) – Wikipedia

田中 信義(たなか のぶよし、明治22年(1889年)3月8日[1] – 昭和35年(1960年)4月11日[2])は、日本の政治家、実業家。旧姓下田。農業[3]。信儀と表記される場合がある[1][2][4]。 元衆議院議員下田勘次、元鳥取大学長下田光造の弟[5]。参議院議員。 目次 1 経歴 2 脚注 3 参考文献 4 外部リンク 鳥取県八頭郡佐貫村和奈見(現鳥取市河原町)に生まれた。下田弥平の三男[4]。 鳥取一中(現鳥取西高)を経て、1907年東京帝国大学農科に入学[5]。卒業後帰郷し、同郡国英村三谷の田中嘉十郎の養子となる[5]。農業を営む[3]。 早くから郡会議員・郡農会長・県会議員を歴任し、1941年には県会議長に就任するなど地方政界において民政系に属して活躍した[5]。1947年、初の参議院議員通常選挙には、鳥取県選挙区から県会議長を辞して立候補、3年議員(民主党)に当選[5]。参議院議員を一期務めた。 また、鳥取銀行副頭取、同取締役[1]、日ノ丸産業取締役、鳥取貯蓄銀行(現・鳥取銀行)、智頭統制木材各監査役を務め[1]、地方財界の重鎮であった。 ^

Continue reading

そらし目 – Wikipedia

そらし目(そらしめ、英:Averted vision)は、周辺視野を使うことによってかすかな観測対象を見る技術。観測対象への集中を続けている最中に、対象を直接見るのでなく、視点を少しずらして見ることも含む。この問題は、一般向けの天文学の文献で論じられているが、効果の測定が行われた厳密な研究はわずかしかない[1]。しかしながら、この技術は良く知られた眼球の構造上の特徴に基づいている。 この技術は、大きいがかすかな星雲や星団を見るのに最も有効な手段とされ、習熟すると3等級から4等級もの改善が見られるという者もいる[誰?]が、顕著な改善はないという者もいる[誰?]。 現在M41として知られる星団がアリストテレスによって報告されていたことなど、古代からこの技術が知られていたという傍証もある[2]。 視点を左右いずれにずらすかは重要で、視界の鼻の方向に観測対象を置いて見ることが最も有効である。これは、視線のこめかみ側におよそ15度にある盲点上に観測対象が映る可能性を回避する。 したがって、右目で観察する者には右側に視点をずらし、左目で観測する者には左側に視点をずらすことが最も良いこととなる。 一部には下にずらすより上にずらしたほうがよいという説もある。最も良いのは、実際に試してみて、自分の目にとって最適な場所を見つけることである。 類似のものに「望遠鏡を揺する」という手段がある。これは単に望遠鏡を前後に動かすことによって、視界の中で観測対象をわずかに動かすという方法である。これは、目が動きに対してより敏感になるように進化したという事実に基づいている。 目の生理機能[編集] 網膜の中心部の狭い領域の中心窩は、明るい場所での色を判別する錐体細胞がほとんどを占め、暗部での明暗を判別する桿体細胞がほとんど存在しない。そらし目は、この特徴によって機能する。 ^ For example, see Anstis, S. M. (1974) A chart

Continue reading

朝見山峻一郎 – Wikipedia

朝見山 峻一郎(あさみやま しゅんいちろう、1923年9月1日-2001年12月[1])は、高砂部屋に所属した元力士。本名は水野 元幸。現在の愛媛県西予市出身。180cm、86kg。最高位は東十両13枚目。得意技は右四つ、寄り。 1940年5月場所初土俵、1946年11月場所十両昇進。以後3場所務める。1949年1月場所限りで廃業した。 主な成績[編集] 通算成績:154勝162敗13休 勝率.487 十両成績:16勝25敗 勝率.390 現役在位:34場所 十両在位:3場所 場所別成績[編集] 朝見山 峻一郎 春場所 三月場所 夏場所 秋場所 1940年(昭和15年)

Continue reading

カガヤンの戦い (1582) – Wikipedia

スペインのボルネオ島への遠征 衝突した勢力 フィリピン総督区 倭寇 指揮官 フアン・パウロ・デ・カリオン タイ・フーサ[1] 戦力 兵士40名水兵数不明ガレオン船1隻小型船5隻軽舟1隻 ジャンク船1隻サンパン18隻倭寇約1000人 被害者数 10~20人の兵士が死傷 多数の死者 1582年のカガヤンの戦いは、フアン・パブロ・デ・カリオン提督率いるフィリピン・スペイン軍と、タイ・フーサ率いる倭寇との間で行われた一連の衝突である。カガヤン川周辺で行われたこれらの戦いは、最終的にスペイン軍の勝利となった[2]。 浪人、漁師、商人(密輸・合法)からなる日本と中国の海賊の大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、水兵が戦った記録である[3]。 浪人、軍人、漁師、商人(密輸、合法)からなる日本と中国の海賊の大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、水兵が戦いを繰り広げた[4]。海賊は大型のジャンク船と18隻のサンパン(平底の木造漁船)を持っていた[5]。 1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密輸商人の植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[6]。 1573年頃、日本人はフィリピンのルソン島、カガヤン・バレー地方、メトロマニラ、パンガシナン州の各州、リンガエン地方で金と銀を交換しており、1580年には多数の倭寇がカガヤンの原住民を服従させていた。 これに対しフィリピン総督ゴンサロ・ロンキージョ・デ・ペニャローサは、スペイン海軍の艦長であったフアン・パブロ・デ・カリオンに海賊対策を要請した。 ロンキージョは1582年6月16日にフェリペ2世に次のような手紙を出している[7][8]。

Continue reading

東急電鉄 – Wikipedia

「東京急行電鉄」はこの項目へ転送されています。2019年9月1日まで「東京急行電鉄株式会社」を名乗っていた会社法人については「東急」をご覧ください。 東急電鉄株式会社[1](とうきゅうでんてつ、英: TOKYU RAILWAYS Co., Ltd.[2])は、東京都区部南西部から神奈川県東部に有する路線で鉄道・軌道事業を行っている会社。東急株式会社の100%子会社[4]であり、東急グループの中核事業[5]である鉄道事業を東急株式会社(旧・東京急行電鉄株式会社)から継承した事業会社である。日本の大手私鉄の一つである。 2019年9月2日に「東京急行電鉄株式会社」が「東急株式会社」に商号を変更し、同年10月1日に同社の鉄軌道事業を会社分割方式で分社化する形で発足した[6][7](「東急#鉄軌道事業の分割」も参照)。そのような設立の経緯から他の大手私鉄と異なり、不動産や小売業などの鉄道以外の関連事業は親会社の東急株式会社やその子会社が担っており、東急電鉄株式会社は純粋に鉄軌道事業のみを行なっている。 「東急電鉄」の名称は、元は2006年1月1日から、当時の東京急行電鉄がそれまでの公式略称であった「東京急行」に代えて駅掲出のポスター・チラシ類、公式サイトやパスネットなどにおいて使用を開始した公式略称である。かつては英語略称として、T.K.K.(Tokyo Kyuko Kabushikigaisha)を使用していた時代もあった。なお、当時の車体塗装を復元して運行している一部の車両でT.K.K.と表記しているものがある。 本記事では東急電鉄発足以降のみならず、分社化以前の東急株式会社(田園都市株式会社、目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄、東京急行電鉄時代も含む)による鉄軌道事業を含め、東急電鉄本体での事業について記述する。また、本記事において、単に「東急」とあるのは、東急電鉄または分社化前の東京急行電鉄の略称を意味し、親会社の東急を指す場合は「東急株式会社」のように明示する。 鉄道総営業距離は104.9km(2017年3月末時点)[8]と大手私鉄16社中11位であるが、会社分割前の単体売上高はJRを除く日本の鉄道事業者で、東京地下鉄(東京メトロ)、近畿日本鉄道(近鉄)に次ぎ、また営業キロ当たりの単体売上高は25.4億円/kmと、東京地下鉄の17.3億円/kmの約1.5倍であり、他を引き離している(2011年度)[注釈 1]。連結売上高は1位、利益は連結、単体ともに1位である(JRグループを含む場合は、連結売上高はJR東日本、JR東海に続く3位であり、以下4位のJR西日本と続く)。 渋沢栄一が東京府荏原郡(現在の東京都区部南西部=品川区、目黒区、大田区および世田谷区の一部)の宅地開発とその住民のための交通網と生活基盤整備[注釈 2]のために創設した田園都市株式会社を源流とするグループ企業の一つであり、こうした設立経緯から東急電鉄以外の不動産部門、ホテル部門や生活サービス部門(小売業)などの収益が鉄軌道事業の収益をはるかに上回り、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益(売上高に相当)は毎年1兆円を超える。東急のグループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業、ホテル・リゾートなどに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点)[10]。 2020年3月頃からは、「美しい時代へ―」のほかに「人へ、街へ、未来へ。」という当社独自のコーポレートスローガンを使用するようになった[11]。 東急と五島家[編集] 1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている[12]。また、渋沢の子である渋沢秀雄も田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などを務めていた。 しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三(阪急電鉄創業者)がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降五島慶太を中心に同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急株式会社を中核とする東急グループが形成されたからである。 とは言え、東武鉄道の根津家や西武鉄道の堤家[13][注釈

Continue reading

高崎五六 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “高崎五六” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年9月) 高崎 五六(たかさき ごろく / いつむ、1836年4月4日(天保7年2月19日) – 1896年(明治29年)5月6日)は、江戸時代末期の薩摩藩士、明治時代の官僚、錦鶏間祗候。爵位は男爵。仮名を猪太郎または兵部と名乗り、のち諱を友愛。高崎正風は従兄弟にあたる。 1836年(天保7年)、薩摩藩士の高崎善兵衛友道の長男として薩摩国鹿児島郡鹿児島近在川上村(現在の鹿児島県鹿児島市川上町)に生まれる[1]。安政末期、水戸藩有志とともに井伊直弼襲撃を策謀し、関鉄之助とともに入京。朝廷に奏聞しようとしたが失敗する。1862年(文久2年)、藩命により上京。藩士有馬新七らが島津久光の命に背いて伏見寺田屋に集会するのを察知し、久光に急告して騒擾を事前に食い止めた(寺田屋騒動)。元治元年、長州征伐が起こり、西郷隆盛と協議のうえ朝稲兵助と変名して長州に入り、藩要人と議論を交わし、さらには長州藩謝罪恭順のために周旋した。 維新後、大久保利通に用いられて、元老院議官、東京府知事等を任じられた。1887年(明治20年)5月24日、勲功により男爵位を授けられ[2]、1890年(明治23年)7月10日、貴族院男爵議員に就任し[3]、1893年(明治26年)5月13日まで在任[4]。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる[5]。1896年(明治29年)、病没した。享年61。亡くなった日を5月7日とする文献もある[3]。 位階 勲章等

Continue reading

憲法 – Wikipedia

憲法(けんぽう、英語: constitutional law)とは、国家または政府の成立に係る基本的な国家体制、行政、議会または立法府、及び司法の役割や権限、構造を定義する法体系であり(法体系的意味の憲法)、国家の自己決定権の根拠となる法である。ある国家が人民や外国政府等に対して権限を行使する場合の基本原則を定め、この基本原則が、国民の福祉のための課税や歳出の権限など、特定の権限を政府に付与する。また、憲法は、十分な理由のない逮捕の禁止、非公開裁判の禁止など国家権力を制限する機能も持っている。 憲法を成文化していない国民国家でも、国民のコンセンサスを得た強制力のある規則で構成される普通法(ius commune)や土地の法律は必ず存在すると言ってよい。いわゆる慣習法(customary law)、風習(conventions)、成文法、判例、または国際規則や国際規範である。 1215年にイギリスで制定された「マグナ・カルタ」が源流で、1789年のフランスで制定された「人間と市民の権利の宣言」では人権と国民主権が宣言され、アメリカ独立戦争以降、国民が憲法で国家権力を制限するものと捉えられる。国家の政治的統一体の構造や組織そのものを指す場合もあり(事実的意味の憲法)[1]、このほか憲法は多義的な概念として論じられる[2]。 憲法には、国家における統治機構や統治者や為政者、また国民の義務や権利に加え、前文に「国」の成り立ちや政府樹立の目的、さらには「神」[3]について記載されたりもする。 国家の基本法としての現在のような日本語の「憲法」という語彙は、ドイツ語のVerfassungや英語のconstitutionの訳語で、1873年(明治6年)頃から使われるようになった[4][注 1]。つまり、604年に制定された十七条憲法[注 2]の題名にも「憲法」という文字列が含まれるが、これは本稿で説明する意味では用いられていない[注 3]。 この「憲法」はふつう文字の表現のとおり法的概念として用いられる[7]。本来のドイツ語のVerfassungや英語のconstitutionという単語は、法的概念としての意味だけではなく、国家の政治的統一体の構造や組織そのもの[1][8]、事実上の国家体制、国家における実力関係や政治的状態などを意味する場合も多い[7]。このような事実的意味として国家の政治的統一体として形成された国家の構造や組織(国家の具体的な存在状態や時々における政治状態)を指す場合(事実的意味の憲法)は、事実状態そのものであるから、法的意味の憲法と混同すべきでないとされる[1][4]。特に法的意味の憲法を指す場合には、ドイツ語ではVerfassungsgesetz、英語ではconstitutional lawと表現される[1]。これらは日本語では「憲法律」と訳すことがある[9]。 事実的意味の憲法として、日本語では「国家構造」や「国制」を用いることがある。ウォルター・バジョットのThe English Constitution(1867年)は日本語では『英国の国家構造』と翻訳されている[9]。特に歴史学者は「国制」を用いており、Verfassungsgeschichteやconstitutional historyは「国制史」という場合が多い[9]。 ヘルマン・ヘラー(Hermann Heller)は『国家学』でVerfassungを、1.事実上のもの(国家の政治的存在状態の構造)、2.規範づけられたもの(法的規範もしくは習俗・道徳・宗教によって規律されるもの)、3.成文化されたもの(文書の形式で記録されたもの)の3つに大別している[4][10]。2の意味には法的規範によって規律されるもののほか習俗・道徳・宗教によって規律されるものも含まれる[11]。

Continue reading

村上行示 – Wikipedia

村上 行示(むらかみ こうじ、1921年8月5日 – )は、日本の労働運動家[1]。元全日本海員組合組合長。 大阪市生まれ。神戸高等商船学校(現神戸大学海洋政策科学部)航海科卒。新和海運出身、甲種船長[2]。1956年全日本海員組合中央執行委員[3]。1960年から1966年に教育部長を務め、機関誌『海員』の編集を担当。組合の先輩を紹介する物語を連載し、1966年に『海上労働運動夜話』(成山堂書店)として刊行した[4]。1971年6月の海員組合第30回臨時大会で組合長に選出[5]。1972年4月から7月の「賃上げ・人間性回復・合理化対策」のスローガンを掲げた92日間のストを指導[3][6]。民社党員で同盟副会長(1972年1月~1981年1月)を務めたが[3][7]、日本生産性本部との関係解消、政党支持自由化[注 1][1][5]、全港湾など総評系組合との共闘[注 2][3][8]、総選挙での共産党候補の推薦[注 3][8][9]など海員組合の路線転換を推進した。1980年1月に「汽船部委員会で諸手当引き下げの確認書が否決された責任」をとり組合長を辞任[5]。同盟顧問[7]、日本殉職船員顕彰会理事長、同理事も務めた[10]。 『海上労働運動夜話』(成山堂書店、1966年) 『海野太郎の考え方』(村上行示、1971年) 『ものがたり海員組合』(海員ジャーナル、1972年) 『わが豊玉姫――村上行示詩集』(成山堂書店、1978年) 『石炭だき船の青春』(日本海事広報協会、1983年) 注釈[編集] ^ 1973年11月大会決定。 ^ 1975年11月大会決定。 ^

Continue reading

わたしのハワイの歩きかた – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “わたしのハワイの歩きかた” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2014年9月) 『わたしのハワイの歩きかた』(わたしのハワイのあるきかた)は、2014年6月14日に全国東映系で公開された日本映画。監督は前田弘二、主演は榮倉奈々。ハワイを舞台に、現地ロケにて制作された恋愛コメディ映画で、日常の行き詰まりからの解放を求めてハワイに旅した女性の、現地での恋愛の顛末を描いた。 ストーリー[編集] ハワイのガイドブックを何冊も出しているが、一回もハワイに行ったことのない26歳の女性編集者小山田みのりは、知人の愛子がハワイで行う結婚式の二次会のセッティングを頼まれる。みのりは「取材」と称して勤務する出版社の経費で遊んでやろうと計画し、社長の弱みを握って強引に取材旅行に出かける。みのりが愛子を通じて出会ったハワイ在住の茜は、連日富裕層が参加するパーティに出かけては結婚相手を探しているが、元彼の冴えない中年男・本間にしつこく付きまとわれ、あげく茜の「婚活」がハワイの社交界で悪く言われているとこきおろされてしまう。それを聞いたみのりは、本間に対して彼女を本当に愛しているのなら、自分が彼女にふさわしい男を紹介するくらいの無償の愛を見せろと一喝する。 みのりは茜にコーディネーターを頼み現地を取材するとともに、一緒にパーティに参加し、富裕層に自分のビジネスを売り込んでいる勉と親しくなる。勉はハワイにお茶漬け専門店を開き全米進出を目標にしているが全く成功しておらず、それまでの商売も失敗続きであった。みのりと勉は愛子の婚約者・塚原の紹介で美食会の集まりに行くものの、富豪の集まるその会は格式が高く、本会が終わった後のカクテルパーティにこそこそと参加しなくてはならず、みのりは気に入らない。勉も商談がうまくいかず、退屈するみのりは酒を浴びるように飲みながらそのビジネスの中途半端さを批判し、怒った勉は帰ってしまう。その後、新入りの会員だという青年・知哉がスピーチを始め、みのりは彼が現地入り初日に知り合った、空きビン集めをしている不審な男であることに気付き驚くが、酔いが祟って目の前で倒れてしまう。目を覚ましたみのりは彼の家で介抱されていた。知哉は実は大企業・阿部財閥の御曹司で、いずれ経営を任される立場にあるものの現在はハワイで気ままに過ごしているという。彼に誘われ、現地式のお祝いごとのような葬儀に参加したあと、みのりはハワイに来た別の理由を話す。みのりは会社の乱造的な本作りと大量の仕事を押しつけられることにいら立っていて、既婚の部下・田嶋と付き合っていたが別れてしまい、しかも交際期間に彼の妻が妊娠中だったと知って落ち込んでいたのである。この日をきっかけにみのりと知哉は付き合い始める。 みのりは茜に知哉とのことを話すが、話を聞いた茜はみのりの不倫や会ってすぐに知哉と関係を持ったことなどに憤る。遊び人に見られる茜だがパーティの男たちとは体の関係は持たず、本間が初めての男だったという。そして茜は、みのりの説教に従って富裕層の男を紹介しようとする本間の心に感じ入り、彼と結婚すると決意する。 一方でみのりは、お茶漬屋の店舗を畳み屋台の車一台でやり直している勉と再会する。みのりのアドバイスを元にハワイ料理を取り入れたお茶漬の屋台は順調で、勉自身も充実しているようで、みのりはその様子を喜ぶ。しかし、二人の様子を見ていた知哉は、みのりが自分よりも勉に惹かれていることを確信する。その夜、知哉は、富豪の孫の肩書きでなく自分自身を見てくれたみのりに対する思いを吐露し、勉への嫉妬で荒れる。茜に捨てられると誤解した本間や、みのりと勉を交えて彼らは取っ組み合いの喧嘩になり、みのりの男たちへの鉄拳でようやく収まる。冷静になった皆は謝罪しあい、夜道を歩くが、みのりは勉が帰ったあと、知哉が繋ごうとする手をそのままにできず、「ごめん」と言って去ってゆく。 その後、知哉は経営に本腰を入れることを決意し、ハワイを去る。愛子たちの二次会は友人の加代子が「アロハ」の意味を語るスピーチを交えて無事に済み、延長していた取材の原稿も会社に届けられる。茜と本間は結婚し、みのりはフリーになって再びハワイを訪れ、屋台のアメリカ本土進出を決めた勉と再会し結ばれる。 キャスト[編集] スタッフ[編集] 関連商品[編集] ノベライズ

Continue reading