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Month: February 2021

荻原重秀 – Wikipedia

荻原 重秀(おぎわら しげひで)は、江戸幕府の旗本。勘定奉行を務め、管理通貨制度に通じる経済観を有し、元禄時代に貨幣改鋳を行ったことで有名。通称は彦次郎、五左衛門。官位は従五位下・近江守。 旗本・荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。母は横松氏の娘。武鑑に本国甲斐とあるのは、荻原家始祖の荻原昌勝(1461年-1535年)が武田氏より分家して甲斐国山梨郡荻原村に移り住んだためである。『甲陽軍鑑』によれば、荻原昌勝は国境の秩父口防備にあたり、武田信虎・晴信の2代にわたって弓術と兵法を教えたと言われ、武田二十四将の1人に加える異説もある人物とされる。武田氏滅亡後は三世甚之丞昌之が徳川氏に仕えて旗本となる。爾来、荻原家本家は八王子に留まり分家の1つと共に代々八王子千人頭を勤めたが、他の分家はみな江戸に住まい、それぞれ旗本として明治維新を迎えた。荻原種重家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継ぎ、重秀は別家を興した。 延宝2年(1674年)10月26日に幕府勘定方に列し、11月7日に将軍・徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。延宝7年(1679年)12月3日、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。天和元年(1681年)に上野沼田藩主・真田信利が改易にされた際にはその郷村の受け取りのために沼田へ赴いた。天和3年(1683年)10月11日、勘定組頭に就任。12月21日に100俵を加増。 貞享4年(1687年)9月10日、勘定頭3名の罷免により勘定頭差添役(のちの勘定吟味役)に任命され、さらに300石を加増され、先の250俵の切米も領地に代えられて都合550石を領した。12月25日には布衣の着用を許された。元禄2年(1689年)8月21日、200石加増(都合750石)。元禄3年(1690年)10月7日には佐渡奉行に任ぜられた。 元禄8年(1695年)12月22日、1,000石の加増(都合1,750石)。元禄9年(1696年)4月11日、勘定奉行に就任し、250石を加増(2,000石)。12月22日に従五位下近江守に就任した。元禄11年(1698年)12月21日にはさらに500石の加増があり(都合2,500石)、元禄12年(1699年)4月には長崎へ赴いている。元禄16年(1703年)2月にも稲垣重富の副使として京都・大坂・長崎などへ赴いている。宝永2年(1705年)12月11日に700石加増される(都合3,200石)。 宝永6年(1709年)に将軍・徳川綱吉が死去し、同年2月3日に、将軍職に就く運びとなった徳川家宣が重臣を集めて代替わりの諸費用について尋ねたとき、重秀は窮地に陥った幕府財政を救うには金銀改鋳しかないと申し述べたところ、新井白石が強く反対したが、銀座に内々に永字銀を鋳造させた。この時が重秀・白石の直接対決の始まりであった [1][2]。これより新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。宝永7年(1710年)4月25日、張り紙値段を勝手に引き下げようとして、将軍・家宣への拝謁を禁止されているが、わずか4日後の29日には許されている。12月11日には500石の加増を受けており、都合3,700石を領した。さらに正徳元年(1711年)7月18日にも評定所での精勤ぶりをもって熨斗縮絹紬、越後縮などを与えられている。 しかし朝鮮との貿易で人参代往古銀の鋳造を余儀なくされるなど貨幣の悪鋳を国辱と受け止めた新井白石の憎悪は深く、度重なる弾劾を受けて、「荻原を罷免しなければ、荻原と刺し違えをする」と迫られた病没寸前の家宣はついに折れ、正徳2年(1712年)9月11日に勘定奉行を罷免された。嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。正徳3年(1713年)9月26日に死去。絶食して自害したとも言われる。東京都台東区谷中の長明寺に葬られた。法名は日秀居士。妻は青柳勘右衛門道孝の娘、後妻は高木忠右衛門定清の娘。なお嫡男・乗秀の母はそのいずれでもなく、某氏の娘。 経済政策[編集] 延宝検地[編集] 家綱の代の延宝5年(1677年)幕府は太閤検地以降80年もの間一度も検地を行わなかった五畿内の検地を実施した。事後の人事動向から見て、検地の細かい業務立案者は荻原重秀であったと推定される。重秀は、五畿内の土豪出身の世襲代官の妨害を排するため、近隣の諸大名に検地を行わせることを提言し、同時に勘定所からも巡検団を派遣して現地調査を行うことで、より正確に現地の状況を把握することに努めた。さらに重秀は、これらを円滑に行うための全29条の検地条目を策定し、見事に検地をやり遂げることに成功した。 この結果を受けた重秀は、延宝8年(1680年)に将軍の座に就いたばかりの綱吉や幕閣に対し世襲代官制の弊害を提言し、それを受けた幕府は世襲代官達を一掃して、代官の完全な官僚化を推し進めた。 佐渡金山再生[編集] 元禄3年(1690年)に佐渡奉行に任ぜられた重秀は、当時生産量が落ち込んでいた佐渡金山を再生させるために、翌元禄4年(1691年)佐渡へと渡海した。現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、坑内に溜まった地下水を排出するための排水溝を掘削することを決める。その5年後の元禄9年(1696年)に「南沢疏水坑」が完成し、これにより佐渡金山は生産量が回復した。 しかし増産も少量にとどまり、17世紀後半以降は金銀とも産出は衰退が大勢であった[3]。江戸時代の佐渡金山の総産出量は約41トンでその大部分が寛永年間以前、明治期8トン、大正期7トン、昭和期21トンと、近代の機械化による技術革新の成果がこの程度であり、ピークを過ぎた鉱山からの増産は望み薄だった[4]。 これと平行して重秀は、佐渡国の大規模検地に着手し、その結果元禄4年の年貢収入は前年より8割も増加し、重秀はその増加分を佐渡金山再生に充てることで、佐渡全体の経済サイクルを構築した。しかし、この年貢増徴策が佐渡の農民の怒りを買い、後々の失脚の一因となった。 重秀は2ヵ月間の滞在の後に江戸へと帰還し、以後は佐渡に渡海することは無かったものの、21年間に亘って佐渡奉行として現地との連絡を欠かさずに取りながら、佐渡の治世や金山管理に勤めた。 元禄検地と地方直し[編集]

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佐々町立佐々中学校 – Wikipedia

佐々町立佐々中学校(さざちょうりつ さざちゅうがっこう)は長崎県北松浦郡佐々町本田原(ほんたばる)免にある公立中学校。 歴史 1947年(昭和22年)の学制改革により創立。2012年(平成24年)に創立65周年を迎えた。 校区 長崎県北松浦郡佐々町全域。小学校区は佐々町立佐々小学校・佐々町立口石小学校。 1947年(昭和22年) 4月1日 – 学制改革(六・三制の実施)が行われる。 佐々第一国民学校の初等科が改組され佐々町立佐々小学校に、第二国民学校の初等科が改組され佐々町立口石小学校となる。修業年限は6年。 佐々第一国民学校の高等科は第二国民学校の高等科および青年学校の普通科とともに改組され、新制中学校「佐々町立佐々中学校」(現校名)となる。 国民学校初等科6年修了者を新制中学1年生、国民学校高等科1年または青年学校普通科1年修了者を新制中学2年生、国民学校高等科2年または青年学校普通科2年修了者を新制中学3年生として収容。 中学校校舎が完成するまでの間、旧佐々第一国民学校(佐々小学校)出身者に関しては栗林の校舎[1]で、旧佐々第二国民学校(口石小学校)出身者に関しては口石小学校校舎の一部を使用して授業を開始(分散授業を行う)。 5月27日 – 1年生全員を栗林校舎に収容。 5月28日 – 2・3年生全員を口石校舎に収容。

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IRAS 18059-3211 – Wikipedia

IRAS 18059-3211或いはゴメスのハンバーガー[3](Gomez’s Hamburger、GoHam)は、原始惑星系円盤に取り囲まれた若い恒星である。星周円盤をほぼ真横から眺めることで、円盤の中央に光が遮られる暗黒帯が形成され、その両側は星周物質による反射星雲が広がることで、「ハンバーガー」に例えられる特徴的な外観を生み出している[5]。 IRAS 18059-3211は、1985年5月、チリにあるセロ・トロロ汎米天文台の1.5m望遠鏡で、銀河バルジ方向のこと座RR型変光星を捜索するための撮像観測を行っていた際に、撮影した写真乾板に写っていたことで発見された。撮影を行った同天文台のアルトゥーロ・ゴメス(Arturo Gómez)の名前と、暗黒帯によって2つの平べったい星雲状天体に二分されている姿が、さながらハンバーガーのバンズであったことから、「ゴメスのハンバーガー」とあだ名された[4]。 発見された当初IRAS 18059-3211は、M 1-92や赤い長方形星雲との類似から、漸近巨星枝星から惑星状星雲へ進化する途中の天体(原始惑星状星雲)と考えられ、スペクトルから中心にある恒星はA型巨星と予測され、天体までの距離もおよそ9,500光年と見積もられた[4]。 しかしその後、サブミリ波干渉計を用いてミリ波の一酸化炭素輝線により星雲の運動を調べた結果、ケプラー回転であることが明らかとなった。そして、回転速度から推定される中心天体の質量は、太陽の数倍で、原始惑星状星雲の中心星の典型的な値とはかけ離れている上、太陽に数倍する質量を持つA型巨星としては、ありえない低光度であったことから、IRAS 18059-3211は原始惑星状星雲ではなく、原始惑星系円盤に囲まれた若い恒星であると結論付けられた[5]。 近赤外線のデータを追加し「パテ」を可視化した「ゴメスのハンバーガー」 IRAS 18059-3211の中心にある恒星は、質量が太陽の2倍程度のA型星と推定される。IRAS 18059-3211までの距離は、大体700から1,000光年と見積もられている[8][7]。その周囲に、ほぼ真横からみた(エッジオン)原始惑星系円盤が広がっている。光学的に厚い円盤により光が遮られることで、中央の暗黒帯が生じ、「ハンバーガー」のような外観を作り出す。暗黒帯の両側には、星周塵によって中心星の光が散乱された星雲が伸びている[5][4]。 IRAS 18059-3211の原始惑星系円盤は、そこに含まれるガスと塵の質量比をどう仮定するかで見積もりが変わってくるが、概ね太陽の1%程度から3割程度の質量をもつ、塵の豊富な円盤である[7][10]。円盤は、半径1,500au程度まで広がっているとみられ、塵の温度は中心星に近い辺りでおよそ65K、最も低温の領域ではおよそ20Kと予想される[11][5]。 中心からみて南側の星雲には、系の中心から1.3秒程離れた位置に、一酸化炭素と芳香族炭化水素による中間赤外線の局所的な放射過剰がみつかっている[7]。この領域(GoHam b)は、密度が過大なガスの塊と考えられ、半径はおよそ150au、質量は木星の8割程度から11倍程度の範囲にあるものと見積もられており、若い原始惑星候補の一つとされている[7][6][11]。 注釈[編集]

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高場乱 – Wikipedia

高場 乱(たかば おさむ、天保2年10月8日(1831年11月11日) – 明治24年(1891年)3月31日)は、江戸時代末期の女性儒学者で、医者、教育者。筑前国博多の人。幼名は養命。諱は元陽のち乱。通称は小刀。号は仙芝など。 博多駅近くのグリーンビル脇にある人参畑塾跡記念碑 筑前国博多瓦町の眼科医・高場正山の末子として生まれる。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を努めていたが、幼名の「養命」からうかがえるように、乱は男として育てられた。天保12年(1841年)、10歳で(男として)元服。なお、この元服は藩に受理された公的なものである。異例と言えなくはないが、福岡藩の支藩にあたる秋月藩には原采蘋という男装帯刀の女性儒学者がすでにいた。16歳で一度は夫を得るが、これを不服として自ら離縁、20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入る。亀井塾は身分性別を問わない学風で、実際に女性の弟子も多かった。先に挙げた原采蘋もその一人である。 亀井塾で学問を修めた乱は明治6年(1873年)、福岡藩の薬用人参畑跡(現在博多駅の近く)に私塾興志塾(通称「人参畑塾」)を開設、医業の傍らで教育にも携わる道を選んだ。弟子は何故か乱暴者が多く、乱もあえてそういった人物を拒まなかったという。そのせいか乱は世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」などと呼ばれていたというが、乱自身は生来虚弱で、華奢であったと伝えられている。そんな興志塾に明治7年(1874年)頃に入門したのが頭山満であるが、彼の他にも後に玄洋社の主要なメンバーとなった平岡浩太郎や進藤喜平太、箱田六輔に武部小四郎などはいずれも興志塾で学んだ。 その弟子たちが起こした明治10年(1877年)3月の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されるが、釈放されている。その後、頭山らが結成した向陽社(玄洋社の前身)内部の抗争を仲裁するなどしつつ、弟子たちの行く末を見守っていたが、自由民権運動のうねりの中で多くの弟子たちが命を失っていった。ことに、弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へテロを仕掛け自殺したことには衝撃を受けたようで、これを「匹夫の勇」(思慮浅く、ただ血気にはやって行動したがるだけの勇気)と評した書簡が残っている。来島の自殺の翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子たちに看取られつつ逝去した。明治24年(1891年)3月31日のこと、59歳であった。 墓所は福岡市の崇福寺にあり、その墓碑銘「高場先生之墓」は勝海舟が書いている。 参考文献[編集] 永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店, 1997。ISBN 978-4894340633 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年。ISBN 978-4874157879 荒井周大編『福岡県碑誌』福岡県碑誌保存會、昭和4年(崇福寺・玄洋社墓地の勝海舟の墓碑撰文、漢詩) 浦辺登著『玄洋社とは何者か』弦書房、2020年、ISBN 978-4-86329-154-6 『福岡県碑誌』大道館出版、昭和4年(絶版)

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乾死乃生 – Wikipedia

乾 死乃生(いぬい しのぶ、1923年(大正12年)11月11日[1] – 2004年(平成16年)11月19日[2])は、日本の保健婦。大阪府富田林市伏山出身。大坂の同和地区(被差別部落)の保健対策や難病対策に尽力した人物。名前の「死乃生」は、帝国劇場のファンだった父親が、帝劇女優の1人が私生児に「死生」と名付けたことをヒントとしたものだが、「死」の字が人に与える印象を配慮して平仮名で「しのぶ」と表記することもある[1]。 戦時中に国に尽くしたいとの思いをきっかけに、看護婦を志した。日本赤十字社和歌山支部看護婦養成所を卒業し、1945年(昭和20年)、石川県の山中海軍病院に従軍看護婦として勤務。終戦後に帰郷し、1946年(昭和21年)に南河内郡狭山村立三都小学校の教員となったが、医療の道を捨てきれず、1948年(昭和23年)に退職[3]。大阪府衛生部医務課を経て、翌1949年(昭和24年)には大阪府厚生病院に勤務、大阪市衛生局厚生女学院非常勤講師も務めた[1]。 1953年(昭和28年)から保健婦として勤務。大阪府布施保健所を始め、数か所の保健所へ転勤を繰り返した。1967年(昭和42年)、大阪の同和地区対策の一環で乾が同和地区の検診を行ない、それまで蔑ろにされてきた住民たちの劣悪な健康状態を発表した。しかし大阪府当局が責任を乾に転嫁したため、乾は多くの批難を浴び、中傷や圧迫にも遭った。これに対して乾を支持する同和地区の住民たちが保健所を糾弾した末、大阪府が同和地区へ謝罪する結果となり、乾と同和地区の絆は強いものとなった。1969年(昭和44年)には大阪府松原保健所管内の同和地区の常駐保健婦となった。乾はこの同和地区の住民たちに愛着を抱き、この地区の市営住宅の一角を自宅とし、彼らとともに保健婦活動を繰り広げた[1]。こうした活動は、後年の大阪府松原市における老人介護の基礎ともなった[4]。 1975年(昭和50年)に同松原保健所の保健婦長となり、1978年(昭和53年)に定年退職。同年に大阪府立羽曳野病院に、特定疾患に関する電話相談を請け負う大阪府保険医協会難病相談室が設置されたことで、その室長に就任。業務時間外も自宅で夜遅くまで電話相談を請け負うなど、難病対策に取り組んだ[1]。1986年(昭和61年)、筋萎縮性側索硬化症患者の支援団体である日本ALS協会の設立後、同会の副会長として会長を補佐した[2]。 1989年(昭和64年)には、父から譲り受けた自宅を、保健相談室や身障者用トイレなどを備えたデイケアサービス・ルームに建て替えて「伏山赤鬼園」として地域に開放し、退職保健婦、後輩の保健婦、理学療法士たちとともにリハビリやデイケアのボランティアを行なった。新しい地域医療のモデルとして注目され、開業を目指す保健婦、看護婦、ほかの自治体の保健所担当者ら、多くの見学者も訪れた[5]。 著書に、看護学者の木下安子との共編による『難病と保健活動』(ISBN 978-4-260-36410-2)がある。 保健婦の仕事の傍らで、学力強化のために夜間大学に通っていた。1954年(昭和29年)に30歳過ぎにして大阪商業大学商経学部経済学科を卒業、1957年(昭和32年)には大阪社会事業短期大学を卒業。さらに後には大阪市立大学家政学部社会福祉学科に籍をおき、日中も病院勤務の傍らで同大学で学んだ。一見すると勤勉で私生活など一切ないようにも見える生涯だが、大学では万葉集研究会に所属し、万葉集に詠まれた各地を訪ね歩いたほか、登山や水泳も楽しみ、多くの愛読書を持つなど、多趣味な人物でもあった[1]。 常に住民と労働者の権利と生活を重要視していたが、それだけに行政側との反発も多く、しばしば圧力をかけられた。また同和地区では住民たちの訪問や検診のために昼夜を問わず働き、公衆浴場で住民たちと入浴しながら語り合うなど、保健婦としては非常に型破りであり、そのために関係者からは嫌味を言われ続けた。自身も「いつでもどこでも問題保健婦といわれ、差別されてきた」と語っているが、それだけに被差別者である同和地区の住民たちに愛着を持ち続けた[1][3]。 無医地区に保健婦が赴任して医師が不在という現実を行政上の問題と見なしていたため、保健婦の表彰や美化はその隠蔽に繋がると考え、否定的であった(荒木初子#評価の乾の発言も参照)。フローレンス・ナイチンゲール記章の受賞者だが、そうした考えから急病と偽って授賞式を欠席。代理の出席者が記念品を持ち帰ったが、乾はそれを保健所の倉庫に放り込んだ。1977年(昭和52年)には厚生労働大臣賞を受賞したが、その授賞式も欠席。20年勤続表彰の授賞式も欠席した[1]。

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センス (分子生物学) – Wikipedia

分子生物学や遺伝学の分野では、核酸分子、特にDNAやRNAの鎖のセンス(sense、意味)とは、アミノ酸の配列を特定する際のその鎖とその補完物の役割の性質を指す。センスの意味は文脈によって微妙に異なることがある。たとえば、DNAは、同じ配列のRNAバージョンがタンパク質に翻訳されるか翻訳可能であればポジティブセンスであり、そうでなければネガティブセンスである。 DNAセンス[編集] 核酸ポリマー間の塩基対合は相補的な性質を持つため、二本鎖DNA分子は互いに逆相補的な配列を持つ2本の鎖から構成される。分子生物学者が各鎖を明確に識別するために、2本の鎖は通常「センス鎖」と「アンチセンス鎖」として区別される。DNAの個々の鎖は、そのヌクレオチド配列が、アミノ酸の配列に翻訳された、または翻訳可能なRNA転写物の配列に直接対応する場合、ポジティブセンス(ポジティブ(+)または単にセンスとも)と呼ばれる(ただし、DNA配列のチミン塩基が、RNA配列のウラシル塩基に置換されている場合)。二本鎖DNA分子のもう一方の鎖は、ネガティブセンスと呼ばれ(ネガティブ(-)またはアンチセンスとも呼ばれる)、ポジティブセンス鎖とRNA転写物の両方に逆相補的である。実際には、RNAポリメラーゼがRNA転写物を構築する際に鋳型として使用されるのはアンチセンス鎖であるが、核酸の重合では相補的な塩基対が形成されるため、RNA転写物の配列は、RNA転写物がチミンの代わりにウラシルを使用していることを除けば、センス鎖と同じになる。 ときどき、センスとアンチセンスの代わりに、それぞれコード鎖(coding strand)と鋳型鎖(template strand)という言葉が使われることがあるが、二本鎖DNA分子の文脈では、これらの言葉の使用法は本質的に同等である。ただし、コード鎖/センス鎖には、必ずしもタンパク質を作るためのコードが含まれている必要はなく、タンパク質コードRNAと非コードRNAの両方が転写される場合もある。 「センス」と「アンチセンス」という用語は、当の特定のRNA転写物にのみ関連しており、DNA鎖全体に関連しているわけではない。つまり、どちらのDNA鎖もセンス鎖、アンチセンス鎖として機能することができる。十分な大きさのゲノムを持つほとんどの生物は両方の鎖を利用しており、それぞれの鎖は、同じDNA分子に沿った異なる場所にある異なるRNA転写物の鋳型鎖として機能している。場合によっては、RNA転写物は、共通のプロモーター領域から両方向(すなわち、どちらかの鎖上)に転写されるか、どちらかの鎖のイントロン内から転写される(下記「アンビセンス」を参照)[1][2][3]。 アンチセンスDNA[編集] DNAセンス鎖はメッセンジャーRNA(mRNA)転写物のように見えるので、翻訳時(タンパク質合成)に最終的にアミノ酸配列を構築し、タンパク質を合成するために用いる予想コドン配列を読み取るために使用することができる。たとえば、DNAセンス鎖内の配列「ATG」は、アミノ酸メチオニンをコード(英語版)するmRNAの「AUG」コドンに対応する。ただし、DNAセンス鎖自体はmRNAの鋳型として使用されない。それは、タンパク質コードの出所となるのはDNAアンチセンス鎖であり、DNAセンス鎖と相補的な塩基を持つこの鎖がmRNAの鋳型として使用されるからである。転写(transcription)は、鋳型DNA鎖に相補的なRNA産物を生成するので、mRNAはDNAアンチセンス鎖に相補的である。 アンチセンスDNA鎖がタンパク質の翻訳をどのように妨害するかを示す模式図 したがって、DNAアンチセンス鎖の3′-TAC-5′(DNAセンス鎖の5′-ATG-3′と相補的)の塩基トリプレット(三連符)が鋳型として使用され、その結果、mRNAに5′-AUG-3′の塩基トリプレットが形成される。DNAセンス鎖には(mRNAのトリプレットAUGに似た)トリプレットATGがあるが、mRNAの作成に直接使用されないため、これはメチオニンの作成に用いられない。DNAセンス鎖が「センス鎖」と呼ばれるのは、タンパク質を作るために使われるからではなく(使われない)、RNAコドン配列に直接対応する配列を持っているからである。この論理により、RNA転写体そのものを「センス」と表現することがある。 二本鎖DNAの例[編集] DNA鎖1: アンチセンス鎖(転写される) → RNA鎖(センス) DNA鎖2: センス鎖 二本鎖DNA分子内のいくつかの領域は、遺伝子をコードする。遺伝子とは通常、タンパク質を作るためにアミノ酸が組み立てられる順序を指定する命令であり、調節配列(regulatory sequences)、スプライシング部位(splicing

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ヴェルギナの太陽 – Wikipedia

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。出典検索?: “ヴェルギナの太陽” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2020年5月) 1992年から1995年までの「マケドニア共和国」の旗 ヴェルギナの太陽(ヴェルギナのたいよう、英: Vergina Sun)は、古代マケドニア王国の象徴である太陽の紋章である。旧マケドニア(現北マケドニア)の国旗にも描かれていた。 英語ではVergina Sun、ギリシャ語では Ήλιος της Βεργίνας、日本ではヴェルギナの太陽またはヴェルギナの星と呼ぶ。また、マケドニアの星またはアルゲイドの星としても知られている。 ヴェルギナの太陽が意匠として施されている黄金のラーナックス。古代ギリシア 紀元前6世紀から2世紀の間に古代ギリシャの芸術に最初に現れた光線状の太陽のシンボルである。同じ期間の同等のシンボルは様々な16、12、8、まれに6つの光線を持っており、その何本かの光線の間に、16ほどのの三角形の光線を放つ。

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ヒシカイワリ – Wikipedia

ヒシカイワリ(学名:Ulua mentalis)はアジ科に属する海水魚である。インド洋、太平洋の熱帯、亜熱帯域に広く分布し、生息域は西はモザンビークやマダガスカル、東は日本やオーストラリア北部にまで広がっている。最大で全長1mに達した記録のある大型種である。突き出ている下あごや、鰓篩が伸長すること、舌上に絨毛状歯がみられないことなどで他種と区別することができる。沿岸性の種であり、岩礁やサンゴ礁、エスチュアリーなどでみられる。主に魚や甲殻類を捕食する。繁殖や成長の過程についてはほとんど分かっていない。漁業における重要性は高くないが、エビや魚を狙ったトロール漁でしばしば混獲される。釣り人によって釣られることもある。 ヒシカイワリはスズキ目アジ科のヒシカイワリ属(Ulua)に属する二種のうちの一種である[1]。 本種は1833年にフランスの博物学者ジョルジュ・キュヴィエによってはじめて記載された。ホロタイプは紅海、エリトリアのマッサワ近海で採集された標本であった。キュヴィエは本種をCaranx mentalisと命名し、ギンガメアジ属(Caranx)に分類した。種小名のmentalisはラテン語で「あご」を意味する単語に由来する[2]。1908年にはアメリカの魚類学者デイビッド・スター・ジョーダンとJohn Otterbein SnyderがUlua richardsoniという種を記載し、ヒシカイワリ属(Ulua)を創設した[3]。 その後の研究によってこの属への分類は正しいことが分かったが、U. richardsoniという学名については国際動物命名規約に基づき本種の後行シノニムとされている[4]。ほかに1833年から1908年までの間に本種は三度再記載されている。そのいずれも現在では後行シノニムとされるが、Caranx mandibularisという学名については一般に使われていたことがある[5][6]。 本種にはかつて「ヒシカイワリ」と「ウルアアジ」という二つの和名が提案されていたが、2007年に本種が日本から初記録された際に前者が標準和名として認められた[7]。英名には”longrakered trevally”や”heavyjawed kingfish”、そして主にオーストラリアで使われている”cale cale trevally”がある[8]。 下顎が突き出ていることが本種の特徴である。 ヒシカイワリは大型魚であり、記録では最大で全長1mに達するとされる。しかしながら通常よくみられるのは全長60cm以下の個体である[8]。同科のヨロイアジ属やギンガメアジ属の種と似て、側偏した楕円形の体型をもち、加齢とともに頭部は丸みを帯びる。下顎は上顎よりも突き出しており、この傾向は成長とともに強まる[9]。両顎には絨毛状歯からなる幅の狭い歯列が存在する。舌上には歯状の突起はなく、この特徴により同属のUlua aurochsと区別される。鰓篩も特徴的で、口内の舌付近まで伸長し羽毛状になっている[10]。鰓篩数は合計で74から86である[9]。眼には脂瞼(透明な瞼状の部分)が発達している[11]。背鰭は2つの部分にわかれている。第一背鰭には7本から8本の棘条が存在し、第二背鰭には1本の棘条と20本から22本の軟条が存在する。臀鰭は、2本の棘条が前方に分離し、その後ろに1本の棘条とそれに続く16本から18本の軟条が存在する[9]。第二背鰭と臀鰭の軟条部は伸長し、若魚ではフィラメント状になることもある。背鰭は特に長く、時として尾鰭の近くまで伸長する。胸鰭はかま状になっており、側線の直線部と曲線部の境界近くまで伸長する[12]。側線は前方でやや湾曲する。側線の直線部には0から5の鱗と、それに続き26から38の稜鱗(アジ亜科に独特の鱗)が存在する。胸部には鱗がない。椎骨数は24である[9][10]。 本種の背部は青緑色からオリーブ色を帯びた緑色で、腹部にかけて銀白色となる。大型個体では鰓蓋上部に黒い班が広がるが、小型個体では斑は薄いか存在しない。鰓蓋、下顎、口内、舌はすべて小型の標本では銀色である。第一背鰭は灰色、第二背鰭と臀鰭は灰色からわずかに黄色や緑青色を帯びる

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青ヶ島村立図書館 – Wikipedia

青ヶ島村立図書館(あおがしまそんりつとしょかん)は、東京都青ヶ島村にある公立図書館。日本一人口が少ない自治体[注 2]が設置する図書館である[17]。蔵書数・貸出冊数などの実績は東京都内で最も低いが[3]、住民1人当たりに換算すると、蔵書数は都内一となる[18]。 利用案内[編集] 以下の情報は2021年5月現在のものです[19]。 2020年(令和2年)3月31日現在、蔵書数は3,000冊で、うち児童資料は200冊、地域資料は700冊である[3]。2016年(平成28年)時点では10,000冊を所蔵していた[18]。図書のほかにビデオ80巻、DVD20枚を保有する[3]。 雑誌の所蔵はなく[注 3]、新聞は1種類のみ所蔵する[3]。館長は兼任で、常勤職員1人で運営している[3]。 館舎は図書武道館という名称で武道館と共同で利用していたが[20]、2008年(平成20年)の改修工事により図書館単独の施設となった[21]。館内は静かに過ごすことが求められる閲覧室(民具の展示室を兼ねる)と、会話をしても良い視聴覚室に分かれる[21]。 東京都島嶼部には図書館のない村もある中で[18]、青ヶ島村には図書館があり、移住情報サイトでアピールしている[17]。開館日数は都内の図書館で最も少なく、図書館予算も最小である[3]。予算が限られるため、リクエストを受けて図書を購入するのではなく、東京都立図書館の協力貸出制度の利用へ誘導を図っている[22]。図書館1館あたりの蔵書数や人口は都内で最も少ないが、住民1人当たりの蔵書数は都内で最も多い[18]。 開館時間:8時30分から17時15分まで 12時から13時までは休館。 休館日:土曜日、日曜日、祝日 貸出制限:青ヶ島村内に住所を有し、かつ、確実な保証人がある者[23] 貸出可能点数:5点[24] 貸出可能期間:3週間[24] 1978年(昭和53年)7月28日に青ヶ島村立図書館設置条例が制定され、即日公布・施行された[1]。同条例の附則に同年7月1日から適用するとあり[1]、条例制定前より開館していた。一方、条例と同日に制定された青ヶ島村立図書館館則(昭和53年7月28日青ヶ島村教委規則第4号)の附則に同年8月1日から施行するとあり[23]、実際に村民が利用できるようになったのは8月からである。 2007年(平成19年)10月より改修のため休館に入った[25]。休館中は図書閲覧・貸し出しは休止し、おじゃれセンターへの新聞・パンフレットの設置と東京都立図書館の協力貸出で代用した[25]。 2008年(平成20年)5月12日から5月25日まで、休館中の図書館で「アホウドリ化石展」を開催した[26]。ここで展示したアホウドリの化石は、青ヶ島ヘリポート建設中に発見され、国立科学博物館が所有するものである[26]。同年8月1日、改修を終えて再開館した[21]。改修後の図書館は、旧図書館部分を閲覧室や民具の展示室、旧武道場を視聴覚室(読み聞かせや談話など会話ができる部屋)、旧教育委員会を係員室とした[21]。運営面では東京都立図書館などの助言により開館中は職員を常駐させるようにし、「試行期間」として毎月開館時間や利用方法を変えるという実験を開始した[21]。この再開時点では蔵書整理中で[21]、図書館ボランティアの協力を得ながら図書に日本十進分類法に沿ったラベルを貼付して配架し、コンピュータによる蔵書管理・貸し出しを進めた[22]。2009年(平成21年)3月より開館時間を15時から17時10分に固定した[27]。試行期間中の午前の利用者が極めて少なかったことから、午後のみの開館となった[28]。 2010年(平成22年)1月より休館日を土曜日とし[29]、4月より土曜日に加え隔週で日曜日を休館とした[30]。同年5月、高津勉から寄贈を受けた、昭和30年代(1955年 –

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上村聖恵 – Wikipedia

上村 聖恵(かみむら さとえ、1920年〈大正9年〉1月8日 – 1987年〈昭和61年〉7月20日)は、日本の保健指導者。高知県長岡郡西豊永村(後の大豊町)出身[1]。高知県の駐在保健婦たちの礎を作り上げた人物の1人[1][2]。 1938年(昭和13年)に看護婦免許を取得し、高知県の西豊永村診療所、広島県の陸軍病院に勤務した。1941年(昭和16年)に上司の勧めで帰郷。高知県立保健婦講習所卒業後、1942年(昭和17年)、高知県下の最初の保健婦として同県安芸郡川北村(後の安芸市)に赴任した[1]。 1945年(昭和20年)に高知県立保健婦養成所の講師に就任し、後進の指導にあたった[2]。教え子の1人に、映画『孤島の太陽』で知られる荒木初子がいる[3]。1948年(昭和23年)からは高知県衛生部医務課看護係に抜擢された。同年より、高知県での保健婦駐在制度の実施に際し、保健婦の実情に最も詳しい者として、大きな貢献を果たした[2]。 保健婦たちが各地に赴任した後も、彼女らを放置はせず、年に2回は県内から保健婦たちを呼び出して研修を催した。上村の指導の厳しさは軍隊さながらともいわれたが、その一方では保健婦たちの現場での苦労話を涙ながらに聞くこともあり、その涙もろい性格に保健婦たちは絆されたという。予算の関係で研修が年1回に減らされたこともあったが、その際は保健婦たちが手弁当で集まって年2回を維持し、上村が県議会にかけあって予算を復活させた[4]。 1954年(昭和29年)に高知女子大学(後の高知県立大学)看護学科の非常勤講師、1967年(昭和42年)に高知県立高等看護学院の非常勤講師を歴任、翌1968年(昭和43年)に県立保健婦専門学院の院長に就任。同1968年、前述の映画『孤島の太陽』の製作に協力した[1]。なお映画では、女優の芦川いづみが上村役を演じている[5]。 1976年(昭和51年)に日本看護協会の理事、同協会保健部会長の職に就任、日本全国の保健婦たちの頂点ともいえる存在となった[6]。1977年(昭和52年)に高知県を退職、翌1978年(昭和53年)に保健文化賞を受賞[1]。その後、日本看護協会にて前述の職を1981年(昭和56年)まで務め上げた後[7]、職能委員長、第二副会長といった要職を務めた。1982年(昭和57年)には琉球大学医学部保健学科講師、1984年(昭和59年)同大学助教授に就任するなど、日本全国の保健婦活動の指導者として活躍し続けた。後年には青森県の保健婦の草分け的存在である花田ミキとともに「東は青森県の花田ミキ、西は高知県の上村聖恵」と並び称された[8]。1987年、肝癌により67歳で死去した[9]。 著書に、1971年(昭和46年)に刊行された『公衆衛生看護の原理と実際』(NCID BN14396674)がある。実用性に富んだ良書と評価されており、保健婦業務の指針として、日本全国の保健婦養成のために広く利用された[1][6]。

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