Month: March 2022

鎮守府 (古代) – Wikipedia

この項目では、かつて古代日本に存在した役所について説明しています。日本海軍の鎮守府については「鎮守府 (日本海軍)」をご覧ください。 鎮守府(ちんじゅふ)は、陸奥国に置かれた古代日本における軍政を司る役所である。その長官である将軍の名が天平元年(729年)に初めて見えることから、奈良時代前半には鎮守府相当の機関が東国のいずれかの地に設置されたものと推測される。長である鎮守府将軍の職位は五位から四位相当である。 一般的に、鎮守府の前身は『続日本紀』に見える「鎮所」(ちんじょ)であり、陸奥国府があったとされる多賀城付近に併設されていたものと推測されている。そして延暦21年(802年)に坂上田村麻呂が胆沢城を築城し、この時に鎮守府は胆沢城に移されたと言われている。 鎮守府には鎮兵と呼ばれる固有の兵力が配備されており、陸奥国および出羽国の軍団の兵士と共に城柵の警備に当たっていた。蝦夷と対置する陸奥国には他の国とは比較にならないほどの軍団(最大で7個)が設置され、他の多くの国で軍団が廃止された後もむしろ増強が続けられたが、軍団兵士は各国内の農民より動員するために負担が大きすぎ、またそれでも不足することから別個の兵で補完が必要であったと考えられている。軍団兵士は6番程度に分けて交代で勤務するため、例えば兵士が6000名いても常置できるのは1000名に過ぎないが、鎮兵の場合は交代は基本的にないために例えば3000名いれば3000名全てが常置できる事になる。 鎮兵は東国の軍団兵士からの出向であり、防人と出自を同じくしていたが、東国の負担が大きすぎることなどから、次第に地元の陸奥国および出羽国より鎮兵を集めることになり、軍団兵士との差が曖昧になって形骸化していく。 鎮兵の名がはっきりと記録に残るのは天平9年(737年)であるが、それ以前の記録にも「鎮守軍卒」「鎮兵人」という似たような記述があり、鎮兵制の発足は神亀元年(724年)頃であるというのが定説となっている。その後、陸奥国および出羽国の軍団兵士の兵力の増減と密接な相関関係を持ちながら増減を繰り返し、ピーク時である弘仁元年(810年)には3800名を数えたが、その後は次第に削減され、弘仁6年(815年)に全廃される。 多賀城時代[編集] 鎮守府相当の機関は、初め多賀城に置かれたと推測されている。 天平宝字3年(759年)には、将軍以下の俸料と付人の給付が、陸奥の国司と同じと決められた。この頃より、鎮守府将軍はほぼ4年ごとに任命された。この時期の将軍は按察使または陸奥守を兼任するのが通例で、中には3官を兼任する場合もあった。 征夷の際には、征夷大使(将軍)や征東大使(将軍)が任命され、征討軍が編成された。鎮守府は通常の守備と城柵の造営・維持など陸奥国内の軍政を主な任務としていたと言われる。 胆沢城時代[編集] 延暦21年(802年)、坂上田村麻呂によって胆沢城が造営されると、多賀城から鎮守府が移された。この移転頃から機構整備も積極的に進められ、たとえば弘仁3年(812年)には、鎮守府の定員が将軍1名、軍監(ぐんげん)1名、軍曹2名、医師・弩師(どし)各1名と定められた。 承和元年(834年)には、元は陸奥国印を使っていたのが新たに鎮守府印を賜っている。このように、移転後の鎮守府は、多賀城にある陸奥国府と併存した形でいわば第2国府のような役割を担い、胆沢の地(現在の岩手県南部一帯)を治めていた。 このように、鎮守府の本来の性格は、正にこの平常時での統治であり、非常時の征討ではない。したがって、平安時代中期以後になると、鎮守府本来の役割は失われ、鎮守府将軍の位のみが武門の誉れとして授けられた。 関連項目[編集]

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ジョヴァンニ・アリギ – Wikipedia

ジョヴァンニ・アリギ(Giovanni Arrighi、1937年7月7日 – 2009年6月18日)は、イタリア・ミラノ出身の歴史社会学者。専門は、政治経済学、植民地主義と資本主義の分析、世界システム論。 ポッコーニ大学卒業。1960年ミラノ大学で博士号(経済学)取得。1963年から1966年までローデシア共和国(現ジンバブエ)などで教鞭を執ったが、マルクス主義的な政治活動を理由に逮捕され、国外退去処分を受け、タンザニアに移る(この時期にイマニュエル・ウォーラーステインと知り合う)。1969年にイタリアに帰国し、トレント大学に職を得た。1979年に渡米し、ニューヨーク州立大学ビンガムトン校教授を経て、1998年からジョンズ・ホプキンス大学社会学部教授。 単著[編集] The Political Economy of Rhodesia, (Mouton, 1967). The Geometry of Imperialism: the Limits of

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ディノパライソ – Wikipedia

ディノパライソはSOBAプロジェクトが運営するオンラインゲーム。2010年12月にサービスを終了している。ブラウザゲームであり、専用ソフトのダウンロードは不要。 「ディノアイランド」という島で、十種類近くの種類がある「ディノ」という生物を育てていくというオンラインゲーム。レベルを上げていくと「ディノ」に様々なスキルを覚えさせることができる。「ディノ」は何体でも飼うことができ、それらの「ディノ」一体ずつに一日一度だけ行動命令を出していくタイプのもので、ユーザー自身の存在を感じることは基本的には無い。 行動の種類には「バトル」、「移動」、「同じ地域にいるディノを見る」の三種があり、スキルを覚えさせたり、所在地によっては可能な行動が増える。「同じ地域にいるディノを見る」以外は一日に一度しか行えない。(ただしあるアイテムを使うと同じ日にもう一度「バトル」や「移動」などの行為を行える)バトルをすることで経験値とお金が手に入る。また、バトルをする敵のディノゲーム内の通貨はG(ゴールド)で、ショップで買い物をしたりする時に使用する。 ゲームの目的[編集] このゲームには具体的な目的といった物はないが、「ディノアイランド」の各地でトーナメントが行われている。トーナメントでバトルに勝利していくと「メダル」を手に入れることができる。手に入れても役に立たないメダルもあるが、所持していないとある地点から先に進めないという特別な効果を持ったものもある。また、ユーザーの間にはランキングがあり、それで上位を目指すという楽しみもある。 ユーザー間の交流[編集] ユーザー同士でメッセージをメール感覚で交換することができる。また、「チーム」に入ることによって他のユーザーとコミュニケーションを取ることができる。 ディノやエレメントについて[編集] ディノの購入について[編集] ディノはいつでも買うことができる。ただし、その日に買えるディノのリストがあり、それに載っている15体のディノが買える。日をまたぐだけでなく、リストに載るディノを買ってもそのリストは更新される。 ディノのステータス[編集] 1から110までレベルを上げることができ、レベルを上げるたびにスキルを1レベル上げることができる。(最大5まで)また、スキルを上げるとそれに対応した「エレメント」も1つ上がる。レベルはバトルをすると手に入る経験値が100まで貯まると上げることができる。スキルによるエレメントと、種族で固有のボーナスエレメントを合わせた数がディノの最終的な強さになる。 エレメント[編集] 「火」、「地」、「水」、「雷」、「風」の5つがある。エレメントには得意不得意があり、「火」ならば「地」と「水」に強く、「風」と「雷」に弱いといったように最初にしめした順の右2つに強く、左2つに弱い。(ただし隣合っているほうが優劣の差が激しくなる) ディノの種類[編集] 種族名 値段 ボーナス値 説明 ムーフ

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大いなる業 – Wikipedia

大いなる業(おおいなるわざ、ラテン語でMagnum opus、英語ではThe Great Work:グレート・ワーク)は、いくつかの精神的な伝統(カバラ、テレマ、錬金術等)における「大いなる作業」を指す。ラテン語由来の言葉「マグヌム・オプス」は一般には芸術作品等の「大作」を意味するが、錬金術の文脈では「大作業」を意味する。 大いなる業は卑金属を金へ完全に変換する、または賢者の石の創造を指すヨーロッパ中世の錬金術の言葉に由来している。後にヘルメス主義で、意識変容を表すメタファーとして使われた。これには次の三つの段階がある[1]。 ゾーハルや形成の書などの古典的なカバラの教典に「大いなる業」という言葉は存在しない。 しかしながら、ルネサンス期のカバリストの書物にはそのコンセプトが見られる。 あなた自身の欲求のために祈ってはいけない。そうすれば、あなたの祈りは遂げられないであろう。しかし、あなたが祈るとき、頭の重さのためにそうしなさい。あなたに足りない物は、聖なる存在にも足りないのだから。 人は「神の高いところの一部」であるから、足りない部分が何であれ、それはまた、全体の中に存在し、全体はその部分が足りないと感じ、それ故に、あなたは全体の欲求のために祈るべきである。 — (a disciple of the Kabbalist R. Israel Baal Shem Tovより) ヘルメス主義[編集]

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ピアノ三重奏曲第1番 (アレンスキー) – Wikipedia

アントン・アレンスキーのピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品32は、1894年に作曲された室内楽曲。アレンスキーの代表作と評価されている。演奏時間は約28分。 ピョートル・チャイコフスキーの創始した亡き芸術家の追悼音楽としてピアノ三重奏曲を作曲するというロシアの伝統に沿った作品[1]。すなわち、チャイコフスキーの『偉大な芸術家の思い出に』がニコライ・ルビンシテイン追悼のために作曲されたのと同様に、本作はサンクトペテルブルク音楽院でチェロを教え、1889年にモスクワで死去した名チェリストカルル・ダヴィドフの追悼のため作曲された[2]。 作曲者とヤン・フジマリー、アナトーリー・ブランドゥコーフが作曲直後に行った自作自演の蝋管録音の第3楽章までの抜粋が残されている(外部リンク参照)。 1895年にサンクトペテルブルクにて、作曲者のピアノ、レオポルト・アウアーのヴァイオリン、アレクサンドル・ヴェルジビロヴィチのチェロにより初演[3]。 ピアノ、ヴァイオリン、チェロ 4楽章から成る。 第1楽章 Allegro moderato[編集] ニ短調、4分の4拍子、ソナタ形式。ピアノが三連符の伴奏形を奏す中、ヴァイオリンが哀調のこもった第1主題を弾き始める。チェロが主題を受け、ピアノの動きも慌しくなる。やがて、チェロが幅広い第2主題を奏で、ヴァイオリンがこれに合わせ、一旦結句と成る。展開部は主に第1主題がチェロに現れる副次主題と組み合わされ発展していく。弦のトレモロの激しい動きの後、再現部となる。最後は速度がアダージョとなり、各楽器が主題の断片を繰り返し奏しながら静かに終わる。 第2楽章 Scherzo (Allegro molto)[編集] スケルツォ。ニ長調、4分の3拍子、三部形式。ヴァイオリンにフラジオレットとスピッカートを使った主題が現れ3回繰り返される。次に弦のピッツィカートを伴奏にピアノが華麗な動きを見せる。この一連の動きが全部で4回繰り返された後、重音、三連音を使ったスケルツォ主題が弦に登場、ピアノの華麗な動きを挟んで、やはり何度も繰り返される。中間部(変ロ長調)はワルツ風の優雅な動きを見せる。冒頭の主題、スケルツォ主題の順で再現され、最後は主題断片を奏しながら陽気かつ軽妙に終わる。 第3楽章 Elegia (Adagio)[編集] エレジーと題された緩徐楽章。ト短調、4分の4拍子、三部形式。ダヴィドフへの追悼の思いが溢れている。弱音器を付けたチェロに悲痛な主題が現れ、ヴァイオリンに受け継がれる。この形が繰り返された後、やや動きのある中間部(ト長調)に入る。弦を伴奏に最初ピアノに主題が登場、次にヴァイオリンが美しく歌う。再現部は主にヴァイオリンが主題を奏し、静かに終わる。 第4楽章

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婦好 – Wikipedia

婦好(ふこう)は殷第23代王武丁の妻の一人。諡号は母辛、姓氏は不詳。中国史に登場する最初の女性政治家、軍事家。 殷の王武丁の妻であるが、『史記』などの伝世文献には婦好の記録はない。甲骨文を中心とする商代の文字資料にのみその存在が確認でき、特に1976年に墓が発見されたことから広く知られるようになった。 婦好に関する甲骨卜辞は250件以上にものぼる。武丁の在位中は周辺国家・部族に対し戦闘が行われており、婦好も数多く兵を率いて出兵した。巴方、土方、夷方などの征伐におもむき、羌人征伐のときには13,000もの軍勢を率いている。また、祭祀を執り行ってもいたようである。このほか、男児を生むかどうかといった出産に関する卜辞や、体調・病気に関する卜辞などが残されている。婦好の生死を占った卜辞もあり、のち武丁の在位中に死去した。武丁期以降の甲骨文には祭祀対象の先祖として登場する。[1] 武丁に先立ち死去した婦好は殷墟の宮殿宗廟区内にある婦好墓(現在の河南省安陽市殷都区)に埋葬された。殷王族の墓の中では唯一盗掘をまぬがれ、1976年に発見された。墓内からは婦好が軍事権を握っていたことを示す鉞や、殷代には珍しい銅鏡、方鼎や長方彝など1,928件の文物が出土している。 呼称について[編集] 「婦好」の「婦」はなんらかの地位を表す語で、婦好がそうであるため一般には「王の妻」と解釈されている。しかし「婦」を冠する人物は少なく見積もっても60名前後は確認されるため、女官一般を指すとする説等もある[注 1]。[1] 「婦好」の「好」は、「子」という名の集団・国族出身であることを表す[3]。甲骨文では、女性であるため「女」が添えられて多くの場合「婦好」と書かれるが、「帚子」「婦子」等と書かれる場合もある[注 2]。そのため厳格には婦好は現代語で「ふし」と読むことになるが、「子」に女偏を加えた字が好悪の「好」と同じ形であるため便宜的に「ふこう」と読まれている。 死後の甲骨文では「母辛」または「妣辛」といった諡号で呼称される。「妣」は王の配偶を表す。 ^ このほか例えば落合淳思は、地方領主の称号として「婦」が存在し、軍事や政治に参与したのは武丁の側室であった「婦好」(女性)ではなく、好邑領主の「婦好」(男性)のほうであった、という説を主張している[2]。 ^ これは婦好以外の「婦」を冠する人物も同様である。 参考文献[編集] ^ a b 韓江蘇; 江林昌

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香川県立小豆島高等学校 – Wikipedia

香川県立小豆島高等学校(かがわけんりつ しょうどしまこうとうがっこう)は、香川県小豆郡小豆島町草壁本町にあった県立の高等学校。通称は「小高」(しょうこう)[1]。2017年4月に香川県立土庄高等学校と統合のため閉校し、香川県立小豆島中央高等学校が新設された[2]。 歴史 1920年(大正9年)創立の高等女学校と1923年(大正12年)創立の旧制中学校の2校を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革により、両校とも新制高等学校となった。翌年1949年(昭和24年)には両校が統合され、「香川県立小豆島高等学校」となった。高等女学校が先に創立されたため、1920年(大正9年)を小豆島高等学校の創立年としており、2015年(平成27年)に創立95周年を迎えた。創立97周年を迎える2017年(平成29年)に香川県立土庄高等学校との統合のため閉校し、香川県立小豆島中央高等学校が新設された。 設置課程・学科 校訓 「希望・気魄・礼節」 校章 楓の葉を背景にして、中央に「高」の文字を置いている。 校歌 作詞は久保井信夫、作曲は河江一仁による。歌詞は3番まであり、各番に校名の「小豆島高校」が登場する。 応援歌 「応援歌第一」、「応援歌第二」、「小高マグマ」がある。 同窓会 校章の楓にちなみ「錦楓会」(きんぷうかい)と称している。 高等女学校時代 1920年(大正9年) 5月7日 -「草壁町外四ヶ村組合立 香川県小豆島高等女学校」が発足。修業年限を4年(現在の中1から高1に相当)とする。

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