中臣人足 – Wikipedia

 

凡例

中臣人足

時代 飛鳥時代 – 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 従四位上・神祇伯
主君 文武天皇→元明天皇→元正天皇
氏族 中臣氏
父母 父:中臣島麻呂
兄弟 人足、名代、形見
益人
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中臣 人足(なかとみ の ひとたり)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。小錦上・中臣垂目の孫で、小山中・中臣島麻呂の子。官位は従四位上・神祇伯。

文武朝末の慶雲4年(707年)従五位下に叙爵。翌和銅元年(708年)2月に元明天皇により平城京への遷都の詔が出ると、9月には造平城京司次官に任ぜられ平城宮の造営を担当する。

その後、和銅4年(711年)従五位上、和銅8年(715年)正五位下、霊亀3年(717年)正五位上次いで従四位下と、元明朝から元正朝にかけて順調に昇進を果たす。またこの間の霊亀2年(716年)に出雲国造・出雲果安が斎戒を済ませて神賀事(治政を祝福する寿詞)を上奏した際、神祇大副であった人足はこの寿詞を元正天皇に奏聞している[1]

『続日本紀』による。

  • 時期不詳:従六位下
  • 慶雲4年(707年) 2月25日:従五位下
  • 和銅元年(708年) 9月30日:造平城京司次官
  • 和銅4年(711年) 4月7日:従五位上
  • 和銅8年(715年) 正月10日:正五位下
  • 霊亀2年(716年) 2月10日:見神祇大副
  • 霊亀3年(717年) 正月4日:正五位上。日付不詳:見従四位下。10月12日:益封
  • 時期不詳:従四位上。神祇伯兼右中弁[2]

「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)による。

  • 父:中臣島麻呂
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:中臣益人
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  1. ^ 『続日本紀』霊亀2年2月10日条
  2. ^ 「中臣氏系図」(『群書類従』巻第62所収)

参考文献[編集]

  • 宇治谷孟『続日本紀 (上)』講談社〈講談社学術文庫〉、1992年